プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <13> 自由無碍の境地
<13> 自由無碍の境地
夢に出て来た陶芸の高齢達人が、その極意を教えてくれた。なるほど~と思ったが、その極意そのものについては、記憶しておく事を忘れた。でも、確かにあのワンポイント・アドバイスは凄かった。
そんな思いで目が覚めた時、すぐに、子育ての事を考えた。なるほど、赤ちゃん達といながら、赤ちゃんに振り回されてばかりいるようでは、とても育児の達人とは言えない。ここは人馬一体と言うべきか、赤ちゃんとじいさん一体、祖父+孫たち一体の境地を目指して、育児道を極める必要がある。
0歳児や1歳児の赤ちゃん達には、より自然体の無碍の境地がある。祖父が、赤ちゃんを赤ちゃんと見てしまうところに、彼我の亀裂が生じてしまっている。本来、生命潮流の合同である限り、じさまと孫たちの生命の運びには、そもそも分離し難い、一体感が存在しているはずなのだ。
う~むー、一体感などと言っているうちは、まだまだ分裂しているとしか言い様がない。祖父から見た場合、孫は孫であろうが、孫たちから見た場合、祖父は祖父であるのだろうか。祖父は祖父として、自らとは分離した存在であると見ているだろうか。
孫から見た場合、祖父は彼らを取り巻く環境から分離したものと認知することはできるだろうか。すべてがそれぞれに存在しているものであり、それぞれが自由無碍に活動しているものとするならば、風も日差しも、小川の流れも、まったく別個なものであるはずなのであるが、それを感じる人間には、すべて一体のものとしか感じようがない。
とするならば、孫も祖父も、一幅の絵の中に溶け込んだものと感じさえすれば、孫と祖父に分離はないはずなのである。そう感じられるかどうかが、勘所だ。ここまで来れば、あとは孫VS祖父、などという限定されたお話ではなくなる。
もし祖父が孫たちといて、心からくつろいでいるとするならば、オシメが濡れようが、泣き叫ぼうが、あるいは腰がギクリと痛もうが、それはそれとして、それらは全体のひとつひとつの小さなグラデーションに過ぎない。その全体の中にすべてが溶け去っているのである。
つまり、その時は、孫などはおらず、また祖父などという者もいない。ただ全体だけがあるのである。
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