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2012/04/30

ダイヤモンド・スートラ - OSHO 金剛般若経を語る<1>

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「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <1>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739
Vol.3 No.0652

 世尊は言われた
   「もしだれか菩薩(ボーディサットヴァ)が
   『私は調和ある仏国土(ブッダフィールド)を創造する』と言うなら
   彼は虚言を弄することになる
   何故か?
   『仏国土の調和』とは、スブーティよ
   如来によって無調和として説かれているからだ
   それだからこそ 如来は『調和ある仏国土』のことを語った」

さて、理解するがいい
誰かが「私は仏国土(ブッダフィールド)を造り出す」と言い、その強調が「私」にあったら
そのときには、その言辞は偽りだ
まだ「私」が生きている人間はブッダフィールドを創り出すことはできないからだ
自分の中に「私」がまったくない人間だけがブッダフィールドを創り出すことができる
実際のところ、そうなったら「彼が創り出す」というのも正しくない
言葉は不十分なものだ 
 p561「第9章 浄土楽園」

 さて、プロジェクト567第二オクターブのドはここから始まる。この本、当ブログでは初登場となる。初登場なのかぁ、と驚くとともに、初登場なんだろうなぁ、という納得が入り混じる。そうそう簡単に触れることのできる本ではない。

 今回、3・11後における復旧復興の掛け声の中で、エコシティや都市計画などの専門家たちの話を聞いていて、専門家ならず、当事者でさえない自分は、門外漢ながら、いつも違和感をもっていた。いや、まだ真の復興復旧は始まっていないのだから、現在進行形といえる。

 その違和感を抱えている時に、ふと思い出すのが、ここの一節である。仏国土、ブッダフィールドとは何か。それはどのようにして出現してくるのか。昔はよかった、などとは言わせたくない。結城登美雄あたりのレポートを読めば、東北の農村漁村部が、どのように病弊していたかが詳しくわかる。

 地方の原発を受け入れた人々においても、地域経済の落ち込みの中で、苦肉の策として原発建設を渋々承諾していった経緯がある。3・11以前のあの時まで戻ってほしい、という声は声として、時間は戻らない、という事実のもと、昔に帰ってはならない、と強く「私」がいる。

 宮沢賢治がイーハトーブと言い慣わし、Oshoがブッダフィールドと言うもの。それは、物理的な、ごつごつした住環境そのものを言っているわけではない。その住環境の中で、人々はどのように生きていくのか、ということを提案しているのである。

 3・11後における復旧復興の掛け声は、現実のその被災地におかれた人々にとっては、真剣そのものの絶叫ではあったにせよ、当ブログが1オクターブ上げて考えてみるところによれば、それは、もっと深慮し、自然に湧き出て来るのを待つくらいのゆとりが欲しいと感じる。

 この金剛般若経は、仏陀が菩薩たちに説いたとされるものであり、言葉は決して合理的な、科学的な意味で使われてはいない。ひとつのメソッドとして、表わし得ないものを表わそうとしたある意味では芸術的であり、ある意味では神秘的な言葉使いだ。

 だから、復旧復興会議に行って、すぐ発言したとしても理解されるような言説ではない。ただ、理想は理想として、いつか理想の地ができる、理想の街に戻る、という夢を追うばかりでは、人間は幸せにはなれない。どこまで行っても理想はあり得ない、という事実を知った時、「私」は、この被災地のガレキの中にさえ、ブッタフィールドを見ることができるはずなのである。

   彼らは スブーティよ
   仏智を以て如来(タターガタ)に知られている
   彼らは スブーティよ
   仏眼を持って如来(タターガタ)に見られている
   彼らは スブーティよ
   如来(タターガタ)に完全に知られている

さてこのふたつのことが理解されなければならない
ひとつはタターガタ tathagata という言葉だ
それは非常に不思議な言葉だ
それには二つの意味があり、互いにまったく反対だ
互いに完全に正反対の二つの意味---
それは不思議な言葉だ

一番目の意味は、如来 tatha-agata
それは「かくの如く来た」という意味だ
二番目の意味は、如去 tatha-gata
それれは「かくの如く去った」という意味だ
ひとつの意味は「かく来たり」、もうひとつは「かく去りぬ」だ
 p278「第五章 <光明>の味」

 さて、当ブログでひっぱりにひっぱってきた「アガルタ探検隊」の結末も、当初から予想はされていたとして、そろそろこの辺に、その執着点があることを認めなければならないだろう。agartha あるいはagata。来るべきものは来たのだ。あとは、どのように去るかである。

 今、ひとつの円環が閉じられようとしている。見る者には見える、見ようとする者には見えるが、見ようとしない者には見えないだろう。しかし、それはそれで仕方ない。それが、当ブログがここで1オクターブ上げてみる意図である。

マインドは非実体的だ
考えるか、それとも喋るか---
それは本物を少しも知らない
マインドをもてばもつほど、それだけあなたは現実をもたなくなる
マインドが少なくなればなるほど、それだけ現実が増す
ノーマインドは、現実であるもの---タタター---を知っている
そうなったら、あなたは如来---如性を知った者---になる 
p703「第十一章 完全に光明を得た者」

   『如来は去り 来たり
   立ち 住し 臥す』
   という者は誰であれ
   私の教えの意味を理解していない
   何故か?

   <如来>は
   どこへも去ったことがなく
   どこからも来たことがない者 と呼ばれるからだ
   それゆえに彼は
   如来
   アルハット
   完全に光明を得た者 と呼ばれる


雲が来るとき、あなたは大空がどこかへ去ったと思うだろうか?
雲が去るとき、あなたは大空が帰って来たと思うだろうか?
大空はとどまる
あなたの内奥の本性はとどまる 
p76同上

<2>につづく

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