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2012/02/08

プロメテウスの罠 原始村に住む 福島川内村 漠原人 朝日新聞<1>

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「プロメテウスの罠」 原始村に住む <1>
福島川内村 漠原人 朝日新聞 2012/02/07
Vol.3 No.0608★★★★★

 雪が降っていた。山に囲まれた4ヘクタールの土地に木造の建物が点在している。葉の落ちた木々が周りを囲む。木にぶら下がったまま柿が腐っていた。1月初旬、福島県川内村の山中。福島第一原発から25キロ。「話をする人もあんまりいないんだけど、悔しいっつうかねえ。でもあんまり悔しさとかいいたくないじゃん。それも悔しくて」   

 風見(かざみ)正博。61歳。東京都出身。この地に入って35年になる。もとの地名がバクだったので、獏原人(ばくげんじん)村と名づけた。自給自足の共同体を目指した。自分で家を建て、畑をつくり、山奥から水を引き、木を割って燃料にした。放し飼いで鶏を飼い、自然卵を売って必要最小限の現金を得た。お金がないという点では貧しかったが、満足感があった。

 昨年の3月11日、原発事故が起こるまでは。以前、ここには幼子を育てる若い一家と風見夫婦がいた。事故後、若い一家は県外に逃げ、風見の妻は隣のいわき市で暮らすようになった。「前はね、向こうにあるもう1軒の煙突から煙がのぼるとうれしくてね。ああ、いるんだなって」  

 今、この地に住むのは風見1人。朝8時と午後の3時に400羽の鶏から卵を採り、顧客の元へ運ぶ。50軒あった契約先は半分に減った。「全部やめられちゃってもおかしくないところだったけど、半分は残ってくれて」  5月に測ったとき、卵に含まれる放射性セシウムは1キロ当たり8ベクレルだった。国の暫定基準値500ベクレルに比べると、ずっと低い。

 「卵ってあまり出ないんだよ、放射能。今はもっと少なくなっていると思う」  とはいえゼロがいいに決まっている。「考えます、やっぱりね。いろいろね。いろいろ考える。わずかとはいえ放射能が出るものを売り続けていいのか、とかね」  放し飼いをやめ、鶏は小屋に入れたまま。えさの中心は米国産トウモロコシとスーパーの野菜だ。広い土地がありながら放し飼いできない現実。目の前の畑で取れる野沢菜を与えられない矛盾。

 「自分の理想追求がめちゃくちゃになっちゃったわけね」  飄々(ひょうひょう)とした人柄。淡々とした語り口。ふっと遠くに目をやった。「なぜここに残ってんだっていわれてもねえ。いろんな事情があって。ここの土地が好きだってのがまずあるし。しがらみがない人はさっさと遠くへ行くだろうけど……」  

 10年前、そんな風見に触れて人生を変えた元原子力技術者がいる。その男は今、はるか南の地で自給自足を目指している。(依光隆明)

◇  第7シリーズ「原始村に住む」は、2人の人物を軸に原子力の周辺を見ていきます。敬称は略します。

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 この地に一番最初に行ったのは1972年か73年の頃。その頃はまだ、橋本兄弟農場という通称だったのではないだろうか。その後、橋本兄弟は、さらに別な地に移転し、その地に、関東からグループもぐら、という若い集団がやってきた。そして、70年代末には、獏原人という名前に代わっていた。そんな漠とした記憶しか残っていない。

 当時、橋本兄弟でさえ20代前半で、弟のほうはまだ10代でなかっただろうか。通称ゲタオの弟のほうは、76年頃には、Oshoのサニヤシン・アディナタになって、アッシーシ瞑想センターのリーダ―をやっていたこともある。

 その後、1985年頃、アメリカのコミューンのクリシュナムルティ湖で、水泳中に心臓マヒでなくなった。私がこの地を最後に訪れたのは、1980年代末。そこでトモと再会した。こまかいことは年々記憶が薄くなっていくが、この地が、日本の60~70年代からのカウンターカルチャーの香りを遺していた数すくない地であることは確かだ。

 1990年代後半に、この地のメンバーだったアキラがなくなった。そして追悼文集足に土―原人・アキラ』須貝アキラ 追悼集(スタジオ・リーフ/「人間家族」編集室 1998/09)がでた。ななお・さかき、真木悠介、山尾三省、おおえまさのり、あぱっち(名前のないしんぶん)、山田塊也(ポン)、などと言ったそうそうたる面々が文を寄せている。私も「風の中のアキラ」というコメントを送った。

 日本におけるウィルダネス、バイオリージョン、あるいは森の生活を考える時、この地のことはいつも頭に浮かんでくる。その地に寄せた多くの人々の思いと、今回の3.11に関わる東電原発事故。この拮抗は、たくまずして仕組まれた運命だったのか。

 新聞を取っていないので、今後もキチンとこの記事を読めるかどうかわからないが、気になるところだ。

<2>につづく

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コメント

sopan
書込みありがとう。前のコメントの名前も加えておきました。
漠原人のことは、とても気にはなっていたけれど、どうも確認する方法がなくて、確認できませんでした。
今回の記事で、やはり大変なことになっているんだなぁ、と、あらためて痛感しました。
なんせ、原発から28キロでは、もう、どうしたらいいかわからないほどの環境だなぁ。
逃げるしかないんじゃないか~~。

投稿: Bhavesh | 2012/02/08 19:07

あれ、入れたつもりだったけどw

投稿: sopan | 2012/02/08 17:04

あれれ、このコメントには名前がないなぁ。
だけど、コメントの内容を見ると、ああ、だいたい私の知っている、あの人だろうな。

この時代を知っている人と出会うということはとても貴重だね。

投稿: Bhavesh | 2012/02/08 13:38

1977年か78年に、当時、日本唯一のラジニーシ瞑想センターが昭島市に移転した。ほとんどアディナタ一人の働きだった。センターは最初は湘南にあり、アサンガ、ギータ、プラブッダ、ナロパあたりが主要メンバーだったと聞いている。それがプラブッダのとき、三鷹のマクロビオテックの人たちが主体のアイアム(のちのミルキーウェイ)という都市コミューンに移転し、私も参加した。トモや、名前のない新聞のアパッチや、そうそうたるメンバーだった。あのころ、中央線沿線はカウンターカルチャーのルネッサンスの様相を呈していた。昭島のとき、みんなでアディナタの兄のところに遊びにいった。ハワイアンセンターに寄ったりしてww 自然が豊かなところだった。田んぼを流れる清流の水音のなかに、今日の悲劇を予感できたかどうかは定かではない。

投稿: sopan | 2012/02/08 09:13

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