Zen Mind, Beginner's Mind 禅へのいざない 鈴木俊隆 <2>
「禅へのいざない」 Zen Mind, Beginner's Mind <2>
鈴木 俊隆 (著) 紀野 一義 (翻訳) 1998/06 PHP研究所 単行本 261p
★★★★☆
こちらの本もゆっくりゆっくり読み進めている。初心者向けのコンパクトな本、というイメージがあったが、なかなかどうして、噂通りの、本格的な、本質的な一冊である。
禅マインドの修行は初心者の心です。「私は誰なのか?」という最初の疑問の素朴さは、禅の修行の間中ずっと必要です。初心者の心は空っぽで、熟達者のような癖がなく、なんでも受け入れ、疑い、そして、あらゆる可能性に対してオープンなのです。1970年京都にて リチャード・ベーカー p20「はじめに」
この本は輻輳的に解読される必要がある。そもそもの瞑想について。仏教における座禅について。20世紀における欧米、とりわけアメリカの精神風土について、そこに禅を持ち込んだ鈴木俊隆。そして20世紀も最後になって、日本の翻訳者が、日本人にむけて、もともとの日本語に翻訳しなおす、という作業。これらが、渾然となっている。
日本には”初心”という言葉があります。これは初心者の心という意味です。修行の目標は初心者の心を持つということです。p30
いちばんむずかしいことは、常に初心を忘れないことです。禅を深く理解する必要はありません。禅に関する文献をたくさん読んでも、文章を一つ一つを新鮮な気持ちで読まなければ何にもなりません。p31
Osho瞑想に親しんでいる者においては、このZen Mindという用語に、最初から引っ掛かることになる。そもそもOshoにおいては、Zen Mindなんて言葉さえ、存在しないことになっている。Zen Spiritなら、まぁ、あり得る用語ではあるが、やはりZenはZenでしかないだろう。
Zenを、臨在禅とか曹洞禅などと名付けているのは、日本のガラパゴス的禅風土の悪癖であって、そもそもはボーディダルマや、マハカーシャッパまで戻ってみれば、そんな違いや文化や伝統は、ほんのわずかな小さな差になってしまう。
ましてや、更にゴータマ・ブッタ、や、更にその以前まで遡る、東洋の、あるは地球の、偉大なる遺産としての瞑想の系譜をZenと見るのなら、この本に語られている、多くの部分は、かなり表現不足ということになる。あるいは、たくさんの解説が必要となる。
それを察したのか、この本の翻訳者である紀野一義は、さかんに鈴木俊隆の教えに茶々を入れる。どのタイミングで、どうしてそうしたのかは、この本全部を読んだあとでなければよくわからない部分も多い。
問題は、60年代のアメリカとか、20世紀末の日本とか、カウンターカルチャーとか、スティーブ・ジョブズとか、いろいろな雑念が湧いてくるのを、かぎりなく避けて、結局は、私はだれか、という、この私自身がZenと向き合うことにある。
紀野一義は、Oshoの「道元 その探求と悟りの足跡」(1992/10OEJ)に解説を書いている。
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