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2012/03/31

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <14> 「プロジェクト567」あるいは3.11との相関関係

<13>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<14> 「プロジェクト567」あるいは3.11との相関関係

 孫、というキーワードで表現され得るものの、大体の概要が分かり始めれば、それはまた、当ブログの中のどのような位置に属してくるのか、が気になってくる。

 プロジェクト567は56歳と7ヶ月、を意味しているわけだが、58歳の誕生日を迎えた我が身は、そのプロジェクトをすでに1年と5ヶ月の間、黙々と突き進んで来てしまったことになる。そのベースにエコビレッジを置き、トップに3.11を掲げ、中心には孫たちを置いた。そして、ハイブリッド車や図書館、スマホやホワイトターラー像を、それぞれの位置に配置した。

 それらをその瞬間を切り取られたリアリティ達であり、そもそも個別にはその位置を自ら主張して獲得したものではない。乱雑に投げ出される雑多な個別性たちを、主だった要素を繋ぎ止めれば、こういう全体像になるだろう、という、暫定的な見取図である。

 当然それらは絶対性を主張するものではないにせよ、より全体に目配りをしようとするなら、ひとつひとつの指標としては、多いに役立ってくれることが期待されている。

 ここにおいて、外すことが難しいのは、孫たちであり、3.11であろう。孫たちは未来に向けた生命の象徴であり、3.11は、地球のただいま真っ最中の現実である。それに比すれば、他の要素たちは、少しくトーンダウンする。

 しかし、ホワイトターラー像に込められた意味は重い。もちろん、それを下支えするスマホの存在や、図書館ネットワーク、ハイブリッド車などの環境への配慮も決して軽視することはできない。

 ライフ・スタイルの根元ともいうべきエコビレッジ構想の、やや頓挫ぎみの進捗状況には、下半身的弱さを感じる。可能性のある土地やそもそもの予定地に、東京電力原発の放射線がふりそそいでしまったことは、あまりにも痛ましく、悲惨だ。

 それでもなお、自らのリアリティとして、その苦難を切り裂いていこう、という屈強な精神が我が身にはない事が、もっと悲惨であると思われる。

 3.11に対峙すべきは、日々のわが生き様であり、ライフスタイルである。綺麗ごとでは済まされない、人間としての現実がある。スナイダーのキッドキッドディジーや三省の白川郷のような、ある種スタンドプレイ的な住環境ばかりを夢想していてはならない。

 もしそのプロジェクトの中心に、孫たち、を据えるなら、十分な医療や教育に配慮しなくてはならない。当然、愛にあふれる家族ネットワークも必要条件だ。未来に対する夢や就労の機会も保証される必要がある。

 となって来ると、結局は、今、こうして暮らしている我が家族の存在様式が、結果的には、それがいくら現在の、しかも、ごくごく狭い我が家だけの特殊性であったにせよ、この地このまま蓮華国、ということになって来る。

 現状の追認、環境への妥協、自らの非力さの無反省的な惰性。様々なマイナス要素が介在するも、まずは、この地に、この二本の足をつけて生きていく以外にないのだ。

 それはまるで、初めて買ってもらった最も小さなサイズの靴を履いて、公園を歩き始めた孫の足取りのように、至っておぼつかないものではあるが、これはこれとして、受け入れて生きて行くのである。

<15>につづく

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