ニーチェから宮沢賢治へ<3> 永遠回帰・肯定・リズム 中路正恒
「ニーチェから宮沢賢治へ」 <3> 永遠回帰・肯定・リズム
中路正恒著 1997/4 創言社 四六判 / 238頁
★★★★☆
本のタイトルは「ニーチェから宮沢賢治へ」であり、当ブログの流れもそれでいいともいえるのだが、本書には、この二つの存在の間に何人かについての記述が挟まれている。読書案内としても面白いので、それらひとつひとつを読みこんでみようかな、と当初は思ったが、かなりな迂回路になりそうなので、今回は割愛することにした。
そうして見た場合、巻末の宮沢賢治論は、極めて簡潔で、的を射た、妥当性のある一文となっている。ある意味、それほど優れた論文ともいいがたいのではないか。そして、巻頭のニーチェについての論述を見ても、必ずしも飛び抜けたものとも言い難いと思う。
ただ、当ブログがここで引掛かったのは、ニーチェと賢治が並び称せられているところであり、当ブログの試みは、賢治→ニーチェ→カリール・ジブラン、という流れをつくろうとしていたからである。あるいは賢治→ジブラン→ニーチェ、であっても構わないのだが、そこに何かの足がかりが必要であった。
当ブログが現在進行中なのは、地球人スピリット宣言なる試みであり、その中の大きな三要素、科学と芸術と意識(宗教)の兼ね合いのことどもであった。科学はまさに、分割された隘路への浸食であるが、それらを統合する道すじとして、例えば21世紀の地球人たちはインターネットやウェブという方法論を持っている。
意識に関して言えば、その方法論は、ある意味、瞑想という形ですでに確定しているのであり、あとは、いかに現代人に、しかも普遍的に活用できるかどうか、というテーマに絞り込まれている。
しかるに、いわゆる芸術という分野において、そのプロセスは大幅にカットして極言するならば、当ブログにおいては、「マスタリー」をどのように受け止めるか、というところまできている。
ニーチェにおいては、個を超えた何かを認めるところまでは行くが、それを「神」とすることを完璧に否定する。かたや賢治においては、国柱会や法華経という「宗教」を使いながらも、バイオリージョンとしての花巻地方の大自然界を、自らのマスタリーとして受け入れていくのである。
ニーチェは、まるでグラフ用紙の上に丸を書いて、その四隅を細かく細かく埋めていくような作業をしているかに見える。まるで曲線をデジタル表示しているような塩梅だ。だから、どこまで行っても、近似値にみえようとも、それは曲線ではない。
この点、賢治のほうが素直に曲線を受け入れ、さっさとグラフ用紙を放棄する。修羅としての賢治、探究者としての賢治の姿のほうが、より素直で、人間的でもある。しかしながら、それがバイオリージョンであるが故に、やや普遍性に欠けるところがある。
ただ重要な問題は、「マスタリー」にあるのであり、そこに言葉を見ようと、大自然を見ようと、本当は、どちらも間違いなのである。自らを超えたものへの明け渡し、そのことこそが語られるべきなのであって、その次に何を見、何を聞くのかは、未知数、不可知として、残されるべきものなのである。
そのような方向で、今後、当ブログは進んでいくはずである。
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