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2012/02/11

足に土―原人・アキラ  須貝 アキラ 追悼集 <4>

<3>からつづく

Ashi
『足に土――原人・アキラ』 須貝 アキラ 追悼集<4>
やまびこ編集室 1998/9  共同編集・発行 人間家族編集室 A5判・284P

 第4章大鹿時代(1981年~97年)、第5章大鹿村の人々、となると、私には分からないことばかりで、読めば新鮮な内容だし、関わっている人々も、一世代若い人々が混じり始めているようである。

 しかし、この文集には100名以上の人々が文章を寄せており、必ずしも時代々々で人間関係がすっかり変わっていたわけではない。例えば、「アキラと時代と私」(p178)の河本和朗(カズ)などは、かなり長い間、アキラと親交を保っていた筈だし、大鹿村ではかなり近い距離で生きていたと思われる。彼は、カズ、という名前より、札幌の「ねずみ」のほうが私には親近感があるのだが、それはまたちょっと私的過ぎるだろう。

 初めにアキラに会ったのは、1974年11月16日から10日間、東北の奥羽山中、中山温泉の湯治場「星の湯」での合宿だったと思う。p178河本和郎「アキラと時代と私」

 この星の湯こそ、前年の73年に私たち雀の森が合宿に使い始めた湯治場だ。県内で一番安く泊まれる宿泊場所を電話帳で探して見つけたスペースだった。流峰のバイクに乗って、あの場所を探しに行った時のことを覚えている。それにしても、あの74年の合宿は10日間だったのか、とあらためて溜め息。昨年2011年の夏に、その地を訪ねてみたが、すでにあの時の宿は廃止となっており、少し上のほうに新しい世代が新館を立てて、今も経営している。

 「星の湯」は完全な自炊の湯治場で、煮炊きはすべて七輪だった。玄米と炭を持ち込み、一つ部屋に寝起きし、一つ風呂に入った。小さな湯船に全員すし詰めに入り、だれかが「AUMマントラ」を唱え始め、それが自然に全員の合唱になった時の一体感は、忘れられない。まるで、理想社会が出現したように思えたものだ。p178同上「『星の遊行群』1974」

 そうだったねぇ、あの時のマントラはすごかった。湯治場の浴室が反響し、正に雪の中から空に向かって、おおきなバイブレーションを送り続けているようだった。夜空に飛翔していた。

 「星の湯」合宿の最後に、参加者は湯治場の名をとって「星の遊行群」と名のり、翌75年に沖縄から北海道へのキャラバンをやろうと呼びかけた。

 これは「ミルキーウェイ・キャラバン」という名で、予想を超えた規模になった。自分に言わせれば、「部族」などのアーティスト系、「オーム・ファンデーション」や「日本妙法寺」などのインド系、「星の遊行群」などの共同体系が、互いに知り合うことになった画期的なものだった。「・・・系」などというのは、ただ通ってきた道筋に過ぎない。ここで知り合うとは、信じ会うということだ。

 ただしアキラには、キャラバンは初めのイメージとはかけ離れたものに感じられたようだ。一つは大規模になり過ぎたこと。もう一つは、百姓に基礎を置くものではなくなったことだ。私は大雪山越えコースなど、北海道でキャラバンを準備したけれど、終点の藻琴山にもアキラは現れなかった。p179同上

 この辺あたりの大塚ルーシーの文章によれば、「星の遊行群事件」という表現にさえなっている。

 ヒッピー、カウンターカルチャー全盛のこの時、「星の遊行群」(日本中のラブ&ピースのポイントを縦断するツアー)というムーブメントが起こり、その東京の実行委員会で、奛(アキラ)が「もぐら」の参加を決定してきてしまったことから、内部の二つの流れが一気に表面化しました。

 生活者として暮らし始めた私たちにちにとって、旅人を迎え入れるだけの、時間とエネルギーがとれるのかどうかが、問題となりました。

 また一つの取り組みに対し、全員納得で取り組む=ことばで理解しあう方法と、ことばでの確認がなくても、愛とやる気さえあれば何でもやっていけるという方法の違いが、くっきり浮き出てしまいました。

 このような話し合いが起こること自体が、奛(アキラ)には信じがたいことだったように思います。「ことばがすべてじゃないだろう」と。

 話し合いはどんどん煮詰まって、「出るか、留まるか」に至り、結果、「獏」を去ることになった奛(アキラ)とハルは、新たな共同体「原人」を作っていくことになります。p56大塚ルーシー「私の原点」 星の遊行群事件

 私はこの1975年のキャラバンは、九州宮崎の海岸にあった「夢見るヤドカリ族」から、北海道の札幌の友人宅まで参加した。出発点の沖縄にも到達点の北海道藻琴山にも参加しなかった。九州から北海道までずっとヒッチハイクだったし、途中で友人たちと合流したり離散したりして移動した。私なりの感触があった。

 仙台にたどりついた時には、すでにみんなが北海道に向かって出発した後だったが、雀の森の廊下に、ポツンと「存在の詩」が置いてあった。誰もいない廊下でパラパラとめくったのだが、何が書いてあったとか、誰がすすめてくれたのか、とか、そういう問題ではなく、ガタガタと何かが崩れていくのを感じた。

 その後、どんどん、自分の中では別の何かが動き始め、そのころ編集していたミニコミ雑誌を11号で休刊し、4年間暮らした生活共同体を出ることを決意することになる。呉越同舟のミルキーウェイ・キャラバンではあったが、もしアキラが農業、なかんずく「百姓」の理想像を求めていたとすれば、私が求めていたのは、その時ははっきりと言葉としては明確になっていなかったが、今でいうところのスピリチュアリティであったのだと思う。

 アキラは宗教的な言葉や、儀式による表現を行わなかった。アキラにとっては、百姓であること、人の手助けをすることが、彼の表現だった。

 けれどもアキラは、とても宗教的な人だったと思う。アキラは人間に対する信頼をもち続けていた。人を信じ、受け入れ、それが自分の望んでいたものと違う結果になっても、また人を信じ、受け入れてきた。アキラは、私たちの中でも最も宗教的な人物かもしれない。p183河本和郎「アキラと時代と私」 形から心へ

 農業や百姓、というものに対する私の見方は、ちょっと捻じれている。私は、東北の農家に生まれ、百姓という生き方は、ごく当たり前で、ひょっとすると、それ以外の生き方を見たことないような環境に育った。

 ただ今考えれば、ちょっと特殊な農家であったかもしれない。まず地区では一二を争う耕作面積を平地に持っていたし、冬場の仕事も確立していて、完全に自立した農家だった。常時住みこみの働く人々が数人はいたし、地域の人々も常に働きに来た。家族も常に10人以上だったので、まるで、ひとつの農業コミューンだったのである。

 それは、特別に我が家だけの「特殊性」ではなくて、親戚や地域のネットワークには、そのような自立した専業農家は多かった。母親の実家もそのような農家だった。だから、農家、百姓、と言えば、そういうものだ、という先入観が強かった。

 18歳以降、カウンターカルチャーの旅の中で、沢山の友人たちが、農業や百姓を口にし、またそのような暮らしを試みたが、自分の生家の実態を超えているところはなく、山岸会や北海道の牧場などでさえ、私には魅力的には見えなかった。結果的には、私には、82年の夏に訪れたアメリカ・オレゴンのコミューンが一番、魅力的に思えたのだった。

 私は私なりに、実践農業を学んだり、可能性のある土地を求めたりしたが、いまだに農業や百姓は遠い道である。もっとも、私の生家も、その親戚筋の多くも、すでに生計の中心は農業から離れている。これもまた1970年に始まった減反を象徴とした、農業切り捨て、工業優先の国家政策の結果であろう。農業ではなく、工業立国へ。そして経済大国へ、という道すじの中で、原発開発も急がれてきたのだった。

 1982年、アキラを大鹿に訪ねた時には、もう思想を熱っぽく語る時代は終わっていた。思想がもたらす対立には、うんざりしていた。アキラは、「本は一生の間に枕の高さに積めるだけ読めば良い」と言っていた。(本当は読書家だった)。

 だれもが田舎に住めるわけでもないし、畑を作る条件に恵まれているわけでもない。積極的に都会地を活動の場に選ぶ者もいる。「自分は好きでこうして田舎に住み、百姓をしているのだ」ということで、ほかのすべての立場を受け入れようとしていた。p183同上「形から心へ」

 カズの文章は20ページに渡っており、この追悼集に中ではもっとも長文でまとまった文章になっている。同じ後半生を同じ大鹿村で過ごした仲間であるがゆえに、実に的確にアキラの人生をまとめてある。

 おそらく、アキラがこの25年以上の間で唯一、外に向かって行動したのは、1988年1月24日~25日、四国の伊方原子力発電所出力調整実験反対と、同年8月16日~17日の、大鹿から静岡の浜岡原子力発電所へのランニングだった。

 70年ごろを最後に政治闘争をやめ、百姓共同体を目ざしたアキラだったが、大地そのものを殺してしまう原子力発電所についてだけは、どうしても反対の意思表示をせざるを得なかったのだろう。p192同上「チェルノブイリ原発事故」

 すでに長野の大鹿村に移転していたアキラやカズにとっては、福島原発よりは、西日本の原発の動きに敏感だった。この時代に行われたランニングに、私も福島から宮城まで参加し、走った。

 カズの文章はここから、原発についての考察が長く続く。すでにこの本の出た1998年の段階で日本のエネルギー政策が変わっていれば、今度の3.11に繋がる原発事故は起きなかった可能性は大だ。

 「国破れて山河あり」という言葉がある。大地さえ健全ならば、また耕し復興してける。だが、大地そのものが汚染されてしまったら、どうしようもない。野菜が大量に廃棄された西ドイツと、チェルノブイリ原発の距離を考えると、日本で同じ規模の事故が起きれば、日本全土の作物を廃棄しなければならなくなる。

 高濃度汚染されてしまえば、住み続けることすらできなくなる。低濃度汚染でも、百姓は不可能になる。原発事故は、私たちの夢をを土台から奪い取ってしまう。

 しかし、ついにこのような大事故が起こってしまったのにもかかわらず、日本では原発廃止どころか、相変わらず増設計画が推し進められていた。p192同上「チェルノブイリ原発」

 ここからさらに原発談義が続くが、次回に譲る。これは1980年代の話である。2011年になって、3.11で大事故が、しかも、国内で起こっているにも関わらず、廃止どころか再稼働の声さえでてくる。一体どうなっているのだろう。

 当ブログにおいて、この本が登場したのは、朝日新聞の「プロメテウスの罠」の記事がきっかけだった。福島第一原発と、そこから25キロにある双葉郡川内村の農業コミューン「獏原人」の対比、拮抗、と言う形だ。記事によれば、すでにその地に残っているのはマサイ唯一人。あとは避難せざるを得なかった。

<5>につづく

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