ポスト3・11の子育てマニュアル<2> 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?冨永良喜他
「ポスト3・11の子育てマニュアル」 <2>震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?
冨永良喜/小城英子他 2011/11講談社 単行本 191p
前回、簡単なメモを残しておいたところ、思いもかけず、著者のおひとりご本人(だと思われる)から返信の書込みがあった。そうである限りは、もういちど読み返そうと、借り直してみた。
しかし、いまいちこの本に心がオープンしていかない自分を感じ、再読しないままで時間ばかりが経過してしまった。そろそろケリをつけておきたいので、ここらでまたまた簡単なメモを残すことになった。
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1)本日は、昨年、上の子夫婦に生まれた初孫の1歳の誕生日である。あっという間の一年だった。里帰り出産だったために数カ月妊婦や新生児と暮らした。1月には婚地に戻ったため、こちらの震災には遭わずにすんだが、いま考えるとぞっとする。
2)そして、明日は甥夫婦に二人目の子供が生まれる。さらには数週間以内には、我が家の下の子夫婦に男子が生まれる予定になっている。別な甥夫婦にも、来春には女子が生まれるらしい。
3)そういう年回りなのだろうが、とにかく私の周りはベビー・ブームと言っていいほど、新しい命が次々と生まれている。それぞれの連れ合いの名前や赤ちゃんたちの名前を覚えるのもなかなか難しいのだが、トンチンカンなことを言いながらも、楽しい悩みではある。
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と、ここまで書いたのは、昨年末のクリスマス前のことであった。我が家の二人目の孫は無事生まれ、この正月には、新幹線に乗って、里帰り出産していた息子夫婦と赤ちゃんに会いに行ってきた。これから、この地球上で生きて行こうとする新しいいのちたちに会うことは、とても感動的だ。
そもそもの、私とこの本のズレは、私はもう「子育て」世代ではなくなっていた、ということだろう。私自身の「子育て」はもうとっくに終わっており、これからは、自分はいかに子供が好きだと言っても、もう「孫育て」の世代なのだ、という自覚が必要なのだった。
孫育て、と言っても、ジイさんとしてはまだまだ初心者である。ジイさんになりきれていない。新米ジイさんとして、これから少しづつキャリアを積んでいこう、という段階である。
この一年の経過を見ていると、私はまだ、孫との適正な距離をつかめないでいる。どこをどうやれば、まずまずのジイさんなのか。そこんとこを時たままちがい、娘や息子に、クレームをつけられる時がある。素敵なジイさんになりたい、とは思うが、それは理想としても、まずまずの当たり前のジイさんにはなりたい、と願っているのである。
ここにまず第一点のズレがあったのだろう。この本は「子育て」の本である。日々、幼き命たちと付き合っている責任世代に語られている本であった。とくに乳幼児というよりは、小学生あたりをターゲットにしているように思われる。
第二のズレは、私もまたカウンセラーの一人である、という思い込みである。私なりに学習もし、資格も得て、あるいは公的機関でのキャリアを含めると数十年の実践がある、という自分なりの自負がある。
ただし、3.11後の自分を見ているかぎり、被災者たちに隣人として接する以上の、カウンセラーとしての自覚のもとでの関わりは、積極的に避けているように見える。日々の業務が隣接のジャンルにあって、カウンセリングに特化できないとはいうこともある。しかし、カウンセリングを含む、人為的な行いの何と空しいことか、ということが表にでてくることが、積極的にカウンセリングを肯定的に見ることのできない大きな理由だと思われる。
しかるに、この本の著者たちは、臨床心理学、社会心理学、児童臨床心理学、性格心理学、健康心理学、という肩書を持つ「専門家」たちである。自らの無力感を、これらのいわゆる専門家たちへの違和感としてぶつけていたがゆえに、第二のズレができていたのではないか、と思う。
そして、第三に、私は、今回の震災においては被災者であるという、「自覚」がある。地震の恐怖を味わい、長期にわたる避難生活を強いられた。海岸からはそれなりの距離があったとは言え、すぐそばまで津波の被害が広がり、そこから逃れてきた人々が仮設住宅を作ってすぐそばに棲んでいる。親戚や友人知人の輪を広げていくと、幾人も災害死した人々がでてくる。
原発事故においても、80キロ圏内と、震源地からそれなりの距離があるとは言え、日々ガイガーカウンターの表示が気になるようなエリアに棲んでいる。自らの行動や、物資の流通を考えると、この土地も立派な放射線による汚染地域なのである。平静を装っていても、不安でないはずがない。
私は一時的被災者である、という自覚があるのであるが、この本においては、そこのところが薄いように思われる。この5人が5人とも、一時的被災者ではないように思われる。帰宅難民とか、関東圏以南まで及ぶ放射線汚染におびえている、という意味では被災者であるように思われるが、3.11、という意味では、二次的被災者ではないだろうか。
ここが第三のズレの大きな原因のように思われる。阪神淡路大震災の例を引きだして比較したり、自らの研究範囲に3.11を引きづり込んで何事かを語ろうとする姿勢に違和感を感じるのはここのところだったように思う。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の、最も重要なスピリットは「行ッテ」の部分だと言われる。
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
この小さな本の中に、私は賢治いうところの「行ッテ」を見つけることができなかった。「専門家」としての、上から目線でのアドバイスに留まっているのではないか。そこのところが、私の側からばかりのズレとは思えない、強い違和感を感じたのである。
逆に言えば、実際にモノ思う世代の子供と日々向かいあい、具体的に専門家たちの指示を期待し、広範なエリアに広がる二次的被災地(者)であるという自覚を持っている読者には、良心的で有用な一冊であろうと思う。
まずは、私は私なりに、第一次被災地における、デクノボーとして、よちよち歩きの「孫育て」のノウハウを模索していくしかないのだな、と痛感しているところである。
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