3.11大震災大学には何ができるのか 大正大学編集
「3.11大震災 大学には何ができるのか」
渡邊直樹責任編集/多田孝文監修 2011/12 平凡社 単行本 253p
Vol.3 No.0598★★★☆☆
3.11に関する複数の人々がガチャガチャ言ったことを乱雑に一冊の本にまとめてしまうというオムニバス形式の本は、たくさん流通していて、当ブログにおいては、その形式というだけで、すでに減点の対象になっている。
3.11も、天の巻としての地震、地の巻としての津波、人の巻としての原発、いずれかにテーマを絞っていかないと、ただただ、みんなでわあわあ言っているだけで、すべてにおいて無駄であるばかりでなく、何の役にもたたないことが多い。
天の巻としての地震については、これ、どうしようもない天の摂理であり、また、地球上、どこにいても遭遇する可能性があるのであり、それは昼がやってきて夜が来るように、春がきて、秋が来るように、常にそういうことがあるのだ、と覚悟しながら生きていなかくてはならない。生を受ければ、死もまたある、というのと同じくらい、必然として受け止めなくてはならない。
地の巻としての津波に関して言えば、例えば飯沼義勇のような人だけが、それを感知し予知することができるのであって、人生80年としても、その人間サイズでは計り知れないものも確かにあるが、沿岸部に生きている人々は、常にその備えを行ってはならない。少なくも地震は津波の前ぶれであり、津波が来るまでには多少のタイムラグがある。
人の巻としての原発については、これはすべて人類がもたらした被害なのであり、すべての警告を無視した形で暴走してきた推進派ばかりではなく、それを止めることができなかった不安派、反対派も、一人間として、ひとりひとりが猛省しつづける必要がある。
さて、この本は「大学」をキーワードにしているが、実際には「大正大学」がキーワードなのであり、宗教大学としての大正大学には何ができるのか、というテーマになっている。それは、「3.11」を冠せずとも、普段から問われ続けられていなければならなかったテーマでもある。
本来「宗教」であるならば、3.11天地人の中においては、もっとも天の巻について述べられてしかるべきだと思うが、実際には、地の巻について語られていることのほうが多い。天の巻にも触れてはいるが、死者を葬る儀式やシステムに関してに留まっている。また、人の巻に関しては、一部を除いて、原発の是非を問うことは迂回している。
3.11、その時あなたは何をしていたか、というテーマは、被災地にいって、ただただシャッターを押し続ける脳なしカメラマンたちの作品同様、それなりに量産できる手法ではあるが、結局はあまり意味のないゴミが増えるだけでもある。
島薗(進) それから、結局科学の目的ですよね。科学者はなんのために核開発をしたのか、ていうことをやっぱり考えるべきときにきていると思いますよね。つまり、なんでも知りたいこと、できることをやっていいのか、っていうことですね。p62「座談会 大学、仏教、宗教者は災害に何ができるのか」
島薗進の著書はそれなりに当ブログでも目を通してきているが、その専門である宗教社会学とやらの分野において追いかけているのは、いわゆる新新宗教といわれる分野の「落ち度」についてである。可能性や実績については、積極的には評価できない体質なのがこの人とその門下である。
ここで島薗が、いかにも良心的に反原発的な発言をしているが、これは後だしジャンケンも甚だしい感じがする。あれだけの発言の機会があるのだし、以前からそのような立場を表明していたのなら、今回の発言の重さも違っていただろう。当ブロブにおける一連の彼の本に対する親和性ももっと深いものがあったと思う。ましてやここにおいて大正大学あたりと結託してこんな座談会に登場すること自体、奇異な感じがする。
震災直後に、大学ボランティアの張り紙をして活動している車も見かけたし、東京の大学の門前に「震災ボランティア本部」などの立看を見つけたこともある。被災地の大学がボランティアセンターとなって活動の拠点を提供したところもあったし、以前より地震のメカニズムや避難方法を提供し続けた研究者たちも多い。
「3.11大震災大学には何ができるのか」という大きなテーマではあるが、この本はテーマが絞り切れていない。3.11とはなにか。大学とはなにか。何ができるか。これらひとつひとつが重いテーマであり、この本は所詮「合格祈願オクトパス君」販売を含めた大正大学関係者の活動報告書でしかない。
翻って、じゃぁ、当ブログにおいては、これらのテーマにどう対応していけばいいのか、ということを考えておかなければならない。
まず、人の巻でいえば、3.11と原発は無関係なことであり、3.11が起きなくても、原発事故はすでに多くの「悪」を積み上げているわけだし、3.11とは切り離して考えなくてはならない。現場の人々の猛省を求めるとともに、彼らの暴走を許してきた自らの生き方を再チェックしつづけていく必要がある。
地の巻においても、たとえば結城登美雄のように以前から東北ウォッチャー、あるいは沿岸部ウォッチャーであったような人以外、そう簡単に東北沿岸部の抱えている難題を理解できるはずがないのである。3.11とは切り離して、大きな独立したテーマとして支えていく必要がある。
当ブログは、もっとも大きなテーマとして天の巻に一番の関心がある。超えようとして越えられないもの。3.11にとどまらない、さらにその向こうの向こうに連なっていく何事か、そこのところに目を向けていくことこそ、一番の眼目である。3.11とは、本来、天の啓示として受け止められるべき事象の一つであろうと思われる。
この本もまた、大学、などと濁さずに、本来の意味で、宗教には何ができるのか、本来の意味で、宗教とはなにか、を問うべき一冊であったと思う。一大学や、一宗門からの、矮小な活動報告はすべきではなかった。
ボランティアという意味では、無数の人々が関わっている。自らの活動は秘すとも、まずは、他者の活動のひとつひとつを取り上げてこその、宗教活動ではなかったのか。率先して、自ら行った「善業」を並べているあたり、まだまだ本物の宗教には成り切れていないのではないだろうか。
| 固定リンク
「34)地球人スピリット宣言草稿」カテゴリの記事
- 足に土―原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集 <7>(2012.02.16)
- 宮沢賢治祈りのことば 石寒太 <3> 悲しみから這い上がる希望の力(2012.02.16)
- デクノボーになりたい 私の宮沢賢治 / 山折哲雄(2012.02.16)
- 宗教詩人 宮沢賢治―大乗仏教にもとづく世界観 丹治 昭義(2012.02.15)
- OSHO ZEN TAROT <43> RECEPTIVITY(受容性)(2012.02.15)
コメント