プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <5> プレムバヴェシュにとって孫たちとは何か
<4>よりつづく
「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」
<5> プレムバヴェシュにとって孫たちとは何か
では、祖父にとっての孫とは何かを問い始めなければならない。そもそも、祖父とは、人生のプロセスにおいて、終盤にさしかかっている存在として想定される。そこにいたるまでの経過によって、あらゆる体験、あらゆる合理化、あらゆる妥協、あらゆる断念を繰り返してきているのであり、あえてそれを「知恵」とよぶことも可能ではあろう。
しかしまた、老練な祖父であってみれば、あらゆることに、あらゆる意味を付与することができるのであり、それは森羅万象、ことごとく表現可能な状態になっているはずだ、とさえ推定できる。
つまり、祖父は自由の境地にいるのであり、身の回りのすべてにおいて、自由に遊ぶことさえできるのでえる。
ということは、祖父にとって、孫とは、特段に特筆すべきものではなく、ありとあらゆるものの中のひとつの現象であり、ありふれたことのひとつにすぎない、ということになる。
さて、ここで孫と祖父、あるいは祖父と孫が対峙する、というと、どのような意味転換が行われているのであろうか。
孫にとって、祖父とはあってもなくてもいい、どうでもいいものであり、祖父にとって、孫とはありふれた外在物の一現象でしかない。まずはこの認識がスタート地点である。この実に淡白な、実に遠大な距離感を、はてさて、これから、どのように縮めていくのか。あるいは、適正な距離感を把握するにはどうすべきなのか。
祖父としてのプレムバヴェシュと、プレムバヴェシュの孫としての孫たち、と特定した場合、いったい、どのような特殊性が現出しようとしているのであろうか。
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