プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <6> 0歳児との対話は成立するのか
<5>よりつづく
「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」
<6> 0歳児との対話は成立するのか
0歳児、あるいは生後数ヵ月という存在にとって、対話というものは存在するのだろうか。自我が形成されていないかぎり、自らと対になる存在を認識するということ自体、不可能なことであろう。対という認識もなく、また語られる言語もなければ、対話はあり得ないだろう。当然のことである。
しかるに、0歳児に対峙する祖父の立場にしてみれば、相手が生命を宿した、れっきとした一個の人間存在であるかぎり、自らを対峙する対象として0歳児をひきだすことは十分可能である。もちろん話しかける言語ももっている。
とするならば、祖父の側からは対話は成立するけれども、0歳児側からは対話というそもそもの発想がないのだから、この対関係は、祖父の側からの、一方的な思い込みということになるのであろうか。
いや、そうとはかぎらない。もし祖父が、ありきたりな対話を期待しているのではなく、言語を越えた相互理解をもとめ、個を越えた共通存在、つまり対関係の否定、あるいは超越を求めているのだとするならば、表現のあいまいさは残るが、別な次元における「対話」は存在しうると言える。
つまり、祖父はいよいよ言葉を失いつつあり、自らの「存在」というものの境界線を、ついに越えて、私という束縛を越えてしまっているとしたら、そこには、祖父と呼ばれているだけの、0歳児がもうひとりいる、ということになるのである。まるで、「2001年宇宙の旅」の、あのラストシーンのような神秘が、立ち上がってくることさえ、想定されるのである。
したがって、祖父と0歳児の間には、対話というような欺瞞的な状況は発生しないが、対話を越えた対話、つまりは、そもそも対話がもとめている最終効果としての、対話効果はありうるということになる。
総じて結論すれば、本質的な意味において、祖父と0歳児に間には、対話は成立する、と断言しても、まんざら間違いとは言えないのである。
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