足に土―原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集 <3>
『足に土――原人・アキラ』 須貝 アキラ 追悼集<3>
やまびこ編集室 1998/9 共同編集・発行 人間家族編集室 A5判・284P
★★★★★
「第3章 農業コミューン時代(1974~80年)」まで読み進んだ。ここまで登場しただけでも、すでに40人以上。3.11後、あれほど読むことが苦痛だった、複数の書き手が語るオムニバス形式の本だが、おなじ形式でも、この本は、なんとも楽しみながら、しかもゆっくりと読むことができる。
何が違うのだろう、と考えてみた。地震についてであれ、津波についてであれ、あるいは原発についてであれ、通常の書き手であれば、ほとんど、他者のこととして、なかば評論家として、他罰的に、あるいは無力な第三者として、無責任な惑いの言葉を連ねることになってしまう。
ところが、こちらは「アキラ」という実在した個人を媒介としながら、ひとりひとりの書き手が自らを語っていることが多い。私の文章などは、むしろ、ひたすら自らを隠している文章に属する。ひとりひとりが、自らを語ることによって、それこそ漠とした「アキラ」という人間像が、すっきりと野に立ち上がることになる。
アキラとの出会いは24年くらい前、当時福島に住んでいたワカの所だ。そのころアキラは「もぐら」という共同体に住んでいて、近くのワカの所に仲間と時々遊びに来ていた。冬でも雪が結構あって格好もボロに長靴で、とんでもない奴らが住んでるなと思ったものだ。俺は、ワカの所にやっかいになって、その後、時々「もぐら」に遊びに行っていたりした。p99「福島でのアキラ」風見正博(マサイ)
2月7日から始まった朝日新聞 「プロメテウスの罠--原始村に住む」に登場する、「東京都出身、61歳」の人物である。本名を知っている友人たちはそう多くないだろう。通常はマサイという通り名で知られている。ワカとは、前に橋本兄弟農場と書いたところの、兄貴のほうである。体は小さかったが元気でよく体の動く若者だった。
それから数カ月して、アキラは「もぐら」を出て、そして俺もボケとワカの所を出て、アキラとほかの何人かと一緒に入植地を交渉するために、同じ川内村の今野さんという人の物置に住まわせてもらった。そこで、今野さんの飼っているカイコの世話を手伝いなどしながら、しばらく暮らした。p99「福島でのアキラ」風見正博(マサイ)
橋本農場、もぐら、漠、原人、漠原人、もぐらバク、など、さまざまな呼称が使われているが、どれも、正式な固定化された名称ではないようだ。場所も、いくつか移転しているようである。
結局その土地の交渉は実らず、少し離れた、いわき市の高部という所に土地が見つかり、キャラバン(編註1975年ミルキウェイ星の遊行群キャラバン)に行っていたアキラを、北海道までヒッチハイクで迎えに行った。
今野さん所に建てた家は、皆で足で押し倒して片づけた。きっとこういうことで、俺は何かを学んだのだと思う。今でもこのあたりの仲間は皆、自分で家を建てているが、アキラの精神が、こういうところにも生きているのだと感じる。p100同上
次から次と新しい環境が生まれるので、そのひとつひとつを体験した人物でなければ、その辺の事情を把握するのは難しい。ただ、結局は、獏、あるいは獏原人、という流動的な人々の繋がりがあった、ということになるのだろう。そしてその繋がりをサポートする大地があり続けた、ということだ。
2年後の春、「もぐら」は解散状態になり、漠(「もぐら」のいた所)は、だれもいなくなったので、皆で獏に行こうぜと高部には3人ほど残り、アキラを始め俺とボケ、マモル、ヒコたち5,6人で、獏に入った。p100同上
1970年代の、若い世代の動きである。
アキラはなぜか、「原人村」のことを「もぐらバク」と称していた。今考えてみると、アキラは一度は「もぐら」を出ても、新しい仲間を連れて「もぐら」に戻ったという感じだったのかもしれない。それだけ「もぐら」に青春を賭けていたのだろうし、「もぐら」の仲間たちを愛していたのだろう。しかし、そのころの俺には、「もぐら」にこだわることがわからなかったし、こだわられることがいやだった。p101同上
私は、個人的には「もぐら」のほうがリアリティがある。「獏」はもともとの地名であったとも言われるが、もぐらは、東京で70年に始まった「土が欲しいもぐらの会」が、ついに福島に見つけた「土」のイメージがある。
そしてしばらくして、アキラは獏を去った。今でも、その時のアキラの気持ちを思うとつらい。俺は、去っていくアキラの意志も、継いでいかなくてはと思った。p101同上
年表によれば、アキラが獏を出たのは1978年秋ごろとされており、これまでのアキラとマサイの「共同性」は実質的にはこの地点でおわり、マサイの「獏」が本格的に始まった、と考えていいのだろう。
ここに、私の個人史を挟むのも気が引けるのだが、仁義上書いておけば、私は1975年のキャラバンの途中で、Oshoの「存在の詩」に出会い、「時空間」を休刊し、1976年初冬、雀の森を出た。それから旅行資金をためるため印刷会社で働き、77年秋にインドに旅立った。帰国したのは78年暮れ。79年には、瞑想センターを開始しながら、農業実践大学校での2年間の寮生活が始まった。
あのまま人生が進行していけば、またどこかでアキラや獏や農業と密接にクロスする場面もあったのだろうが、80年代始め、卒業を眼の間にして、私は病を得た。後で知ったことではあるが、私はその時、余命半年と宣告され、一生太陽にあたってはいけない、とさえ申しわたされた。実質的に、私の農業志向は、この地点で終了した。この辺の経緯はほかに書いたこともある。
さて、この「足に土」が編集されたのは1998年のことだが、この時点でのマサイの註では、福島県双葉郡 獏原人村、となっている。
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