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2012/01/07

「私が愛した本」 OSHO<84>意識としての愛の探究

<83>からつづく 

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「私が愛した本」 <84>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
★★★★★

 この本は、当ブログの中心に位置する本である。そして、その中心にカリール・ギブランの「預言者」をおいて見る。そして、さらにその預言者をマンダラ化してみると、その中心に来るのは「愛」ということになる。

 意識をめぐる読書ブログとしての中心は「愛」であった。思えば、あまりにもあからさまに、この本のタイトル「私が愛した本」の中心に「愛」が掲げられていたのだった。

 愛の探究こそもっとも大いなる探検、最大の探究だ。他のものすべて、原子エネルギーでさえそこまでは届かない。アルバート・アインシュタインのような力量を持った科学者になったところで、愛を知らないかぎり、真の探究がどんなものかを知ることはない。 

 それも愛プラス意識だ・・・・・。そうすれば、それは愛の探究になる。この世で最もむずかしい仕事だ。

 くり返させてほしい。それがこの世で最も困難な仕事だ----意識をともなった愛。人は愛に落ちる。人は愛の中で無意識になる。その愛は生物学的なもにすぎない。それは引力だ。人は大地に引きよせられる。だがナラダが語っているのは、それとはまったく別の愛だ。瞑想としての愛、意識としての愛だ。

 あるいは、科学的な言い方をするなら、引力に対抗する浮力としての愛だ。引力(グラビテーション)など墓(グレーブ)にまかせておけばいい。

 浮上しなさい。昇るのだ! そして、人が愛するために上昇し始めるとき、星に向かって飛び始めたとき、それが「アタト・バクティ・ジギャーサ」だ。Osho p56「ナラダ バクティ・ヨーガ」

 当ブログを敢えて、バクティ・ヨーガのひとつ、と位置付けることも可能であろう。

 それも愛プラス意識だ・・・・・。そうすれば、それは愛の探究になる。この世で最もむずかしい仕事だ。

 意識プラス愛の探究、そう呼ぶことも可能であろう。

 瞑想としての愛、意識としての愛だ。

 それをブログという形で探究していたのが、当ブログであった。

 今回、あらためて通読してみると、また、あちこち今まで気づかないところが目についた。特に、以前11冊ほどリストアップしていた「おすすめ本」が、実は他にも数冊あることがわかった。しかしまぁ、今となっては、新たに付け加える必要もなかろう。

 初読時には、あちこちにひっかかって通読などできたものではなかったが、現在においては、殆どの支線についてのフォローができているので、まずはひっかからずに通読することはできるようになった。しかし、一冊一冊については、ほとほと心細いかぎりだ。一冊一冊についても、何れ再読する機会がくるだろう。

 またいまだその存在を確認できないでいる本も数十冊含まれている。永遠に読むことはできないものもあるだろうし、本質的な部分を理解できぬままで終わる可能性もあるだろう。だが、この本における中心というか、へそを見つけたので、もう、それはそれで十分だ、という思いもする。

 現時点から、当ブログの一行紹介を、「意識をめぐる読書ブログ」から「意識としての愛の探究」へと変更してみようと思う。そもそもそれは、くだけて言えば、菩薩行のことなのであり、「読書」や「ブログ」という具象性から離れて、より広範な概念になるだろう。

3.11後にこの本を読むということはどういう意味があるだろうか。3.11とは何であろうか。住居や食事、仕事を求め、与える、という次元の復興から、心の復興と言った場合、あるいは魂の探究、意識としての愛の探究、をテーマとした場合、この本の意味は限りなく高まる。また、そのような道筋として3.11をとらえようとしている当ブログがある。

<85>につづく

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