プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <24>孫たちとホワイトターラー
<24> 孫たちとホワイトターラー
ホワイトターラーはプロジェクト567におけるスピリチュアリティの象徴である。あるいは、このホワイトターラーがこなければ、そもそも、プロジェクト567は、顕在化しなかったとも言える。
プロジェクト567の顕在化のなかで、孫たちの存在が逆照射され、いきなりクローズアップされた、とも言える。すべては相対化のなかで存在しているのであり、その相対化の妙を楽しもう、というのが、またプロジェクト567の真意でもある。
プレムバヴェシュと孫たちとの対話も、当ブログのカテゴリとしては、8割以上を経過した。おもったほどの成果はなかったにせよ、整理すべきいくつかの点においては、かなりすっきりした。
そもそも、当ブログのスタート地点において、孫たちはまだ生まれてはいなかったのだが、本来、そのニュアンスで、この一連のメモはスタートしたのであった。必ずしもモノローグではない。敢えて対話者を求むるとするなら、それは、まだ見ぬ孫たち、であったはずである。
本質的にそういう性格のブログであってみれば、主テーマは、プロジェクト567のようなもの、ということができる。
さて、何事かを表現するのに、プロジェクト567とだけ表記し続けることは、あまりに舌足らずであろう。ここはここ、もうすこし噛み砕き、適切な表現を引き寄せて行かなくてはならない。
つぎなるカテゴリは、プロジェクト567としてスタートしよう。しだいに、新たなる装いを身に付けたなら、その時点でそれを、正式なカテゴリ名として採用する。
そもそも、ホワイトターラーは、チベットの神様である。いや、仏さまかもしれない。だが、ホワイト、という形容詞がついている限り、すでに純粋にチベット産とはいいにくく、混血、混淆、が暗に推測される。
彼、あるいは彼女の、性格については、あまり精緻を要求する必要はない。むしろ、その出会いのほうが大事である。そのことについては、どこかにすでにメモしたし、繰り返すことで、定式化してしまうことを、むしろ、おそれる。
あいまいなまま、あるいは、表現しきれないまま、残される、なにごとかに、より正しくも、かぎりなく正統な意味が生じてくる場合もある。あるいは、この場合は、まさにそうなのである。
そのことと、孫たちは、直接には、なんの繋がりもないのだが、ここで、敢えて相対化し、対比、対峙させることによって、際立った色彩が立ち上がることがあるかもしれない。かなり苦しい、無理のある試みなのだが、それでもやっぱり、ここはこうするしかない。
あえていうなら、赤子と如来の一体化である。如来もまた赤子であったし、赤子もまた、いつかは如来となるのである。
いやいやそうではないだろう、如来とは赤子のことであり、赤子こそ如来なのである。あるいは、二語に別れてしまっていることこそ、すでに迷いである。
裏と表を、ひとつと見る。そもそも、それが真実なのである。旅は、終わりに近づいている。そして、旅はふたたびはじまる。そもそも、旅などないのだ。
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