プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <4> 孫たちにとってプレムバヴェシュとは何か
「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」
<4> 孫たちにとってプレムバヴェシュとは何か
私は誰か、という問いに飽いたら、誰かにとって私とは誰か、と問いかける逃げ道はある。ひとつの鏡として自分を写してみるのだ。だが、それはやっぱり最初から逃げ道でしかない。
そもそも、プレムバヴェシュにとって孫たちとは何か、を、的確に答えることが、まずはできるだろうか。
私がおり、子供たちがいたからこそ、孫たちが存在したわけだが、時間軸ではそういうことになったとしても、存在論的には、必ずしもそうとは言い切れない。
例えば、私にも、祖父が二人おり、生命を持ったのは当然私より先ではあるが、私が生まれなかったら、私にとっての祖父などいうものは、存在しないわけだから、私からみれば意味のないものとなる。
つまり、孫たちからみれば、自分たちが生まれ、生命という存在をもちえたから、プレムバヴェシュに、新たな意味が生まれた、あるいは加わったわけである。あるいは、孫たちが生まれることによって、プレムバヴェシュの存在意義が変容したとも言うことが可能である。
しかるに、子を生んだ一人の女性が、女から生物的に母親になるのに比べ、祖父が孫をもったからといって生物的に変化するなんてことはない。それは、子をもっても、生物的に父になるなんてことはない以上に、悲しいほどに、形而上的な思い込みに過ぎないのである。
これは、同じ女性であっても、母親ではなく、祖母の存在からみても、祖父と同じことが言える。生物的に祖母となる、なんてことはない。
とするならば、むしろ、母親という存在だけが特殊なのであって、それ以外の存在は、すべて、思い込みによる意味のなすりつけあいである、ということができる。
さて、祖父と孫の関係が、単に形而上的な、一方的な意味のーなすりつけあいだったとするなら、祖父から見た場合は、それなりに適当に意味をかぶせればいいのだが、孫から祖父を見た場合は、いったいどういう事になるのであろうか。
そもそも、0歳児や1歳児にとって、直接的に乳をくれるわけでもなく、具体的な生活を維持してくれているわけでもない祖父というものは、不要不急のものではないのか。
祖父は一方的に孫に話をしたいと思うとしても、孫からみれば、祖父に伝えたいことなど、あるだろうか。
0歳児や1歳児にとって、母親以上の火急に必要とする存在はない。父親ですら、2~3歳にならなければ、実用的な意味をもたないであろう。ましてや祖父母などをや。
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