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2012年1月の57件の記事

2012/01/31

OSHO ZEN TAROT <32> TRAVELING(トラベリング)

Zen046traveling_2 前よりつづく  

OSHO ZEN TAROT <32>

45.TRAVELING(トラベリング)

 生はつねに、つねに、連続したものだ。それは最後の目的地に向かって進んで行くのではない。巡礼そのもの、旅そのものが生なのだ。どこかの地点に行き着こうとしているのではなく、ゴールはなく——ただ踊りながら、巡礼の内にあって、どんな目的地も気にせずに楽しく進んで行く——。

 目的地にたどり着いたところで、あなたはなにをしようというのかね? これまで誰もこんなことをたずねた者はいない。誰もが生に目的地を設けようとしているからだ。
だが、それが暗に意味するのは……。
 
 もし、あなたがほんとうに生の目的地に着いたとしても、そのあとは? あなたはとても困ってしまうだろう。どこにも行くところがない……あなたは最後の目的地に着いてしまったのだ——しかも、その旅の途中で、あらゆるものを失ってしまった。

 だから、あなたは最後の目的地に丸裸で立ち、まるで馬鹿のようにあらゆるところを見回すことになる。いったいなんだったのだ、と。あなたは必死になって急いでいたし、次々と心労が絶えなかった。それなのに、その結果がこれなのだ。Osho Rinzai: Master of the Irrational Chapter 7 

解説:  

 この素晴らしい風景をぬって道を歩む小さな人影は、ゴールのことなど気にしていません。彼、あるいは彼女は、旅そのものがゴール、巡礼そのものが聖地だということを知っています。道を歩む一歩一歩、それ自体が大切なのです。

 リーディングでこのカードが現われたら、動きと変化の時期を示しています。それは、ある場所から次の場所への物理的な動きかもしれませんし、ひとつの在り方から別の在り方への内なる動きということもあるでしょう。

 しかし、どんな場合でも、進むのはたやすく、冒険し、成長しているという感触がもたらされることをこのカードは約束しています。余計な苦労や計画は必要ありません。この「トラベリング」カードは、新しいものを受け容れ、抱擁することを思い出せてくれます。ちょうど、私たちが日頃慣れ親しんでいるものとは違った文化や環境をもつ別の国を旅しているときのように——。

 開き、そして受け容れるというこの姿勢は、私たちの生に新しい友人と体験を招き入れます。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

<次>へつづく

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2012/01/30

宮沢賢治祈りのことば 石寒太 <2> 悲しみから這い上がる希望の力

<1> からつづく


「宮沢賢治祈りのことば」 悲しみから這い上がる希望の力<2>
石寒太 2011/12 実業之日本社 単行本 223p

 ふりかえっていて、ちょっと変だな、と思った。当ブログのちょっと早すぎる賢治再読リストベスト10」が書かれたのは1月17日。こちらの「宮沢賢治祈りのことば」についての日記は1月11日に書かれたはずなのに、このリストに入っていない。かなりいい加減なリストだなぁ。見落としている。あらためて、やっぱり早すぎたな、と痛感。

 この本、たしかに突出したカラーはない。むしろ並みいるユニークな賢治本のなかでは目立たず、埋没してしまいそうだ。でも、ふりかえってみると、とてもバランスがよく、コンパクトでありながら、深い。私のような賢治ビギナーにもよくわかりやすい。きっと小学生以上の読者でも、この本の意図するところが理解できるだろう。

 ひょっとすると、高段者にも意味ある一冊と評価されうるのではないだろうか。「宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版」2011/07求龍堂)もなかなか面白かった。こちらもなかなか読み応えのある一冊だった。元本はすでに17年程前にでているのだから、著者は一貫した賢治研究者であるようだ。

 3.11と賢治をダイレクトにつなげれば、この本になる。3.11に立ち上がる賢治、というイメージなら、この本で決まりだろう。そう思った。そして、まためくってみることになった。

 実にコンパクトだ。これで賢治が分かった気になる。賢治の賢治たることが分かったような気分になる。いまさら、3.11についてはどうこういうつもりはないが、あまりにも悲惨であるがゆえに、ついつい目をそむけたくなる。それはそれでしかたない。

 だが、しばらく目をそむけていると、いや、こうしてはいられない。やはり「行って」なんとかしなくてはならない、と思う。その時、何かの安全弁のように、そう、いわゆる命綱としての「絆」がほしくなるのだ。

 そんな、ライフセキュリティーとしての賢治が、この本の中に組みこまれているかのようだ。そういった意味では、極めて貴重な本だ。「祈り」が込められている。

 たしかに、3.11はこの小さな本だけでは解決しないし、賢治もまた、この小さな本だけで、分かった気になってはいけない。もっともっと多岐にわたる支線が張り巡らされている。だが、その為にも、基本的なポイントが必要だ。

 そういう意味でも、この本は「賢治と3.11」の原点を教えてくれる。この原点を確かめた上で、ここからさらに世界を広げていける。この本、今後もこの本をことあるごとに開いていくことになるだろう。

<3>につづく 

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2012/01/29

OSHO ZEN TAROT <31> THE MASTER(マスター)

Zen023themaster <30>よりつづく  

OSHO ZEN TAROT <31>

THE MASTER(マスター)

 私はあることを言いたい。これは私が生涯にわたって秘密にしてきたことだ。私はいつも、誰のマスターにもなりたくないと思っていた。

 ……マスターであるということは、ひじょうに奇妙な仕事だ。ハートに関することを議論と論拠、合理性、哲学によって人びとに納得させなければならない。

 頭の働き(マインド)をハートの召使として使わなければならない。マスターのワークは、あなたの全エネルギーがハートへと入っていくように、あなたからマインドを取り去ることだ。

 要点がわかるかね? 「マスター」という言葉は、弟子、信奉者という発想を生み出す。弟子、信奉者がいなければ、どうしてマスターがありうるかね? だが、「マスター」という言葉のスピリチュアルな意味は、自分自身をマスターするということだ。

 それはどんな信奉とも関係ない。群集に依存してはいないのだ。マスターはただ独りでいられる。私が話している「新しい人間」は、自分自身のマスターになる。Osho

解説:

 禅のマスターは他者に対するマスターではなく、自分自身のマスターです。―そして、自分をマスターしているというそのことが、彼のあらゆる仕草とひとことひとことに反映しています。

 彼は伝える教義を持っている教師でもなければ、神と直接的なつながりを持っている超自然的な使者でもなく、まさに人間ひとりひとりの内側に潜んでいるもっとも高い可能性の生きた証となった人なのです。

 弟子は、マスターの眼のなかに自分自身の真理が映し出されていることに気づきます。マスターの静寂に満ちた臨在のなかで、弟子はもっと楽に自分自身の実存の静寂へと落ちていくことができます。

 マスターのまわりに自然に形成される探求者たちのコミュニティーは、ユニークな個人それぞれが自分自身の内なる光を見いだすのを支えてくれるエネルギー・フィールドになります。

 いったんその光が見つかったら、外側のマスターは触媒、内なるものの目覚めを喚起する仕掛けにすぎなかったことを弟子は理解するようになります。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

次へつづく

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地球人スピリット宣言草稿<28>Ultimate Truth

<27>からつづく 

「地球人スピリット宣言草稿」 
<28>Ultimate Truth

 自分のことをググッていたら、かつて自分は「先住民と新人類 : 和尚に捧ぐ」という文章を書いていたらしい、ということにあらためて気付いた。その経緯を細かくは覚えていないが、先立つこと他のミニコミに書いた文章が、編集者の目にとまり、「アース・スピリット」と言う本に収録されたのだった。この本はたしか、我が家の蔵書として何処かにしまわれているはずなので、いつか探してみようと思う。

 この本、よくよく見ると、「アース・スピリット宣言」の文字が躍っている。ああ、そうだったよなぁ、20年以上も前から、同じようなところを行きつ戻りつしているのであった。そして、その「宣言」たるや、どうなっているのだろう。

 「アース」と「地球人」、では、意味するところは違うし、哲学的に細かく探究していけば、またく180度違ったりするのだが、今は、そんなことは躊躇しない。意味する方向性は同じ方向なのだ。

 そして、「アース」のほうはともかくとして、「地球人スピリット」として、とりあえず、当ブログが現在、「宣言」したいことを煎じつめてしまえば、どうなるか、と考えてみた。

Buddham Sharanam Gachchhami
Sangham Sharanam Gachchhami
Dhammam Sharanam Gachchhami

 あのガッチャーミ―だ。

I go to the feet of the Awakened One
I go to the feet of the Commune of the Awakened One
I go to the feet of the Ultimate Truth of the Awakened One

 日本では三帰依文と呼ばれる。

みづから仏に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して無上意(むじょうい)をおこさん。

みづから法に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて智慧海の如くならん。

みづから僧に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して一切無礙(むげ)ならん。

 私には以前から気になることがある。三帰依文では、仏→法→僧、の順番になっているし、このほうが語呂もいいようなのだが、Oshoのセンスでは、仏→「僧」→「法」、の順番になっているおkとだ。

 この順番は、ハリウッド映画などでは、法→仏→僧になっていたりして、さまざまなバージョンがあるようだが、東洋的な広がりの中でのガッチャーミーでは、普通に仏法僧になっていることが多そうだ。

 このことについて、ある時(1980年代だが)、ある禅寺の和尚さんに尋ねたことがある。その時、答えてくれたのは、次のような答えだった。

 仏法僧は、一体になっているもので、あり、順番はあまり重要ではありません。仏の蔭に法と僧があり、法の蔭に仏と僧があり、僧の蔭に仏と僧があります。どの順番に唱えてもいいのです。

 新参の若者に対する答えでは、これで正解だろう。これ以上の答えはないはずだ。それで納得したはずの私だったが、いまだに、この疑問にこだわりつづけているのはなぜだろう。

 Oshoは自分なりにガッチャーミーをアレンジしたのだろうか。それとも、仏教の伝統を大きく変革しようとしたのだろうか。いずれにせよ、Oshoにおいては、ダンマム、サンガム、ダンマムの順序は崩れたことがない。

 思惟するに、伝統的な三帰依文においては、仏、法、僧、とすることによって、僧に余韻を残したのではないだろうか。仏教は「僧」において伝えられ、守られてきた、という意識が残る。そこに「仏教」という、Buddism、というニュアンス、カラーが残る。

 その伝統に陰りが見えたからこそ、今、新たなるアース・スピリット、地球人スピリットが立ち上がろうとしているのではないか。もし、余韻を残すとすれば、僧とかコミューンとか、サニヤシン、とかに残すのではなく、Ultimate Truth、究極の真実、のほうに残すべきなのではないか。

 そこにこだわりを持ち続けている。

 だから、煎じつめて言うならば、当ブログにおける「地球人スピリット宣言」の中身は、ガッチャーミーであり、さらに煎じつめれば   I go to the feet of the Ultimate Truth of the Awakened One、ということになる。

 当ブログが、楽天ブログから、こちらのココログに移動してきたのは、こちらのほうがアクセスログが見やすいことも大きな要素としてあった。そのアクセス記録を辿ってみると、「神秘家の道」をたどるアクセス者が絶えない。

 自分で書きとめておいて、忘れてしまっていることも多く、最初から読み直してみると、これが実に意味深い。相変わらず、誤字脱字が多いのは御愛嬌で、いずれ手直しするとしても、自分がたどった読書記録としては、なるほどと思わせられる部分が残されている。

 であるなら、一冊まるまんま本を読みなおせばいいことなのだが、なかなかそうもいかないのが、Osho本を読む、ということなのだ。

 現在は、「Messiah 1-5」を、mp3のオーディオ講話を聞きながら、ネット上から下ろしたPDFの文章を読み進めているところだ。「Messiah」は1987年1月の講話であり、「神秘家の道」はそれに先立つ86年の5月の講話だ。おのずと、そこに流れが生じている。

 当ブログの現在の進行形としては「Messiah」を読み進めないことには前に進まない状況になっているので、あえて「神秘家の道」再読へは急ハンドルは切らないが、意味的には、まさにあの延長線上にある。

 別れの日を、集いの日とすべきなのであろうか。
そして、私の最後の夕が、まことなる私の黎明となるのであろうか。耕作を半ばにて、鋤を放り出してきた者に、私は何を与えればよいのだろう。葡萄酒しぼりの輪を停めてきた者に、私は何を与えればよいのだろう。
もし私の心が、果実のたわわになる木であるなら、その果実を、もいで与えるべきなのか。
もし、私の欲求が、泉のごとく溢れ出るものなら、それで彼らの杯を満たすべきなのではないのか。
私は、大いなるものの手が触れてかきならされる琴か。あるいはまた、大いなるものの息吹が過ぎる横笛なのだろうか。
ジブラーン「プロフェット」小林薫訳p19「船来たる」

 私もまた一人の農夫だった。あるいは葡萄酒絞りだった。鋤を投げ出し、その輪を停めて、走り出していた。

 3.11後の宮沢賢治として、石寛太の「祈りのことば」を再読している。心現れる素晴らしい一冊だ。ここから、それこそ「哀しみから這い上がる希望の力」を見つけることは、可能だろう。ゆっくり再読したい。

 そして、そう思うとともに、ゲシュタルトを転じてみると、3.11←→賢治、という図式を取り囲んでいる暗転部分のほうのなんと膨大なことかと痛感する。入子曼荼羅構造の中で、賢治ワールドは、Oshoワールドに取りこまれ、あるいはUltimate Truthのほうへと走り出す。

<29>につづく

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2012/01/27

The Messiah<5>Osho on Kahlil Gilbran's the Prophet

<4>よりつづく 

Themessiah1
「The Messiah」 Commentaries by Osho on Kahlil Gilbran's the Prophet, Volume 1<5>
Osho (Author) 1987/09 Publisher: Osho Intl; Paperback: 496 pages Language: English
★★★★★

 ホワイトターラーを調べようとググッてみたら、Oshoの「The White Lotus」がヒットしたようで、あらら、とんでもない頁ができているんだなぁ、と、呆気に取られた。全文テキストで読めて、フルコースの講話も聞ける。

 なにやら中国語が書いてあるので、中国本土か台湾か、いずれにしてもチャイニーズが活躍しているのかもしれない。それにしても、これじゃぁ本などよりも、ネットで聞き、かつ、読んだほうがいいのではないか、と思った。

 そうしてよくよく考えてみたら、この「The Messiah」もないのだろうか、と思ったら、やっぱりありました。読み、かつ、聞く、ことができる。すごいシステムが出来上がっているもんだ、と感心する。

 この頁には、最後のZENシリーズも網羅しているようなので、当ブログにおいて、手元に本がないから、またあとで、という言い訳ができなくなってしまったようだ。

 ここまであるなら、あとは講話のビデオもあるはずだと思ってYoutubeを見ると、全文ではないが、この「The Messiah」の一部も見ることができるようだ。これは「The Messiah」上下巻、第一巻の6講話目からの抜粋だ。

 当ブログ「プロジェクト567」の前に、この現象をおいてみる。あるいはこの現象の前に、プロジェクト567(つまり、現在の私自身の進行形の姿だ)をおいてみる。端的に言えば、これで全ては解決し、物事は終了する。

 テクノロジー、コンシャスネス、ライブラリー、メディテーション、ヒューマニティ、クリエイティビィティー、そして、多分エコロジーまで、あらゆることが終了してしまうのである。

 まぁ、そういう感触を持っているからこそ、自らのマスターであると理解できるのであろうし、もともと、そういう志向性をもって当ブログはスタートしているのであった。ネタは元々ばれているのである。最初から、すなおにそういう方向性に行けばいいようなものだが、自分の持っているカルマというか性が、そうはさせない。

 簡単には行かないが、いずれはそうなるのである。そうなるまで待てばいい。待つこともまた、アートなのだ。

<6>につづく

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2012/01/26

OSHO ZEN TAROT <30> FRIENDLINESS(親しさ)

Zen050friendliness  <29>よりつづく 

OSHO ZEN TAROT <30>

49.FRIENDLINESS(親しさ)

 まず瞑想するがいい、至福に満ちてあるがいい。そうなったら、多くの愛がおのずと起こる。そのときこそ、ほかの人たちと一緒にいることは素晴らしく、独りでいることもまた素晴らしい。そうなったら、それは単純なことでもある。

 あなたはほかの人たちに依存しないし、ほかの人たちを自分に依存させることもしない。そうなったら、それはつねに友情、親しさだ。それはけっして関係にはならない。それはつねに、かかわりをもつということだ。

 あなたはかかわる、が、結婚はつくりださない。結婚は恐怖から生まれる。かかわりをもつことは、愛から生まれる。

 あなたはかかわる——ものごとが素晴らしくいっているあいだは、あなたは分かち合う。そして、互いの道がこの十字路でわかれるために出発するときが来たとわかったら、相手がこれまで自分にしてくれたすべてのことに、相手と分かち合ってきたすべての喜びと、すべての楽しさと、すべての素晴らしい瞬間に大いに感謝し、さようならを言うがいい。

 惨めになることもなく、痛みもなく、あなたがたはただ別れる。Osho The White Lotus Chapter 10

解説:

 花を咲かせているこの二本の樹の枝は互いに絡み合い、地上では落ちた花びらが混じり合って、美しい色をなしています。それは、まるで天と地が愛で橋渡しされたかのようです。

 しかし、二本の樹はそれぞれ別個に立ち、地と独自のつながりを保ったまま、土に根を下ろしています。こうして彼らは、成熟した、互いに楽で自然な、ほんとうの友人としてのエッセンスを表わしているのです。

 そのつながりには緊迫感も、困窮感も、相手をなにか別のものに変えたいという欲望もありません。このカードは、親しさというこの質に入っていく準備が整っていることを示しています。進んでいくうちに、あなたはほかの人たちがかかわっているあらゆる種類のドラマやロマンスには、もはや自分は関心がないことに気づくでしょう。

 それはなにかを失ったということではありません。体験の豊かさから生じるもっと高い、もっと愛に満ちた質が誕生したということなのです。それは、ほんとうに無条件で、期待や要求を伴わない愛の誕生です。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

<31>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<27>メタコンシャスと森の生活

<26>からつづく 

「地球人スピリット宣言草稿」 
<27>メタコンシャスと森の生活

 3.11当時、当ブログは、「メタコンシャス--意識を意識する」カテゴリを走っていた。実際には、それは終章だった。どこかで終わりたかった。しかし、3.11がやってきた。3.11後スタートしたのは「森の生活」だった。思えば、この二つは、当ブログのアルファ&オメガになるだろう。

 森の生活とメタコンシャスを並べてみれば、それはもう、水を汲み、薪を割るという、禅生活の一幅の水墨画みたいなものではないか。ルーツ&ウィングとも言えるだろう。

 この概念の中に、プロジェクト567の7つの要素を取り入れてみる。便宜上、下から上へと順番に並べてみると、それなりに整合性のあるものとなる。 

7)3.11
6)ホワイトターラー 
5)スマートフォン 
4)孫たち 
3)メディア・テーク 
2)ハイブリッド車 
1)エコビレッジ

 森の生活に、1~3を対応させ、5~7をメタコンシャスに対応させる。その二つを繋ぐのが4である。

 1は、実際にはエコタウンでも、スマートタウンでも、何でもいい。要は、大地に根ざす、根ざし方が問われている。まさにルーツである。その部分に一工夫が必要だ。

 2はその大地の上でどう活動するのか、ということだ。必ずしも農業とばかり短絡するのは現代的なライフスタイルとは言えない。すくなくとも、ライフスタイルの象徴として、とりあえずエコカーを持ってこよう。1と2を繋ぐのはエコ、エコロジーだ。

 エコロジーを新たにとらえなおす必要がある。あくまで現代的にとなれば、図書館が必要となる。3のメディアテークは一つの現代的な象徴として存在する。

 4はもっともハートな部分。人間らしい部分である。子どもたちはまさに人類のハートだ。

 スマホに5を象徴させる。現代の情報や創造性の源が大きく変化しつつある。

 ホワイトターラーは6。チベットや東洋、そして神秘的な部分。あるいは瞑想。

 7は、とってつけたようなものだが、3.11をどうとらえるか、ということで、当ブログの、この局面においては、天からの啓示、としてとらえれるのはどうか、という提案だ。

7)インスピレーション
6)メディテーション
5)クリエーション
4)ヒューマニティ
3)トータリテイ
2)テクノロジー
1)エコロジー

 と、別な言葉に直してみることもできるだろう。あるいは、もっと別な新しい言葉に置き換えてみることも可能だろう。ただ、大事なことはここで7つのポイントでチェックしていくのはどうか、という直感だ。

 そして、これらは、別に未来に期待するだけでなく、今、自分の足元からスタートできるはすだ、という予感に支えられている。

 例えば、エコビレッジに住まわないまでも、今すぐ、我が家の中でエコロジーはスタートできるはずである。あるいは、何もガラスの図書館に通わないでも、実質的に、それと同等の知の全体性は得ることができる、という予感である。

 それは、チベットに行かずとも瞑想をすることができる、ということもできるし、究極の体験は、今ここにこそある、と会得することもできる、ということに通じる。

 そして、そもそも、私は人間なのだ、という結論に落ち着くはずである。

 また、meditation in the marketplace とも通うじるであろう。森の生活は、必ずしも孤高のリトリートである必要はない。marketplace こそ森の生活となるべきなのだ。あるいは、そのように生きていくことは可能である。ないし、そう生きていくしかない。

 かなり強引なひっくるめ、ではあるが、ここではこう編集しておこう。大筋で間違いはない。

<28>へとつづく

  

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The Messiah<4>Osho on Kahlil Gilbran's the Prophet

<3>よりつづく

Themessiah1
「The Messiah」 Commentaries by Osho on Kahlil Gilbran's the Prophet, Volume 1<4>
Osho (Author) 1987/09 Publisher: Osho Intl; Paperback: 496 pages Language: English
★★★★★

 さて、ようやくこの本をジックリめくっていくタイミングが訪れたようだ。回り道ばかりし、道草ばかり食い、どうも前に進まないのが当ブログの日々であるが、その日は来たのだろうか。  アル=ムスタファ―はオルファリースの町で12年の日々を過ごしたが、21世紀も12年目に入ってしまった。

First, he is certainly a great poet, perhaps the greatest that has ever been born on the earth, but he is not a mystic; and there is a tremendous difference between a poet and a mystic.

The poet, once in a while, suddenly finds himself in the same space as the mystic.

In those rare moments, roses shower over him.

On those rare occasions, he is almost a Gautam Buddha – but remember, I’m saying almost.p16「A DAWN UNTO HIS OWN DAY」

 詩人と神秘家の違いはなんだろう。一般に賢治は詩人として高く評価されているけれど、Oshoの視点から見た場合、賢治は神秘家でありえるだろうか。

  この本のテキストは長いものだが、上下巻とも、ウェブからPDFとしてダウンロードできる。

<5>につづく

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2012/01/25

OSHO ZEN TAROT <29>PAST LIVES(過去生)

 

 

 

Zen019pastlives <28>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <29>

18. PAST LIVES(過去生)

 子どもは、過去生で充分瞑想し、死がもたらす闇と闘えるだけの瞑想的エネルギーを創造していて初めて、意識を保っていられるようになる。人はただぼんやりとした状態のなかで我を失い、そして突然、新しい子宮を見つけだし、古いからだのことはすっかり忘れてしまう。そこには断絶がある。

 この闇、この無意識が、その断絶を生み出す。東洋はこうした障害を突き抜けようとして懸命に働きかけてきた。そして、その一万年にもおよぶ働きかけは、無駄になってはいない。誰でもひとつの過去生、あるいは多くの過去生を見通すことができるのだ。だが、そのためには、自分の瞑想に深く入って行かなければならない。

 それにはふたつの理由がある——。深く入って行かないかぎり、別の生への扉が見つからないからだ。二番目に、あなたは瞑想に深く入っていなければならないが、それは、別の生への扉が見つかると、出来事が洪水のように心に押し寄せてくるからだ。
ひとつの生をつづけていくことですら、充分骨が折れる……。
Osho Hyakujo: The Everest of Zen Chapter 7

 

 

 

解説:

 

 存在の両手が女性生殖器、宇宙の母の開口部を形づくっています。その内部には過去の多くのイメージ、顔が現われています。自分は過去生では有名だったのだと空想するのは面白いでしょうが、それは慰めにすぎません。

 ほんとうの要点は、生のカルマのパターンと、そのパターンの根——私たちを無意識な振るまいの罠にかけ、果てしなく繰り返されるサイクルのなかにある根——を見て理解することにあります。両側に配された二匹のニジイロトカゲは、知っていると知らないを表わしています。彼らは無意識なるものの守護者で、ヴィジョンへ向けた私たちの準備が整っているかどうかを確かめています。

 

 このヴィジョンは、準備が整っていなければ害を及ぼすかもしれないものなのです。私たちの存在は永遠だということを一瞥することは、贈りものです。そして、私たちの生におけるカルマの働きを理解することは、自分の思い通りに把握できるようなことではありません。これは、目を覚ましなさいという呼び声なのです。

 

 あなたの生における出来事が、あなたの魂(ソウル) の旅と同じくらい古くからあるひとつのパターンを見せてくれようとしています。Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

<30>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<26>3.11

<25>からつづく 

「地球人スピリット宣言草稿」 
<26>3.11

 それぞれランダムではありながら、ひとつひとつ流れついてきたシンボルを集めていくと、6つなった。なるほど、これらを繋げるとどうなるのだろうと、積み木を組み換えるごとく遊んでいると、それでは、7番目に流れ着くのは何だろう、という大きな疑問が湧いてきた。

 ホワイトターラーを超える7番目のシンボルはそうそうないだろう。そんなことを思っている時に起きたのが3.11である。

 3.11に、当ブログ「プロジェクト567」の7番目の位置を与える。

 津波については、個人的にもっとも深い記憶として残っている。以前、簡略に書いておいた。私は、ふたたび、津波にであったのであった。これでこそ、わが人生の意味が解けた、という部分もある。

 もちろん、これで我が人生が終わったわけではない。これからがスタートだ。

プロジェクト567

1)エコビレッジ

2)ハイブリッド車

3)メディア・テーク

4)孫たち

5)スマートフォン

6)ホワイトターラー 

7)3.11

<27>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<25>ホワイトターラー

<24>からつづく 

「地球人スピリット宣言草稿」 
<25>ホワイトターラー

 当ブログは、偶発的にチベット密教追っかけが始まってしまい、それなりの文献をさぐってきた。その中で、このホワイトターラーはどんな位置にあるのだろう。なにやら癒しの神様っぽいが、細かいことは分からない。

15

 分からない、というより分かりたくない、と言ったほうが正しいだろう。せっかく新しく生まれた仏さんなんだから、一緒にいることによって、新しい意味が生まれてくるのではないだろうか。

 この辺になってくると、言葉にするのは、そろそろお休みにして、最小限の記録にとどめておくべきであろう。

 当ブログは瞑想やスピリチュアリティがひとつのキーワードとしてある。この絵は、必ずしも仏さんの意味というより、精神性のシンボルとして記憶しておくのがいいだろう。

<26>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<24>スマートフォン

<23>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<24>スマートフォン

 21世紀に生きている限り、そしてこれからの地球を生きていくかぎり、インターネットやIT機器を活用することは当然のことだと思われる。活用しない手はない。いろいろやってみたい。しかし、あまりにも煩雑すぎて分からないことも多い。

 長いこと、ケータイは、子どもたちのおもちゃ的に扱われてきた。かくいう私もケータイはいまいち楽しくはなかった。ポケットベルや文字でるポケットベルの延長としてPHSが登場して、仕事上では必需品となった。

 PHS使用の時代は長かったが、もうこれで十分だと思っていた。だがそれはケータイへと変化し、メールもやりとりできるようになった。しかたなくケータイに変更したものの、ケータイ派VSパソコン派と言われれば、私はパソコン派だった。

 パソコンの方がいろいろできるし、経費が安い。待ち受けでケータイは必要だが、もう基本的な機能があればいい。長いこと、そういう時代が続いた。それはそれでよかったのだと思う。

 ところが、このタイミングでスマートフォンが登場した。ケータイの進化したスタイルだが、早い話が、ポケットに入るパソコンと考えても、まんざら嘘ではない。操作方法や文字入力法、ディスプレイの小ささや、動くソフトなど、いろいろ違いはあるが、パソコンの進化形と考えても悪くない。

 3)の図書館利用との繋がりで考えると、これはなかなか意味深いものがある。ただ、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのフェイスブックやツイッターの利用技術は私は得手ではない。SNSなら他も体験しているが、いまいち得意ではない。ツイッターもまぁ、意味は分かるが、雑多な情報がウルサすぎるのではないか。

 今後、どういう展開を続けていくのかはわからないが、すくなくともスマホが発達することによって、モバイル環境がどんどん良質なものになっていっているのがすばらしい。パソコン派の私にとっても、おおいに利益がある。

 活用技術はいまいちだし、最先端を追っかけていく気力はないが、時代とともにこれらをどのように活用できていくのか、そこんとこはおおいに気になっている。

<25>につづく

 

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地球人スピリット宣言草稿<23>孫たち

<22>からつづく


「地球人スピリット宣言草稿」 
<23>孫たち

 29歳のときに子どもが生まれた。だから29歳の時のインスピレーションも、子どもを抱えたかたちの、実に平凡な当たり前のもんだった。なんのセンセーショナルなものでもなかった。ただただ、自然な暮らしの中の方向付けだった。

 だから、50代も半ばを過ぎれば、子が子を生み、私にとって孫が生まれるのは当然のことだろう。なんのセンセーショナルなこともないし、当たり前の平凡なことの成り行きである。

 しかるに、これがなかなか面白い。それはそうだろう。子どもを育てることだって面白かった。ただ、自分の子どもだと、養育する直接の責任がのしかかってくる。ようやく子育てが終わったところだ。遊びたい。

 そんなタイミングでやってくる孫は、面白い。責任はあまりない。飽きたら、ひっこんで孫の親たちに任せればいい。あるいは、一度経験しているから、多少の蘊蓄がある。あれをこうして、これをああすれば、もっと楽しい子育てをできるかもな。

 そんな思いがいろいろ湧いてくる。このタイミングで、私にはひとり、ふたりと孫がやってきた。孫だけではなくて、甥や姪にも新しい生命がやってきつつある。あるいは、同年輩の友人たちにも孫が生まれ始まった。

 この子どもたちが、この地球上で、これから生きていくのだ。新しい地球人たちだ。

 もう童話を読むような年代ではなくなったが、でも、子どもの視線で、そして孫たちの視線で世界を見、童話を読むと面白い。ファンタジーや小説の類。じいさんやばあさんが、小さな孫たちに語る話とはどんなものだろう。

 小さな時は、じいさんばあさんから、いろいろ教わって、いろいろ聞かせてもらった。今度は自分が語り、教える番だ。どんなことを伝えればいいのだろう。なかなかむずかしいぞ。今時の子どもたちとはどんなんだろう。

 それに、私が本格的なおじいさんになるにはすこし時間がかかる。その間に、本当のおじいさんになるためにはどうすればいいのだろう、てなことを考え始めた。

<24>につづく

 

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地球人スピリット宣言草稿<22>メディアテーク

<21>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<22>メディアテーク

 そもそも図書館は頻繁にいくほどでもなかったが、本は嫌いじゃなかった。このところやたらと図書館通いをしているが、それは、本当の図書館の利用方法なのだろうか。そんな疑問がある。

 新刊本コーナー、雑誌や新聞コーナー、視聴覚資料、セミナー室、リファレンス、ホントにうまく利用しているのだろうか。オンライン、検索、取り寄せ、今後図書館はどうなっていくのだろう。電子図書なんてものも登場している。音楽だって、オンラインの時代だ。図書館に行って、机を借りて居眠りする、なんてスタイルは、もう古いんじゃぁないか。

 そもそも図書館とはなんだ。自分の蔵書で十分なのではないか。でもなぁ、本を買い続けるには金がかかる。そればかりじゃぁない。蔵書が増え続けると、それを所蔵しておくスペースを確保しなければならない。もう限界じゃぁないか。

 自宅にいて、ネットであらゆる書籍を画面でみるようになるかもしれない。音楽だって、図書館からCDを借りてくるなんておかしい話になるだろう。簡単に公共ネットからダウンロードできるようになるだろう。VHSだってDVDだって、そうだろう。

 しかし、そうなったら、現在の図書館はどうなるのだろう。あんなに大きなスペースは必要なのだろうか。セミナーや出会いが必要なら、また別はスペースをつくればいいのではないか。「本」という形はいつまでつづくのか。

 集合知、クラウドソーシングが進んで行けば、人間は、ネット端末を持っていれば、本もCDもDVDも不要になるのではないか。だとするならば、図書館自体がなくなるのではないか。

 もちろん、そこまでなるには時間がかかるだろう。すくなくとも現在50代の私が生きている間に、そこまで進化するとは思えない。大きく変化するとしても、私たちがいなくなったあとのことだろう。

 だが、その頃のことも気になる。いまのうちに予想しておきたい。未来の人間たちはどのような生き方をするのか。そこんとこを考える意味でも、当面、私の図書館通いはつづく。その図書館の中央施設の名前がメディアテークだったので、この項は、その施設の名前をとってある。

<23>につづく

 

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地球人スピリット宣言草稿<21>ハイブリッド車

<20>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<21>ハイブリッド車

 これもまた偶然のことであり、また大したことではない。そしてまた、これもまた「エコ」らしい。それはもうなんでもいい。ただ、ひとつひとつと注意深く見ていると、ひとつひとつが、自分にやってきた意味を、深く考えてみたくなる。

 それは単純なことで、人は車が必要だということ。車がなくても生きていける人もいるし、何台も車を持っている人もいる。しかし、我が家には何台もは必要ないが、一台は必要だ。それは大きくてもいいし、小さくてもいいが、ちょうどジャストサイズがいい。

 道路も広くないし、砂利道ではないけれど、たまに遠乗りする時もある。高速だって走る。だが、ほとんどは車庫で眠っていたりする。ガソリンもあまり使いたくないし、かと言ってあまりも小さいと運転も難しいし、事故の時が心配だ。

 家族のだれもが運転できるようなジャストサイズがいい。家計費を圧迫しないような、お手頃で、別にステータスシンボルになるような車でなくてもいいが、ちょっとオシャレなほうが言いに決まっている。

 そんなこんなで、一つのクルマがやってきた。それまでのクルマもリッターカーのベーシック車で、とても調子は良かったのだが、どうも寿命らしい。これからまた何年も乗ることになるだろう、そんな車になるはずだ。

 これもまた「エコ」らしい。エコってなんだろう。環境にやさしくて、人にもやさしい。車だけじゃなく、電気のことも考えてみる。ソーラー発電も何社か見積もりをとってみた。必ずしも理想的な屋根ではないが、我が家にもソーラーは上がる。設置することはできそうだが、これはまだ決意できない。その必然性が、いまひとつ繋がらない。

 暮らしの中を覗いてみると、いろいろな可能性がある。その「エコ」とやらの、とにかくシンボルとして、ベイシック・ハイブリッド車はやってきた。

<22>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<20>エコビレッジ

<19>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<20>エコビレッジ

 それは別にそう呼ばれなくてもよかったし、それがそのように存在しなくてもよかった。ただ、もしそう呼ばれるなら、それなりの必然性があるのだろうし、それが存在することになるのなら、それもそれなりの必然性があるのだろう。

 山があり、森があり、そこに行こうとする人がいる。そこを活用しようとし、そこを憧れとする人もいる限り、そこにすこしづつ人間の生活ができる。それをなんと名付けようと、それはそれでしかない。

 思わぬ形で、数万坪の土地が活用を待っているとしたら、まずそこにイメージするのは、隠れ家だったり、遊び場だったり、コミューンだったり、共同体だったりする。まずやりたいことのイメージが先行する。

 幾人かの仲間に声をかけてみれば、エコビレッジ、という言葉だったり、パーマカルチャー、という動きだったり、NPOという主体であったりする。それはもう、どれでもいい。その中から、いくつかの言葉を拾いだし、よりイメージをふくらましてみる。

 エコビレッジ、でなくてもいい。エコタウンでも、エコシティでもいいだろう。だがなぜエコなのか。これは重要なキーワードだ。ただの村や町や都市なら、あまり奮い立たない。エコは、もう一つの別の可能性を見つけてみようとする試みを象徴的に代弁する。

 なぜ、パーマカルチャーなんだろう。持続可能な生活スタイルの表現の一つだ。考えてみれば、かつての農村の暮らしなんて、ほとんど持続可能なjパーマカルチャーでしかなかた。なにをいまさら、英語で表現?

 それもまた、ひとつの粋がり。農業とか山暮らしとか、いうことより、なにかプラスアルファのイメージができる。それはそれでいいだろう。それに、パーマカルチャーと言われる生活形態を体系化した人たちもいる。今は、それを肯定的に受け止めて、そう呼んでいても、そう可笑しくもないだろう。

 でもでも、NPOねぇ。それもまた、どうでもいいんだよ。ただただ、たった一人の個人だけの遊びじゃなくて、複数の仲間たちの繋がりのなかでの動きにしたいんだよね。共同の基本的な姿勢も確認しておきたいし。

 そんなこんなで、ひとつの動きが始まっている。あるいは始まったことがある。もう終わったのかもしれない。でも、具体的な土地があり、仲間がおり、夢がある。そして、それにはそれなりに必然性があるだろう。

 今後どうなるかは未知数だが、メモだけは残しておきたい。

<21>につづく

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プロフェット(予言者)<9> ジブラーン 小林薫訳 悩める若者におくる現代の聖書 --子について--

 

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「プロフェット(予言者)」<9>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p 
★★★★★

 

 「子について」

 

つぎに、嬰児を胸に抱いたひとりの女が、子どもについてお話くださいとアル=ムスタファ―に問うた。
アル=ムスタファ―は、こう答えた。

 

あなたの子は、あなたの子ではなく、
大いなる生命の希求の息子であり、娘である。
あなたを経て現れてきても、あなたから生まれたのではない。
あなたともにいても、あなたに属するものではない。
あなたの愛を与えることはできても、あなたの考えを与えることはできない。
子どもは自らの考えを持つのだから。
その身体を住まわすことはあっても、その魂までも住まわすことはできない。
子どもの魂は、あなたが夢にも訪れることのできない、明日の館に住んでいるのだから。
子どもらのようになろうと努めるのはいいとしても、子どもらをあなたのようにしようとしてはいけない。
生は、後ろには歩まず、昨日を待つことはないのだから。
あなたは弓であり、あなたの子は、その弓から生きた矢として放たれるものである。
この弓を射る大いなる人は、無限の道の上にある標的を見、大いなる力であなたを曲げたわめ、その矢を速く遠く行かせようとする。
この弓射る人の手で、あなたが曲げたわめられることを、喜びとせよ。
なぜなら、大いなる弓射る人は、飛ぶ矢を愛するごとく、落ち着いたゆるぎない弓をも愛するのだから。

p43「---子について----」


 
<10>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<19>プロジェクト567

<18>からつづく


「地球人スピリット宣言草稿」 
<19>プロジェクト567

 このことについては、いくつか補助書きしておかなくてはならない。その経緯とシステム、そして、その方向性について。

 ある時、個展を開いた人から作品の寄贈のお話があり、メインの作品である「ホワイトターラー」の絵をプレゼントしてくれたのであった。思いもかけぬ申し出になんとお礼したらよいかわからないままにいた。

 これはもう、私の56歳と7ヵ月のお祝いにいただいておきます、とお答えしたところ、彼女にはピンときたらしい。その数字こそ、プロジェクト567のベースである。

 数年前から、そのことを予知して、私はなるべく自分のスケジュールをフリ―にしてきた。とくに、なりゆきで引き受けてきたボランティア活動などを、とりあえず一旦休止にしておいた。

 それはだいぶまえからの、自分の人生の組み立てでもあった。29歳、というタイミングと、56歳と7ヵ月、というタイミングは、自分の人生における大きな二つの敷居であった。

 そのことを意識した時、私の身の上に、このタイミングで何がおきるのか注意深く生活するようにした。他人にとってはたわいのないことだが、結構面白いことがいくつか身の上におきていた。

 ちょっと前に、車が壊れた。もっとも11年も乗っていた車だからいずれは壊れるとは思っていたが、このタイミングで壊れるかという劇的な壊れかただった。結局我が家にはベーシック・ハイブリッド車がやってくることになった。エコカー減税活用の、ホントの最後の最後のタイミングだった。

 あるいはケータイを変えた。すでに6年も使っていたケータイではあったが、仕事用の、しかも待ち受けを中心とした使い方であれば、古いムーバ機で十分なのであったが、どうやらムーバ機も終了するらしい。

 そんなタイミングで、スマートフォンに換えた。これがかなり格安に使える機種で、端境期に出現した結構本格的なアンドロイドだ。これがなかなか面白い。それこそポケットコンピュータ時代の到来だ、と思わせてくれた。

 図書館の利用も爛熟期を迎えていた。ネットワークのオンライン化も進んで、活用の範囲もかなり広くなった。「2001年宇宙の旅」のワンシーンに似ているので、中央図書館の閲覧室がえらく気にいりはじめていた。

 そんな時、ある土地の利用が浮上した。森の中のかなり広いスペース。そこにエコビレッジを夢想した。「森の生活」のイメージをほうふつとさせる。

 そして、春から分かっていたことだが、この出来ごとの中に加えるとするなら、私にはこのタイミングで孫ができる、ということであった。

 これらのことをランダムに並べてみると、どうもそれぞれ何かに対応しているようでもあるが、7が欠けていた。そして、さらに、このタイミングで起きたのが3.11である。そこで、7に3.11を加えてできたのが、次のような構図である。

1)エコビレッジ

2)ハイブリッド車

3)メディア・テーク

4)孫たち

5)スマートフォン

6)ホワイトターラー 

7)3.11

 かなりゴリ押しのガラガラポンなので、他人には何が何だかわからないだろうが、それはそれでいいのだ。いずれ、ひとつひとつについて書くこともあろう。この7つの要素をより関連化させて、活性化していくのが、プロジェクト567なのである。

 そして、大事なことは、1~7の中心は4である、ということである。

<20>につづく

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2012/01/24

日本人は何を考えてきたのか 第3回 森と水と共に生きる ~田中正造と南方熊楠 NHK Eテレ

0122
「日本人は何を考えてきたのか」 第3回 森と水と共に生きる ~田中正造と南方熊楠~
NHK Eテレ 2012/01/22
Vol.3 No.0603

 どうもスッキリしないので、車でお散歩。大型書店の中をあてどもなく歩き通す。もし3.11と宮沢賢治をつなぐだけでいいのであれば、もうこれは石寒太「宮沢賢治 祈りのことば」で決まりだろう。この本は、当ブログ2012年上半期の新書ベスト10にかならず入るだろう。分かりやすく、十分かつ、奥深く、読んでいて癒される。

 しかし、3.11と賢治とダイレクトにつないで、それだけでいいのか。スッキリはするけれど、なにかが大きくカットされてしまっているのではないか。そこで、中沢新一の「日本の大転換」を立ち読みしてみる。これは当ブログとしては未読であるが、気になる一冊ではある。いずれ精読するつもりではいたが、立ち読みレベルでは、どうもいまいち頭が重くなる。

 軽く切り替えて、梨木香歩の「西の魔女が死んだ」をぱらぱらめくってみる。先日DVDを見たかぎりにおいては、かなり関心を魅かれるシチュエーションではあったが、映画の出来としてはいまいちなのではないか、という印象を持った。原作はもっとすばらしいに違いない。

 だが、立ち読みのパラパラ読みにはあまり違いが感じられない。こちらもいずれは原作を読むとしても、今日のイライラは解消されそうにない。ちょっと気がついたのは、森の中の魔女の隣人のゲンジさんは、実はケンジさんで、賢治をイメージをしていたのではなかったか、ということ。そういう風に読んでいくと、なかなか意味深いゲンジさんではある。

 ネグリの「スピノザとわたしたち」をまたまた立ち読み。こっちもなぁ、面白いのだけど、読みきるには私の力量が足らない。それに、本当の意味で、今日のイライラを解消してくれる程の即効力がないのではないか。

 そんなこんなで、立ち読みするともなくウォーキングをするでもなく、オヤツを買って、ぶらぶらして帰宅。つまみ食いをはじめる。これはよくない兆候だ。こういう形で、いつもストレス太りが始まるのだった。

 読む気もないので、手もとの本は未読の分も含めて返してしまった。とりあえず読む本もない。テレビをつけて、つまらない国会ニュースを見る。ああ、もうどうでもいいよなぁ。スイッチオフ。

 ん、そういえば、先日録画していた分があったな、と、またテレビにスイッチを入れて録画を見た。ああ、これこれ、これで本日のストレスは解消されそうだ。

 出演者の一人は中沢新一。みんなテレビに出る時はやさしく説明してくれるのに、なんで本を書くとなると、あんなに面倒くさいことを書くんだろう。中沢の「日本の大転換」も、このテレビのレベルに書きなおしてくれるといいのに。

 中沢は先日、「現代思想2011/11」の中の「エコロジーの大転換」で、賢治とともに、南方熊楠と田中正造に触れていた。「緑の党らしきもの」の旗頭として掲げたいということだった。熊楠については、当ブログとしては、すこしづつ触れ始まったところ。

 あんまりめんどくさいことになるのは嫌だが、スッキリしないのも困る。この番組、なかなか面白いのだが、「日本人」としているところが気にいらない。なにか別な表現はなかったのか。次回は、幸徳秋水に触れるということなので、さっそく見逃さないように予約しておいた。

 それにしても思うことは、3.11後の賢治、という意味では、もう石寒太「宮沢賢治 祈りののことば」で決定でいいのではないか。これ以上深追いしている場合か。賢治は賢治で面白いが、ほどほどにして、当ブログなりに、もうすこしまとめておかなくてならない。特に「地球人スピリット宣言草稿」はどうなったのかな。

 そんなこんなを思いつつ、今日はすこし体制を調えるべき日となった。周囲にインフルエンザが蔓延し、すこしく微熱があるようにも思えるところが、イライラ原因の一つなのかもしれない。すこし休もう。

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2012/01/23

セロ弾きのゴーシュ 高畑勲監督 アニメ VHS

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「セロ弾きのゴーシュ」

原作宮沢賢治 高畑勲 (監督) 才田俊次 (デザイン), 佐々木秀樹 (出演), 1981 VHS アニメ 63分
Vol.3 No.0602★★★★☆

 かれこれ30年前のアニメ。監修に、宮沢清六、天沢退二郎らの名前が見える。VHSだし、すでに画像は擦り切れているが、よくもまあ、ここまで膨らまして一時間の作品にしているものだ。

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西の魔女が死んだ 梨木香歩 原作 DVD


「西の魔女が死んだ」
梨木香歩 原作 サチ・パーカー/高橋真悠/りょう/長崎俊一 2008/11 アスミック・エースエンタテインメント DVD 115分
Vol.3 No.0601★★★★☆

 森の風景がうらやましい。見たことのあるような景色がいっぱいでてくる。こんな風景の中で暮らせたらいいのにな、と思う。実際に、そのような風景を与えられたこともある。そこで暮らしたこともある。だが、そこには限界がある。

 森の中に家を建てることはできるだろう。だが、そこで暮らせるだろうか。夜も苦手だし、暗闇からどんな猛獣がでてくるかわからない。きっと人恋しくなるだろうし、虫も雑草も、苦手だ。結局、今の街中の暮らしがぴったりしているのだろう。

 不登校児の話だし、魔女の話だから、ちょっと方向性は違うが、でもこんな話もいいよなぁ。この森の中で、いろいろなドラマが展開する。

 先日読んだ大村紘一郎「八ヶ岳の空から 本当のしあわせを求めて --宮沢賢治と共に--」の中に、この映画のことがでていたから、さっそくDVDを借りてきたのだった。

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IT時代の震災と核被害 コンピュータテクノロジー編集部


「IT時代の震災と核被害」
コンピュータテクノロジー編集部編 2011/12 インプレスジャパン 単行本  390p
Vol.3 No.0600★★★☆☆

 この本もまたごっちゃ煮のオムニバス本だ。すでに表紙だけでも17人の名前が書いてある。苦手苦手と言いながら、なにもこんな本に手を出さなければいいのに、と苦笑いしつつ、やっぱり手がでてしまう。そしてやっぱりなぁ、と納得して、早々と本を閉じることになる。

 かつて、ウェブ関連は当ブログのお気に入りのテーマだった。そもそも、ウェブやIT関連がすきだったから、ブログを書き始めたと言ってもいい。それはいろいろな形で、いろんな局面で、いろいろ書いてきた。

 ただ、技術的に深いところにいくことができない自らの限界と、実際的には日常的な利用技術としては、もう十分なのではないか、ということで、いつの頃からか、急速に関心が薄れてきてしまった。

 ちょっと例えが違うが、車のダッシュ力とか、最高スピードとか、何馬力とか、限界に挑む研究が進んでいるうちは、面白そうだが、いずれ、それには限界が来て、やがてそのような研究は飽きてしまう。次には居住性とかスタイルとか、音響設備など、付加価値に関心が湧いてくる。しかし、それにもやがて限界がきて、環境性とかハイブリット性とかに興味が移っていく。

 それと同じように、ハードやコンテナとしてのITやウェブにはすでに飽和状態を味わっていて、情報やコンテンツとやらにも、限りなく手を広げることはできないのだ、ということも分かってきた。あえていうなら、当ブログは現在、コンシャスネスとしてのウェブを探索している、と言ってみたいのだ。

 そういう視点からこの本を見てみると、ひとつひとつは面白そうなのだが、こうも煩雑な情報の洪水を味わうと、とてもとても、最初から、うへ~と退散することになる。

 ITやウェブと震災は特にダイレクトに繋がるものではない。今回の3.11においても、一般に言われているほどには、ツイッターやフェイスブックの利用価値を見つけることはできなかった。生身の身体が、一番だ。近親者の安否を確認できれば、もうそれでいい。そんな感じだった。

 いくらITやウェブが発達しても、地震がおこらないようにはできない。いざ津波が起きてしまえば、あとはひとりひとりが逃げるだけで、IT機器やネット上の情報なんて役に立たない。もし役立つすれば、核被害の情報と、そこからの避難術かもしれない。

 読む人が読めば、この本もそうとうにおもしろいのだろうが、現在の私では、もう馬の耳に念仏、豚に真珠。興味の範囲はかなり離れたところに行ってしまっている。そういうことを再確認した一冊だった。

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3・11被災地子ども白書 大橋雄介


「3・11被災地子ども白書」
大橋雄介 2011/12 明石書店 単行本 214p
Vol.3 No.0599★★★★☆

 長すぎる地震が漸く収まり、建物の外に出ると、目の前に広がったのは戦争のような光景だった。同様した顔でぞろぞろ歩く人々の群れ、あちらこちらから聞こえる大音量のラジオ放送、白い煙をあげているビル群。空襲があったと言われても、何の違和感もなかったと思う。p3「はじめに」

 被災時、著者がいた市内の「官設市民営の古い施設」と、私がいた築2年の高層ビルは背中合わせの隣のビルだったと思われる。。こちらもかなり揺れたが、「戦争」だとも「空襲」だともおもわなかった。単に「地震」だと思った。それだけ、私はラッキーだったのだと思う。

 この本、同じ傾向の「ポスト3・11の子育てマニュアル」と並べて見た場合、こちらのほうが、一人で書かれている点、現場に行って一人一人の言葉を拾っている点において、優れていると思われる。

 また自己宣伝に終始してしまった「3.11大震災大学には何ができるのか」に比較した場合でも、テーマを、子どもと地の巻(つまり津波被災)に絞り込んだがゆえに、一冊の本としてはまとまりがよく仕上がっている。

 NPOや白書、というイメージからは程遠い、ほとんど一人での活動だけに、内容を限定せざるを得なかった、というのが本音だろうが、むしろ、この場合、一人の人間にできる範囲はどのくらいのことなのか、ということが分かるだけ、実に原寸大のレポートとなっているようだ。

 市内の被災地にアンケート用紙を持って訪れる、という調査方向の限界性もあろうが、その限界性ゆえに、それぞれの結果に納得のいく結果が現われている。子ども達がどのような状況におかれているか、という、民間の、プライベートな「白書」ができあがったのではないだろうか。

 しかし、それぞれの立場があり、私にはこの調査結果をうまく実際の生活に活用しきれない嫌いがあるので、★4つの評価とさせていただく。人によっては、この調査が実に役立つ人もいるに違いない。

 2011年8月26日に、多くのものを残し、たくさんの人に惜しまれながらこの世を去った加藤(哲夫)さんのご遺志を少しでも受け継ぎ、市民が市民を支える社会に向けて、微力ながら尽力していきたいと意を新たにしています。p214「あとがきに代えて」

 加藤氏のお別れ会には私も参加してきた。福島県出身だったので、自身も何事かやり残しての人生であっただろう。著者もまた1980年、福島市生まれ、ということだから、何事かの繋がりを感じたことだろう。

 もちろんこの「白書」ができあがるまでには、多くの人々の協力を得てはいるのだが、視点がスッキリしているので、混沌とした状況にあった3.11天地人の森羅万象の中に、シンプルにボーリング調査をし得ているように思われる。

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3.11大震災大学には何ができるのか 大正大学編集


「3.11大震災 大学には何ができるのか」 
渡邊直樹責任編集/多田孝文監修 2011/12 平凡社 単行本 253p
Vol.3 No.0598★★★☆☆

 3.11に関する複数の人々がガチャガチャ言ったことを乱雑に一冊の本にまとめてしまうというオムニバス形式の本は、たくさん流通していて、当ブログにおいては、その形式というだけで、すでに減点の対象になっている。

 3.11も、天の巻としての地震、地の巻としての津波、人の巻としての原発、いずれかにテーマを絞っていかないと、ただただ、みんなでわあわあ言っているだけで、すべてにおいて無駄であるばかりでなく、何の役にもたたないことが多い。

 天の巻としての地震については、これ、どうしようもない天の摂理であり、また、地球上、どこにいても遭遇する可能性があるのであり、それは昼がやってきて夜が来るように、春がきて、秋が来るように、常にそういうことがあるのだ、と覚悟しながら生きていなかくてはならない。生を受ければ、死もまたある、というのと同じくらい、必然として受け止めなくてはならない。

 地の巻としての津波に関して言えば、例えば飯沼義勇のような人だけが、それを感知し予知することができるのであって、人生80年としても、その人間サイズでは計り知れないものも確かにあるが、沿岸部に生きている人々は、常にその備えを行ってはならない。少なくも地震は津波の前ぶれであり、津波が来るまでには多少のタイムラグがある。

 人の巻としての原発については、これはすべて人類がもたらした被害なのであり、すべての警告を無視した形で暴走してきた推進派ばかりではなく、それを止めることができなかった不安派、反対派も、一人間として、ひとりひとりが猛省しつづける必要がある。

 さて、この本は「大学」をキーワードにしているが、実際には「大正大学」がキーワードなのであり、宗教大学としての大正大学には何ができるのか、というテーマになっている。それは、「3.11」を冠せずとも、普段から問われ続けられていなければならなかったテーマでもある。

 本来「宗教」であるならば、3.11天地人の中においては、もっとも天の巻について述べられてしかるべきだと思うが、実際には、地の巻について語られていることのほうが多い。天の巻にも触れてはいるが、死者を葬る儀式やシステムに関してに留まっている。また、人の巻に関しては、一部を除いて、原発の是非を問うことは迂回している。

 3.11、その時あなたは何をしていたか、というテーマは、被災地にいって、ただただシャッターを押し続ける脳なしカメラマンたちの作品同様、それなりに量産できる手法ではあるが、結局はあまり意味のないゴミが増えるだけでもある。

島薗(進) それから、結局科学の目的ですよね。科学者はなんのために核開発をしたのか、ていうことをやっぱり考えるべきときにきていると思いますよね。つまり、なんでも知りたいこと、できることをやっていいのか、っていうことですね。p62「座談会 大学、仏教、宗教者は災害に何ができるのか」

 島薗進の著書はそれなりに当ブログでも目を通してきているが、その専門である宗教社会学とやらの分野において追いかけているのは、いわゆる新新宗教といわれる分野の「落ち度」についてである。可能性や実績については、積極的には評価できない体質なのがこの人とその門下である。

 ここで島薗が、いかにも良心的に反原発的な発言をしているが、これは後だしジャンケンも甚だしい感じがする。あれだけの発言の機会があるのだし、以前からそのような立場を表明していたのなら、今回の発言の重さも違っていただろう。当ブロブにおける一連の彼の本に対する親和性ももっと深いものがあったと思う。ましてやここにおいて大正大学あたりと結託してこんな座談会に登場すること自体、奇異な感じがする。

 震災直後に、大学ボランティアの張り紙をして活動している車も見かけたし、東京の大学の門前に「震災ボランティア本部」などの立看を見つけたこともある。被災地の大学がボランティアセンターとなって活動の拠点を提供したところもあったし、以前より地震のメカニズムや避難方法を提供し続けた研究者たちも多い。

 「3.11大震災大学には何ができるのか」という大きなテーマではあるが、この本はテーマが絞り切れていない。3.11とはなにか。大学とはなにか。何ができるか。これらひとつひとつが重いテーマであり、この本は所詮「合格祈願オクトパス君」販売を含めた大正大学関係者の活動報告書でしかない。

 翻って、じゃぁ、当ブログにおいては、これらのテーマにどう対応していけばいいのか、ということを考えておかなければならない。

 まず、人の巻でいえば、3.11と原発は無関係なことであり、3.11が起きなくても、原発事故はすでに多くの「悪」を積み上げているわけだし、3.11とは切り離して考えなくてはならない。現場の人々の猛省を求めるとともに、彼らの暴走を許してきた自らの生き方を再チェックしつづけていく必要がある。

 地の巻においても、たとえば結城登美雄のように以前から東北ウォッチャー、あるいは沿岸部ウォッチャーであったような人以外、そう簡単に東北沿岸部の抱えている難題を理解できるはずがないのである。3.11とは切り離して、大きな独立したテーマとして支えていく必要がある。

 当ブログは、もっとも大きなテーマとして天の巻に一番の関心がある。超えようとして越えられないもの。3.11にとどまらない、さらにその向こうの向こうに連なっていく何事か、そこのところに目を向けていくことこそ、一番の眼目である。3.11とは、本来、天の啓示として受け止められるべき事象の一つであろうと思われる。

 この本もまた、大学、などと濁さずに、本来の意味で、宗教には何ができるのか、本来の意味で、宗教とはなにか、を問うべき一冊であったと思う。一大学や、一宗門からの、矮小な活動報告はすべきではなかった。

 ボランティアという意味では、無数の人々が関わっている。自らの活動は秘すとも、まずは、他者の活動のひとつひとつを取り上げてこその、宗教活動ではなかったのか。率先して、自ら行った「善業」を並べているあたり、まだまだ本物の宗教には成り切れていないのではないだろうか。

 

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2012/01/22

THE DAYS AFTER 東日本大震災の記憶 石川梵


「THE DAYS AFTER」 東日本大震災の記憶
石川梵 2011/06 飛鳥新社 単行本・ムック 
Vol.3 No.0597★☆☆☆☆

 フリスビー犬、被災地をゆく」(東日本大震災、写真家と空飛ぶ犬、60日間の旅)にあまりに違和感を感じたので、こちらも見ることにしてみた。いろいろ考えてみたが、やはり、この一冊も当ブログとしてはDランクに属する一冊と断定せざるを得ない。

 セスナによる空撮の機会を与えてくれたのは「週刊現代」であるということもわかった。発売中の週刊誌にライフワークのひとつとして「地球の鼓動」というグラビアを掲載していることもわかった。だから、3.11直後にセスナ機で空撮できたのだ、ということはわかった。

 だが、一読者としては、この写真集はやはり、おかしい、と思う。

 この写真集が発行されたのは、震災後3ヵ月が経過した段階。この時点では、私はまだ週刊誌を見る気分にならなかったし、週刊誌を売っている書店も十分に開いていなかった。図書館ネットワークだって復興していなかった。

 この時点で、ハードカバーのグラビア写真集が出版されたことに、「被災地」の一人として、違和感を感じる。

 どうして「THE DAYS AFTER」という、かつての映画作品のタイトルを連想するようなタイトルがつけられたのだろう。どうして英語なのだろう。

 どうして、写真の説明がkesennuma とか minamisouma などとアルファベット表記されているのだろう。これは、外国向けに作られた一冊なのだろうか。

 被災地の個人名や写真、映像が、無造作に商品されていることに、罪悪感は感じないのだろうか。小学生の名札とか、結婚式の写真とか、車のナンバーとか、個人情報が、無造作に写されている。

  そして、どうしてだろう、と思うことは、この写真集が市内の図書館に所蔵されることになったのはともかくとして、早くも「書庫」行き、となっていることである。

 図書館としては、決して無駄な出費はしていないだろう。必要があると判断して購入したのならば、もっと市民に閲覧して、元をとることを考えるだろう。しかしながら、どうして、出版からわずか半年も経過しない段階で、この写真集は、「書庫」行きとなっているのだろう。

 これは、図書館スタッフが、私と同じような印象をもったからだろう、と私なら判断する。

 写真集としても、いちまいで、ハードカバーに綴じられなければならないような写真など一枚もない。感動をともなうような、重要なこれしかない、というような記録でもなければ、もちろん美的でもない。

 これは失敗作の一冊であるし、何故この写真集が失敗したかと言えば、その時、そうだったというより、普段から、この写真集を生み出すシステムが、こうだったのだ、というしかない。

 報道機関も、写真家も、猛省すべきであろう。

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2012/01/21

南方熊楠 萃点は見えたか・・・  谷川 健一/監修 VHS


「南方熊楠 萃点は見えたか......」 学問と情熱1
室田 日出男/ナレーション 谷川 健一/監修 1997 紀伊國屋書店 VHS 38分 
Vol.3 No.0596★★★★★

 自分の図書館利用技術もまだまだだなぁ、と思う。特に視聴覚資料の利用はぜんぜんなっていない。ようやくネットから取り寄せることのできる資料は増えたが、実は、所蔵館からしか借りることのできない資料もまだまだたくさんあるのだった。

 ということは、まずは最寄りの図書館の現物をもっとゆっくり見ることから始めるべきだろう、とようやく気がついた。そこで、なにげに目に入ったのが南方熊楠。彼もまた当ブログがやがては超えていかなくてはならない、大きな峰だが、なかなか手がつかない。

 ようやく先日「南方熊楠と龍 十二支考 1 」に手をかけたところだが、この本とて自室に何十年も眠っていた本である。面白いのは分かるのだが、あの難渋さを手にとるのは、なかなか気が重い。

 そんな時、ビデオで38分間の映像を見るのは楽しい。だいたいのストーリーは分かっていたとは思っていたのだが、昭和天皇が、熊楠に粘菌の講義の進講を所望し、その碑まで建っていたとは驚いた。

 賢治は、鉱物の世界から銀河の世界へと、ミクロとマクロを繋いでいたが、こと地球レベルとなると、エスペラント語を習っていた程度で、かならずしも外国語で自らを表現しきれていたとは思えない。

 かたや熊楠は、賢治に先駆けること数十年でありながら、活動拠点を海外にもち、外国語での表現をすることができた。ロジャ-・パルヴァ-ス「英語で読み解く賢治の世界」でみるように、賢治がもし英語が使えたら、という過去の可能性を考えてしまうが、熊楠は違う。

 柳田国男と親交をもちながら、遠野の民話などドメスティックな民俗にターゲットを絞りこんだことに対して、熊楠は激昂する。それでは地球レベルの視点は生まれないと。今となっては、その時代性を考えると、どちらもどちら、としか言えない部分があるが、2012年の現在、熊楠は、もっともっと学ばれる必要がでてきている。とくに当ブログでは読み進めなくてはならない、と思う。

 「みどりの党・・みないなもの」を熊楠と連想する夢想する中沢新一にしても、戯曲集で100の中から選びとった作品の中に熊楠を登場させる石川裕人にしても、熊楠に対する想いは熱い。

 今かかえているテーマがすこしづつ片付いたら、こちらのほうにすこしづつすり寄っていってみよう。それにしても、視聴覚資料活用は大いに役にたつ。

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八ヶ岳の空から 本当のしあわせを求めて --宮沢賢治と共に-- 大村紘一郎


「八ヶ岳の空から 」本当のしあわせを求めて --宮沢賢治と共に--
大村紘一郎/著 2011/10 山梨ふるさと文庫 単行本・ムック p209
Vol.3 No.0595★★★★★

 一つは、賢治の唯一の心友と言われる保阪嘉内の取り持つ縁である。嘉内は、山梨の出身だった。同じ稗貫農学校に入学し寮で語りあかした。著者は山梨出身で教育に携わる傍ら賢治ワールドに思いを馳せる。

 生徒へ配布していた資料をまとめたものだから、どうしてもテーマは多義に渡ってしまうが、脱稿した直後に3.11が起こり、急きょ書き直したと思われる。出版社も山梨ふるさと文庫という地方のマイナーなところからでているので、地域が絞られがちだが、テーマそのものは3.11と賢治を繋いだものとなっている。

 ダイレクトに3.11と賢治をつないだものとしては、石寒太「宮沢賢治祈りのことば」という本を見つけたが、そこから波及する広い世界観と言う意味では、この本も感動的である。出自が真面目で、誠実で、清廉潔白で、教育的である。

 へそ曲がりな当ブログとしては、そこだがだんだんと窮屈になってはくるのだが、この本から波及する視線は数多い。

 梨木香歩の小説「西の魔女が死んだ」には「うん、簡単だよ。みんなで、だれか一人を敵に決めればいいんだもの」というセリフがでてきます。
 宮沢賢治が小学生の時にもいじめがったそうです。赤いシャツを着て来る同級生をみんんがからかってはやしたてたのです。その時賢治は「おれも、赤いのを着てくるからな」といって、その子をなぐさめたといいます。
関登久也「宮沢賢治物語」よりp50「『西の魔女が死んだ』---自分で決める力」

 小学生の頃は、どちらかと言えば、いじめっ子のほうで、他人の痛みが分かりにくい子どもだったと思われる私には、ちょっと耳が痛い話ではある。関登久也も読み直したいし、梨木香歩は奥さんのジャンルだが、次のカテゴリ当たりから読み進めたいリストの中にある。このタイトルは映画にもなっていて、図書館にもあるので、近日中に視聴したい。

 ウロウロしていると、当ブログ本来の焦点がボケてしまいそうだ。次から次と、面白そうなテーマが湧いてくる。その前に、当ブログの現在のカテゴリである「地球人スピリット宣言」の意味するところを、早急にまとめてしまわないといけないのではないか、と思う。

 <ある点>をとれないことが<悪>ですか。<ある高校>に学んでいることが<劣>ですか。<ある家>に生まれたことが<不幸>ですか。
 どういいわけしたとしても、私たちの本音には、社会階層の上へ伸びよ、大多数の中の限られた上の方の小数になれ、という方向だけが突出していて、その方向には明るい日が照っていて希望が持てる気がしますが、逆の方向は真っ暗闇で希望など持ちようがない、という観念操作が働きませんか。
 一握りのエリートを生むために、多くの人間が負い目を背負わされるという社会に、人間の尊厳というものがいったいあるのでしょうか。
p194「教育と震災を考える」

 賢治がなくたって、3.11がなくたって、あるいは、教育者という仕事に就かなかったとしても、この人はこの人の感性で人生を送ったであろう。そしてまた賢治と出会い、教育者となり、3.11と遭遇することによって、やはり、このような本を書くことになったのであろう。

 実に必然性があり、説得力があり、具体的であり、今日的な一冊である。私は、この本から、10も20も、話題をつないで日記を書くことができると思う。

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2012/01/20

風の又三郎/ガラスのマント 伊藤俊也/監督 VHS

Photo
「風の又三郎/ガラスのマント」 
宮沢賢治/原作 伊藤 俊也/監督 1989 朝日新聞社 VHS 107分
Vol.3 No.0594★★★★★

 何も知らずに借りてきた一本。これは映画館用の映画だったようだ。風の又三郎と名前はついているが、原作を大きく膨らましてある。賢治ワールドを映像化するとこういう世界になるか、というサンプルだが、どちらかと言えば、寺山修司の世界がかぶさっているようにも思える。

 又三郎の世界というと、どちらかと少年の世界を連想するが、この映画では女の子かりんが主人公。ジョバンニとカンパネルラの友情というより、むしろ、賢治とトシの精神的な絆を連想する。セロ弾きのゴーシュも、銀河鉄道の夜もかぶっている。石こ賢さんもでてくる。

 この映画、どういう経緯でできたのだろう。賢治ワールドに誘いこまれると、こんな映画ができるようになるのだろうか。

う~ん、名作だね。

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英語で読み解く賢治の世界 ロジャ-・パルヴァ-ス/上杉隼人


「英語で読み解く賢治の世界」 岩波ジュニア新書
ロジャ-・パルバ-ス/上杉隼人 2008/06 岩波書店 新書 212p
Vol.3 No.0593★★★★★

 賢治をグロービッシュのような簡単な英語で読めればいいのにな、とは思うが、そうはいかない。そもそも、日本語であったとしても、賢治の世界は必ずしも容易に読みこなせない部分が多い。一般に難解だ、と言われている。

 ゲーリー・スナイダーも賢治を英訳して欧米に紹介したとされているが、かならずしも本格的に取り組んだとは思えない。現在のところはこのロジャ-・パルバースがその役を担っているように思う。

 NHKテレビ100分de名著「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」に出演したことで一段と身近に感じれるようになったロジャ-・パルバース。この本において、賢治を英訳するというだけでなく、英訳する段階においての賢治理解が、さらに緻密な賢治ワールドを表出させる。

STRONG IN THE RAIN

Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow
He is healthy and robust
Free from all desire
He never loses his generous spirit
Nor the quiet smile on his lips
He eats four [go] of unpolished rice
Miso and a few vegetables a day
He does not consider himself

In whatever occurs....his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things

He lives in a little thatched-roof hut
In a field in the shadows of a pine tree grove

If there's a sick child in the east
He goes there to nurse the child
If there's a tired mother in the west
He goed to her and carries her sheaves
If someone is near death in the south
He goes and says, "Don't be afraid"
If there are strife and lawsuits in the north
He demands that the people put an end to their pettiness


He weeps at the time of drought
He plods about at a loss during the cold summer
Everybody calls him "Blockhead"
No one sings his praises
Or takes him to heart....


That is the kind of person
I want to be           p3「賢治の祈り」

 「雨ニモマケズ」は比較的英訳しやすいだろう。それにしても、なるほど、Strong in the rain というのはなかなかいい感じ。だが「春と修羅」などになると、かなり難しい。英訳も難しいだろうが、読むほうもなかなか難しい。高度な想像力を要求される。

 それでもなお、逐語的に解説が入るので、英訳というより、よりよい賢治の解説本となっている。

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2012/01/19

OSHO ZEN TAROT<28>PARTICIPATION(参加)

 

 

 

Zen042participation  <27>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <28>

 

41. PARTICIPATION(参加)

 

 あなたは、夜が去っていくのを見たことがあるかね? 毎日起こっているものごとにさえ気づく人びとは、ごくわずかしかいない。あなたは夕闇がやって来るのを見たことがあるかね? 真夜中とその歌を? 日の出とその美しさを?

 私たちはほとんど目が見えない人たちのように振るまっている。こんなに美しい世界にいながら、私たちは自分たちの惨めさという小さな池で生きている。その池にはなじみがある。だから、誰かがあなたを引き上げたいと思っても、あなたは逆らう。

 

 あなたは自分の惨めさから、自分の苦しみから引き出されたくないのだ。さもなければ、まわりじゅうにひじょうに多くの喜びがある。あなたはただそれに気づき、観客ではなく参加者になればいいだけだ。

 哲学は空論、禅は参加することだ。夜が去っていくのに参加するがいい、夕闇がやって来るのに参加するがいい、星たちに参加し、雲たちに参加するがいい。参加することをあなたのライフスタイルにすれば、全存在が素晴らしい喜び、素晴らしいエクスタシーになる。

 より良い宇宙など、あなたは夢にも思っていなかったはずだ。
Osho Zen: The Miracle Chapter 2 

 

解説: 

 

 このマンダラの人物はそれぞれ左の手のひらを受け取る姿勢で上に向け、右の手のひらを与える姿勢で下に向けています。このサークル全体が途方もないエネルギー・フィールドを創りだし、二重の"ドルジェ"、稲妻を表わすチベットのシンボルの形を取っています。
 
 マンダラは、ブッダのまわりに形づくられるエネルギー・フィールドにあるような質をもっています。そのエネルギー・フィールドでは、統合され活気に満ちた全体を創造するために、サークルの一端を担っている個人全員が、それぞれ独自な貢献をしています。それは、花の各部分を合わせたよりも花全体のほうがさらに美しいと同時に、個々の花びらの美しさをも強めている、そういう花に似ています。

 ほかの人たちといっしょに参加し、個人それぞれが独りで成し遂げられるものよりもっと大きく、もっと美しいなにかを創造することに貢献する機会が、今あなたに訪れています。あなたが参加すれば、それはあなた自身をはぐくむだけでなく、全体に対して貴重ななにかを貢献することにもなるのです。
Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

<29>につづく

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2012/01/18

「ゲド戦記」 アニメ版 DVD <2>


「ゲド戦記」 <1>
岡田准一(OKADA JUNICHI)/手嶌葵(TESHIMA AOI)/菅原文太(SUGAWARA BUNTA) 宮崎吾朗(MIYAZAKI GORO) 2007/07/04 ウォルト・ディズニー・ジャパン DVD 115分
Vol.3 No.0592★★★☆☆

 アニメか。最近ようやく見た「ナルニア国物語」とか「ロード・オブ・ザ・リング」と比べると、雰囲気は似ているようにも思うが、こちらはアニメだけに、動きが滑らかではなく、紙芝居的にさえ見える。それは仕方ないことなのか。

ことばは沈黙に
光は闇に
生は死の中にこそ
あるものなれ
飛翔せるタカの
虚空にこそ
輝ける如くに

 ----「エアの創造」---

 巻頭言。うん、なかなかいい詩だな。

 宮崎吾朗第一回監督作品となっている。なるほど、息子のほうか。いつものジブリ作品とは、すこし雰囲気が違うわけだ。

 以前に「ゲドを読む。」という宣伝用の文庫本をよんだことがある。今回、ようやく「ゲド戦記」を見ることができたというわけだ。やれやれ。

 伝説、龍、少年、少女、魔女、魔法、チャンバラ、城、廃墟、これら一連のファンタジー作品には、欠かせないアイテムがいくつかある。これらの要素が組み合わさって、物語ができている。意識の中に、ある同じシナリオが組み込まれてでもいるようだ。

 それを無意識とか、集合無意識の中、ということもできるだろうし、あるいは、集合超意識の中、ということもできるだろう。あるいは、これらをもっと精選して宇宙意識へと昇華することも可能であろう。

 うちの奥さんは、これはダメだね、と言っている。ゲド戦記は5作あるのに、この映画はその5作をごっちゃにしているので、訳がわからなくなっている、という。原作を知らない私は、こんなものかな、と思ったが、どうもそうでもないらしい。

 セリフももっと重いのに、それが表現されていない、という。う~ん、適当にアニメを見てやり過ごそうと思っていたが、いつかは原作を読まなくてはいけないなぁ。

<2>につづく

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フリスビー犬、被災地をゆく 東日本大震災、写真家と空飛ぶ犬、60日間の旅


「フリスビー犬、被災地をゆく」東日本大震災、写真家と空飛ぶ犬、60日間の旅
石川梵 2011/12 飛鳥新社 単行本 159p
Vol.3 No.0591★★☆☆☆

 この本の評価は、立場によって大きく変わるだろう。内容はタイトルとサブタイトル、そして表紙を見れば大体わかる。それ以上の説明もできるだろうが、説明は必要ないだろう。内容は、第一印象とそれほど変わりはない。

 功罪半ばする。いきなり功罪とは、あまりにも唐突だが、そんな言葉さえ、私の頭の中ではリフレインする。まず功だが、まずは記録として鮮明な画像が何枚かは残されたことになる。犬好きの人にとっては、犬に触れることによって、セラピー効果があったかもしれない。あるいは、すくなくとも、より多くの人が被災地に思いをよせ、このような形での関心の持ち方もあるのだ、という事実の確認にもなるだろう。

 そして、罪だが、いきなり罪とは言えないが、少なくとも、一読者としての私にはマイナス要素と思えることがいくつかある。それは、著者を客観的に評価した場合、ではなく、自分と比較した場合、こうなるだろう、という範囲に留まる。

 まず、私はカメラマン・マインドを持っていない。被災地にも足を運んだが、シャッターは押していない。ここではシャッターを押すべきではない、と思ったから、一切シャッターは押さなかった。カメラを持っていなかった訳でもなく、画像として残すべき風景がなかった訳でもない。

 自分の側にも甘えがあった。私が撮らなくても、誰かが撮るだろう。仮に「いい写真」ができたとしても、それが何だというのだろう。それは何を記録することになるのか。その写真から何が生まれるというのか。

 おなじ写真集でも「その時、閖上は 小齋誠進写真集」に対する、当ブログの評価は高い。たまたま駅から自宅まで戻るバスに乗り合わせた写真家が、たまたま持っていた高感度カメラで、地震がやってきて倒壊した街並みを撮影していた。そして、その後、数十分後には、津波がやってきて、その倒壊した街並みそのものを消してしまった。

 その町には、写真家自身の自宅があり、その自宅の変化を何枚かの写真によって記録として残してもある。写真家ならではの作業であり、ほぼ自費出版のような形で提示されたことにも、なにか共感をさそうものがある。

 しかるに、こちらの作品は、タイトル通りの内容である。それ以上でも、それ以下でもない。ある意味ふざけている。その、おふざけを、ジョーク、ユーモア、癒し、不謹慎、モノ好き、野次馬、目立ちがりや、変態、悪趣味、火事場泥棒、などなどと評価することも可能であろう。

 いや、私の頭の半分は、そういう評価で埋まっている。しかしまぁ、ここは、そうストレートに表現しておくべきでないだろう。ここで問われているのは、写真家ではなく、写真集を手にしている私自身なのだ。冷静になる必要がある。

 都心にいた私は、翌朝、自宅のある町田へ帰宅した。その足で調布飛行場へ直行し、セスナをチャーターすると、空か被災地の撮影を行った。p015

 すぐセスナをチャーターできるという立場にあるとはどういうことを意味しているのかは私には直ぐには理解できないが、すくなくとも、この写真家は被写体の状態に依存した写真家であるようだ。比較するとすれば、かたわらの何気ない風景や事物に、新しい発見をする写真家もいるのではなかろうか、という思いがあった。

 写真家として私がやるべきことはただ一つ、とにかく現場へ行くことだ。調布飛行場から自宅に帰り着くと、とるものもとりあえず、深夜、バイクにまたがると、一人東北を目ざした。p015

 まるで、特ダネでもあさっているような風景だ。その東京や、それこそ地元の町田市にだって、大きな変化があっただろうに、一番目立つところだけを切り取ろうとしている。

 13日に福島に入り、相馬市を訪れたのは14日だった。p016

 まさに、フリスビーを追っかけているのは、ボーダーコリー犬ではなくて、カメラマン本人だ。餌が欲しいのか、芸そのものが楽しいのか、とにかく、はしゃぎ回っているのは、カメラを持って、歯をむき出しにして、舌をベロベロしている写真家本人だ。

 その姿を見ていると、やるせない気持ちが湧いてくる。私は何をしているのだろう。みんな自分の務めを果たそうと懸命に働いている。いい大人が、自分だけ逃げていいのか。p019

 逃げる、というより、自らがその渦中に飛び込んでいったのだから、逃げる、という表現さえ当たらないだろう。怖いもの見たさに、洪水の時に、わざわざ川の増水を見に行くような行為なのだから。逃げる前に、近づかない、ということのほうが正解だったのだ。

 当ブログもまた、このような「危なっかしい」写真集に「近づかない」ほうがいいようだ。別に「逃げる」気もないのだが、なにはともあれ、3.11を語った新刊本コーナーには、このような程度の質の出版物もあるのだ、ということはしっかりメモしておこう。

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地域学への招待 京都造形芸術大学/中路正恒


「地域学への招待」 
京都造形芸術大学/中路正恒 2005/05 角川書店 全集・双書  334p 改訂新版2010/03
Vol.3 No.0590★★★★☆

 「ニーチェから宮沢賢治へ」がなかなか面白いネーミングだったので、中路正恒追っかけをしてみようと思ったが、彼の著書はそう多くはない。この本にも名前がでているが、編集責任者としてであり、全体の構成と、いくつかの彼自身の文章が含まれている。

 この本は京都造形芸術大学通信教育部の「地域学」の教科書として構想されています。「地域学」という言葉は最近人の口に上ることが多くなりましたが、「地域学」はまだ明確な学問になっているとは言い難いところです。

 「地域学」とは何かということすらまだ明確な規定がなされているとは言えません。しかしそれに携わる多くの人々の共通して理解していることは、地域を、中央との関わりにおいてではなく、むしろその地域に根をおいた仕方で明らかにしてゆこうということです。

 地域に根をおいた研究のためには歴史学とか民俗学とかの特定の学問だけでは不十分で、そのためにそれぞれが諸学の成果を総合して研究してゆかなければならないということも大体共通して理解されています。

 従って「地域学」とは地域を地域に根をおいた仕方で明らかにしてゆこうという総合的な研究の試みだということは言えるでしょう。p004中路正恒「本書の趣旨」

 私も大学の通信教育部に籍を置いたことがあるので、どのような人々が、どのような希望をもってその学びの場に臨むのか、わかるように思う。「学」への憧れ、必要性、そして「学」への疑問も抱えている。

 ましてや「地域学」という「学」の試みが、はて、どれほどの妥当性があるのか、例えば結城登美雄の「地元学」との比較と考えてみると興味深い。

 「地元学」とは、そうした異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする。理念の正当性を主張し、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うのである。暮らしの現場はいっきに変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである。
 地元学は理念や抽象の学ではない。地元の暮らしに寄り添う具体の学である。
結城登美雄「地元学からの出発」p14「地域が『ぐずぐずと変わる』ための『地元学』」

 両方に「学」がついているが、かたや大学のカリキュラムとしての「学」であり、かたや「暮らし」の中の学びである。「地元学は理念や抽象の学ではない。地元の暮らしに寄り添う具体の学である。」という言葉が重い。

 周囲を見回しても、東北学とか仙台学などの言葉が目につく。初期的には、おっ、と魅力を感じるのだが、どこかその関心が持続しない。ちょっと違うぞ、といつも思う。中路は、東北学などの文献などにもでてくるが、さて、その兼ね合いはどうなのだろう。

 老人大学だの駅前留学だのと、割とお気軽に「学」が流通しているが、地元学の「学」は、こちらにやや傾いている。だが、真面目さにおいて、その必要性において、地域学の「学」に勝るとも劣らない真摯な学びの姿勢がある。学びというよりは、「生きる」というほうに傾いているだろう。

 宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」とか「羅須地人協会」などのネーミングも、必ずしも「概論」とか「協会」という構成要素を満たしていたものではなかった。そこには憧れや必要性はあっただろうが、敢えていうなら、それらはほとんど未完のまま消えてしまったものだった。

 当ブログにおいては、主にネイティブ・アメリカンへのアプローチを中心とはしていたが、「チェロキー」とか「アンソロポロジー」とかのカテゴリーで地域学や地元学と言われる領域への接近を図ってきた。あるいは、「アガルタ」や「レムリア」、そして「環境心理学」などのカテゴリもその延長線上にあった。

 しかしそれらは、当ブログとしては未完、というより未発進のまま、進むべき方向性すらまったく見えない状態であった。ほとんど放置してある。そして、それらは、「地球人として生きる」というカテゴリへと繋がっており、当ブログとしては、細かい「学」よりは、「地球人として生きる」というリアリティの方が、よっぽど大事なことなのではないか、と思えたのだった。

 この「地域学への招待」は中路追っかけの中で開いたので、他の人々の文章は割愛したが、坂下一郎の「『黒いヒゴ』について」(p218)などは、同じ仙台平野の竹細工のことについてなので興味惹かれた。あるいは鎌田東二の「鎮魂という人々のいとなみ」も読まずには通過できなかった。

 そして、終章である第4章の「地域学への実践へ--地球的観点から」で再び鎌田東二が登場し、「アメリカン・スタンダードとローカリティ」の中で、宮沢賢治、南方熊楠とならべて山尾三省を論じている部分には大いなる共感と共に、妥当性を感じた。

 山尾には、宮沢賢治や南方熊楠同様、アニミスティックでしかもコズミックな存在論的な感覚があった。そしてまた、地域性を最も尊重してきた先住民の智慧の生活に対する深く真摯な尊敬(リスペクト)の感情を抱いていた。p280鎌田「ローカリティの自覚と『地球即地域』学への試み」

 最後の最後に中路が「地域学と芸術する人間---ヘルダーリン・宮沢賢治・芸術」(p299)で締めている。

 「人間は詩人的にこの大地の上に住んでいる」と言うとき、ヘルダーリンはこの「人間」において「人間はみな」と言おうとしたのであろうか。おそらくその通りである。p308中路「忘却に抗してとどめられるもの」

 当ブログなりの言い方なら、「人間は大地の上に立っている」という感覚であろう。「詩人的」であったり、「芸術的」であったりすることより、「人間的」であることの方が優先すると思われる。そして、「住む」とか「棲む」より、「立つ」の方によりリアリティを感じる。

 われわれは「住みこと」を、そこに子々孫々にわたって定住しようとすること、そのようにある土地に固く束縛されて生きることとは違ったこととして考えてゆきたい。「動くことを前提とした「住むこと」である。それこそがより「この大地の上に住む」ことになるのではないだろうか。

 そのような住み方と生き方があるのではないだろうか。そのような生き方を、芸術をもって地域に生きることの学として、われわれは探究してゆきたい。p313中路「住む・動く・大地・芸術」

 「地域」とは勿論子々孫々にわたって定住していかなければならないものではない。宮沢一族は、花巻において宮沢まきと言われる富裕な一族ではあったが、数代前に京都から流れてきた商人の子孫であると言われている。山尾三省だって、最初から屋久島にいたわけではなく、東京で育ったのだが、その父親は山陰から出てきており、祖母などはその地に残っていた。

 熊楠の出自はまだ調べていないが、生まれた和歌山の地に留まりつづけていた訳ではない。アメリカやイギリスなど外国に渡って活動している。地域とは、「住む」場所というよりは、感知しうるエリア、というニュアンスの方が正しいのではないだろうか。

 小中学校などで「学校と親と地域が一体となって」などと語られる場合は、子どもたちが通学する通学圏が「地域」と認識されるであろう。地方に誘致された工場などが「地域貢献の為に開業する」などと言う時は、従業員が通える範囲、あるいは、下請け工場などの散在できるエリア、あるいはその経済効果の波及するエリアを「地域」として漠然と意識しているであろう。

 さて、地球の上に立つ一人の人間において「地域」とはなんだろう。宮沢賢治や南方熊楠と同列に山尾三省を語ることはやや時代錯誤ではないか、と思う。1867年生まれの熊楠、1896年生まれの賢治に対し、1938年生まれの三省では、「地域」という概念の捉え方は違っている筈なのである。

 賢治の「なめとこ山の熊」にでてくる熊捕り名人の小十郎にとっては、熊の出て来る近くの山や、たまに熊の毛皮と胆を売りに出ていく「里」あたりまでが「地域」なのであり、その外はないも等しい。

 しかるに21世紀の現在、ある一定程度の地球人たちにおいては、自らの感覚の及ぶ範囲はかなりの広域に達している。留学や外遊ができるという恵まれた環境になくても、情報という意味では、この地球全体を自らの「地域」と感ずることさえできるようになっているし、また、その感覚なくしては、それこそ「熊」一匹仕留められない、時代が来つつある。

 地域性(ローカリティ)に依拠することはいわば「蟻の眼」を持つことであり、地球性(グローバリティ、惑星性)に倣うことは「鳥の眼」を持つことである。この遠近両方の複眼に寄って初めて地球上の自己の立脚点が立体的に見えてくるのである。宮沢賢治も南方熊楠も山尾三省もみな"Think globally, act locally"(地球規模で考え、地域的に行動せよ。大局的に思考し、具体的に行為せよ)という二つの翼を駆った。p283鎌田東二「ローカリティの自覚と『地球即地域』学への試み」

 この部分は、以前からあちこちから聞こえてくるキャッチフレーズが使われているのだが、そのニュアンスは良いけれど、本当だろうか。複眼的であるとは、より実態に即した実像を把握するための装置なのであり、見ている自分は複眼で見ているという自覚はない。実像は一つなのである。

 鎌田は「蟻の眼」と「鳥の眼」と言いつつ、二つの翼、と言っている。翼は「鳥」の眼の象徴である。「蟻」には翼はない。蟻は足で大地を這うのである。勿論、羽アリみたいな存在は「翼」を持つが、移動する、という意味では、蟻は鳥にも劣らない広いエリアを「地域」とする。

 当ブログでは、この辺のニュアンスを表現したい時、最近ではルーツ&ウィング、としている。翼だけでは地域的でもなければ、大地的でもないと感じる。ルーツは植物的な感覚だ。その地を動けない。根ざし、地域に育てられるままに生きていくしかない。そして、実を結べば、風に乗り、あるいは蝶や鳥たち、動物たちに同伴してあらたな根づきの場所を見つける。

 当ブログとしては、ルーツ&ウィングでも、いまひとつ納得していない。まだ分裂している気分が残る。この二つの要素を本質的に持ち得ているの「地球人」であり、「地球人スピリット」である、という逆規定をしているところだ。

 人間は、鳥でもなければ蟻でもない。羽も生えていなければ、根も生えない。しかし、そこに「ローカル」でもなく「グローバル」でもない「地球」を見る。当ブログにおいては、自らが生きている場所が地域なのであり地球である。そして「学」として体系化せずとも、生きていること自体が学びであるはずである、という自覚を持っている。

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長岡輝子 宮沢賢治をよもう ETV8シリーズ 授業

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「長岡輝子 宮沢賢治をよもう」 
出演・長岡輝子 1987/9/29放送 NHK ETV8シリーズ授業 VHS
Vol.3 No.0589★★★★★

 図書館の視聴覚資料としては、もっとも古い部類に属する賢治関連資料である。それは古い、というよりは、もっとも早い時期から賢治を語る活動を続けてきた、というべきであろう。ググッてみれば、生まれたのは1908年〈明治41年)、賢治におくれること12年、彼女が小学生の頃、賢治は盛岡高等林学校(現岩手大学農学部)で学んでいた、ということになる。

 各分野で活躍する学者・芸術家・財界人が母校の教壇に立って、後輩を相手に"授業"をしたらどうなるか。子供たちは何に心をゆり動かされるだろうか、その授業風景を伝える。
 第一回は岩手地方の言葉を駆使し、美しい詩的世界を展開した宮沢賢治の詩を例に俳優の長岡輝子さん(79歳・放送当時)が教室の子供たちにことばのゆたかさについて教える。
HP番組内容紹介より

 岩手大学付属小学校において、卒業生先輩として子供達と賢治をよむ45分。1980年代には「おしん」の奉公先の優しいおばあちゃんとして有名になた著者は、おしんに諭すごとく、やさしく、あるいはちょっと厳しく、小学生たちに授業を授ける。

 本を読むだけではだめ、自分で行って、見て、感じなければ本物にはならない。おじいさん、おばあさんがいたら、それは素晴らしいこと。お年寄りからたくさん学ぶことがある。土地の言葉は大きな財産。文字には決して表わすことのできないニュアンスがある。人まねする必要はない。自分なりの表現を心掛ければいい。

 そんなことのひとつひとつを、わずかな時間の間に、子どもたちの子供たちの心へ、ダイレクトに話しかける。使われた教材は「チャグチャグ馬コ」と「雨ニモマケズ」。イーハトーブ弁のネイティブスピーカーである長岡輝子の朗読は実に素晴らしい。

 彼女は、老齢になってなお活動をつづけ、2010年に102歳で亡くなった。

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2012/01/17

賢治と鉱物 文系のための鉱物学入門<2> 加藤碵一/青木正博

<1>よりつづく


「賢治と鉱物」 文系のための鉱物学入門 <2>
加藤碵一/青木正博 2011/07 工作舎 単行本 269p
★★★★★

 早いもので、当ブログとして賢治追っかけをはじめてからすでに60点ほどの資料に目をとうしたことになる。入手可能な資料は限りなくあり、全てに目を通すことなどできないが、すでに、現在の段階でも、再読したい本がでてきている。ちょっと早すぎるがリストアップしておく。

ちょっと早すぎる賢治再読リストベスト10

「正続 宮沢賢治素描」 関 登久也 (著) 1948/02 真日本社

「兄のトランク」 宮沢清六 1987/09 筑摩書房

「星座紀行 宮澤賢治 銀河鉄道の夜」 斎藤文一監修 加藤登紀子語り 1990/02 平凡社 VHS

「宮沢賢治の宗教世界」 大島宏之編 1992/01 北辰堂

「ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書」 富山英俊 現代詩手帖 1996/03

「科学者としての宮沢賢治」 斎藤文一 2010/07 平凡社

「宮澤賢治と幻の恋人」 澤田キヌを追って 澤村修治 2010/08 河出書房新社

「イーハトーブ悪人列伝」 宮沢賢治童話のおかしなやつら 大角修 2011/2 勉誠出版

「宮澤賢治イーハトヴ学事典」 天沢退二郎・他編集、2010/11 弘文堂

「賢治と鉱物」 文系のための鉱物学入門 加藤碵一/青木正博 2011/07 工作舎

 そして、この中にあっても、この「賢治と鉱物」はなかなかの出色の一作と言える。出版されたのがごく最近ということもあり、また、賢治の世界をよく分かっていないと理解することもできず、その意味することもよく分からない。

 ところが、賢治の世界に興味を持てば持つほど、この本の価値がたかまってくるだろう。すくなくとも、何気なく読み飛ばしている賢治の文章には、すくなくともこれだけのダブル・ミーニングがあったのだ、と気付かされる。

 賢治は一時まじめに人造宝石商になろうとしたことがあったようで、父親に一蹴されてその夢は消えたようだが、すくなくとも、まじめにそのことを考えるほどののめり込みを、この鉱石の世界に体験していたのだった。

 ただ、この本、私には高度すぎる。普通ならオタク的と言っていいのだが、この本の著者たちは、その道の専門家であり、なおかつ賢治ワールドのクラウドソーシングのエキスパートたちだ。オタクというよりは、アドバンスコース、あるいは、マスターコースの住人達による一冊なのである。

 賢治ワールドの、ベーシック・コースさえ、まだまだ序の口でウロウロしている当ブログとしては、あまり多くを望まず、ただただ、高き峰をあおぎつつ、ふもとにはふもとの楽しみがあるさ、と、スニーカーでウォーキングしているだけである。いや、まだまだ心構えができていないかも。まるで、まだサンダル履きのような気さえする。

 賢治がその作品の中に用いたモチーフはそれぞれに美しいのだが、現代の専門家から見れば、多少訂正の必要なことも少なくなく、その編を「鉱物学」的に訂正する。ある意味容赦ないので、賢治カルトの住人にはちょっとうるさい一冊になるかもしれない。

 もうここまで読み込まなくてもいいんだよな、という思いと、いやぁ、このくらいの知識を身につけて、ペダンティックに気取るのも、悪くないかなぁ、という思いが錯綜する。だけど、それには相当な努力が必要となりそうだ。少なくとも、石こ賢さんのように、小さい時からの学習と素質が必要となるのではなかろうか。

 しかしそれにしても美しい一冊である。ほとんどの頁がカラーで、ほほう、と納得する以外にない。科学と芸術の融合とはいうけれど、この本はその一冊に数えられるかもしれない。ここにさらに、意識の分野が加われば、鬼に金棒だなぁ。

 それにはやはり、「クリスタル・エンライテンメント」のような一冊を加えてみるのもありかもしれない。これらの世界を展開する賢治ワールドとは、まさにすごいものだなぁ。現実には東北石灰工場の営業マンとして、農業資材としての鉱物だけで終わったような賢治ではあったが、このような夢をその仕事の中にも見ていたのだった。

 最近ではレアメタルなどに対する関心も高く、需要も高まっている。傍らの石への関心が鉱物学へとつながり、地球全体への科学的アプローチへと繋がっていくのだろう。

 賢治が鉱物学者にならなかった本当の理由は、今となっては知るよしもありません。彼は石に深い興味を抱くと同時に、無類の人間好きでもありました。人間を俯瞰的に理解しようとする熱意も、はかない命への共感も人一倍強かったでしょう。

 それゆえに、客観性、再現性を重んじる冷静な科学研究の土俵は、少々窮屈に感じられたのかもしれません。ともあれ、鉱物学と文芸をかくも自在に融合させることは、賢治にしてはじめてなし得た境地であり、そのことを素直に喜ぶべきでしょう。p269青木正博「あとがき」

 この本、当ブログにおいて再読できるかどうか微妙なところではあるが、もし再読できるとすれば、それは、当ブログのある種の成長を意味することになるだろう。

つづく・・・・・かな?

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2012/01/16

娘と話す 原発ってなに? 池内了


「娘と話す 原発ってなに?」 
池内了2011/10 現代企画室 単行本 192p
Vol.3 No.0588

 「娘と話す」シリーズは、見るとはなしに新刊コーナーにあるので、今まで何冊か目を通してきた。まるで「ソフィーの世界」を連想するようなシチュエーションだが、その他のテーマなどに対する取り組みを見ると、出版側としては、なかなかうまいフォーマットを考えたなぁ、と納得する。

 今回は原発がテーマだ。3.11直後の出版本にはかなりの数の「原発本」が含まれているが、2011年の10月という段階で、とりあえず簡単に原発問題を振り返っておくには、かなりなベスト本といえるのではないだろうか。ちょっと甘めのレインボー評価としておく。

 シリーズとしても馴染み易いし、書き手の池内了も、「科学ってなに?」(2005/04)、「地球環境問題ってなに?」(2006/02)、「宇宙ってなに?」(2009/09)でもお父さん役を務めていた。3.11後に転向派の「反原発・脱原発」派の多い中、筋金入りの脱原発派だ。

 ---でも、原発の事故ではまだだれも死者は出ていない。交通事故では毎日100人以上の死者がでている。それと比べたら大したことがないって言っている人もいるよ。
 「なんでも交通事故が引き合いに出される」。そこには大きな盲点があるんだ」
p104「今回の事故の影響は?」

 ここは訂正が必要だろう。。交通事故で、国内では毎日100人以上は死んでいない。これだと計算上は3万6500人以上の交通事故死が毎年でていることになってしまう。現在では、交通事故死は年間4000人代まで減っている。「毎日10人以上」などとする方が正しいだろう。

 それと、今回の3.11原発に関連して「死者」はでていないと断定してしまうことは無理があるだろう。作業中の病死とか、避難中の生活で亡くなっていった人々に対しても思いを馳せる必要がある。今後の長期にわたる放射線の影響などを考えると、後段の説明のとおり、トンデモない影響がでてくることになる。

 ---用心しなくっちゃならないの?
 「用心するにこしたことはない。けれど神経質になることもない。実態を正しく見て、過度にこわがらないことだ。化学毒ではないのだから、今すぐに命に関わることはない。」
p109同上

 そもそも原発問題は分かりにくい。その分かりにくいという盲点をついて「専門家」が暗躍してきたわけだが、彼ら以上に知識を高めることなんかできない。この本においても、基礎的な知識をおさらいすることになるのだが、ある程度以上は理解したくな~い、という拒絶反応がでてしまう。

 ともすると、いい加減忘れてしまいたい問題ではあるが、折に触れて、何度も何度もおさらいしていく必要を感じる。それに、つぎつぎと新しい原発の悪影響の情報が発表されつづけている。この問題は、今後、私等の50代の人間は、生きているかぎりは、ずっとつきあい続けていかなければならない問題なのだろう。

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2012/01/15

ポスト3・11の子育てマニュアル<2> 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?冨永良喜他

<1>よりつづく


「ポスト3・11の子育てマニュアル」 <2>震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか? 
冨永良喜/小城英子他 2011/11講談社 単行本 191p

 前回、簡単なメモを残しておいたところ、思いもかけず、著者のおひとりご本人(だと思われる)から返信の書込みがあった。そうである限りは、もういちど読み返そうと、借り直してみた。

 しかし、いまいちこの本に心がオープンしていかない自分を感じ、再読しないままで時間ばかりが経過してしまった。そろそろケリをつけておきたいので、ここらでまたまた簡単なメモを残すことになった。

-------

1)本日は、昨年、上の子夫婦に生まれた初孫の1歳の誕生日である。あっという間の一年だった。里帰り出産だったために数カ月妊婦や新生児と暮らした。1月には婚地に戻ったため、こちらの震災には遭わずにすんだが、いま考えるとぞっとする。

2)そして、明日は甥夫婦に二人目の子供が生まれる。さらには数週間以内には、我が家の下の子夫婦に男子が生まれる予定になっている。別な甥夫婦にも、来春には女子が生まれるらしい。

3)そういう年回りなのだろうが、とにかく私の周りはベビー・ブームと言っていいほど、新しい命が次々と生まれている。それぞれの連れ合いの名前や赤ちゃんたちの名前を覚えるのもなかなか難しいのだが、トンチンカンなことを言いながらも、楽しい悩みではある。

-----------------

 と、ここまで書いたのは、昨年末のクリスマス前のことであった。我が家の二人目の孫は無事生まれ、この正月には、新幹線に乗って、里帰り出産していた息子夫婦と赤ちゃんに会いに行ってきた。これから、この地球上で生きて行こうとする新しいいのちたちに会うことは、とても感動的だ。

 そもそもの、私とこの本のズレは、私はもう「子育て」世代ではなくなっていた、ということだろう。私自身の「子育て」はもうとっくに終わっており、これからは、自分はいかに子供が好きだと言っても、もう「孫育て」の世代なのだ、という自覚が必要なのだった。

 孫育て、と言っても、ジイさんとしてはまだまだ初心者である。ジイさんになりきれていない。新米ジイさんとして、これから少しづつキャリアを積んでいこう、という段階である。

 この一年の経過を見ていると、私はまだ、孫との適正な距離をつかめないでいる。どこをどうやれば、まずまずのジイさんなのか。そこんとこを時たままちがい、娘や息子に、クレームをつけられる時がある。素敵なジイさんになりたい、とは思うが、それは理想としても、まずまずの当たり前のジイさんにはなりたい、と願っているのである。

 ここにまず第一点のズレがあったのだろう。この本は「子育て」の本である。日々、幼き命たちと付き合っている責任世代に語られている本であった。とくに乳幼児というよりは、小学生あたりをターゲットにしているように思われる。

 第二のズレは、私もまたカウンセラーの一人である、という思い込みである。私なりに学習もし、資格も得て、あるいは公的機関でのキャリアを含めると数十年の実践がある、という自分なりの自負がある。

 ただし、3.11後の自分を見ているかぎり、被災者たちに隣人として接する以上の、カウンセラーとしての自覚のもとでの関わりは、積極的に避けているように見える。日々の業務が隣接のジャンルにあって、カウンセリングに特化できないとはいうこともある。しかし、カウンセリングを含む、人為的な行いの何と空しいことか、ということが表にでてくることが、積極的にカウンセリングを肯定的に見ることのできない大きな理由だと思われる。

 しかるに、この本の著者たちは、臨床心理学、社会心理学、児童臨床心理学、性格心理学、健康心理学、という肩書を持つ「専門家」たちである。自らの無力感を、これらのいわゆる専門家たちへの違和感としてぶつけていたがゆえに、第二のズレができていたのではないか、と思う。

 そして、第三に、私は、今回の震災においては被災者であるという、「自覚」がある。地震の恐怖を味わい、長期にわたる避難生活を強いられた。海岸からはそれなりの距離があったとは言え、すぐそばまで津波の被害が広がり、そこから逃れてきた人々が仮設住宅を作ってすぐそばに棲んでいる。親戚や友人知人の輪を広げていくと、幾人も災害死した人々がでてくる。

 原発事故においても、80キロ圏内と、震源地からそれなりの距離があるとは言え、日々ガイガーカウンターの表示が気になるようなエリアに棲んでいる。自らの行動や、物資の流通を考えると、この土地も立派な放射線による汚染地域なのである。平静を装っていても、不安でないはずがない。

 私は一時的被災者である、という自覚があるのであるが、この本においては、そこのところが薄いように思われる。この5人が5人とも、一時的被災者ではないように思われる。帰宅難民とか、関東圏以南まで及ぶ放射線汚染におびえている、という意味では被災者であるように思われるが、3.11、という意味では、二次的被災者ではないだろうか。

 ここが第三のズレの大きな原因のように思われる。阪神淡路大震災の例を引きだして比較したり、自らの研究範囲に3.11を引きづり込んで何事かを語ろうとする姿勢に違和感を感じるのはここのところだったように思う。

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の、最も重要なスピリットは「行ッテ」の部分だと言われる。

東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

 この小さな本の中に、私は賢治いうところの「行ッテ」を見つけることができなかった。「専門家」としての、上から目線でのアドバイスに留まっているのではないか。そこのところが、私の側からばかりのズレとは思えない、強い違和感を感じたのである。

 逆に言えば、実際にモノ思う世代の子供と日々向かいあい、具体的に専門家たちの指示を期待し、広範なエリアに広がる二次的被災地(者)であるという自覚を持っている読者には、良心的で有用な一冊であろうと思う。 

 まずは、私は私なりに、第一次被災地における、デクノボーとして、よちよち歩きの「孫育て」のノウハウを模索していくしかないのだな、と痛感しているところである。

<3>につづく

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3・11の未来 日本・SF・創造力 海老原豊/藤田直哉他


「3・11の未来」 日本・SF・創造力
海老原豊/藤田直哉/編集 2011/09 作品社 単行本 393p
Vol.3 No.0587★★★☆☆

 2011年7月28日、日本SF界の北斗と仰がれる小松左京が亡くなった。「日本沈没」などの想像と3.11の近似性が語られる中、彼はこの本の中に一つの可能性を残し、その後輩たちは、彼を座標軸として、3.11を語る。

 この本には、20数名の書き手の名前が並び、例によっての3.11後のオムニバス形式の一冊ゆえ、当ブログとしては、最初から遠慮したい一冊ではあった。小松に続いて豊田有恒、巽孝之、仙台在住の瀬名秀明などには多少の親近感を感じるが、仲正昌樹などは、当ブログにおいての評価はDランクである。

 そもそも、「3.11の未来」を語る時に、日本、SF、創造力、と限定したところに、最初から違和感を感じる。日本は地球に、SFは意識に、創造力はリアリティとでも書き換えられたなら、もっともっとこの一冊に関心を持つことができただろう。

 そもそも3.11と一口に言われる今回の出来事だが、当ブログでは、天の巻としての地震、地の巻としての津波、人の巻としての原発事故、と3つに分けて考えている。

 天の巻、あるいは天災としての地震は、これは、地球上どこに生きていたとしても遭遇し得る現象なのであり、そのことに対する心構えは常になければならず、そのことによってどんな境遇になろうとも、それは地球上に生きる人間としては、甘んじて受け入れざるを得ない事象なのである。

 地の巻、あるいは「地災」としての津波は、地震に連動して起こることではあるが、まったく予知することができない事象ではない。少なくとも、数分、数十分の余裕がある。あるいは、津波の押し寄せる海岸から数キロ範囲に棲むということ自体、その事象に対する心構えがあってこその棲まい方だった筈である。

 さて、人の巻、人災としての原発事故はどうであろうか。これもまた、地震、津波、と連動して起きた事象ではあったが、そもそも原発事故は人類がこの地球上に存在していなければ起きえなかった事どもである。地球自体に大きな惨禍を加えてしまうとともに、もっとも人類自らが被災する、自業自得の事象である。

 当ブログとしては、天の巻は、むしろ伝説や神話のほうに救いを求めたい。あるいはファンタジーのような、例えば生命にとっての「死」の存在のような、不可避のテーマとして、全ての事象をただ受入れていくという方向にならざるを得ないだろう。

 地の巻は、あえてそのようなライフスタイルになっていなかった我が身を確認するとともに、地球上に暮らす人間としての環境の捉え方を、今後も探究し続けて行く必要を感じる。津波はある意味では、疲労した大地が再び生命力を蘇らす機会でもあったはずである。悲惨な形ではあったにせよ、「森は海の恋人」というラブレターへの返信でもあった。海は森の恋人なのだ。

 しかるに人の巻においては、その原因は人間にあり、そもそも原発は人間だけが必要とし、人間だけが関与してきた事象であった。そしてもっともその災いを受け取るのも人間であった。場合によっては、自然界はそのこと自体を受け入れ、自らの在り様を変化させていくだけであり、人間たちのことなど、気にもかけないだろう。

 地球上に生きる意識としての存在である限り、そしてその地球を我が意のままにコントロールし得ないのである限り、人類はこの地球上において、許された範囲でのライフスタイルを日々続けていくしかない。

 そんなことは当然のことなのであり、夜があり朝があるように、春が来て冬に到るように、その恵みの中で人類は生きていく術を学ばねばならない。そもそも大地から掘り出された鉱物の一種を活用することによって、その恵みを享受した人類ではあったが、その使い方に、十分な敬意を払い、意識深く役立てなければならなかった。

 3.11天地人は、それぞれ別途な問題であり、なおかつ一体となったテーマであった。地球人としての意識を持ち、自らの生命をどこまで続けていこうとするのか、すべての叡智を集めて生きる方向性を見つけていくことが大事になっている。

 この本、400頁の分厚い本である。ひとつひとつを読みこむには方向性がバラバラであり、なおかつ、ある一つの間違った方向性へと導こうとしているようでもある。ひとつ、あえて気になったのは鼎元亨が「3.11後の来るべき日本」の中で「マルチチュード」を取り上げていたことだった(p348)。

 ただし、マルチチュードという概念を使うのであれば、もうすでに「来たるべき日本」など論ずるべきではない。ここでは「来たるべき地球人」となるべきである。当ブログにおけるテーマは「3.11後の来たるべき地球人」である。あるいは「3.11後」は、他の言葉に置き換えられてもいいのだ。「アラブの春の後に来たるべき地球人」とか、「資本主義終焉後の来たるべき地球人」などであっても構わないだろう。

 「3.11の未来」というタイトルに多少の妥当性はあるとしても、サブタイトルは「日本、SF、創造力」ではだめだろう。「地球、意識、リアリティ」でなければならない。「創造力」はまだマシでもあるようだが、そこに文章的な創作活動をイメージしているようではいけない。

 いま、ここ、に生きているぞ。このリアリティの中に。

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ナルニア国物語 第2章:カスピアン王子の角笛

<第1章>からつづく 


「ナルニア国物語」第2章:カスピアン王子の角笛
発売日: 2009年11月18日 ・発売元: ウォルト・ディズニー・ジャパン ・販売元: ウォルト ディズニー スタジオ ホーム エンターテイメント ・ディスク枚数: 1枚(DVD1枚) ・収録時間: 140分 ・映像特典内容: 監督・キャスト コメンタリー(監督,ウィリアム・モーズリー,アナ・ポップルウェル,スキャンダー・ケインズ,ジョージー・ヘンリー,ベン・バーンズ)
Vol.3 No.0586★★★★★

 第1章:ライオンと魔女」から何年が経過したことになるのだろう。ストーリーでは一年後のようではあるが、「ハリーポッター」シリーズと同じように、子どもたちの成長が激しい。前作のような無邪気な感じだったら、また別なイメージの作品になっただろう。

 伝説、神話、言い伝えなどの中に、大きな真実が隠れていることも多く、特に、今回の3.11などでも、津波のことなどほとんど伝説や神話として語られていたことが、実は、史実であった可能性が高い、ということが分かってきた。

 ナルニア国物語は、子どもたちの夢、そして、その夢の中で語られる伝説、というものが大きなファクターとなっている。しかし、その伝説や神話が、単にフィクションというだけではなく、超意識がもたらした普遍性のあるものとして存在し、集合的超意識となって多くの人々を動かし、やがては、宇宙意識として森羅万象と共鳴さえし得る、可能性を示している。

 実は、当ブログには当ブログなりの神話を抱えている。それはブログとして書き始めるまでは、あまり意識されなかったのであるが、ひとつのプラットフォームの上にフラットに並べてみると、実はあらぬ物語を持っている可能性が浮上している、ということである。

 それらは総体的にはすでに書き出されていることであるが、煩雑性の中に埋もれてしまっていて、関連づけてストーリーを紡ぎだすことが、やや難しくなっていたりする。しかし、それでは当ブログがスタートした意味がないので、やがては、一つのコンパクトなストーリーとして掘り出される必要がある。

 ナルニア国物語の中の伝説や神話に、普遍性を感じ、森羅万象とさえ共鳴し得る神秘が隠されているとすれば、今から、ここで浮かびあがってくるひとつの伝説にも、宇宙超意識とつながり得る真理が隠されている可能性がある。

 そのような可能性を喚起する瞑想のひとつとして、このDVDを見ることができたとするならば、このファンタジーは極めて有用な物語であった、ということになる。

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2012/01/14

ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女


「ナルニア国物語」/第1章:ライオンと魔女
ウィリアム・モーズリー(William Moseley)/アナ・ポップルウェル(Anna Popplewell)/スキャンダー・ケインズ(Skandar Keynes) アンドリュー・アダムソン(Andrew Adamson) ・発売日: 2008年04月23日 ・発売元: ウォルト・ディズニー・ジャパン ・販売元: (株)ポニーキャニオン ・ディスク枚数: 1枚(DVD1枚) ・収録時間: 143分
Vol.3 No.0585★★★★★

 「ナルニア国の住人たち」という本を読んで、ファンタジーって奴を読み進めてみようと思ったのは、もう5年以上も前のことだった。どうも本質的にこのような世界が好きじゃないのか、あるいは、もっと面白そうな本が他に沢山あったからなのか。いつも後回しになってきた。

 3.11後に、図書館の視聴覚資料がとても借りやすくなったので、一連のDVDを借りてみてやろう、という余裕がでてきたのだろうか。先日は、「ロード・オブ・ザ・リング」の3部作を見た。伝説の部分などは面白いのだが、どうも私があのチャンバラの部分が好きではない。 とりあえず見ました、という感じだった。

 さて、「ナルニア国物語」においても、あまり期待もせず、予備知識も何もないまま見ることになった。いやはや、最初の導入部分は面白かったなぁ。冬のナルニア国を見ていた時は、本当にこのファンタジーが大好きになりそうだった。

 子供たちの表情が豊かで、ついつい、かわいい、って思ってしまった。でも、途中からはどうだっただろう。サンタクロースが現われて、武器をプレゼントしてくれるあたりから、ああ、またチャンバラが始まるのか、とすこし気分がダウン。

イギリスや魔法、そして子供達、という意味では、「ハリーポッター」シリーズとも重なるが、こちらはまたディズニー映画ということもあり、マイルドな味付けになっている。ひとつのエンターテイメント作品として大多数の観客を得るには、どうしてもこのチャンバラというやつが必要なのだろう。

 それにしても、私はどうしてチャンバラが嫌いなのだろう。いつから嫌いになったのだろう。昔から嫌いだったのだろうか。昔は結構やる気があったのに、歳とって、闘志が失われてしまったのだろうか。

 ツァラトウストラは、人間の三態を教えた。羊、獅子、そして、子ども。最近の私は、どうやら、羊や子どもとばかり仲良くして、獅子のことなんか忘れてしまったのだろうか。

 いやいや、そんなはずはないぞ。大義ある戦いを、戦わずして遁走するだけが、スピリチュアリティや愛ではないだろう。

 それにしても、このナルニア国物語は面白かった。いろいろ難がないでもないが、すっかり引き込まれてしまった。-----------

 と、ここまで書いて、一晩寝て、もういちど途中から見ることになった。実は、昨晩は中盤まで見たところで家人が帰宅し、他のことをしながらのナガラ視聴となっていたのだった。読書なら、適当にブツ切れに読み進めることもできるのだが、映画はそうはいかない。映画館や演劇空間なら、集中してその世界に没入するのだが、自宅DVDとなると、かなりいい加減に、呑んだり食べたり、居眠りしたり、となりかねない。

 それにしても、素晴らしい作品だ。このような作品を作れる人に嫉妬する。もちろん、原作として本として読むことも可能だろうし、いつかはそうしよう。だけど、映画は映画として格別に素晴らしい作品だ。

 全部を見てしまえば、チャンバラのシーンには必然性があり、全体からみれば、その割合はそう多いものではない。この作品は長い。二時間半、集中して見ることのできる環境を調えてから、没頭しながら見るべき作品なのだろう。

 子ども、伝説、転生、平和、真理、森や山、空や海、そして現実。これらの要素は、先日見た「ロード・オブ・ザ・リング」にも通じるところがある。私はどうやら、これらの、いわゆるファンタジーという奴の「観かた」を知らないようだ。もうすこし、上手な観客になりたい。

 それにしても、依怙地になって、いまだに小さなブラウン管でファンタジーを見続けようという姿勢も間違いなのかもしれない。そろそろ、わが家でも大型高品質の映像設備が必要となってきているのだろうか。

<第2章>へつづく

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2012/01/13

賢治と鉱物 文系のための鉱物学入門 <1> 加藤碵一/青木正博


「賢治と鉱物」 文系のための鉱物学入門 <1>
加藤碵一/青木正博 2011/07 工作舎 単行本 269p
Vol.3 No.0584★★★★★

 先日、賢治を読んでいて、無償にプラネタリウムを見たくなり、天文台へと車を走らせた。町はずれの高台にあり、散策コースとしても、ウォーキング・コースとしても悪くない。近くに図書館もあるし、たまにいつもと違う図書館を覗いてみるのも悪くない。

 天文台は、相変わらず、小学生や恋人たちでにぎわっていたが、初老の男が、ひっそりと空を眺めている風景もまんざらではないのではないか、と自分では思う。

 お茶を飲みながら、売店を見ていると、気になるグッヅがいくつかあった。ひとつは35倍組立天体望遠鏡。お手軽な工作で、10分で出来上がるというのが味噌。汎用のカメラの三脚を使う。そうそう、そう言えば最近、学校バザーで100円の中古三脚を一個ゲットしておいたのだった。これでひとつできあがり かな、と思えた。


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 そしてその傍らには、なにやら小さな石のコレクションがあった。


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 ほほう、天文台に来て石のコレクションとはこれ如何に、とは思ったが、これがなかなか美しい。小さな石のサンプル達は、このまま指輪やネックレスにしたら素敵じゃないか、と思う。ああ、それなのに、この値段(1050円)。安い。そう言えば、賢治の世界も鉱物と繋がっていたな、と、さっそく当日は、こちらの石のコレクションをお持ち帰りとなった次第。

 そう言えば、前に花巻の賢治記念館を尋ねた時、近くの施設に、賢治ゆかりの石を展示している空間があった。銀河系とともに、石こ賢さんは、鉱物にも繋がっているのだった。そう思いつつ、この近刊「賢治と鉱物」をめくった。出版は工作舎。なるほど、この出版社だからこそだせるような企画かもしれない。

 「世界の鉱物35種」を見た時は、へ~、こんなにいろんな種類の鉱物があるんだなぁ、と関心しきり。ひとつひとつが美しい。ハウライト、レオバードスキンジャスパー、マホガニージャスパー、ローズクォーツ、ブルーアゲート、・・・・。ひとつひとつの石の名前さえ目新しく、多分きっと覚えられないだろうな、と思いつつ、この35種類の石の名前を覚えたら、いっぱしの鉱物学者になれるのではなかろうか、とさえ夢想した(笑)。

 さて、こちらの「賢治と鉱物」にも石の名前がどんどんでてくる。トルコ石、天河石、サファイア、ガスタルダイトとインデコライト、硅孔雀石、・・・・。ひとつひとつが風景を持って登場するようなネーミングばかりだ。

 さて、「世界の鉱物35種」と「賢治と鉱物」を突き合わせてみると、これがなかなかうまくいかない。トルコ石がハウライトターコイズ、天河石がアマゾナイト、瑪瑙はめのう、霰石はアラゴナイト、蛍石はフローライト、などという風に対応しているだろう、と想定してみる。

 水晶と水晶、ラブラドライトとラブラドライト、などのように、そのものズバリの名前繋がりもあるのだが、猫目石とタイガ―アイ、など、ひょっとすると繋がっているかな、と想像するに留まる石もある。 

 そして、「賢治と鉱物」の中にある、サファイア、エメラルド、琥珀、オパール、ルビー、黒ダイヤモンド、などの、名前を聞いただけでも高価そう、と思える石のサンプルは、当然のごとく税込1050円の「世界の鉱物35種」には入っていない。

 世の中には、こんなにいっぱい、いろんな種類の石があるのか、と驚く。それでも、名前繋がりで繋がったいくつかの石のサンプルと、本の画像を見ると、なるほど色や雰囲気は似ていなくもないが、その形状や触感はかなり違っていそうだぞ、と思えてくる。

 最初は、「世界の鉱物35種」だけでも、相当に美しく、多様に感じられていたのに、あっという間に、石は石で、小さな「おもちゃ」に見えてきてしまった。そして賢治が見ていた「鉱物」の世界とは、どのようなものだったのだろう、と、ふと空を見て、溜め息をついた。

 石と言えば、昔、「クリスタル・エンライトンメント」(OEJ1992)なんて本があったことを思い出した。あちらには、アメシスト、ローズ・クォーツ、シトリン、スモーキー・クォーツ、オジシディアン、ジェム・シリカ、フローライト、クンツァイト、ロードクロサイト、スギライト、トルマリン、などの石の名前が並んでいる。

 ふむー、なるほど、こういう世界があるんだなぁ、と思いつつ、理科系でもなければ、文科系でさえない、通りすがりの好奇心の強いおっさんでしかない当ブログとしては、ふむふむ、と、こういう世界がある、という確認をして、次の駅へと旅立つのであった。

<2>につづく

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アニメ版銀河鉄道の夜 ますむらひろし原案


「アニメ版 銀河鉄道の夜」
宮澤賢治/原作 ますむらひろし/原案 杉井ギサブロー/監督 別役実/脚本 谷川茂/構成・ノベライズ 2011/12 理論社 大型版 p126
Vol.3 No.0583★★★★☆

 1985年に出たVHS 「銀河鉄道の夜」朝日ビデオ文庫)から、各シーンの映像を、絵本のための画像処理をして使用し、テキストも再構成した(p126)とのこと。セリフは、映画で使われたものをそのままテキスト化した、という。

 賢治の原案さえ3~4あるらしいし、生前亡くなるまで手を入れていたという「銀河鉄道の夜」である。ましてや残されたものは原稿用紙のみ。賢治の描いた世界が、このアニメに忠実に写し取られているかどうかは不明だが、今見る者にとっては、極めて分かりやすく、美しい。

 1985年と言えば、すでに27年前の昔のことであるが、そこから起したとは言え、あまりに美しい総カラーページのハードカバー豪華本に仕上がっている。地図があり、星座の絵がありと、実に分かりやすい一冊。

 この本が、この2011年の12月、というタイミングで出版されているところに、大きな意義を感じる。賢治の描きだした銀河世界に、多くの人が魅せられ、普遍性を持ち、そこにさらに多くの人々の夢が重なった作品。

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地球人スピリット宣言草稿<18>マスタリー

<17>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<18>マスタリー

 2012年もすでに2週間が経過しようとしている。カテゴリーとして始めた「地球人スピリット宣言」の書込みも、はや20を超えた。今後、同時進行している「OshoZenタロットカード」の書込みも20~30%あるものと想定すると、残る50~60程の中で、一応の「宣言化」を終了しなくてはならない。

 時期的にも、できれば、3.11の一周年となる3月11日までには、なんとか形にしたい。そう思い始まると、今、手持ちになっている暫定的な書込みを引き出してきて、鍛えなおし、作り替えて、提出することを考えざるを得ない。

 そこでまず思い出されるのは、「プロジェクトG・O・D」。一連の「曼荼羅シリーズ」とは関連性が強いので、このまま整合性を強化することは、それほど面倒ではないはず。ただ、右左、縦横の見直しが必要となる。
 

        空  間  軸  
        G 不可知   O 未 知   D 既 知
G 未 来 集合的宇宙意識 ブッダ達の心理学 菩薩としてのウェブ
O 現 在 死者の書と死の世界 私が愛した本 ブログ・ジャーナリズム
D 過 去 アガルタ探検隊 新しい地球人 ネット社会の未来

 次に思い出されるのが、「(暫定)カビール達の心理学」フェーズ1。なんともはや、思い返すも恥ずかしい気分になる書込みだが、その動機はいたって真面目で、その真面目さを濁すために、わざと茶化している傾向がある。 

定義a: かもめのジョナサンは、アウトサイダーとして、トゥリアに到達する。

定義b:「マジックナンバー7」にご用心!

定義c:全ての謎は迷宮入りする。

定義d:(なんちゃって)瞑想が唯一、最後の道である。

定義e:(自)意識から始まり(宇宙)意識に至り、更に(自)意識に円環する。

定義:(盗作)ウェブは菩薩である

定義:(ないしょ)語られ得ないことがある。

 この「定義」は、もっともっと書き加えられる筈だったが、今はとにかくここまでだ。7つある。十分と言えば十分だ。これを鍛え直してみよう。

 そして、あらたに加えておきたいのが、「(仮称)プロジェクト567」。これらについては、新たにその経緯を書き加える必要があるが、とりあえず、箇条書きしておく。

1)エコビレッジの可能性

2)ベーシック・ハイブリット・エコカー

3)メディア・テイク

4)孫たち

5)スマートフォン

6)ホワイトターラー

7)3.11

 さらに、現在の当ブログの進行から考えれば、当面のターゲットとなっているのは「マスタリー」。ここに物事を集約していこう、という方向性にある。

 次なるカテゴリの名前は「ベルゼバベシュの孫への話」とすることを決めている。グルジェフの「ベルゼバブの孫への話」から借りているタイトルではあるが、必ずしもパロディの出来損ないになるとは限らない。興に乗ったら、「プレム・バヴェシュの孫への話」と改題しよう。

 これらの素材をまぜこぜにつっこんで、ガラガラポンを始める。

<19>につづく

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2012/01/12

ニーチェから宮沢賢治へ<3> 永遠回帰・肯定・リズム 中路正恒

<2>からつづく 

Ni
「ニーチェから宮沢賢治へ」 <3> 永遠回帰・肯定・リズム
中路正恒著 1997/4  創言社 四六判 / 238頁
★★★★☆

 本のタイトルは「ニーチェから宮沢賢治へ」であり、当ブログの流れもそれでいいともいえるのだが、本書には、この二つの存在の間に何人かについての記述が挟まれている。読書案内としても面白いので、それらひとつひとつを読みこんでみようかな、と当初は思ったが、かなりな迂回路になりそうなので、今回は割愛することにした。

 そうして見た場合、巻末の宮沢賢治論は、極めて簡潔で、的を射た、妥当性のある一文となっている。ある意味、それほど優れた論文ともいいがたいのではないか。そして、巻頭のニーチェについての論述を見ても、必ずしも飛び抜けたものとも言い難いと思う。

 ただ、当ブログがここで引掛かったのは、ニーチェと賢治が並び称せられているところであり、当ブログの試みは、賢治→ニーチェ→カリール・ジブラン、という流れをつくろうとしていたからである。あるいは賢治→ジブラン→ニーチェ、であっても構わないのだが、そこに何かの足がかりが必要であった。

 当ブログが現在進行中なのは、地球人スピリット宣言なる試みであり、その中の大きな三要素、科学と芸術と意識(宗教)の兼ね合いのことどもであった。科学はまさに、分割された隘路への浸食であるが、それらを統合する道すじとして、例えば21世紀の地球人たちはインターネットやウェブという方法論を持っている。

 意識に関して言えば、その方法論は、ある意味、瞑想という形ですでに確定しているのであり、あとは、いかに現代人に、しかも普遍的に活用できるかどうか、というテーマに絞り込まれている。

 しかるに、いわゆる芸術という分野において、そのプロセスは大幅にカットして極言するならば、当ブログにおいては、「マスタリー」をどのように受け止めるか、というところまできている。

 ニーチェにおいては、個を超えた何かを認めるところまでは行くが、それを「神」とすることを完璧に否定する。かたや賢治においては、国柱会や法華経という「宗教」を使いながらも、バイオリージョンとしての花巻地方の大自然界を、自らのマスタリーとして受け入れていくのである。

 ニーチェは、まるでグラフ用紙の上に丸を書いて、その四隅を細かく細かく埋めていくような作業をしているかに見える。まるで曲線をデジタル表示しているような塩梅だ。だから、どこまで行っても、近似値にみえようとも、それは曲線ではない。

 この点、賢治のほうが素直に曲線を受け入れ、さっさとグラフ用紙を放棄する。修羅としての賢治、探究者としての賢治の姿のほうが、より素直で、人間的でもある。しかしながら、それがバイオリージョンであるが故に、やや普遍性に欠けるところがある。

 ただ重要な問題は、「マスタリー」にあるのであり、そこに言葉を見ようと、大自然を見ようと、本当は、どちらも間違いなのである。自らを超えたものへの明け渡し、そのことこそが語られるべきなのであって、その次に何を見、何を聞くのかは、未知数、不可知として、残されるべきものなのである。

 そのような方向で、今後、当ブログは進んでいくはずである。

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雨ニモマケズ風ニモマケズ 宮澤賢治詩集百選 ミヤオビパブリッシング


「雨ニモマケズ風ニモマケズ」 宮澤賢治詩集百選
宮澤賢治 2011/11 ミヤオビパブリッシング/宮帯出版社 新書  229p
Vol.3 No.0582★★★★☆

 ちょっと変な本だなぁ。新書版の2百数十ページの読みやすそうな本ではあるが、「宮澤賢治詩集百選」とサブタイトルがついている以外、序もあとがきも出版の経緯も何も書いていない。巻末に「宮澤賢治略年表」と「著者紹介」があるのみだ。

 それぞれの詩にいくつかの短い注釈がついてはいるが、出展とかどの版であるとかは一切書いていない。ある意味、アトランダムである。版権の切れた賢治だけに、このような出版のされ方もしかたないのか、などと考えたりするが、別に粗末に無造作に編集されているわkでもなさそうだ。

 巻末にというか、最後の頁に出版社の広告がある。

 心温まる癒しを、そして生きる希望と勇気を持ってほしい その願いを、彼らの詩に託しました

 みすゞ、夢二、賢治 復興の詩 3部作

------------

こだまでしょうか、いいえ、誰でも。金子みすず詩集百選

小さな命を見つめ続けた優しい女流詩人 「若き童謡詩人の巨星とまで称賛され、26歳の若さで世を去った 金子みすゞ珠玉の百編

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その日から とまったままで 動かない時計の針と哀しみと。竹久夢二詩集百選 竹久夢二詩集百選

愛と悲しみに苦悩し続けた人恋する詩人 みずみずしい言葉で、生涯愛と哀しみの情景を描き続けた 竹久夢二珠玉の百編 巻末広告

 なるほど、この二人との三部作として企画された一冊なのだった。残念ながら、賢治自身はどのような紹介のされ方をしているのか、この本からは分からない。みすゞや夢二の本の巻末にある広告にだけ、賢治に対するコピーがあるのだろうか。

 アマゾンの内容紹介には

 生きているものすべての幸福を願う仏教思想の詩人。大乗仏教の法華経に深く傾倒し、鮮烈で純粋な生涯のうちに宮沢賢治が創作した800余篇の詩から100篇を精選。自己犠牲と自己昇華の人生観が溢れ出る。(後略)

 とある。おそらく、このようなコピーが短縮して使われているのだろう。

 いずれにせよ、この賢治詩集百選には、それらのお飾りは一切なく、ただただ一冊の詩集として提出されている。それが見事でもあり、また、ぶっきらぼうでもある。初読者が読むには、お手軽そうでもあり、量的にも、内容的にも、ちょっと重そうでもある。

 長年の賢治ファンが読むには、簡潔で懐中に携帯しやすい愛読版とも言えそうだが、さまざまな版や表記法がある賢治の詩ゆえ、高段者であればあるなりに、不満がでそうな一冊でもある。そもそも800余編の中から100編を精選した根拠がわからない。編者も誰なのか分からない。

 さて、「復興の詩 3部作」とある限り、救援物資にそっと忍ばせる一冊、あるいは被災者自身が仮設住宅で読む一冊、と仮定して見た場合、これはこれで、すっきりしているのではないだろうか。

 詩集は別に急いで一気に読むものでもないし、順に読まなければならないものでもない。折に触れて、一行一行の詩情を追えばいいのだ。むしろ、よけいな解説や解釈など必要ないだろう。むしろ通なら、これはここ、あれはあそこ、と一つ一つが分かるに違いない。

 この一冊を通読してみて、あらためて、いくつかの点に気がついた。1)妹としの死があまりにも衝撃的であったこと。2)科学的用語、あるいはアフファベットが多用されていること。3)国柱会や法華経を通り越して、花巻地方を中心とした大自然が、賢治が明け渡そうとしていたマスタリーであったこと。

 この三点を、当ブログの進行中の構図の中で捉えてみると、科学者としての賢治、芸術家としての賢治、宗教者としての賢治、の姿が見えて来る。一人の修羅として、あるいは探究者としての賢治は、妹としの死を契機としてさらに銀河に広がる意識の海を見る。そして、山や植物や動物たち、空や星々をマスタリーとして、37年の人生を駆け抜けていったのだった。

われらぞやがて泯(ほろ)ぶべき
そは身うちやみ あるいは身弱く
また 頑きことになれざりければなり
さあらば 友よ
誰か未来にこを償え
いまこをあざけりさげすむとも
われは泯ぶるその日まで
ただその日まで
鳥のごとくに歌わん哉
鳥のごとくに歌わんかな
身弱きもの
意久地なきもの
あるいはすでに傷つけるもの
ひとなべて
ここに集え
われらともに歌いて泯びなんを 
p221「われらぞやがて泯(ほろ)ぶべき」

 賢治を、金子みすゞ、竹久夢二と相並べて、復興三部作、とすることの妥当性を論ずる力は当ブログにはない。しかし、賢治を必ずしも、3.11の「復興」とリンクしてしまうことに、多少の危惧を感じるものである。

 そもそも、3.11とは、象徴的であったとしても、大自然、銀河系の中にあっては、小さな砂粒ほどの小さな風景に過ぎない。賢治は、生前中に体験した災害について、大いに心を痛めたが、必ずしもそこに留まる世界を生きていたのではなかった。

 私たちは、3.11という、あまりに大きな具象性の前に立たされてはいるが、それを含みつつ、さらに広がる大きな世界に生きているのであった。そして、地球に生まれた一人の人間として、限界を抱えつつ、その限界を超えていく未知なる力も与えられているのであった。

 3.11をみつつ、私たちはさらにその3.11の向こうに見える大きな真理に向かっていきていく必要があるのだ。その生きていく過程において、宮澤賢治という詩人は、力強く、あるいは優しく、私たちの傍らに、野の人として而立しているのであった。

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2012/01/11

宮沢賢治祈りのことば 石寒太<1>悲しみから這い上がる希望の力


「宮沢賢治祈りのことば」 悲しみから這い上がる希望の力<1>
石寒太 2011/12 実業之日本社 単行本 223p
Vol.3 No.0581

 今日は、あの3.11からちょうど10ヵ月目にあたる日である。このタイミングにおいて、3.11と宮沢賢治をダイレクトにつないでしまえば、こうなるだろう、という「お手本」のような一冊である。

 特に、賢治の「行ッテ」精神から言えば、この本は、被災地に足をのばし、仮設住宅に暮らす人々や子供達も、そこでも読めるように、ひとつひとつの気配りがされている。あるいは、東京電力原発事故から逃れて異郷に暮らす人々のもとへも、静かに共感の言葉を持って訪れる。

 3.11後の今、賢治が生きていたら、私たちにどんなメッセージを送ってくれるだろう。そんな問いかけが、あちこちで聞かれる。そして、おのずとその問いかけが「3.11」と「賢治」という具象に集約されていくとするなら、ほとんどこの本で「決まり」だろう、と思える。

 しかし、すなおにこの本にレインボー評価を下すことに躊躇する私がいる。この世に、この森羅万象のこの銀河系宇宙の中に、「3.11」と「賢治」しかない、なんてことはないのだ。全てのまがまがしいことを「3.11」の中に集約させ、あらゆる「解決」策を「賢治」の中にしか見つけてならない、なんてことはない。

 何といっても賢治のことばは、いのちの尊さを伝えています。東日本大震災でも、被災者はもちろん、日本中を慰め励ましているのが、賢治の詩や童話の一節なのです。p006

 3.11直後、私の場合は、なぜか、何度もなんどもなんども私の口元でリフレーンしていたのは、岡林信康の「君に捧げるLOVESONG」だった。 

 あるいは、一連の徳永英明の唄だったりした。

 読みだした本も、ゲーリー・スナイダーだったり、山尾三省だったりした。圧倒的な事実としての3.11の前において、一人の地球人として、あがなうことなど、何もできないのだが、それでもひとりひとりの生活があり、表現や結果がある。

 一呼吸おいてみれば、3.11には賢治がぴったりだった。あまりにハマりすぎている。もし、これから1000年、2000年経過して、もしも宮沢賢治が語られるとしたら、明治三陸大津波や、昭和三陸大津波ではなく、3.11とともに語られることが多くなるだろう。

 1000年、2000年後に、3.11が語られるとすれば、ひとびとは、宮沢賢治とともに立ち直った、などと表記されるかもしれない。それはそれでぴったりだと思うし、そうなるようになっていたのかもしれない。

 しかし、「3.11」が具象的であればあるほど、そこからなにか、きわめて普遍的ななにか、を見い出さんとする衝動がある。あるいは、「賢治」が、ちょうどいい具合に、一口サイズに提出されていればいるほど、そこからなにか、普遍的な無名性を見い出したい、という衝動が渦巻く。

 当ブログは当ブログなりに、賢治の「農民芸術概論綱要」を、独自の「地球人スピリット宣言」として読み直してみようという作業中である。そこには、当然のごとく3.11や賢治ワールドの諸要素を多く含むことは間違いないのだが、それは、もっと透明なものとしてとらえなおされなければならない。

 この本はよい本である。この本は、被災地まで「行ッテ」人々をなぐさめる。被災者のこころまで「行ッテ」、傷づいた魂を癒す。しかし、それは、3.11と賢治をセットで考えれば、の話である。

 今日、原発事故を含めた3.11という事実の前に立たされている私たちであるが、そして、その解決策の重要な一つとして賢治を再発見した「私たち」であるが、その3.11や賢治もまた、大きな銀河の中の小さな砂粒でしかないことに思いを馳せる時、私たちの思念から、3.11や賢治、という単語もまた、自然に消えていくことだろう。

 そんなことを思いつつも、2012年、今年最初のレインボー評価に、この本を選んでおくことは、極めて重要だと思う。

 著者、石寒太の名前は、「宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版」にも見える。

<2>につづく 

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2012/01/10

アラブの春は終わらない タハール・ベン・ジェルーン


「アラブの春は終わらない」 
タハール・ベン・ジェルーン/齋藤可津子 2011/12 河出書房新社 単行本 156p
Vol.3 No.0580★★★★★

 3.11が起こらなかったら、2011年の大きなニュースは、日本国内においても「アラブの春」で埋め尽くされていたのではないだろうか。3.11の蔭になって、注意喚起がそがれてしまったが、地球全体でみた場合、人間の営みとしては、この「アラブの春」の出来ごとは大きなターニングポイントになるはずである。

 アントニオ・ネグリの一連の著作に出て来るようなマルチチュードが、いよいよ活動を活発化させているのか、とさえ想像させる。

 アラブの春の勝利は、まず何よりも機が熟したことによってもたらされた。人々は自発的に、そして最後までやり遂げる決意でデモに参加したのであり、政党の指導者など、誰かの指示に従ったのではなく、ましてや宗教運動の指導者に従ったのでもない。そこに勝利がある。

 ちょうど冬のある日、熟しきった果実がひとりでに落ち、ほかの果実も一緒にぱらぱらと落とすように、アラブ人は祝祭のときのように踊り出したのだ。この動きは誰にも抑えられず、その余波ははるか遠くまで及んだ。

 中国に到達し、おそらくヨーロッパ社会を蝕む病因となっている大都市郊外にも、いつの日か及ぶだろう。p9「序」

 たしかに機が熟したのではあろうが、そこにインターネットやITの発達が関連していたことは間違いない。

 フェイスブック、ツイッター、インターネット、そして新しい形態の政治構想および行動は、非合理的で病的狂信にもとづくイスラーム主義の、眠気を催させる時代遅れででばかげた主張を一層して広がっていった。p10同上

 この現象は実に今日的である。アラブばかりではなく、アフリカやアジアの国々や地域にもその影響は出つつある。そして、本質的には、地球全体におよび、いわゆる「先進国」と自負している国々や地域においても、位相こそ違え、本質的な変動が起きつつあるのである。

 だからこれはイデオロギー革命ではない。すでに述べたように、先頭に立って抗議するリーダーや指導者、政党はなかった。そこにいたのは「もうたくさん!」とばかりに街に出て声をあげた何百万人もの人々だった。

 自然発生的で即興的な、新しいタイプの革命だ。計画ももくろみも、裏工作も闇取引もなしに、毎日歴史の新しい頁が書かれていく。それはどこか、詩人が人生に命じられるままに書きつつも、興がのれば抑えがきかなくなるのと似ている。p33「反抗? 革命?」

 いかにもマルチチュード的だ。ただ、マルチチュード的捉え方は、旧共産主義の蔭を引きづっているが、アラブの春の性格は、もっとカオス的だ。

 2010年の暮れから翌2011年の年明けにかけて、アラブ諸国の各地で突如、民衆が蜂起した。独裁政権の打倒をもとめる市民のデモは、体制側の鎮静化の努力もむなしく、若者を中心にフェイスブックをはじめとするネットワークを駆使して群衆を動員し、体制側による暴力の映像をオンラインにのせて世界に発信することで、国際社会の世論を味方につけて勢いを増して拡大していく。

 そして1月14日にはチュニジア大統領ベン・アリが国外逃亡、さらには2月11にはエジプトに30年間君臨してきた大統領ムバラクが退陣した。p137「訳者あとがき」

 この本には、チュニジア、エジプト、アルジェリア、イエメン、モロッコ、リビアなどの、アラブの「春」を呼ぶ声が実況中継されている。

 政権転覆という事態まで発展した一連のデモの引き金となったのは、無名の青年による抗議の焼身自殺だった。p137同上

 モロッコ出身のフランスの作家タハール・ベン=ジェルーン(1944年フェズ生まれ)は、この青年の焼身自殺に大きな衝撃を受け、そのアラブの民衆がデモでみせた決意の固さに深い感銘を受けた。そして書かれたのが本書である。p138同上

 そういえば、「預言者」を書いたカリール・ジブランの母国はレバノンだった。彼の作品も元はアラビア語で書かれていたのだ。若くしてアメリカに移住し、英語で書いたから彼は世界的詩人となったのだが、ジブランの背景にはこのような実情があったということを覚えておきたい。

 ニーチェが描いたある一節は十戒の一項目になっていてもおかしくないし、またイスラームも否定はしないだろう。この哲学者を宗教的テクストとともに論ずるのは奇妙に見えるかもしれないが、私が好んで引用するこのフレーズは本質をついている「もっとも重要なこと、それはあらゆる人間を恥辱からまもることである」(悦ばしき知識」)。ベン=ジェルーン p144同上

 アラブの春は、地球の春でなくてはならない。そしてそこに生きる地球人のスピリットにもっとも必要なものは、未来であり、可能性であり、誇りである。反逆のスピリットが今、アラブに春をもたらしている。

 

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2012/01/09

OSHO ZEN TAROT<27>POSSIBILITIES(可能性) 

Zen040possibilities <26>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <27>

39. POSSIBILITIES(可能性)

 心(マインド)は、どこのどんな境界でも受け容れることができる。だが、現実はこうだ——存在には、その本性そのものからして、どんな境界もありえない。というのも、境界を超えたらなにがあるかね? またしても、もうひとつ別の空。

 私が、あなたの飛翔を空また空がそこで待ち受けていると言うのは、そのためだ。安易に満足してはいけない。安易に満足している者たちは、いつまでたっても小さいままだ。その喜びも小さく、そのエクスタシーも小さく、その沈黙も小さく、その実存も小さい。
だが、その必要はない!

 この小ささは、あなた自身が自分の自由に、自分の無限の可能性に、自分の無限の潜在能力に押しつけたものだ。
Osho Live Zen Chapter 2

解説:

 鷲(わし)は自由に、自然に、楽に空を飛びながら、下の風景に含まれているあらゆる可能性を一望のもとに見下ろすことができます。鷲はまさに自分にふさわしい場所を得て、とても堂々として、みずから満ち足りています。

 このカードは、可能性の世界が開かれているポイントにあなたがいることを示しています。あなたは自分への愛を、みずからの充足をいっそう育んで成長してきたのですから、ほかの人たちとも楽にワークしていくことができます。あなたはリラックスし、くつろいでいますから、ほかの人たちと出会ったときに可能性を見抜くことができます。ときには、彼らが自分で気づく前にその可能性を見てしまうこともあります。

 あなたは自分自身の本性と調子が合っていますから、存在はまさに自分が必要としているものを与えてくれていることがわかるのです。この飛翔を楽しみましょう! そして、あなたの前に広がっている風景の変化に富んだ驚きを、すべて祝いましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation

<28>につづく

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2012/01/08

プロフェット(予言者)<8>

<7>よりつづく

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「プロフェット(予言者)」<8>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p 
★★★★☆

 さて、いよいよ、この本一冊に全エネルギーを注ごうというタイミングがやってきた。まるで、この世に、本というものは、この本一冊しかない、というくらいの姿勢ですこしこの一冊にのめり込んでみようか。あるいは、そうしないと、当ブログは前に進まないところまできている。

 ざっと読み直すと、実に読みやすい本で、ほんの一時間もあれば読みきってしまう本である。訳本もさまざまあり、この訳本がベスト本とは必ずしも言い難いのだが、もっとも長く私の手元にあるという意味では、一番親和性が高い。翻訳には難ありとしないが、大意がつかめれば、それで十分だ。

 「序章 船来たる」は問題ない。美しい。素晴らしい設定だ。まるでそれが事実であるかのように、その世界に入っていくことができる。

 「終章 別れ」。素晴らしい。美しい。こうでなくてはいけない。まるで賢治のポランの広場があったなら、きっとこうであっただろうと思う。理想郷・補陀落を模したとされるポランの広場。そこに連なっていくのが、ジブランの「オルファリースの町」であり、そこはイーハトーブやセンダードとの隣町である。

 ここに12年間滞在していたのがアル・ムスタファ―である。何歳であるのか、どこから来たのか、どこに行ってしまおうとしているのか、それは語られない。でも、ここにいて、人々を愛し、人々に愛され、そして行ってしまうことだけは分かっている。

 彼は誰なのか。何を求めてこの地に来たのか、それも語られていない。それはすこしく、賢治の「風の又三郎」にさえ似ている。どこにもいそうで、さっきまでそこにいたような、そんな存在だ。だけど、なにかが違う。新しい、別の、何かの価値を携えている。

 それを、人々は聞く。聞き、受け取る。受け取りつつ、あるいは語りつつ、人々はひとつになっている。語る者も、それを聞く者たちも、一体となっている。語り、聞く、という図式は、必ずしも役割を分担するためのものではなく、この物語を固定するための、ひとつの風景でしかない。

 じつは、誰もが、役割を分担し、交換し得る。聞くものは聞きながら語り、語るものは、語りながら聞いている。ここに写し取られているものは、ひとつの風景だ。それは、ひとりひとりの心の中にしみ込んでいきつつ、オルファリースの町から、次第に外へ広がっていく。そこにはこの町の延長しかない。この宇宙全体がオルファリースの町となっている。

 美しい風景の中に、ひとつひとつの問いかけが生まれる。愛とはなにか、罪と罰について、苦しみについて、快楽について、死について・・・・。ひとつひとつが根源的でありつつ、とるに足らないテーマにさえ思えてくる。

 この序章と終章を成立させるために、ここにいくつかの問答が行われている、と言っても過言ではない。人はこのような舞台設定があるならば、誰もが詩的になるだろう。これ以上ないような風景の中で、何がどのように語られるのか。

 もうそこにおいては、何が語られたとしても、それはそれで成立してしまいそうな穏やかな風景である。語られる内容が問題なのではない。その風景こそが、すでに成立しているのであり、そこで起こることはすべて、事実と認定してしまっていいのではないか。そう言いたくなる。

 しかしそれでは、当ブログが存在しなくなる。敢えて、この風景の中に、一言挟もうではないか。オルファリースの町の人々の群衆の中に立って、あるいは、アル・ムスタファ―の傍らに立つ、友人となって、ダメ出ししてみよう。

 あるいはシアター・オルファリースの芝居の演出家にでもなったつもりで、自分なりのプロフェットをつくってみようではないか。

<9>につづく

 

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2012/01/07

「私が愛した本」 OSHO<84>意識としての愛の探究

<83>からつづく 

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「私が愛した本」 <84>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
★★★★★

 この本は、当ブログの中心に位置する本である。そして、その中心にカリール・ギブランの「預言者」をおいて見る。そして、さらにその預言者をマンダラ化してみると、その中心に来るのは「愛」ということになる。

 意識をめぐる読書ブログとしての中心は「愛」であった。思えば、あまりにもあからさまに、この本のタイトル「私が愛した本」の中心に「愛」が掲げられていたのだった。

 愛の探究こそもっとも大いなる探検、最大の探究だ。他のものすべて、原子エネルギーでさえそこまでは届かない。アルバート・アインシュタインのような力量を持った科学者になったところで、愛を知らないかぎり、真の探究がどんなものかを知ることはない。 

 それも愛プラス意識だ・・・・・。そうすれば、それは愛の探究になる。この世で最もむずかしい仕事だ。

 くり返させてほしい。それがこの世で最も困難な仕事だ----意識をともなった愛。人は愛に落ちる。人は愛の中で無意識になる。その愛は生物学的なもにすぎない。それは引力だ。人は大地に引きよせられる。だがナラダが語っているのは、それとはまったく別の愛だ。瞑想としての愛、意識としての愛だ。

 あるいは、科学的な言い方をするなら、引力に対抗する浮力としての愛だ。引力(グラビテーション)など墓(グレーブ)にまかせておけばいい。

 浮上しなさい。昇るのだ! そして、人が愛するために上昇し始めるとき、星に向かって飛び始めたとき、それが「アタト・バクティ・ジギャーサ」だ。Osho p56「ナラダ バクティ・ヨーガ」

 当ブログを敢えて、バクティ・ヨーガのひとつ、と位置付けることも可能であろう。

 それも愛プラス意識だ・・・・・。そうすれば、それは愛の探究になる。この世で最もむずかしい仕事だ。

 意識プラス愛の探究、そう呼ぶことも可能であろう。

 瞑想としての愛、意識としての愛だ。

 それをブログという形で探究していたのが、当ブログであった。

 今回、あらためて通読してみると、また、あちこち今まで気づかないところが目についた。特に、以前11冊ほどリストアップしていた「おすすめ本」が、実は他にも数冊あることがわかった。しかしまぁ、今となっては、新たに付け加える必要もなかろう。

 初読時には、あちこちにひっかかって通読などできたものではなかったが、現在においては、殆どの支線についてのフォローができているので、まずはひっかからずに通読することはできるようになった。しかし、一冊一冊については、ほとほと心細いかぎりだ。一冊一冊についても、何れ再読する機会がくるだろう。

 またいまだその存在を確認できないでいる本も数十冊含まれている。永遠に読むことはできないものもあるだろうし、本質的な部分を理解できぬままで終わる可能性もあるだろう。だが、この本における中心というか、へそを見つけたので、もう、それはそれで十分だ、という思いもする。

 現時点から、当ブログの一行紹介を、「意識をめぐる読書ブログ」から「意識としての愛の探究」へと変更してみようと思う。そもそもそれは、くだけて言えば、菩薩行のことなのであり、「読書」や「ブログ」という具象性から離れて、より広範な概念になるだろう。

3.11後にこの本を読むということはどういう意味があるだろうか。3.11とは何であろうか。住居や食事、仕事を求め、与える、という次元の復興から、心の復興と言った場合、あるいは魂の探究、意識としての愛の探究、をテーマとした場合、この本の意味は限りなく高まる。また、そのような道筋として3.11をとらえようとしている当ブログがある。

<85>につづく

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2012/01/06

増補チベット密教 ツルティム・ケサン /正木晃 <8>

<7>よりつづく

「増補チベット密教」 <8>
ツルティム・ケサン /正木晃  2008/05 筑摩書房 
★★★★★ 

 この本についてのコメントはまだ8回目なのか。もっともっと読んだような気もしていたが、実は、巻末のリストの網羅読みの方に力点が入っており、この本自体の読み込みはまだまだ十分ではなかったようだ。

 いずれにせよ、この本は、梅田望夫「ウェブ進化論」、Osho「私が愛した本」、にならぶベスト3本なのであり、道に迷ったら、原点としてのこの本に帰ってくることは、ただしい自分の取り戻し方である。

 今回もザッと一読して思うことは、結局はチベット密教の中心はツォンカパにあり、その主著である「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」に集結していくことは分かったのだが、当ブログがアクセスすべき歴史的ポイントは、ツォンカパの100年ほど前のことである、ということだ。

 ツォンカパは、密教を重視しつつ、しかも県境と密教を統合する立場をとり、インド仏教以来の課題を解決にみちびいた。そして、なによりも、ツォンカパが創始したゲルク派がチベット仏教における最大宗派に発展した事実が、彼の後世に対する影響力の大きさを物語っている。したがって、ツォンカパをもって、チベット密教を(そしてチベット仏教を)、ある程度まで代表させることは可能であるとおもわれる。p069「ツォンカパの生涯」

 各論としてのツォンカパ読み込みはこれからの作業となるが、そこに集約していくことに、なにか落とし穴はないのか。

 政治上の難問は措くとしても、チベット高原という原郷から切り離されたチベット密教が、チベット密教たりうるのか。混迷を深める現代社会に、貢献しうるのか。とりわけ、欧米によってはぐくまれた世界中を席巻している物質文明に、対峙するだけの力をもちうるのか。その真価を問われるのは、むしろ今後であろう。p066「チベット密教の歴史」

 当ブログが追っかけているのは「地球人スピリット」である。必ずしも「チベット密教」ではない。ただ、人類史におけるチベット密教の高みはただごとではない。その本質を相続することは当然のことであるが、その酒は、新しい革袋に入れられる必要がある。

 チベット密教とは、主にチベット人仏教者たちが受容し伝承してきた密教であり、その中核は、8世紀から12世紀のインド仏教界で成立した、いわゆる後期密教(タントラ仏教)である。p021「チベット密教とはなにか」

 当ブログにおいては、禅をひっくるめて、ZENと言い慣わしているが、「チベット密教」もまた、大きな意味において、「タントラ」という新しい革袋に入れ直しておこうと思う。

 近年の研究では、9世紀には大究竟の原型がすでに成立していたといわれ、それには中国の南宗禅系統の頓悟禅の影響があらわであるとされる。8世紀にサムイェー寺において、インドぶっキュと中国仏教のあいだの大論争が展開された事実を考えれば、そして中国仏教の代表者が南宗禅傾倒の頓悟禅だった事実を考えれば、この時期にチベットに中国禅、あるいはその背後にあった道教思想と実践法の影響が顕在化したことは不思議ではない。p198「カギュー派・サキャ派・ニンマ派の修業法」

 そもそもZENとタントラの最終的な地点に大きな違いはないのであって、それらを更にいっしょくたにすることも可能ではないが、この辺あたりはざっくりとそれぞれのカラーを維持している必要はあるだろう。

 瞑想に入り、自分の心が、自分の身体のどこにも存在しないこと。また色彩も形態もほんとうは何処にも存在しないことを理解する。しかし、自分の心こそ、この宇宙に存在するありとあらゆるものの根源にほかならないと認識する。つまり、心は「無」でありながら、森羅万象の根源なのである。p176同上

 「ウェブ進化論」から、たった一語、「ブログ」、という単語を導きだした当ブログとしては、この「チベット密教」から一語だけ抜き出すとすれば、それは「瞑想」ということになるだろう。そして瞑想とは実践法であって、その瞑想において到達すべきものは「意識」となる。

 当ブログが標榜するものは「意識をめぐる読書ブログ」である。この「意識」を意味するところを指し示す一冊として、あえてこの「チベット密教」を遺しておくことに、大いなる妥当性があると思われる。

 新年にあたって、またこの本をざっと通読してみることには、大きな意義があった。そして、3.11後にこの本を読む、というところに、どのような意義があるだろうか。

 地球を宇宙から見下ろして、宗教の広がりを思い描いてみる。仏教はいま、どこに活きているだろうか。そうやって見てみると、「世界仏教」と呼べるのは、おそらく上座部仏教、禅仏教、そしてチベット仏教だろう。この三つの仏教は、国境を越え、東西の境界を超え、世界に広がりつつある。p255上田紀行「解説」

 3.11後に各地で宮沢賢治がたちあがっている。そのスピリットを支えているのは、法華経を中心とした仏教世界である。住まいや身体を復興することもまた大切なことではあるが、精神や霊性を再建するには、仏教、なかんずく、ZENやタントラは大きな力を与えてくれるだろう。

 その見返り、そして再確認のためにも、この本を再読しておく必要があった。

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2012/01/05

OSHO ZEN TAROT<26> MATURITY(円熟)

 

 

Zen079maturity    <25>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <26>

 

78. MATURITY(円熟)

 

 草と花の違いは、自分がブッダであることを知らないあなたと、自分がブッダであることを知った瞬間との違いと同じだ。実際、それよりほかに違いはない。

 ブッダは完全に花開いている、すっかり開いている。彼の蓮(ロータス) 、彼の花びらは、完成の域に達している……。確かに、自分自身が春で満たされていることは、蓮の葉に降りる秋の露よりもはるかに美しい。

 それは見守るにはもっとも美しいもののひとつだ。秋の露が蓮の葉に降り、朝日に照らされて本物の真珠のように輝く——。だが、もちろん、それは一時的な体験だ。陽が昇るにつれて、秋の露は蒸発しはじめる……。

 このつかの間の美は、確かに、あなたの実存のなかの永遠の春とは比べものにならない。できる限り遠くまで後ろを振り返っても、それはつねにそこにありつづけていた。できる限り前に目を向けても、あなたは驚くだろう——それはあなたの実存そのものだ。

 あなたがどこにいようとも、それはそこにあり、花々がたえずあなたに降り注ぐ。これはスピリチュアルな春なのだ。
Osho No Mind: The Flowers of Eternity Chapter 5

 

 

 

解説:

 

 この人物は他に類がなく、静かで、それでいて油断がありません。その内なる実存は花で満たされています——どこに行こうとも、それらの花が春の質を運び、そこに生命の息吹をよみがえらせます。彼が感じているこの内なる開花と全体性には、どんな制限もなく動いてゆくだけのゆとりがあります。

 彼はどの方向にも動いていけます——喜びと円熟が外側のものですり減ってしまうことなどありえませんから、その動きが内へ向かうものであろうと外へ向かうものであろうと、まったく関係ありません。彼は中心に定まり、さらに広がってゆく時期を迎えているのです―まわりの白い輝きは彼の守りであり、彼の光です。

 生での体験すべてが、完成というこの時に彼を導いてきたのです。このカードを引いたときは、この瞬間が贈りもの——つらい仕事をよくこなしたことへの贈りものをたずさえていることをよく知っておきましょう。いまや、あなたの基礎はしっかりと固まり、成功と幸運はあなたのものです。なぜなら、それらはすでに内側で体験してきたものの結果だからです。
Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

<27>につづく

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2012/01/04

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 梅田望夫<45>

<44>からつづく 

【送料無料】ウェブ進化論
「ウェブ進化論」 本当の大変化はこれから始まる<45>
梅田望夫 2006/02 筑摩書房 新書 249p
★★★★☆

 新年にあたり、そして、「地球人スピリット宣言」カテゴリを進めるにあたり、当ブログの原点の一つとなったこの書をまた読みたくなった。ふりかえってみれば、前回読んだのは、わずか一カ月ちょっと前のことであった。

 一度は封印したつもりになっているのだが、どうも未練が残る。この本だけではなく、一連の梅田望夫著書、とくに「ウェブ人間論」あたりを再読したくなるのだが、どうもこの一冊に帰っていく。

 今回読んでみて、すこしづつ一読者としてそぎ落としておきたいところも明確になってきた。巻末の「初出について」を見ると、これはすでにネット上で公開されていた断片を構成して「書き下ろした」ものである。だから、読んでいて、かなり幅があるというか、散漫なイメージがあるのは、止むをえなかったのだ。

 そして、「米国在住」の「経営コンサルタント」が、ITやウェブに関する「アドバイス」を、「アメリカから日本に向けて」している、という構図なのだった。この構図があったればこそのこの書ではあるのだが、一読者として、我がものとしてこの書に語られていることを納得しようとした場合、この著者の特性を薄め、あるいは無化して読みこむ必要があったのだな、と、今回読んであらためて痛感した。

 「映像編集ツールが与えられたからといって誰もが素晴らしい映像を作ることはできない」「音楽編集ツールがあるからといっても誰もがミュージッシャンになれるわけがない」「ワープロソフトが普及したって誰もがいい文章を書けるとは限らない」というのは確かに真実なのであるが、道具の普及が私たちの能力をぐっと高めていくことも、一方で真実である。011「ウェブ社会--本当の大変化はこれから始まる」

 先日スティーブ・ジョブスが亡くなったこともあって、書店の店頭ではジョブス・ブームが起きている。私はマック派で育ってきたわけではないし、彼の業績には必ずしも称賛一辺倒ではないのだが、ある本に「パソコンを生み、進化させ、葬った男」というコピーがあったのは驚いた。

 パソコンをジョブスが生み出さなくても、誰かが作り出しただろうし、進化はおのずと周辺のインターフェイスの進化とともに必然としてあっただろうが、「葬った」とくれば、おおそこまで言うか、ということになる。

 当然、ここでは、音楽配信やツイッター、スマートフォンの隆盛について語られているのだろうが、さて「パソコン」は葬られてしまったのだろうか。これはあくまで文脈上のレトリックで、ジョブスはパソコンを葬ることはできなかっただろう。

 これまでモノの書いて情報を発信してきた人たちが、いかに「ほんのわずか」であったかということに改めて気づく。そしてその「ほんのわずかな」存在とは、決して選ばれた「ほんのわずか」なのではなく、むしろ成り行きでそうなった「ほんのわずか」なのだ。p130「ブログと総表現時代」

 この「ウェブ進化論」に先立つこと四半世紀前、私はアルビン・トフラーの「第三の波」から大変大きなインパクトを受けた。その時受けた印象は産業界の変動とかよりも、自分のライフスタイルと「意識」はどうなるのか、ということであった。あの時に受けた「エレクトロニクス・コテッジ」という概念は、今でも理想で、それはある意味実現していると言える。

 そのエレクトロニクス・コテッジで私は何をやっているかというと、必ずしもIT関連産業ではないが、仕事をし、ビジネスとしての経済活動を行っている。そして、音楽でもなく、映像でもなく、どちらかと言えばワープロ機能を多用する「読書ブログ」を書いている。

 しかし、それは「表現」として「情報」を「発信」しているのだろうか。とてもそうは思わない。一人の人間としての存在証明のための記録としては書いているだろうが、それ以上の意味を求めようとは思わない。

 ブログは個にとっての大いなる知的成長の場であるということだ。p164同上 

 試行錯誤の末、最近は、ブログこそが自分にとっての究極の「知的生産の道具」かもしれないと感じ始めている。p165

 ここにおいてのブログという言葉には、ホームページやソーシャル・ネットワークサービス(SNS)というニュアンスも若干込められていたかもしれない。だが、2012年の現在において、このブログに対置されるものとして、ツイッターやフェイスブックなどのSNSが意識される必要があるだろう。

 本来とても私的な営みである知的生産活動は、常に「全体」という場への貢献を意識して行われるわけではない。だから、「全体」をあまり意識せずに行う「個」の知的生産活動の成果を集積し、そこから自動的に「全体」としての価値を創出することができれば、可能性はさらに大きく広がるはずである。p195「オープンソース現象とマス・コラボレーション」

 当ブログにおける実態を「知的生産活動」と見てしまうことは、ちょっとおこがましくもあり、ちょっと違うなぁ、と思う。最初から他者に向けられているものではなく、別に秘するほどのものでもない、という程度の「ワープロ」活動に過ぎないだろう。

 ネット参加者の一人としては、何処かの、何かのポイントにはなっていたい、という「個」の主張はあるだろうが、「全体」の中における「位置」を自ら探ろうとはしていない。

 今回この本を再読してみて、結局この6年間で残ったのは一つのブログであり、それはインターネット上の、ひとつの「個」としてのポイントとはなっているだろう、という満足感である。それ以上の多くを望まないし、この書における多くの可能性は、どんどんそぎ落とせるものであった。

 今回、この本を正月にあたって再読したのは、他のツルテン・ケサン+正木晃「チベット密教」やOsho「私が愛した本」と同時、という意味あいも込めていた。それらに比した形で、この本から何を学べばよかったのか、ということだった。

 結局、私にWeb2.0という掛け声の中で残ったのは、ブログひとつだけだったのではないか。そして、それはそれで十分だったのだ。

 そして、その残り得たブログは、3.11とどう対峙できるであろうか。あるいは、3.11後にこの「ウェブ進化論」を読んでみた場合、どういう風に印象が変わっているだろうか、ということも関心があった。

 緊急的な情報発信や、広範な交友関係の拡大などを望むのであれば、ツイッターやフェイスブックなどのツールも、3.11に対峙する形で存在し得るだろうが、「個」としての思索を深めるには、ブログ機能は今後ますます必要となるだろう。

 勿論「読書ブログ」を展開するには、ウェブ進化に伴う図書館ネットワークの拡大や、提供視聴覚資料の多様性などの変化が大きな要素となっている。

 正月にあたって確認しておくべきことは、まずはブログを書いているのだ、という自覚だろう。そして、それをいつかは積極的な意味においても書かなくなる地点がある、という認識だ。

 3.11を踏まえ、「地球人スピリット宣言」という集約を目ざし、今年もカタカタとキーボードを叩き続けることになりそうだ。

<46>につづく

 

 

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書は呼吸する~臨書・筆に偉人の人生を発見する~ NHKBSプレミアム

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「書は呼吸する」~臨書・筆に偉人の人生を発見する~
書家・石川九楊・他 2012/01/03 NHKBSプレミアム
Vol.3 No.0579★★★★★

 正月テレビは面白くないのが多いので、なにげにBSにチャンネルを回したら、こちらも、面白くなさそうな書道の番組をやっていた。しかも「臨書」とかいう文芸を紹介している。他の人の書を真似て書いたからどうだってんだ、なんて斜に構えてみていたが、これがなかなか奥深い。

 途中から見たからよくわからなかったが、大久保利通の畳の下敷きを再現しようとするあたりは噴飯ものだな、なんて思っていた。良寛あたりは来客もあり、横目でみていただけだが、なかなか繊細な字にそれだけの多くを見るのか、と半ばあきれ顔。

 「臨書」は、達人の書を正確にまねる書の練習法。書家・石川九楊は「練習やまねの域をはるかに越え、作者の生き方が浮かぶ」という。明治の政治家・大久保利通、ぐいぐい筆をねじ込む力強い書は当時の流行。西郷隆盛に通じるが、正確にまねると力強さの直後に繊細な筆運び!墨を付け直したか否か?石川が検証し、「なぜ大久保は書の途中で繊細になったか」筆跡を見極めようとする。良寛の書、宮沢賢治の鉛筆筆跡にも石川が挑む。
【出演】書家・大学教授…石川九楊,東京学芸大学准教授…加藤泰弘
【朗読】中嶋朋子 
番組案内より

 ところが、最後になって、宮沢賢治の段になって、ギョギョとテレビ画面に引きつけられた。でてきたのは宮沢賢治、しかも「雨ニモマケズ」手帳だ。

Photo_2

  この手帳は別に目新しくないが、林風舎から借りてきた精巧なレプリカを手本に、同じような手帳の上に臨書しようというのである。

 この時すぐに話題になったのは、雨ニモマケズの「モ」が横にそれていて、後から書き加えられたものだろうという推測。そして、どの段階で書き加えたかだが、「雪ニモ夏ノ暑サニモ」の段階では、キチンと一行に書かれているので、この段階で、前に戻って書き加えられたものだろう、という結論になる。これで語調が七五調になったので、より多くの日本人に愛されたのだ、という。

 そして、当ブログでも以前話題になった「行ッテ」の部分に注目する。

Photo_3

 臨書であるがゆえに気付くデリカシーだ。そして、この「行ッテ」の中に、「行」があることに注目する。この詩の最後に書かれている曼荼羅の中に「行」が4つ入っているのである。

南無無辺菩薩
南無上菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄菩薩
南無安立菩薩

 この菩薩名の中の「行」と、「行ッテ」の「行」が同じものかどうかは定かではないが、深読み賢治ファンなら、それも在り得ると同感するに違いない。

 当ブログにおいては、夢枕獏「上弦の月を食べる獅子」におけるアーガタと、アガータの類似性について暗黙のうちに追いかけてきたわけだが、そこには如来の意味があった。「行ッテ」しまった者である。

 救いを求める者のところまで「行ッテ」声をかけることと、自らの精神性の中で、彼岸まで「行ッテ」しまいながら、その子供や母親や死にそうな人々のもとに「行ッテ」いることは、賢治の世界では一体化されていなければならない。

Manndara

 なるほどなぁ、そういう風に考えてみれば、臨書という芸術であるからこそ見つけることができた賢治ワールドの一端かもしれない。いやいや、ここに賢治の本質がある。

 

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2012/01/03

ロード・オブ・ザ・リング<3> 王の帰還

<2>からつづく


「ロ-ド・オブ・ザ・リング」<3>王の帰還
原作:J.R.R.トールキン 制作年:2003年 制作国:アメリカ DVD 179分
Vol.3 No.0577★★★★☆ 

 三巻の完結編。映像もどこか安定して、カラフル。

 せっかく家族が画面から目を離さないでみているのだから、あんまりなことは言いたくないが、どうも私はこの映画は、やっぱり趣味ではないな。

 原作を読んでいないからよ、と家族は言う。そうかもしれない。でも、「原作でも、こんなに戦争がでてくるの」と聞けば、「そうよ」と来るので、私はあまり戦いモノは好きでないなぁ。延々と原作で戦争の話しを聞かされるのでは、たまったものではない。

 不思議な指輪の魔力に、周囲のモノばかりか、主人公まで引きつけられていくわけだから、なかなかストーリーは人間の性の機微まで描きだしてはいるのだが、そこまでたどりつくのに延々と長文を読まされるのはちょっと困ったものだと思う。

 映画としても、壮大なスペクタルが、特撮やCGを駆使されて造られ込まれているだけに、むしろ、その技術がどこかうわっ調子にさえ感じられてくる。科学や技術と、芸術や美術が融合した作品と見ることもできないが、当ブログとしては、そこから意識へと繋がっていく糸口が欲しい。

 コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、が当ブロ部の3Cチェックポイントだ。もちろん、この映画にコンシャスネスを見つける人たちもいるのだろうが、どうも、私のような無粋な映画シロートには、どうもそこんとこが見い出すことができない。

 もうすこし、一回りしたら、もう一度、「指輪物語」にも想いをめぐらしてみよう。

<4>につづく

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2012/01/02

ロード・オブ・ザ・リング<2> 二つの塔

<1>からつづく


「ロード・オブ・ザ・リング」<2> 二つの塔 
原作:J.R.R.トールキン 制作年:2002年 制作国:アメリカ DVD 179分
Vol.3 No.0577★★★★☆

 二巻目となれば、この映画の見方も少しは分かってきた。なるほど指輪にまつわる人間の使命と欲望の葛藤のお話だ。ファンタジーと幻想と、コンピュータグラフィックスの融合で、ぐいぐいと物語の中に引きずり込まれていく。

 それにしても、なんでこんなに戦いのシーンが多いのだろう。個人的にはチャンバラシーンはあまり好きではない。チャンバラさえなければいいのにな、と言ったら、家族は、それじゃぁ見るところなくなるじゃない、という。

 1892年生まれのトールキンが書いたというだけあって、どこか前今日的でもあり、戦争はあたりまえのファクターとして取り込まれている。宮沢賢治の4年先輩だ。アナクロな時代設定と、時間と歴史を乗り越えるストーリー展開が、逆にこの作品のリアリティを高めている。

 人間は自らの使命を欲しがっている。自分が生きる意義。一体自分は誰か、何故自分は生きているのか。生きる目的はなにか。何のために生きるのか。愛するために戦わなければならない、そう思いこみつつ、戦いさえする。

 それにしても、3時間に及ぶ作品は圧倒的だ。

<3>につづく

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2012/01/01

ロード・オブ・ザ・リング<1>


「ロード・オブ・ザ・リング」<1>
原作:J.R.R.トールキン 制作年:2001年 制作国:アメリカ DVD 178分 受賞履歴:アカデミー賞撮影賞/アカデミー賞作曲賞/アカデミー賞メイクアップ賞/アカデミー賞視覚効果賞
Vol.3 No.0576★★★★☆

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。2012年元旦。

 3.11のあった昨年のこと、年は明けたとは言ってもあまりめでたくはないので、今年の年賀状は控えめにしよう、という動きが強い。それでも、仕事用に、年に一度の挨拶はどうしても必要である。ひさしぶりの知り合いや友人たちからの年賀状はうれしい。

 他の行事も控えめにして、今年の正月は、あらかじめ借りていたDVDで「ロード・オブ・ザ・リング」三部作を見ることにした。12月に一部見かけたのだが、それぞれ3時間に及ぶ大作の3部作なので、ちょっと年末の忙しい時期に見ることはできなかった。

 ホビット村やら指輪物語やら、昔から気にはなっていた作品ではあるが、なかなかまとめて読むことも見ることもできなかった。石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作の巻末に「引用作品」とあるかぎりは、こちらの面からもぜひ一度見ておきたかった。

 指輪にまつわるストーリーの展開、そしてファンタジックな映画の創り方は、まずまずのエンターテイメントということで、さまざまな賞を総なめするのはわかる気がする。家族はすでにみんな見ているのに、見ていないのは私だけ。いろいろ聞きながらも、見どころをチェックする。

 しかしまぁ、子どもたちのロマンをかきたてるのはいいとしても、大人たちもこの作品に魅力を感じるのは、みんな自らの人生の中に、このようなストーリー性を求めているのだろうなぁ、と思う。

 伝説は歴史となり、歴史は神話となる。言い伝えが伝説になり、伝説が神話になっているところこそ、一番危ない、と言っていたのは「仙台平野の歴史津波」の飯沼義勇だった。おはなしだから、リアリティがない、なんて遠ざけていては、見失ってしまうことも多い。

 今年は、心あらたに、ファンタジックな世界やら、物語の世界も積極的に旅していこうと思う。方向性を見定めつつ、幅も広げながら、ことしも、図書館通いが続きそうだ。

<2>につづく

 

 

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