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2012/02/09

足に土―原人・アキラ  須貝 アキラ 追悼集 <2>

<1>からつづく

Ashi
『足に土――原人・アキラ』 須貝 アキラ 追悼集<2>
やまびこ編集室 1998/9  共同編集・発行 人間家族編集室 A5判・284P

 思いもよらぬ経緯で、この本を思い出し、久しぶりにめくり始めた。全体は次のような構成になっている。

序章 
第1章 アキラの生きた時代
第2章 ぐるうぷ・もぐら 東京時代 (1970~73年)
第3章 農業コミューン時代 (1974~80年)
第4章 大鹿時代 (1981~97年)
第5章 大鹿村の人々
第6章 闘病生活
終章

 こうして見ると、私が知っていたアキラは第3章までで、大鹿村時代以降については知らないということになる。私が福島県川内村の漠原人を最後に訪れたのは1980年代の末のことだったと思うが、その時は、すでにアキラは獏にはいなかった。

 ゆっくりと読み直し、今ようやく第2章まで読み終えたところだが、ここまででも、いろいろなことが分かってきた。須貝アキラ年譜(p14)の関連のところだけ抜き出してみる。

1965(昭和40)年 18歳 3月、高校卒業、集団就職で東京金町(日本紙業)へ。労働運動と政治運動にかかわる。

1970(昭和45)年 23歳 「土が欲しいもぐらの会」学習会始まる。

1971(昭和46)年 24歳 東京普通にて「ぐるうぷ・もぐら」の一軒家の共同生活が始まる。山岸会特別講習研修会(特講)に参加、途中で抜け出すが、杉浦剛と出会う。

1973(昭和48)年 26歳 浦和の生活共同体「もってん」と合併

1974(昭和49)年 27歳 福島へ移住。当初文字(もんじ)に借家、道路修理など。半年後、「漠」の地へ移る。11月、星の湯第2回「版文化合宿」。「星の遊行群」を名乗る。

1975(昭和50)年 28歳 「ミルキーウェイ・キャラバン」 6月、もぐらを去り、谷地に「原人部落」を開設。秋、原人部落、高部に移る。

1976(昭和51)年、29歳 秋ごろ、「ひまわり農場」で家造り。

1977(昭和52)年、30歳 もぐらが去った後の漠の地へ移り、「漠原人」を名乗る。秋、ひまわり農場を解体。

1978(昭和53)年 31歳 秋ごろ、漠を出て新たな土地を探す。福島・手古岡に移る。

1979(昭和54)年 32歳 手古岡をベースに四国、信州など土地探し。p14「年譜」やまびこ編集室

 このあと、延々と1997年の50歳まで続くわけだが、つくづくアキラは幸せな男だったなと思う。それこそ宮沢賢治が弟の清六や天沢退二郎などによって、事細かにフォローされたように、アキラもまた、きっちりとその人生がトレースされているかのようだ。

 そして、よくよく考えてみれば、アキラと私の接点は、1974~1975年当時、ということになる。そして、宮城県北部山間の「星の湯」での合宿というのは、私たち雀の森が発案して前年に始めていたことであり、そこに「版文化合宿」というニュアンスを注入したのは、東京練馬のトモやキコリたち参加する都市コミューン「蘇生」グループのアイディアだった。

 その合宿で、合宿の場となった「星の湯」にかけて、キコリあたりが「星の遊行群」という名前に仕上げた。キャラバン、というスタイルは、もともとは1972年に、私たちが行った80日間日本一周がベースになっており、大部分がヒッチハイクで移動した。

 その後、1974年のキャラバン「性感隊」を経て、1975年の「ミルキーウェイ・キャラバン」へと発展していくのである。

 そうか、あの時、1974年、アキラは星の湯に来ていたのか、とあらためて確認した。なんせ寡黙な存在なので、目立った発言はなかったように思うが、静かに議論の中に存在する彼らしい参加の仕方だったのだ、と思う。

 アキラは、福島に移って一年半ほどで「もぐら」を出た。が、アキラはいつも人の輪を広げていくのが楽しみだったから、色々な所で「遊びにおいで」と言っていた。それは「ぐるーぷ・もぐら」が立ち上がった時からそうだったし、遊びに来て気がついたら一緒に暮らしていた、なんていうのがほとんどだった。

 しかし、あまり落ち着いた生活ではなかった。いやアキラは、落ち着くというより騒がしさの中に自分を置くことが好きだったのかもしれない。そうだ、それこそが、アキラにとっての自分探しの旅だったのだろう。p50金野マロ「おだやかな時のながれそのもの」

 その土地の主要メンバーだったはずのマロは、キチンとアキラを見ていた。「騒がしさの中に自分を置くことが好きだった」という表現は、実にうまい、と思う。

 そしてさらに思うこと。橋本農場、もぐら、原人、漠、などと断片的にしかしらなかった当地の動きだが、実に激動していたのだな、ということ。さらに、アキラは、その地に、それほど長くはいなかったのだ。

 今、3.11を契機に、漠原人がいまだに存在している意義を再考してみるに、やはり、その出発点の中の一人としてアキラが存在したことは大事なことだし、また、この頃、福島原発もまた、動き出していたのだ、という同時代性のことであった、ということについてである。

 福島第一原発は、1971年3月に営業運転を開始している。

<3>につづく

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