プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <8> 0歳児と1歳児と祖父の共同性
<7>よりつづく
「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」
<8> 0歳児と1歳児と祖父の共同性
0歳児と1歳児とだけのコミューンは存在し得ない。なぜなら、共に生命を維持する条件をクリアするには、自立している第三者の介在を必要とするからである。母親であるとか、善意のサポートがないことには彼等は生存できない。
この時、祖父は、介在者として最善の存在ではない。むしろその役目を期待されたとしても、十全なサポートを果たすことはできないであろう。武骨な手、聞き苦しい太い声、古く時代遅れの育児知識、どれをとっても、じいさんはお呼びではない。
しかしだ。川流れの桃から生まれた桃太郎の育児に、柴刈りじいさんも、少なからず携わったはずだ。麗しいかぐや姫のおしめ交換や、いないいないばぁ、に、竹取りじいさんも積極的に参加していたと、推定することはできる。
最善ではないにせよ、次善、次々善の養育者として、祖父の存在も認めてもらえる可能性は残っている。とするなら、0歳児、1歳児と祖父だけの空間、というものも想定することはできる。その時、そこにはどのようなコミュニティ、コミューン、共同性、共同体が現出するのだろうか。
この場合、養育、被養育という立場は、主従関係ととらえず、要素の違いだけであって、対等なものと考えたい。ここに現出する共同性は、言語的に繋がるものではない。また、選択可能な思想的な嗜好性や交換可能な曖昧性に裏打ちされたものではない。
ここにあるものは、人間としての、あるいは生物、生命としての、ぎりぎりの、自らの生命維持の必要性を満たすための、根元的な存在維持活動なのである。ここで、祖父は育児や養育を放棄することは、物理的には不可能ではない。しかし、そうはさせない存在からの説得力がある。
思わぬ形で登場する桃太郎やかぐや姫を、子もなく、突然に「祖父」の立場におかれる、おじいさんやおばあさんは、その存在からの申し出を拒否することなく、あえて積極的に、その生命の流れに合流するのである。
つまり、0歳児、1歳児と、祖父の共同性は、言語や思考を越えて、生命の大合流という形で説得力をもち、厳粛な、尊厳をともなった事実として、いま、ここに、ある、ということになる。
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