「宮沢賢治」 存在の祭りの中へ 見田宗介 <1>
「宮沢賢治」 存在の祭りの中へ <1>
見田宗介 1984/02岩波書店 四六 277頁
Vol.3 No.0617★★★★★
山尾三省「野の道 宮沢賢治随想」(1983/11 野草社)の中で、見田宗介は、別名の真木悠介の名前で、前文を書いている。
三省にはじめてこのことができたのは、三省がみずからもまた賢治とおなじに<野の道>をゆくものであり、だから賢治を語るものではなく、賢治と呼応して語ることのできるものであるからである。
<野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さをともになおも歩きつづけることなのだと思う>
それは三省の長靴とおなじくらいに身の丈どおりの歩幅のことばでありながら、そのままで賢治の思想の芯のところを、ぼくたちの時代のことばとして語っている。9183年9月21日 真木悠介「野の道 宮沢賢治随想」p5「呼応」
ちょうどこのころ、見田(真木)は見田なりに、自らの賢治論を書いていた。時代を反映してか、やたらと傍点が多い文章だが、ちょっと時代がかかった文章の割には、その明晰性を失わず、最後の最後まで読ませてしまう。
わたしはこの本を、ふつうの高校生に読んでほしいと思って書いた。<20世紀思想家文庫>のほかの本とはちがって、「エピステーメー」とかそのほかの現代思想の用語を、読者がはじめから知っているものとしては書かなかったのもそのためである。p274「あとがき」
なんだぁ、やっぱりそうだったのか。
じっさいには、ふつうの高校生が読むにはむつかしすぎる、という批判がよせられるだろう。やさしく書くことで、わたしが言いたいと思っていることの核心をうすめることはしたくなかったからである。p275同上
当ブログにおいては、見田(真木)の本は何冊かめくってきた。「気流の鳴る音 交響するコミューン」、「まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学」、「社会学入門 人間と社会の未来」、「創られながら創ること 身体のドラマトゥルギー」など。あるいは、山尾三省「野の道 宮沢賢治随想」、おなじ三省「自己への旅―地のものとして」をはじめ、吉福伸逸「流体感覚」、伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」、河合隼雄「心理療法対話」、「足に土―原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集」などにも、散発的に登場する。当ブログとしては未登場だが、「時間の比較社会学」なども長いこと我が蔵書として存在している。
Oshoが、私の本は日本の大学のテキストとして使われている、という時、その筆頭は、この東大の社会学教授の名前が挙がるだろう。ネット上の「世界からOSHO に贈られた評価」のなかで、筆頭に見田の名前が見える。
イスラム教のある一派が集団でおこなう儀式のひとつで、ラジニーシ派の瞑想法にとりいれられているもののうちに、両手を高くあげたまま「HOO、HOO、HOO、HOO」と叫びながら、みんなで高く飛びあがるというものがある。
「なめとこ山の熊」のおわりには「回々教徒の祈るとき」の姿勢が出てくるが、賢治がこの一派のHOO、HOO、HOOとはねあがる儀式を知っていたという確率は少ないと思う。それよりむしろ、人間のさまざまな文化の底をつらぬく、身体的な普遍性に根ざす符号であるように思う。見田「p179「存在の祭りの中へ」
ここで、賢治とOshoが繋がってくるとは思わなかった。この書き手にして、このような技が飛び出すのであろう。さて、私は、個人的には、読むチャンスがちぐはぐだったせいもあり、この書き手には、すなおに賛同しかねることが多々ある。
ここでラジニーシ「派」とされるのも心外だし、HOO、HOO、は「イスラム教のある一派が集団でおこなう儀式のひとつ」と捉えるよりかは、Osho自身は、OM MANI PADME HUM というマントラを一つにまとめたもの、と説明していたと思う。ほかから取り入れた、というより、Osho独自のもの、と理解されるべきであろう。
賢治の世界像は、大正時代の日本に流入してきた、そしてまた残留していた、さまざまな科学や宗教をその素材として構築されている。けれどもこれらの科学や宗教が賢治の世界像を形成したのではない。
賢治に固有の体感があり、切実な願望があって、これらの生きられた体感や願望こそが、その時代のさまざまな科学や宗教の断片を選び自分のまわりにひきよせながら、理性がなっとくのできるかたちにその世界像をくみたてるのだ。p193同上
見田が賢治の世界をこう見立てることができるのであれば、Oshoの世界をや、と言わざるを得ない。
国柱会での「活動」は、菅谷規矩雄がいうように、「ついに宮沢になんの活力ももたらさなかった。」「上京中のおよそ七カ月間、であうひとすべてが同信のなかまであるはずの国柱会で、宮沢はただのひとりとして心をかよわせる対手、友や知己をえた形跡がない---わずかに高知尾智耀とのあわい(多分に事務的な)交渉をのぞいては。そしてまたこの期間、国柱会の活動を介してただのいちどの法悦・随喜を味わった気配もない。異様なまでの不毛さが感じられるのである。(後略)」p216「舞い下りる翼」
ここは引用文なのだが、あえて引用を借りた見田の所感、といっていいだろう。ここに見田は、宗教性に「集団性」を重くみているようだが、賢治が生涯、国柱会の会員であり通した(会費を払いつづけた)ことから考えるに、「ついに宮沢になんの活力ももたらさなかった」と断定するのは早計であろう。
国柱会(田中智学にはついに遭遇しなかったとされる)を、ひとつのマスタリーとして活用したとすれば、賢治は、その活力の源泉をそこから得ていた、ということも可能ではないのか。宗教性を求めるうえで、集団である必要は全くなく、また、仮に不完全なマスターであったとしても、弟子側からすれば、「真」のマスタリーとして活用することは十分可能なのである。
アキラと会ったのは、1970年代の前半の、国立の、ぐるうぷ・もぐらというコミューンである。「泡沫コミューン」という、色んな場所のコミューンたちが交流する場所の仕事をしていた関係で、みのると七ちゃんやぽおたちとつきあうことが多かったのだけれども、もぐらの本体にはアキラやマロたちがいた。
70年代前半から後半にかけて、時代の全体が、真剣な祝祭のような空気に包まれていたように思う。こういう時代の活力に充ちた空気を、先頭を切って、具体的な目に見えるような形で実現していったのが、アキラやその仲間たちのような人たちが、色んな仕方で形成していった、コミューンの小さな渦たちだった。
こういう小さいコミューンたちの中で、新しい、ほんとうに自由な世界の空気のにおいが流れ込むような、風穴が開かれていた。真木悠介「足に土―原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集」p40「火種」
同時的に編集されていた、三省(1938年10月11日生)の「野の道 宮沢賢治随想」と、見田(1937年8月24日生)のこの「宮沢賢治 存在の祭りの中へ」を併読する時、この二人の東京生まれの同時代人は、まるで乙女座と天秤座の、ツインソウルのようにさえ思えてくる。
三省は、長いこと塾の講師をしていたから、ひょっとすると、大学の教授などになっていた可能性はある。晩年に琉球大学で行った五日間の講演録「アニミズムという希望」(2000/09 野草社)を読んでいたりすると、その思いはさらに強くなる。
さて、コミューンを「学問」し続けた社会学者である見田(あるいは真木)は、いつかは、もうひとりの三省となって、屋久島といわず、どこぞの「コミューン」に住まうことになっただろうか。
三省関連リストを見ると、50冊になんなんとするその著書の中では、「野の道」はかなり初期に属する一冊であり、三省が早くから賢治に思いを寄せていたことが分かる。あるいは、当ブログが五月雨式に読み進めている賢治関連リストの中においても、見田の賢治研究は、かなり先駆的部分に属する一冊と言えるだろう。
21世紀も10年以上も過ぎた今となっては「毛穴の皮油まで晒された作家」とまで評される「世界の」宮沢賢治である。だが、1980年初頭においては、まだ、残された原稿を中心に、その「文学」の世界が問われていた。そういう時代にあって、見田は、あくまで、その作品を中心に「社会学」的に賢治を見つめ、三省は、賢治を通して屋久島の生活を綴り、自己の中を探っていた。
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