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2012/03/26

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <9> 赤ちゃんと祖父の生命潮流としての大合流

<8>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」 

<9> 赤ちゃんと祖父の生命潮流としての大合流

 孫という立場は、人間成長過程の発達段階の程度を意味するものではない。祖父もまた、誰かの孫であり、その誰かも、実は、また別な誰かの孫である。この小論は、いずれそのような入れ子構造の神秘に立ち入ることを避けることは出来ないにせよ、ここでは、敢えて、0歳児、1歳児という孫たちを、赤ちゃん、と一括りにして、その生命成長過程を固定しておくことにする。

 さて、ここでいきなり先を急ぐとして、赤ちゃんは、祖父の中に、自らの生命体としての存在意義を見つけることは出来るだろうか。あるいはまた、祖父は赤ちゃんの中に、自らの人間として生きてきた存在の結末を見ることは可能だろうか。

 この小論においては、これは是非ともつながって貰いたい肝要な部分なのである。あるいは、つながるべきであり、十分につながり得る現象として、ここを凝視する。しかしながら、可能性があるとは言うものの、100パーセントの必然ではなく、結果としてつながらない、ということも当然あり得る。

 そのような幾多の条件の中においても、両者、赤ちゃんと祖父は、たがいにつながり得るものとして、互いに手をさしのべ合う関係である、と規定する。それはそうなくてはならないのである。それは直感であり、それを根拠とする神秘である。

 祖父はすでに、自らの死を予感する前ランナーであり、赤ちゃんは、今まさに新たなる生命体を立ち上げようとする、次なるランナーである。当然、生命潮流としては、この両者の狭間に、父親とか母親とかの存在を挟まざるを得ないのであるが、人間という生命体が、単に生命体というだけのものではない、と想定される以上、ここでは、祖父から赤ちゃん、という構図の中でこそ、合流できるものがあるはずである、と規定する。

 あるいは、祖父として、そう思わないことには、孫たる赤ちゃんたちの介護、育児、養育から疎外され、やがては生命潮流からも取り残されてしまうのではないか、という危機感さえ覚えるのである。

 はてさて、母のない子はないとしても、子のない母(とは言わないだろうが)が存在するように、祖父のない赤ちゃんはいないだろうが、孫のいない祖父(とは言わないだろうが)は、当然存在するだろう。ここにおいて、何か大きく、差別的な選別が進行している可能性はないのか。

 ここでは、それはない、と断定しておこう。柴刈りじいさんも、竹取りじいさんも、本来「孫のない祖父」である。生命の誕生の、そのプロセスには直接関わってはいない。しかしながら、彼らは、だからこそ、生命潮流の大合流にむけて、ささやかではあるが、じつに重要な決断を下すことになるのである。

<10>へつづく

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