ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 梅田望夫<45>
「ウェブ進化論」 本当の大変化はこれから始まる<45>
梅田望夫 2006/02 筑摩書房 新書 249p
★★★★☆
新年にあたり、そして、「地球人スピリット宣言」カテゴリを進めるにあたり、当ブログの原点の一つとなったこの書をまた読みたくなった。ふりかえってみれば、前回読んだのは、わずか一カ月ちょっと前のことであった。
一度は封印したつもりになっているのだが、どうも未練が残る。この本だけではなく、一連の梅田望夫著書、とくに「ウェブ人間論」あたりを再読したくなるのだが、どうもこの一冊に帰っていく。
今回読んでみて、すこしづつ一読者としてそぎ落としておきたいところも明確になってきた。巻末の「初出について」を見ると、これはすでにネット上で公開されていた断片を構成して「書き下ろした」ものである。だから、読んでいて、かなり幅があるというか、散漫なイメージがあるのは、止むをえなかったのだ。
そして、「米国在住」の「経営コンサルタント」が、ITやウェブに関する「アドバイス」を、「アメリカから日本に向けて」している、という構図なのだった。この構図があったればこそのこの書ではあるのだが、一読者として、我がものとしてこの書に語られていることを納得しようとした場合、この著者の特性を薄め、あるいは無化して読みこむ必要があったのだな、と、今回読んであらためて痛感した。
「映像編集ツールが与えられたからといって誰もが素晴らしい映像を作ることはできない」「音楽編集ツールがあるからといっても誰もがミュージッシャンになれるわけがない」「ワープロソフトが普及したって誰もがいい文章を書けるとは限らない」というのは確かに真実なのであるが、道具の普及が私たちの能力をぐっと高めていくことも、一方で真実である。011「ウェブ社会--本当の大変化はこれから始まる」
先日スティーブ・ジョブスが亡くなったこともあって、書店の店頭ではジョブス・ブームが起きている。私はマック派で育ってきたわけではないし、彼の業績には必ずしも称賛一辺倒ではないのだが、ある本に「パソコンを生み、進化させ、葬った男」というコピーがあったのは驚いた。
パソコンをジョブスが生み出さなくても、誰かが作り出しただろうし、進化はおのずと周辺のインターフェイスの進化とともに必然としてあっただろうが、「葬った」とくれば、おおそこまで言うか、ということになる。
当然、ここでは、音楽配信やツイッター、スマートフォンの隆盛について語られているのだろうが、さて「パソコン」は葬られてしまったのだろうか。これはあくまで文脈上のレトリックで、ジョブスはパソコンを葬ることはできなかっただろう。
これまでモノの書いて情報を発信してきた人たちが、いかに「ほんのわずか」であったかということに改めて気づく。そしてその「ほんのわずかな」存在とは、決して選ばれた「ほんのわずか」なのではなく、むしろ成り行きでそうなった「ほんのわずか」なのだ。p130「ブログと総表現時代」
この「ウェブ進化論」に先立つこと四半世紀前、私はアルビン・トフラーの「第三の波」から大変大きなインパクトを受けた。その時受けた印象は産業界の変動とかよりも、自分のライフスタイルと「意識」はどうなるのか、ということであった。あの時に受けた「エレクトロニクス・コテッジ」という概念は、今でも理想で、それはある意味実現していると言える。
そのエレクトロニクス・コテッジで私は何をやっているかというと、必ずしもIT関連産業ではないが、仕事をし、ビジネスとしての経済活動を行っている。そして、音楽でもなく、映像でもなく、どちらかと言えばワープロ機能を多用する「読書ブログ」を書いている。
しかし、それは「表現」として「情報」を「発信」しているのだろうか。とてもそうは思わない。一人の人間としての存在証明のための記録としては書いているだろうが、それ以上の意味を求めようとは思わない。
ブログは個にとっての大いなる知的成長の場であるということだ。p164同上
試行錯誤の末、最近は、ブログこそが自分にとっての究極の「知的生産の道具」かもしれないと感じ始めている。p165
ここにおいてのブログという言葉には、ホームページやソーシャル・ネットワークサービス(SNS)というニュアンスも若干込められていたかもしれない。だが、2012年の現在において、このブログに対置されるものとして、ツイッターやフェイスブックなどのSNSが意識される必要があるだろう。
本来とても私的な営みである知的生産活動は、常に「全体」という場への貢献を意識して行われるわけではない。だから、「全体」をあまり意識せずに行う「個」の知的生産活動の成果を集積し、そこから自動的に「全体」としての価値を創出することができれば、可能性はさらに大きく広がるはずである。p195「オープンソース現象とマス・コラボレーション」
当ブログにおける実態を「知的生産活動」と見てしまうことは、ちょっとおこがましくもあり、ちょっと違うなぁ、と思う。最初から他者に向けられているものではなく、別に秘するほどのものでもない、という程度の「ワープロ」活動に過ぎないだろう。
ネット参加者の一人としては、何処かの、何かのポイントにはなっていたい、という「個」の主張はあるだろうが、「全体」の中における「位置」を自ら探ろうとはしていない。
今回この本を再読してみて、結局この6年間で残ったのは一つのブログであり、それはインターネット上の、ひとつの「個」としてのポイントとはなっているだろう、という満足感である。それ以上の多くを望まないし、この書における多くの可能性は、どんどんそぎ落とせるものであった。
今回、この本を正月にあたって再読したのは、他のツルテン・ケサン+正木晃「チベット密教」やOsho「私が愛した本」と同時、という意味あいも込めていた。それらに比した形で、この本から何を学べばよかったのか、ということだった。
結局、私にWeb2.0という掛け声の中で残ったのは、ブログひとつだけだったのではないか。そして、それはそれで十分だったのだ。
そして、その残り得たブログは、3.11とどう対峙できるであろうか。あるいは、3.11後にこの「ウェブ進化論」を読んでみた場合、どういう風に印象が変わっているだろうか、ということも関心があった。
緊急的な情報発信や、広範な交友関係の拡大などを望むのであれば、ツイッターやフェイスブックなどのツールも、3.11に対峙する形で存在し得るだろうが、「個」としての思索を深めるには、ブログ機能は今後ますます必要となるだろう。
勿論「読書ブログ」を展開するには、ウェブ進化に伴う図書館ネットワークの拡大や、提供視聴覚資料の多様性などの変化が大きな要素となっている。
正月にあたって確認しておくべきことは、まずはブログを書いているのだ、という自覚だろう。そして、それをいつかは積極的な意味においても書かなくなる地点がある、という認識だ。
3.11を踏まえ、「地球人スピリット宣言」という集約を目ざし、今年もカタカタとキーボードを叩き続けることになりそうだ。
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