プロフェット(予言者)<8>
「プロフェット(予言者)」<8>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p
★★★★☆
さて、いよいよ、この本一冊に全エネルギーを注ごうというタイミングがやってきた。まるで、この世に、本というものは、この本一冊しかない、というくらいの姿勢ですこしこの一冊にのめり込んでみようか。あるいは、そうしないと、当ブログは前に進まないところまできている。
ざっと読み直すと、実に読みやすい本で、ほんの一時間もあれば読みきってしまう本である。訳本もさまざまあり、この訳本がベスト本とは必ずしも言い難いのだが、もっとも長く私の手元にあるという意味では、一番親和性が高い。翻訳には難ありとしないが、大意がつかめれば、それで十分だ。
「序章 船来たる」は問題ない。美しい。素晴らしい設定だ。まるでそれが事実であるかのように、その世界に入っていくことができる。
「終章 別れ」。素晴らしい。美しい。こうでなくてはいけない。まるで賢治のポランの広場があったなら、きっとこうであっただろうと思う。理想郷・補陀落を模したとされるポランの広場。そこに連なっていくのが、ジブランの「オルファリースの町」であり、そこはイーハトーブやセンダードとの隣町である。
ここに12年間滞在していたのがアル・ムスタファ―である。何歳であるのか、どこから来たのか、どこに行ってしまおうとしているのか、それは語られない。でも、ここにいて、人々を愛し、人々に愛され、そして行ってしまうことだけは分かっている。
彼は誰なのか。何を求めてこの地に来たのか、それも語られていない。それはすこしく、賢治の「風の又三郎」にさえ似ている。どこにもいそうで、さっきまでそこにいたような、そんな存在だ。だけど、なにかが違う。新しい、別の、何かの価値を携えている。
それを、人々は聞く。聞き、受け取る。受け取りつつ、あるいは語りつつ、人々はひとつになっている。語る者も、それを聞く者たちも、一体となっている。語り、聞く、という図式は、必ずしも役割を分担するためのものではなく、この物語を固定するための、ひとつの風景でしかない。
じつは、誰もが、役割を分担し、交換し得る。聞くものは聞きながら語り、語るものは、語りながら聞いている。ここに写し取られているものは、ひとつの風景だ。それは、ひとりひとりの心の中にしみ込んでいきつつ、オルファリースの町から、次第に外へ広がっていく。そこにはこの町の延長しかない。この宇宙全体がオルファリースの町となっている。
美しい風景の中に、ひとつひとつの問いかけが生まれる。愛とはなにか、罪と罰について、苦しみについて、快楽について、死について・・・・。ひとつひとつが根源的でありつつ、とるに足らないテーマにさえ思えてくる。
この序章と終章を成立させるために、ここにいくつかの問答が行われている、と言っても過言ではない。人はこのような舞台設定があるならば、誰もが詩的になるだろう。これ以上ないような風景の中で、何がどのように語られるのか。
もうそこにおいては、何が語られたとしても、それはそれで成立してしまいそうな穏やかな風景である。語られる内容が問題なのではない。その風景こそが、すでに成立しているのであり、そこで起こることはすべて、事実と認定してしまっていいのではないか。そう言いたくなる。
しかしそれでは、当ブログが存在しなくなる。敢えて、この風景の中に、一言挟もうではないか。オルファリースの町の人々の群衆の中に立って、あるいは、アル・ムスタファ―の傍らに立つ、友人となって、ダメ出ししてみよう。
あるいはシアター・オルファリースの芝居の演出家にでもなったつもりで、自分なりのプロフェットをつくってみようではないか。
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