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2012年4月の90件の記事

2012/04/30

ニューチャイルド <1> OSHO こうしてみてごらん!!

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「ニューチャイルド 」 <1>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳), スワミ・アトモ・スディープ (翻訳) 1993/01 ニューチャイルドプロジェクト OEJ books 単行本: 324p
Vol.3 No.0653

You can do one thing !! こうしてみてごらん!!

・・・・・こうしてみるといい
家に小さな子供がいたら
毎日1時間その子の後を追い回してみてごらん
そのほうがブッダを追い回すよりいいし、有効だ
子供をよつんばいで這い回らせ
自分もよつんばいで這い回る
よつんばいで這い回る子供の真似をする
そうすれば、生まれて初めて
新たな生命エネルギーがやってくるのを感じられる
あなたは再び子供になる
子供を見て、その真似をする
子供は部屋の隅々までいき、あらゆるものに触れる
触れるだけでなく
あらゆるものを口に入れ、あらゆるものの匂いを嗅ぐ
子供の後を追い、何でもそのこのする通りにする

あなたもかつては子供だった
そして同じことをやった
子供は感じている
頭でやったり、考えたりしない
何かの匂いを感じると
その匂いを追って部屋の隅までいく
りんごを見ると、その味をみる
あなたもまた、子供のように味わってみるといい

子供がりんごを食べている様子を見てごらん
彼は、それに夢中になっている
世界全体が消え去っている
もはや世界はない、ただりんごだけがある
いや、そのりんごでさえ存在せず
その子もまた存在しない
ただ食べることだけがある
1時間ほど、小さな子供の真似をする
その1時間は実り豊かなものになるだろう
あなたは、ふたたび子供になる

自己防衛は消え去り、鎧は消え去り
あなたは再び子供のように世界を見る
つまり、感覚の側面から見えるようになる
そして、あなたはこう感じる
「自分は感じることができる・・・・・自分は考えてはいない」
その時、あなたはじゅうたんの折り目を楽しむ・・・・・
子供のようにじゅうたんの上を這い回り
その感触や暖かさを楽しむ

無邪気に子供の真似をすることによって
様々なことが子供から学べる
やがて、真の無垢がほとばしり出る
あなたはかつて子供だった、そして
あなたは子供であるとはどういう意味かを知っている
ただそれを忘れてしまっているだけだ
肝心なのは、感覚センターの機能が開始することだ

方法は、まだ他にもたくさんある
それを行なうのに特別な努力はいらない
眠りに入るとき、ベッドを感じ
まくらを感じ、その冷たさを感じる
まくらを相手に、まくらとたわむれる
目を閉じ
エアコンの音や、車の音や、時計の音に、ただ耳を傾ける
レッテルを貼らずに、何もいわない
心を動かさない、ただその感覚の中を生きる

朝になって目覚め、眠りが消え去るのを感じたとき
思考を開始してはいけない
しばらくの間、子供になりなさい・・・・・・
無垢で新鮮な子供に
思考を開始しないこと
これから何をしようか、何時に出社しようか
どの汽車に乗ろうかなどと考えないこと
そういった些細な事には、後でいくらでも時間がある
そのまま、しばらくのあいだ音を聞く
鳥が歌っている、あるいは木々がそよいでいる
子供が泣いている、牛乳配達がやってきて音をたてている
牛乳を注ぐ音がする・・・・・・
およそ、起こるすべてを感じなさい
それに対して敏感になり、オープンでいること
そういったことを自分に起こるままにさせておく
そうすれば、敏感さは成長する

"The Book of the seacret" より March 31, 1973  p29

<2>につづく

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ダイヤモンド・スートラ - OSHO 金剛般若経を語る<1>

Daiyamondo_3 
「ダイヤモンド・スートラ」 - OSHO 金剛般若経を語る <1>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 翻訳 1986/03 めるくまーる社 単行本 p739
Vol.3 No.0652

 世尊は言われた
   「もしだれか菩薩(ボーディサットヴァ)が
   『私は調和ある仏国土(ブッダフィールド)を創造する』と言うなら
   彼は虚言を弄することになる
   何故か?
   『仏国土の調和』とは、スブーティよ
   如来によって無調和として説かれているからだ
   それだからこそ 如来は『調和ある仏国土』のことを語った」

さて、理解するがいい
誰かが「私は仏国土(ブッダフィールド)を造り出す」と言い、その強調が「私」にあったら
そのときには、その言辞は偽りだ
まだ「私」が生きている人間はブッダフィールドを創り出すことはできないからだ
自分の中に「私」がまったくない人間だけがブッダフィールドを創り出すことができる
実際のところ、そうなったら「彼が創り出す」というのも正しくない
言葉は不十分なものだ 
 p561「第9章 浄土楽園」

 さて、プロジェクト567第二オクターブのドはここから始まる。この本、当ブログでは初登場となる。初登場なのかぁ、と驚くとともに、初登場なんだろうなぁ、という納得が入り混じる。そうそう簡単に触れることのできる本ではない。

 今回、3・11後における復旧復興の掛け声の中で、エコシティや都市計画などの専門家たちの話を聞いていて、専門家ならず、当事者でさえない自分は、門外漢ながら、いつも違和感をもっていた。いや、まだ真の復興復旧は始まっていないのだから、現在進行形といえる。

 その違和感を抱えている時に、ふと思い出すのが、ここの一節である。仏国土、ブッダフィールドとは何か。それはどのようにして出現してくるのか。昔はよかった、などとは言わせたくない。結城登美雄あたりのレポートを読めば、東北の農村漁村部が、どのように病弊していたかが詳しくわかる。

 地方の原発を受け入れた人々においても、地域経済の落ち込みの中で、苦肉の策として原発建設を渋々承諾していった経緯がある。3・11以前のあの時まで戻ってほしい、という声は声として、時間は戻らない、という事実のもと、昔に帰ってはならない、と強く「私」がいる。

 宮沢賢治がイーハトーブと言い慣わし、Oshoがブッダフィールドと言うもの。それは、物理的な、ごつごつした住環境そのものを言っているわけではない。その住環境の中で、人々はどのように生きていくのか、ということを提案しているのである。

 3・11後における復旧復興の掛け声は、現実のその被災地におかれた人々にとっては、真剣そのものの絶叫ではあったにせよ、当ブログが1オクターブ上げて考えてみるところによれば、それは、もっと深慮し、自然に湧き出て来るのを待つくらいのゆとりが欲しいと感じる。

 この金剛般若経は、仏陀が菩薩たちに説いたとされるものであり、言葉は決して合理的な、科学的な意味で使われてはいない。ひとつのメソッドとして、表わし得ないものを表わそうとしたある意味では芸術的であり、ある意味では神秘的な言葉使いだ。

 だから、復旧復興会議に行って、すぐ発言したとしても理解されるような言説ではない。ただ、理想は理想として、いつか理想の地ができる、理想の街に戻る、という夢を追うばかりでは、人間は幸せにはなれない。どこまで行っても理想はあり得ない、という事実を知った時、「私」は、この被災地のガレキの中にさえ、ブッタフィールドを見ることができるはずなのである。

   彼らは スブーティよ
   仏智を以て如来(タターガタ)に知られている
   彼らは スブーティよ
   仏眼を持って如来(タターガタ)に見られている
   彼らは スブーティよ
   如来(タターガタ)に完全に知られている

さてこのふたつのことが理解されなければならない
ひとつはタターガタ tathagata という言葉だ
それは非常に不思議な言葉だ
それには二つの意味があり、互いにまったく反対だ
互いに完全に正反対の二つの意味---
それは不思議な言葉だ

一番目の意味は、如来 tatha-agata
それは「かくの如く来た」という意味だ
二番目の意味は、如去 tatha-gata
それれは「かくの如く去った」という意味だ
ひとつの意味は「かく来たり」、もうひとつは「かく去りぬ」だ
 p278「第五章 <光明>の味」

 さて、当ブログでひっぱりにひっぱってきた「アガルタ探検隊」の結末も、当初から予想はされていたとして、そろそろこの辺に、その執着点があることを認めなければならないだろう。agartha あるいはagata。来るべきものは来たのだ。あとは、どのように去るかである。

 今、ひとつの円環が閉じられようとしている。見る者には見える、見ようとする者には見えるが、見ようとしない者には見えないだろう。しかし、それはそれで仕方ない。それが、当ブログがここで1オクターブ上げてみる意図である。

マインドは非実体的だ
考えるか、それとも喋るか---
それは本物を少しも知らない
マインドをもてばもつほど、それだけあなたは現実をもたなくなる
マインドが少なくなればなるほど、それだけ現実が増す
ノーマインドは、現実であるもの---タタター---を知っている
そうなったら、あなたは如来---如性を知った者---になる 
p703「第十一章 完全に光明を得た者」

   『如来は去り 来たり
   立ち 住し 臥す』
   という者は誰であれ
   私の教えの意味を理解していない
   何故か?

   <如来>は
   どこへも去ったことがなく
   どこからも来たことがない者 と呼ばれるからだ
   それゆえに彼は
   如来
   アルハット
   完全に光明を得た者 と呼ばれる


雲が来るとき、あなたは大空がどこかへ去ったと思うだろうか?
雲が去るとき、あなたは大空が帰って来たと思うだろうか?
大空はとどまる
あなたの内奥の本性はとどまる 
p76同上

<2>につづく

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2012/04/29

宮沢賢治祈りのことば 石寒太 <4> 悲しみから這い上がる希望の力

<3> からつづく


「宮沢賢治祈りのことば」 悲しみから這い上がる希望の力<4>
石寒太 2011/12 実業之日本社 単行本 223p
★★★★★

 プロジェクト567における1オクターブ目のシはこの本だ。もう何度か読み返している。よい本だ。3・11と賢治をセットにするなら、私にはベスト本だ。何度か読み返してきたが、その度に余韻が広がる。

 しかし、物足りなさを感じないわけではない。世界は3・11で終わるわけでもなく、地球は日本列島だけで占めているわけでもない。私たちは地球に生きているのだ。そして、もっと長いスパンで時間をとらえなくてはならなくなっている。

 1オクターブ目のシから、2オクターブ目のドへ移行するにあたって、それはOshoの本で7音を飾ってみようということになった。なんとも不釣り合いではあるが、賢治とOshoとの対比を試みてみる。

 1、賢治はイーハトーブという幻想世界を生み出し、Oshoは自らの世界観をブッダフィールドという概念でまとめようとした。

 2、賢治は、羅須地人協会を作り、Oshoはラジニーシプーラムを作った。

 3、賢治は「春と修羅」と「注文の多い料理店」の2冊の本を生前に出版し、Oshoは、300冊とも700冊とも思える本やオーディオやビデオを残した。

 4、賢治は、自らの理想像をデクノボーという姿にまとめ、Oshoは自らの人間像をゾルバ・ザ・ブッダという生き方で表現した。

 5、賢治は芸術的生活を推奨し、Oshoは瞑想を推奨した。

 6、賢治は自らを修羅と表現し、Oshoは自らを最後の生と表現した。

 7、賢治は明治三陸津波の年に生まれ、昭和三陸津波の年に没した。Oshoは700年前にチベットに生まれ、21世紀を目前にインドで肉体を離れた。

 なんとも唐突な無骨な比較ではあるが、敢えていうなら、こういうことになる。

 当ブログにおけるプロジェクト567は、3・11の被災地に立つ賢治像から、滅亡にひんする地球に訪れたOshoのビジョン、という方向へトーンを上げていく。

 

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2012/04/28

プロジェクト567 <8>1オクターブ上げる

<7>からつづく

「プロジェクト567」 

<8>1オクターブ上げる

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 ここから始まったプロジェクト567だが、1から7まで来て、さて、どうするか。ドレミファソラシ、まできて、オクターブを一つ上げて、新たなるドから、また始めてみようではないか。

 当ブログにおけるオクターブを上げるとはどういうことか。考えたことは、これらをすべて、Osho本で対応してみようということ。

1)エコビレッジに対応するのは「ダイヤモンド・スートラ」だ。本全体というより、ある一節がどうもお気に入りのところがある。そこが、妙にマッチしていると思う。

2)太陽光発電やハード面に対応するのは、「アメリカへの道」だ。もっと素敵なドキュメンタリがあればいいのだが、とにかくこれは大いなる実験のレポートだ。

3)図書館ネットワークに対応させたのは、「英知の辞典」本来英文では三冊組だが、必ずしも大冊であることは必要ではない。むしろ統合方向への集約が必要だ。

4)孫たちに対応するのは「ニューチャイルド」「ニューマン」とか「ニューウーマン誕生」なども含まれるだろうが、ここは、これでいこう。

5)スマホに対応するのは「新瞑想法入門」「祝祭の芸術」とか「オレンジブック」など、他にも類書があるが、どれも、いまひとつフィットはしていない。

6)ホワイトターラーに対応させるのは「マイトレーヤ」。ここはこれしかないだろう、と思うと同時に、他にもあることはある、という思い。

7)3・11に対応させたのは「大いなる挑戦ー黄金の未来」。他にもありそうなものだが、ここは、この本を今日的に、批判的に、読んでみよう。

567

 とりあえず、暫定的に、ここへステップアップする。

<9>につづく

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チベット密教瞑想入門<3>  ソナム・ギャルツェン・ゴンタ

<2>からつづく

【送料無料】チベット密教瞑想入門
「チベット密教瞑想入門」  <3>
ソナム・ギャルツェン・ゴンタ 2011/08  法蔵館 単行本 261p

 「禅へのいざない」に比べたら、はるかに複雑怪奇な内容である。同じ仏教とはいいながら、その発展の経緯と、語られた時機を考えれば、このくらいのバリエーションがあってもいいだろう。厳密に言えば、この二者はもっともっと道としては隔たっているだろう。

 しかしまた、ここはホワイトターラーの導きにより浮上したプロジェクト567ゆえ、タントラへの深い敬意を表しておかなくてはならない。

 前半における、仏教全般の解説と、ラマの必要性の説明に対して、後半は、具体的なタントラ独特の瞑想法が語られる。他の文献などから考えれば、これらの瞑想法も、「入門」の域をでないのであろうが、それでも、かなり入り組んでおり、言われなくとも、良き指導者にめぐりあわなければ、この道は歩けたものではない。

 新鮮な空気の高原にあるチベットの民衆であればこそ、時間をかけて、これらの瞑想法に一身を没頭することができるであろうが、多岐にわたる地球上のあらゆるライフスタイルの地球人たちに、これらの瞑想法が、広く理解される日は来るだろうか。

 一部の好事家たちの、一時的な気休めになったりすることなどないように願いたい。というか、私などには、この道は基本的に無理なようだ。この中のいくつかを簡略化してイメージすることは可能だろうが、それ以上を必要とすかどうかは、なんとも言えない。そこまで踏み込む勇気はなさそうだ。

 ここは、自分の道としてはZENのほうが向いているが、しかし、タントラの伝統、そしてその文化の豊饒さは、いつも心打たれる。

 この「ア・ウ・ム」という三つの音は、それぞれに「身・口・意」の三つの金剛を象徴しており、それを「オーム」という一つの音の中に統合することによって、この「身・口・意」の三つの金剛が無差別であることを象徴するのです。p199「百字真言の意味」

 当然、この身・口・意は、当ブログのコンテナ・コンテンツ・コンシャスネスにも対応しており、それらがオームという一音になっているところに、深いタントラの教えがある。

 わがキッズルームにして瞑想ルームである空間に鎮座ましますホワイトターラー様の一枚の絵の裏に、このような偉大な教えがあるのだ、ということを忘れないようにしよう、とあらためて誓うことで、この本をまた綴じることにする。

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プロジェクト567 <7>ムーからの龍の最大限の助力

<6>からつづく 

「プロジェクト567」 

<7>ムーからの龍の最大限の助力

 そもそも、プロジェクト567の、最初的意味は、自分が56歳と7ヵ月になった時を一つの人生のピークと認め、その時あたりまで、自分の本来の道すじをつくっておこう、ということである。その頃に一体何が起こるのか、よくよく見ておいてやろう、というのは、すでに数十年前からの自分の計画であった。

 それほど多くのことはできないが、30代以降は、常に、最低でもひとつのボランティア活動をしようと思ってきていたが、数年まえからそれらもフェードアウトし、より静かな状態に持っていっていた。

 時あたかも、その567の時を迎え、それからの半年の間に7つのキーワードをつかまえることができた。そのピークが、3・11となった。

 個的に言えば、3・11はアトランティスの滅亡と繋がっている。その当時、波にのまれた私は、ムーからやってきた龍と言葉を交わしている。

 あの時、預言されていたことが今、起きているのである。あるいは、この時を迎えるためにこそ、今回の生があったとさえいえる。今回のことがなかったら、この生はすこし間の抜けたものになっていただろう。

 567というタイミングに、東北、センダード2011に生きている、という時間と空間。私は、これを良しとする。全てが終わったとか、価値の転換だとか、いう必要は感じない。むしろ、この時、ここで、このことを生きるために、今回のこの生があったのだ、と、納得できる。

 さて、アトランティスでの預言が今回、時間軸と空間軸、という意味では成就された。しかし、残り後半、ムーからやってきた龍との約束、その時こそ、最大限の助力をするだろう、という、そのこと、そのことはどうなっているのだろう。

 そのことについては、個的には、すこしづつ、あるいはかなり分かってきている。しかし、形にして表現すべき時はまだやってきていない。いずれ、一人でに姿を現すだろう。

 プロジェクト567の6番目のキーワードに、ホワイトターラーがやってきて、「チベット密教瞑想入門」をそれに対応する一冊として選んだのも、それなりに訳がある。

 いわゆるシンボルとしてのムーは、シャンバラやアガルタと繋がりがある。この繋がりを説く鍵を、チベット密教、即ち、タントラが保持している。

 タントラとZENは、当ブログにおける、大きな柱である。

 1から7までがあってこその4なのであるが、プロジェクト567と言い慣わす限り、どうしても、1~3や、4と比較した場合、どうしても567のほうが重くなる。このことは、当ブログの前期的区分け、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの3コン論と繋がりがあるようだ。

 コンテナ、コンテンツに比較して、どうしても、コンシャスネスのほうの重きが大きくなってくるようだ。しかし、そうであってはいけない。OSHO ZEN TAROT追っかけの最後のカード「SHARING」にあるように、4にいよう、ということはすでに決意していることである。

 7冊目として選んだ「宮沢賢治祈りのことば」に感じる物足りなさ。3・11を象徴し、全てを包含するには、その懐具合が、無限に広い、というわけではない。直感するに、あの「3・11オムニバス本」のスカ本たちが、何事かの滋養を与えてくれるだろう。煩悩なくして菩提なし、枯れ葉の腐食した肥料の滋養分が無いことには、花身はつかないのである。

 プロジェクト567、今、7から、新たなる1へ、オクターブをあげよう。

<8>へつづく 

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歴史としての3・11 河出書房新社編集部編


「歴史としての3・11」 
河出書房新社編集部編 2012/02 河出書房新社 単行本 207p
Vol.3 No.0651★★☆☆☆

 3・11後、複数多数の筆者たちによる短文の合本、いわゆる当ブログでいうところのオムニバス本を何冊か手にしてきたが、ひとつふたつのキラメキを認めないまでも、一冊の本としては、スカ本が多い。

3・11オムニバス本リスト (編集中) 

「わたしの3・11」 あの日から始まる今日 茂木健一郎編集 2011/5/20 毎日新聞社

「がんばろう!日本」 災害復興計画 リベラルタイム 2011/06 リベラルタイム出版社

「原発と人間」 朝日ジャーナル 2011年 6/5号 週刊朝日増刊 朝日新聞出版

「思想としての3・11」 河出書房新社編集部 2011/6 河出書房新社

「脱原発社会を創る30人の提言」 澤夏樹・他 2011/07 コモンズ

「東日本大震災・原発事故 復興まちづくりに向けて」 私たちは何ができるのか!? 第一戦の研究者、実践者に支援への構えと基本的視座を問う 2011/07 学芸出版社(京都)

「日本大震災復興への提言」 持続可能な経済社会の構築 風見正三他 2011/07 東京大学出版会

「いまだから読みたい本ー3・11後の日本」 坂本龍一・他 2011/08 小学館

「こころを支える『東北』の言葉」 “がんばろう”を超えるよりどころ 宝泉薫 2011/08 言視舎

「3・11の未来」 日本・SF・創造力 海老原豊他 2011/09 作品社

「ポスト3・11の子育てマニュアル」 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?冨永良喜他 2011/11講談社

「歴史としての3・11」 河出書房新社編集部編 2012/02 河出書房新社

「世界が日本のことを考えている」 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ 共同通信社 2012/03 太郎次郎社

 しかしながら、あれからすでに1年以上も経過し、個人的な仕事も一段落。今日から、晴れて楽しい春の行楽シーズン、ゴールデンウィークになるのである。私の気分も上々だ。ましてやこの本も、ほぼ震災後一年を経過して編まれたものである。きっと何がしかの進歩があるに違いない、そう思って、密かに期待して開いた一冊だった。

 ああ、それなのに、それなのに・・・・。この本もやっぱりスカであった。私の失望は大きい。

 この本は、いわゆる出版社が、普段からつきあっている執筆陣に、これから「3・11」をテーマに一冊だしますから、なにか短文を書いてください、と頼んで、かき集めた文章を順序整理して並べただけだ。

 編集部編となってはいるものの、編集部の弁がない。書きようがないのだろう。このような、普段から発言の場を与えられているような人々は、むしろ、3・11のような場にあっては、沈黙を学ぶべきであろう。

 この本をめくっていて気になったのは、随所にスピノザの名が見え隠れしていたこと。マルチチュード繋がりで、スピノザに興味がないわけではないが、その周辺を読み始めると、一気に有象無象の関連リンクが生まれてくるので、今は追っかけないことにする。

 これら3・11オムニバス本を、いずれ一気に読んでやろう、という気持ちがないわけではないが、益も少なく、私の余命もそれだけ長くはないだろう。少ない時間を、もっと有効なほうへと振り向けよう。

 言葉のガレキ群をおっかけているより、言葉のない世界のほうへと足を向けよう。

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2012/04/27

チベット密教瞑想入門 <2> ソナム・ギャルツェン・ゴンタ

<1>からつづく

【送料無料】チベット密教瞑想入門
「チベット密教瞑想入門」  <2>
ソナム・ギャルツェン・ゴンタ 2011/08  法蔵館 単行本 261p

 ようやくこの本をゆっくり読める段取りとなった。前回読んだのは、昨年10月。当ブログは、「3・11天地人」カテゴリのもと、3・11関連の読書に明け暮れていた。新刊としてでたこの本を読むのは、流れとしては唐突だったが、その光は、かなり眩しいものであった。

 現在の「プロジェクト567」カテゴリの中で、7冊残った中の6冊目に、この本が位置している。鈴木俊隆「禅のいざない」「Osho Zen Tarot」とも、よく共鳴しあうような内容である。

 アトランティスの水没時において、何れはやがて同じ状況に接するだろう、という宣託があった限り、この3・11をアトランティスつながりであると判断することは当然のことである。

 さて、あの時、天空に現れた、ムーからの龍、とは一体何か。しかも、あの時の、最大限の助力をするだろう、という約束。今思えば、ムーからの龍の加護とは、まさに、この本にあるような内容なのではないだろうか。

 この本は、本格的な一冊である。タントラの道を歩もうとする人にとっては、重要な一冊となろう。タントラとZEN。よくも悪くも、20世紀を象徴し、21世紀を指し示す、貴重な指標である。

 この巻末には、よくわからないものの、チベット表記の経典が印刷されている。先に読んだ「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」についていた、CDでチベット版の般若心経でも聞いて瞑想すれば、結構、その気分にはなれそうだ。

<3>につづく

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2012/04/26

ダライ・ラマ法王、フクシマで語る  苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力 下村満子他


「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力
ダライ・ラマ(14世)/下村満子 2012/03 大和出版(文京区) 単行本 95p 付録CDあり
Vol.3 No.0650★★★★★

 一連のダライ・ラマを読み進めてくれば、この本にあるダライ・ラマのメッセージは当然の内容というべきだ。彼だからこそ語り得る、という内容ではは決してないが、彼が語るからこそ、この内容にも、さらに深みが加わる、ということだろうか。

 これ以上シンプルに語れるだろうか、というほどそぎ落とされたメッセージの中に、彼だからこそ注ぎこめる力がある。法王によるチベット語の般若心経CDがついている。

 震災後、彼は当地にもやってきた。縁あるお寺で法要をいとなんだようであるが、参加できたのは限られた人数だった。

 震災後、被災地を多くの人々が訪れている。その一人として彼も訪れた。苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力、言うはやすいが、本当のところ、それは一体、どんなものだろう。

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2012/04/25

プロジェクト567 <6>キッズルームと瞑想ルーム

<5>からつづく

「プロジェクト567」 

<6>キッズルームと瞑想ルーム 

 0歳児の節句飾りに床の間を奪われて、行き先を失ったホワイトターラーは、結局、キッズルームの壁にやってきた。大きい絵なので、広い壁が似合っている。

 キッズルームは、柔らかいマットやコーナーマッドで覆われていて、短時間子供だけにしておいても大丈夫なように、安全面が配慮されている。余計なものがなく、空間も確保されている。

 しかし、よくよく考えれば、この空間、孫たちが退去したあとは、格好の瞑想ルームにもなりそうだ。大きさといい、静かさといい、どうもふさわしい。ホワイトターラーがここに来たのは、ちょうど、そういうわけがあったからかもしれない。

 1歳児とともに街をいくと、それぞれが、キッズルームにふさわしい空間に思えてくる。公園や施設、人々の視線も優しい。思えば、キッズルームは瞑想ルームでもあるのではないか。

 地球全体がキッズルームであってしかるべきだ。あるいは、地球全体が、瞑想ルームであってしかるべきなのだ。

 プロジェクト567と、その7つのキーワードの数列は、別な次元の意味だった筈なのだが、どうも、1~7の数字のうち、プロジェクト567においては、次第に1~4の数字が溶け去っていくような気配がある。

 1~3は当たり前のようにおぼろになり、中心として据えた4も透明化し始め、残るは5~7となった。こちらとて、はてさて、どんな残りかたをするのだろう。

<7>へつづく

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2012/04/24

Zen Mind, Beginner's Mind  禅へのいざない 鈴木俊隆 <4>

<3>よりつづく

Zen_2
「禅へのいざない」 Zen Mind, Beginner's Mind <4>
鈴木 俊隆 (著) 紀野 一義 (翻訳) 1998/06 PHP研究所  単行本 261p

 プロジェクト567の途上において、ふたたびみたび、この書を開くのは楽しい。本来、この位置は、スマートフォンのキーワードつながりであってみれば、むしろ、スティーブ・ジョブスが腰巻を飾っている新訳のほうがふさわしいかもしれない。

 しかし、翻訳者として紀野一義と松永太郎を比較してみると、松永は、自らを門外漢としてあくまでも謙虚に、慇懃無礼にふるまっているのに対して、紀野は、思いのたけ、鈴木俊隆をぶった切る。これはこれで見ものではないか。なかなか楽しい。

 今回、検索していて、紀野は友松圓諦が主宰する神田寺の青年部長を務めていたことを知った。私自身は、青年時代に菩提寺の佐山師から友松の「法句経」をいただいたことがある。紀野がOshoの「道元」に巻頭言を送っていることもあり、さまざまな法縁で、我が身が守られていることを知った。

 また最近読んだ「宮沢賢治の宗教世界」にも紀野が一文を寄せているし、他の一連の彼の文献にもあらためて目を通してみたい、などと、思い始めたが、これがまた、迷いの始まりのような気もする。ここは、あまり気を散らさず、自ら本来の姿を見つめ続けることこそが、本書のいわんとするところだろう。

 プロジェクト567において、この本がこの位置にあることの妙を思う。4を挟む、3と5の位置ながら、この本と対をなしているかに思えるのが、「Osho Zen Tarot 」である。偶然といいつつ、それを選んだのは自分であるし、また、ハード的な事象を、ふたつのソフト的シンボルとして読み換えたのは、私自身である。

 この本、後半が圧巻である。むしろサービス精神が旺盛で、語られすぎの嫌いがないでもないが、そこはそこ、ゆっくり目を通していけばいい。鈴木俊隆が40年前に語ったことに対して、20年前の紀野が翻訳し、時には苦言を呈するのであるが、それもまた、なにごとかの味わいがある。

 一元的に成りすぎる心の志向性にあって、多義性を取り戻す、いいバランスになる。「禅へのいざない」。そもそものタイトルZen Mind, Beginner's Mindが語られた空間と、異にした形で出されている邦訳ではあるが、これはこれとして、また、まったく別の、一冊の世界と考えてみれば、スティーブ・ジョブスならずとも、熟読に値する貴重な一冊と言える。

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2012/04/23

プロジェクト567 <5>3・11後を生きるということは、本来の自己を生きること

<4>からつづく 

「プロジェクト567」 

<5>3・11後を生きるということは、本来の自己を生きること 

 「ポスト3・11の子育てマニュアル」「3.11からの子育て」を読み比べてみて、あらたに気づいたことがある。それは、それぞれが3・11をどうとらえているか、という以上に、3・11以前をどう生きていたか、というポイントである。

 復旧復興を語る人びとは、以前の状態がよかった、と感じている。あるいは、少なくとも被災している状況よりはよい、と考えている。被災があまりにすごいので、それは当然なのであるが、被災そのものを、完全にマイナスと考え、とにかく、スムーズに、3・11以前に戻りたいと考えている。

 かたや、3・11をひとつのきっかけとして、前に進もう、という人々もいる。これが後者の「半歩前へ」へ、というスローガンにでているのではないだろうか。

 そもそも、16年まえの阪神淡路大震災の時に子育てをしていて、今回も、同じような状況で被災した人はほとんどいない。今回の子育て中の人々は、その16年前のことさえよく覚えていないのだ。

 前者は、「子育て」をメインテーマとするなら、その人々のところまで「行ッテ」、もっとその支視線から物事を考えるべきであった。3・11後の子育ての場合、むしろチェルノブイリなどの報告をもっと重要すべきだったのではないだろうか。

 いずれにせよ、日々本来の自己を生きようとする人々にとっては、3・11は一つの通過点に過ぎないだろう。3・11をきっかけに、より強力に自己を生きようという決意が固まったとはいえるだろうが、ようやく3・11で気がついた、というのでは遅すぎる。

 0歳児や1歳児の育児を中心に考えるなら、原発のデメリットはあまりにも大きい。まもなく日本でも、原発稼働ゼロのタイミングがやってきそうだが、他の発電方法もデメリットゼロというわけにはいかないが、原発はあまりにもマイナス要素が大きすぎる。ここの旗印が、前者には明白ではない。

 今すでに成長している児童たちだけを対象にするのではなく、生まれたばかり、あるいはこれから生まれて来るこどもたちへの未来を、よくよくかんがえなくてならないのは、現在の大人たちであり、老人たちである。

 そして、本来、いままでもそうあるべきであったし、これまでもそう生きてきた人たちにとっては、今後もそうあるべきである。3・11後に、特段に変わったことなどないはずである。むしろ、その事実を前に、より加速をつけるべきであろう。

 当ブログにおける3・11後を生きるということは、当ブログにおけるプロジェクト567の具体化、ということと、そもそも同義であるはずである。

<6>につづく

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2012/04/22

「3.11からの子育て」 「知らなかった」から半歩前へ クレヨンハウス

Photo
「3.11からの子育て」 「知らなかった」から半歩前へ
(月刊クーヨン増刊) 2011/12/10 クレヨンハウス [雑誌]
Vol.3 No.0649

 一番最初に「ポスト3・11の子育てマニュアル 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?」(冨永良喜他、2011/11)を読んだ時の違和感はずっと続いた。

 よく理由はわからなかったにせよ、結局は、私自身は、内容的には、クレヨンハウスからでているこちらの雑誌の増刊の内容のようなものを期待していたのだと思う。

 一連の放射線から子どもの命を守る」高田純2011/07)や、「娘と話す 原発ってなに?」 (池内了2011/10) にも親近感をもったのだが、なぜにあの「ポスト3・11」には違和感をもったのかと言えば、一つには、明確な反原発の思想が語られていなかったことと、あまりに、災害としての、阪神淡路大震災をベースにしすぎていた面があったと思う。

すべての それぞれの子どもたよ(中略)
これから生まれてくる 子も
あなたの未来を わたしたち大人社会が奪うことをやめよう。
そんな 自分との約束と覚悟をこめて
わたしたちは この本をつくった。 発行人 落合恵子
 表紙見返し

 「ポスト3・11」では、あまりに専門家面して、阪神淡路での体験を生かそう、という姿勢がありありで、どうも、最初から最後までピンとこなかった。それに脱原発などが一切語られていなかった。

 4つ目は、穏やかなこころでいるために、できれば自然のなかでときには瞑想する時間をもつことです。p20「3・11からのわたしの思い」ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ(スウェーデン生まれの女性環境活動家)

 こちらの本では、さりげないこんなコメントが採用されているところも私好みだ。

 シュタイナー教育「大人の生き方が問われています」p100などが編み込まれているところなども、なかなかよい。

 「あかちゃんも大人もエナジーチャージ! 元気になるベビーマッサージ」p88なども、0歳児1歳児と生活している私などには、心打たれるものがある。子育てというかぎりは、この年代を外すことはできないでしょう。 

 それに食べ物のこと、こころとからだのケアなど、バランスのよいムックとなっている。

 プロジェクト567においては、こちらの方を4番目のキーワードに対応した本として採用しなおすことにしよう。

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ポスト3・11の子育てマニュアル<3> 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?冨永良喜他

<2>よりつづく 


「ポスト3・11の子育てマニュアル」 <3>震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか? 
冨永良喜/小城英子他 2011/11講談社 単行本 191p

 プロジェクト567の中で、もう一度、この本を読み直してみる。この本と自分の立場が、どう違った位相にあるのかは、すでに分かった。そもそも、私のような、0歳児1歳児と共に暮らすことを、子育てとは言うことは難しいだろう。孫遊びだ。ましてや私の孫たちは、3・11以前を知らない。

 この本を再読してさらにわかったことは、この本は心理学の本である、ということである。なにを今さら、と思うが、つまり、当ブログは、最初から心理学に興味を持ちながら、それを肯定的に乗り越えようとしてきたのだった。つまり、そもそもが、いわゆる心理学に対しては、不満を持っているのである。

 いみじくも、5人の著者の中には、健康心理学を専門にしている人もいる。病者のための心理学、健康のための心理学が、現地点での心理学であるが、本来、ここから、ブッタ達の心理学へと止揚していくことこそが、当ブログの当面の課題であった。

 ゲシュタルト療法で名高い精神科医のフレデリック・パールズは、「いま、ここに生きること」の重要性を説いています。「いま、ここに生きること」とは、「現在に対する意識を高め、自分をあるがままに受け止め、自分と周囲の世界とふれあい、自分の人生に責任を持ち、自分自身に導かれていく」ということです。

 そしてパールズは、「いま、ここに生きる人」の特徴として「現実は現在の瞬間だけということを認め、過去の出来事や未来の空想にとらわれることはない」ということを挙げています。p198「災害時をすこやかに生きるために」野口京子

 この本にも、ブッタ達の心理学への足がかりが残されてはいるが、十分とは言えない。また、そのために書かれた本でもなかった。しかしながら、当ブログの当面の課題はそちらにあるのだった。そのことを再確認できただけでも、再読の価値はあった。

 今回の読書で、まずはこの本は卒業できるであろう。

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プロジェクト567 <4> 1・2・3

<3>からつづく

「プロジェクト567」 

<4>1、2、3

 1エコシティ、2エネルギー、と来て、3は本来情報の集約を意味しているキーワードであったが、このプロジェクトにおいては、Osho Zen Trotを対応させておいた。

 当ブログにおけるOsho Zen Trotの読み込みも、ほぼ半年かかり、ようやく、この段階に間に合った。最後のカードは、「SHARING(分かち合い)」である。

 四番目のセンターまで上がっていくと——それはハートだが——あなたの生全体が愛の分かち合いになる。

 三番目のセンターは豊かな愛を創りだした。瞑想で三番目のセンターに到達することによって、あなたはまさに愛で、慈悲で満ちあふれるようになり、それを分かち合いたくなる。それが四番目のセンター——ハートで起こる。

 普通の世界においてすら、愛はハートから出てくると人びとが思っているのはそのためだ。彼らにとって、それは風の便りにすぎない。聞いたことがあるだけだ。彼らは自分のハートに到達したことは一度もないのだから、ほんとうは知らないのだ。

 だが、瞑想する人は、最後にはハートに到達する。その人が自分の実存のセンター——第三のセンター——に到達していると、突然、自分のなかで愛と慈悲と喜びと至福と祝福の爆発が生じ、その力があまりにも強いためにハートを打ち、ハートを開かせる。

 ハートはあなたの七つすべてのセンターのちょうど真ん中にある ——下に三つのセンター、上に三つのセンター。あなたはまさにその真ん中にやって来たのだ。Osho Zen Tarot 24. SHARING(分かち合い)

 今回のプロジェクト567の7つのキーワードは当然、上記の7つのセンターに対応すべきものと考えられ、1・2・3の3には、このタロットカードが置かれている。79枚のカードを読み込むのも、そう簡単ではない。カードをカードとして使っているうちに、次第にしみわたってくるだろうとは思うが、使いこなすにはそれなりに時間がかかる。

<5>につづく

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2012/04/21

OSHO ZEN TAROT <82> SHARING(分かち合い)

Zen025sharing   前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <82>

 

24. SHARING(分かち合い)

 

 四番目のセンターまで上がっていくと——それはハートだが——あなたの生全体が愛の分かち合いになる。

 

 三番目のセンターは豊かな愛を創りだした。瞑想で三番目のセンターに到達することによって、あなたはまさに愛で、慈悲で満ちあふれるようになり、それを分かち合いたくなる。それが四番目のセンター——ハートで起こる。

 

 普通の世界においてすら、愛はハートから出てくると人びとが思っているのはそのためだ。彼らにとって、それは風の便りにすぎない。聞いたことがあるだけだ。彼らは自分のハートに到達したことは一度もないのだから、ほんとうは知らないのだ。

 

 だが、瞑想する人は、最後にはハートに到達する。その人が自分の実存のセンター——第三のセンター——に到達していると、突然、自分のなかで愛と慈悲と喜びと至福と祝福の爆発が生じ、その力があまりにも強いためにハートを打ち、ハートを開かせる。

 

 ハートはあなたの七つすべてのセンターのちょうど真ん中にある ——下に三つのセンター、上に三つのセンター。あなたはまさにその真ん中にやって来たのだ。Osho The Search: Talks on the Ten Bulls of Zen Chapter2

 

 

 

解説:

 

 「火のクイーン」は豊かさに満ちあふれ、まさにクイーンそのものです。だからこそ、与えることができるのです。懐ぐあいを調べたり、後のことを考えてなにかを取っておくことなど思いもよりません。

 

 彼女は自分のまわりにある豊かさ、豊潤さ、そして光に与(あずか)れるように誰彼となく歓迎し、自分の宝を際限なく分け与えます。

 

 このカードを引いたときは、あなたもまた同じ状況―自分の愛、喜び、そして笑いを分かち合うことができる状況にあることを暗示されています。そして、分かち合うことで、自分がさらに満たされていく感じがわかるのです。

 

 どこかに行ったり、特別な努力をする必要はありません。自分のものにしたいとか、執着したりすることもなく自分の官能を楽しむことができるということ、創造性に満ちたその同じ感覚で子どもを産むことも、新しいプロジェクトを発足させたりすることもできるということがわかるのです。

 

 今、あなたのまわりのあらゆるものが「いっぺんにやって来る」ように思えるでしょう。それを楽しみ、そこにしっかりと足を下ろし、あなたのなかに、そしてあなたのまわりにある豊かさをあふれ出させましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

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OSHO ZEN TAROT <81> INTEGRATION(統合)

Zen015integration  前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <81>

14. INTEGRATION(統合)

 争いは人間のなかにある。そこで解決しなければ、ほかのどこでも解決されない。駆け引きはあなたの内側にある。心のふたつの陣営のあいだにある。

 ひじょうに小さなかけ橋が存在している。もしその橋がなにかの事故で、生理的な欠陥やほかのなにかで壊れていたら、その人は分裂する、ふたりの人物になる——。そして、精神分裂症や多重人格という現象が起こる。

 もしその橋が壊れていたら——しかも、その橋はひじょうに脆( もろ)い——あなたはふたつになる。ふたりの人物であるかのように振るまう。朝にはとても愛にあふれ、ひじょうに美しいのに、夜になるととても怒っていて、まったく違っている。

 あなたは、その朝のことを覚えていない……どうして覚えていられるかね? 別の心が働いていたのだ——。そうして、その人はふたりの人物になる。もしこの橋が強められ、ふたつの心がふたつ別々のものとしては消え、ひとつになるくらいになったら、そのときこそ統合が、さらには結晶化が生じる。

 ゲオルギー・グルジェフがいつも「実存の結晶化」と呼んでいたものは、このふたつの心がひとつになることにほかならない。内側の男性と女性の出会い、陰と陽の出会い、左と右の出会い、合理と非合理の出会い、プラトンとアリストテレスの出会いだ。Osho Ancient Music in the Pines Chapter 1

解説:

 統合のイメージは、ユニオ・ミスティカ、相反するものの融合です。今は、これまで体験してきた生の二元性が交流する時です。

 夜は昼に対立しているのではなく、闇は光を抑えているのではなく、あるものが別のものへと果てしなく変化しながら、それぞれがそのもっとも深い核に相反するものの種子を含みながら、統一された全体を創りだすためにいっしょに働いています。

 鷲(わし) と白鳥は、ともに飛翔し、威厳ある存在です。鷲は、力と独りあることの化身。白鳥は、スペースと純粋さの化身で、感情の領域に優雅に浮いたり、その内側に潜ったりしながら、自らの完璧さと美にまったく満足し、完結しています。

 私たちは鷲と白鳥、つまり男性と女性、火と水、生と死が統一されたものです。

 「統合」のカードは、自己創造、新しい生、そして神秘的合一(ミスティカル・ユニオン) のシンボル、あるいは、アルケミーとして知られているもののシンボルです。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

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OSHO ZEN TAROT <80> CLINGING TO THE PAST(過去への執着)

Zen053clingingtothepast 前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <80>

52.CLINGING TO THE PAST(過去への執着)

 これらの時制——過去、現在、そして未来——は、時間の時制ではない。それは心(マインド)の時制だ。もはや心の前にないものは過去になる。心の前にあるものは現在だ。これから心の前に来るものが未来だ。

 過去とは、もうあなたの前にはないもの。

 未来とは、まだあなたの前にはないもの。

 そして現在とは、あなたの前にあり、あなたの視界からすり抜けようとしているものだ。すぐに、それは過ぎ去ってしまうだろう……。

 もしあなたが過去に執着しなかったら……というのも、過去に執着することは、まったく愚かなことだからだ。それはもはやそこにはない。だから、あなたは過ぎたことを悔やんでいるにすぎない。過ぎ去ったものは過ぎ去ったのだ!

 そして、現在に執着してもいけない。それもまた去ろうとしていて、すぐに昔のことになってしまうからだ……。

 未来——明日への希望、空想、計画——に執着してはいけない。というのも、明日は今日になり、昨日になってしまうからだ。あらゆることが昨日のことになる。あらゆることがあなたの手から抜け落ちていくだろう。

執着は惨めさを生み出すだけだ。

あなたは手放しにならなければならない。
Osho The Great Zen Master Ta Hui Chapter 10

解説:

 このカードに描かれている人物は、思い出の箱をしっかり握って手放すまいとするあまり、今ここで手に入る祝福の、きらめくシャンパングラスに背を向けています。

 過去への郷愁(ノスタルジア) によって彼女はまさに「まぬけ」になってしまい、つぎの当たったボロボロの服からもわかるように、乞食にもなっています。

 彼女は、もちろん、乞食になる必要はないのですが、まさにいま差し出されている楽しみを味わえるような状態ではありません。過去は去ってしまったのだという事実、過去を繰り返そうとすると、古い青写真に引っかかって確実に身動きできなくなってしまうという事実を認めるときです。

 その古い青写真は、あなたがこれまで経験してきたことに必死になってしがみついていなかったら、あなたの成長につれてもう要らなくなっているはずです。

 深く息を吸い込んで、その箱を降ろし、どうしてもというのなら可愛らしいリボンを掛けて、愛情と敬意のこもった別れを告げましょう。

 生はあなたの脇を通り過ぎようとしています。あなたは年よりも早く化石人間になってしまうおそれがあります!Copyright © 2012 Osho International Foundation

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OSHO ZEN TAROT <79> LAZINESS(怠惰)

Zen057laziness  前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <79>

56. LAZINESS(怠惰)

 怠惰なときは、否定的(ネガティヴ)な味がする。あなたはただ、自分にはエネルギーがないと感じる。ただ、だるい感じがする。ただ、眠く感じる。ただ、死んだような感じがする。

 無為の境地にあるときは、あなたはエネルギーに満ちあふれている——。それはひじょうに肯定的(ポジティヴ)な味だ。あなたはエネルギーに満ち、あふれている。光を放ち、高揚し、脈打っている。眠くはない。完璧に醒めている。あなたは死んではいないのだ……素晴らしく生きている。

 心(マインド)があなたをだますことはありうる。心は、怠惰とは無為のことだと理屈で解釈することはできる。心は、「私は禅のマスターになった」とか、「私はタオを信じている」と言うことはできる——。

 だが、あなたは誰かほかの人をだましているわけではない。あなたはただ自分をだましているにすぎないだろう。だから、油断せずにいるがいい。Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 8 

解説:

 この紳士は明らかに「自分は成し遂げた」と思っています。ふわふわのゆったりした大きなソファに腰をおろし、サングラスをかけ、日除けのパラソルの下でピンクのスリッパをはき、ピニャ・カラーダを手にしています。

 彼はすでになし終えたと思っているために、立ち上がってなにかをするエネルギーはありません。鏡が自分の右側を取り巻くようにひび割れているのに、その方はまだ見てもいません。それは、ついに行き着いたと自分では思っている場所が目の前でまさに粉々になり、消滅しようとしている確かなサインなのですが……。

 このカードがもたらすメッセージは、このプールサイドのリゾートがあなたの最終的な目的地ではないということです。広大な空を飛ぶ、あの白い鳥が示そうとしているように、旅はまだ終わっていません。

 差し迫る危険に気づていないあなたの自己満足は、成し遂げたというリアルな感覚から生じたものではあるでしょうが、今はもう、さらに先に進むときです。そのスリッパがいかにフカフカしていようとも、ピニャ・カラーダがどんなにおいしくても、探険すべき空また空が依然として待ち受けています。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

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OSHO ZEN TAROT <78> STERESS(ストレス)

Zen045stress 前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <78>

44. STERESS(ストレス)

 個人的なゴールはすべてノイローゼのようなものだ。本質を究めた人は、「私は全体から離れてはいない、私ひとりの運命を探し求める必要はなにもない。ものごとは起こっているし、世界は動いている——それを神と呼ぶなら… …神のしわざなのだ。

 それらはひとりでに起こっている。私が奮闘し、努力する必要はまったくない。私がなにかのために戦う必要はない。私はリラックスして、ただ在ればいいのだ」ということを知るようになり、感じるようになる。

 本質を究めた人は、ものごとのやり手ではない。本質を究めていない人は、やり手だ。本質を究めていない人は、もちろん、不安、緊張、ストレス、苦悩に見舞われ、たえず火山の上に坐っている。その火山はいつ爆発してもおかしくない。

 というのも、そういう人は不確実な世界に生きていながら、この世界は確実だと信じ込んでいるからだ。それが、その人の実存に緊張を生みだす。奥深いところでは、なにひとつ確実ではないことを知っているのだ。Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 3 

解説:

 計画が多すぎて、「アドバルーン」を上げすぎて、余りの負担に耐えられなくなり、ちょっとした風邪で寝込んだり、墜ちてしまって結局は松葉杖の世話になった人たちがどれくらいいるか知っていますか?

 そういった「タイミングの悪さ」はあるもので、それはこの絵のなかの小さな猿が、手にしたピンで「ワンマン・バンド」を今にもひと刺ししようとしているようなものです!このカードが示しているようなストレスの質には、ときおり私たちみんなが見舞われますが、とくに完全主義者たちはそれに冒されやすいのです。

 自分たちがいなければなにひとつ起こりはしない——自分たちがそうあって欲しいと思うようには起こらない! そういう考えがあって、私たち自身がそのストレスを生みだしています。

 ところで、あなたはいったいどんな理由があって、自分はそれほど特別だと思い込んでいるのでしょうか? 自分の手で目覚まし時計をセットしなければ、朝になっても太陽は昇らない、あなたはそう思っていますか?

 散歩に出て、花を買って、自分のためにスパゲッティの夕食でもつくりましょう——「どうってことのない」ものであれば、なんでもいいのです。猿の手の届かないところにいましょう!copyright © 2012 Osho International Foundation

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OSHO ZEN TAROT <77> SCHIXOPHERENIA(精神分裂症)

Zen060schizophrenia  前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <77>

59.SCHIXOPHERENIA(精神分裂症)

 人間は分裂している。精神分裂症は人間の普通の状態だ——少なくとも今は。

 原始的な世界ではそうではなかったのだろうが、何世紀にもわたる条件付け、文明、文化が人間を群衆にしてしまったのだ——わかれた、分裂した、相反する群衆……。

 だが、この分裂は人間の本性に反しているのだから、どこか奥深いところに隠された統一が依然として生き延びている。

 人間の魂(ソウル)はひとつであり、条件付けはすべて、せいぜい人間の表層を破壊するだけだからだ。

 だが、中心は触れられずに残っている―人間が生きつづけていられるのはそのためだ。 だが、その生は地獄になってしまった。

 禅の全努力は、この精神分裂症を落とすにはどうすればいいのか、この分裂した人格を落とすにはどうすればいいのか、人間のこの分割された心(マインド)を落とすにはどうすればいいのか、どうすれば分割されず、統合され、中心に定まり、結晶化するようになるのかということにある。

 今のままのあなたでは、自分は在るとは言えない。あなたには実存がない。あなたはさながら市場だ——多くの声。たとえ「イエス」と言いたくても、そこにはもう「ノー」がある。あなたは「イエス」という単純な言葉ですら全一性をもって口にすることができない……。

 こんなことでは、幸福はありえない。不幸こそ、分裂した人格の自然の成り行きだ。Osho Dang Dang Doko Dang Chapter 3 

解説:

 このカードの人物は、「前門の虎、後門の狼」という古い考え方に新しいひねりをもたらしています! しかし、私たちは心(マインド)の優柔不断で二元的な面に引っかかって身動きできなくなったとき、まさにこの手の状況にはまっているのです。

 手を放して頭から落ちるべきか、それとも、足を放して足から先に落ちた方がいいのか? こっちに、それともあっちに、どっちに行くべきなのか? 「イエス」と言うべきか「ノー」と言うべきか? しかし、どう決心しても、もうひとつの方の決断を下すべきではなかったのかと、私たちにつねに考え込んでしまいます。

 このジレンマから脱け出す唯一の方法は、残念ながら、両方を同時に手放すことでしかありません。解決しようとしたり、是か非の一覧表を作ったり、心(マインド)でなんとか結論を出そうとしたのでは、出口は見つかりません。

 もしハートを見つけることができたら、自分のハートに従った方がよいのです。見つけられなかったら、ちょっとジャンプしてみましょう―。ハートはたちまちどきどきしはじめますから、ハートがどこにあるのか、つかみそこねることはないでしょう!Copyright © 2012 Osho International Foundation

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OSHO ZEN TAROT <76>CONTOROL(コントロール)

Zen032control 前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <76>

 

31. CONTOROL(コントロール)

 

 自分をコントロールしている人はいつも神経質になっている。奥深いところに依然として動揺が隠されているからだ。もしコントロールせずに、流れ、活気に満ちていたら、神経質にはならない。

 

 神経質になることなど問題外だ——起こることはすべて起こる。あなたは未来に期待を抱いていない、演技してはいない。だとしたら、なぜ神経質にならなければならないかね?

 その心をコントロールするためには、生のエネルギーが自分の手足、からだに流れ込めなくなるほど冷たく、凍りついていなければならない。もしエネルギーが流れるのを許したら、こうした抑圧が表面に浮かび上がってくる。

 

 だからこそ人びとは、冷たくあるにはどうすればいいのか、相手に触れても触れないようにするにはどうすればいいのか、人びとを見ても見ないようにするにはどうすればいいのか、その方法を学んできたのだ。

 

 人びとは陳腐な決まり文句で生きている——「こんにちは、ご機嫌いかがですか」。誰も本気でそう思ってはいない。こうしたことは、ふたりのほんとうの出会いを避けるためのものだ。

 

 人びとは互いに相手の目を見ない、手を取り合わない、互いのエネルギーを感じ合おうとしない、相手の本音を聞こうとはしない——ひじょうに怖れている。拘束服で身を固めて、とにかくなんとかやり繰りしながら、冷たく、死んだようになっている。Osho Dang Dang Doko Dang Chapter 5 

 

解説:

 

 コントロールには時と場所がありますが、もしそれを自分たちの生を管理することに用いたら、私たちは結局、柔軟性をまったく失ってしまうことになります。

 

 この人物は自分を取り囲むピラミッド形の視野に閉じ込められています。彼のつやのある表面は光り輝き、光を反射していますが、その光は内部には届いていません。

 

 彼は自分のまわりに自ら作り上げたこの構造のなかで、まるでミイラになっているかのようです。拳(こぶし) を固く握り締め、目はうつろで、ほとんど見えていません。テーブルの下の下半身はナイフの切っ先、切りわける刃になっています。

 

 彼の世界は管理された完璧なものですが、活き活きとはしていません——自発性や感受性が入ってくるのを許すことができないのです。

 

 「雲のキング」のイメージは、深く息をつき、ネクタイをゆるめ、楽にすることを私たちに思い出させてくれます。たとえなにか間違いが起こっても、それでいいのです。事態がちょっと手に負えなくなったとしても、それは望ましいことなのかもしれません。

 

 生には、「事態を完全に支配している」ことよりも、もっともっと多くのことがあります。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

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OSHO ZEN TAROT <75>FIGHTING(戦い)

Zen034fighting   前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <75>

 

33. FIGHTING(戦い)

 

 ある瞬間にはそこにあったものが、別の瞬間にはなくなっている。ある瞬間には私たちはここにいるが、別の瞬間にはもういなくなっている。

 

 が、このちっぽけな瞬間のために、私たちはどんなに大騒ぎすることだろう。 どれほど多くの暴力、野心、闘い、衝突、怒り、憎しみが——。ただ、この小さな瞬間のために!

 

 駅の待合室で列車を待っているだけなのに、とんでもない大騒ぎをする。争い、傷つけ合い、自分のものにしようとして、服従させようとして、支配しようとして——すべて政治だ。

 

 そして、列車がやって来て、あなたがたは永遠にいなくなってしまう。Osho Take it Easy, Volume 1 Chapter 13 

 

解説:

 

 このカードの人物は完全武装しています。見えるのは、怒りに燃えてにらみつける目と、握り締めて白くなっている拳(こぶし)の一部だけです。鎧をよく見ると、表面にボタンがいくつもついていて、少しでも歯向かう者には爆弾を爆発させようとしています。

 

 背景には、この人の心のなかで上映されている映画が影のように映っています——ひとつの城を巡って、ふたりの人物が戦っています。激しい癇癪(かんしゃく)や鬱積した激怒は、その下に深い痛みを隠していることがよくあります。

 

 私たちは、人びとを脅して追い払えば、傷つけられることをもっと避けることができると考えています。実際は、その逆です。傷を鎧で覆い隠すことで、私たちはその傷が癒されるのをじゃましているのです。

 

 相手を打ちのめすことで、私たちは必要な愛と滋養が得られなくなってしまいます。もし、この説明があなたに合っていたら、戦いをやめる時です。

 

 あなたが愛をなかに入れさえすれば、そこに愛はあふれるほどあり、あなたの手に入るのです。自分を許すことから始めましょう。あなたにはそれだけの価値があります。 Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

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OSHO ZEN TAROT <74>SUCCESS(成功)

Zen044success  前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <74>

 

43. SUCCESS(成功)

 

 海の波をよく見てごらん。波が高くなればなるほど、次につづく跡は深くなる。ある瞬間、あなたは波だが、別の瞬間にはその後からやって来る、くぼんだ跡だ。両方とも楽しむがいい——どちらかひとつにおぼれてはいけない。

 私はいつも頂点にいたい、と言ってはいけない。それは不可能だ。ただ事実を見るがいい——不可能なのだ。それはこれまで一度も起こったことがないし、これからもけっして起こらない。ただただ不可能なのだ——ものごとの道理からして。そうだとしたら、どうしたらいい?

 頂点がつづいているあいだはその頂点を楽しみ、次に谷が来たら、その谷を楽しむことだ。谷のどこが悪いかね? 落ち込んでいることのどこが悪い? それはくつろぎなのだ。頂点は興奮だ。たえず興奮したままでいることなど誰にもできない。
Osho Returning to the Source Chapter 4 

 

解説:

 

 この人物はまさに今、明らかに「世界の頂点」に立ち、全世界がテープや紙吹雪の舞う歓迎パレードで彼の成功を祝っています!最近あなたは生の挑戦を進んで受け入れたために、今、成功という虎にのって進むその素晴らしさを楽しんでいます——あるいは、もうすぐ楽しむことになるでしょう。

 

 それを歓迎し、楽しみ、自分の喜びをほかの人と分かち合いましょう——そして、華やかなパレードには、すべて始まりと終わりがあることを覚えておきましょう。このことを心にとどめ、いま体験している幸せから最後の一滴までジュースを絞り取ったら、なにひとつ後悔することなく未来を来るがままに受け容れることができるようになります。

 

 しかし、この満ち足りた瞬間にしがみつこうとか、この瞬間が永遠につづくようにプラスティックで固めてしまおうとかという誘惑に引き込まれてはいけません。生というパレードのあらゆる現象に対して——それが谷であろうと頂(いただき) であろうと ——心にとどめておくべき最大の智慧は、「これもまた過ぎ去る」ということです。

 

 祝う……、もちろんです。そして、どこまでも虎にのって行きましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

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OSHO ZEN TAROT <73> HARMONY(ハーモニー)

Zen058harmony  前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <73>

 

57. HARMONY(ハーモニー)

 

 自分のハートに耳を傾けなさい。どんな危険が伴おうとも、自分のハートに従って動くがいい。

 「完璧な単純さの条件は、あらゆるものより高くつくことはあっても、安くつくことはない……」

 単純であることはきわめてむずかしい。というのも、単純であるためには、あなたの持っているあらゆるものが犠牲になるからだ。

 

 単純であるためには、あなたはすべてを失わなければならない。人びとが複雑であることを選び、どうしたら単純になれるのかを忘れてしまったのはそのためだ。

 だが、単純なハートだけが神と共に手を取り合って打ち震える。単純なハートだけが神と共に深いハーモニーを保って歌う。

 

 そのポイントに行き着くために、あなたは自分のハート、自分自身の胸の高鳴り、自分自身のビートを見いださなければならない。Osho Dang Dang Doko Dang Chapter 3 

 

解説:

 

 瞑想してハートのなかで安らいでいるという体験は、つかんだり、強いたりできるものではありません。それは、私たちが私たち自身の内なる沈黙とさらにさらに調和して成長していくにつれて、自然とやって来ます。

 

 このカードの人物は、この体験の甘美さと繊細さを反映しています。ハートから現われ、第三の眼に向けてアーチを描いているドルフィンたちは、私たちがハートとつながりを持ち、そこから世界へと入って行くことができるときに訪れる、遊び心と知性を反映しています。

 

 今は自分をもっと柔らかくして、もっと受け容れるようにしましょう。というのも、言葉では言い表わすことのできない喜びが、すぐそこであなたを待っているからです。それを、あなた以外の誰かがあなたに示して見せることはできませんし、あなたがそれを見いだしても、ほかの人に言い表わす言葉は見つからないでしょう。

 

 しかし、それはそこに、あなたのハートの奥深くにあります。熟し、発見されるばかりになって——。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

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OSHO ZEN TAROT <72> BEYOND ILLUSION(幻想を超えて)

Zen021beyondillusion_2   前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <72>

20. BEYOND ILLUSION(幻想を超えて)

 夢と現実の区別はこれしかない——現実は疑いを許すが、夢は疑いを許さない……。

 私にとって、疑う能力は人類への最大の祝福のひとつだ。宗教は疑いの根そのものを切りつづけてきたのだから、これまでずっと敵対してきた。

 そして、彼らがそうしているのにはわけがある。彼らは自分たちが説きつづけている幻想を人びとに信じてもらいたいのだ……。

 なぜ、ゴータマ・ブッダのような人びとは、全存在—— あなたの目撃している自己以外は、あなたの覚醒以外は全存在がただはかなく、夢と同じものでできていると強く主張したのだろう?

 彼らは、この樹々はここにはないと言っているのではない。この柱はここにはないと言っているのではない。

 「幻想」という言葉ゆえに、誤解してはいけない……。それは幻想と訳されてきた。が、幻想は正しい言葉ではない。幻想は存在していない。現実は存在している。

 まさにその中間にあるのがマーヤ——それはほとんど存在している。日常の活動に関するかぎり、それは現実として捉えられる。

 究極の意味においてのみ、あなたの光明の頂きからは、それは現実ではなくなる、幻になる。Osho The Great Zen Master Ta Hui Chapter 12 

解説:

 このカードの蝶は外側にあるもの——絶えず動いているもの、現実ではない幻想——を表わしています。蝶の背後には意識の顔があり、内側を、永遠なるものの方を見ています。

 両眼のあいだのスペースが開いていて、そこにはスピリチュアルな展開の蓮(ロータス) と、覚醒の昇る太陽が現われています。

 この内なる太陽が昇ることで、瞑想が生まれるのです。このカードは、現実とはなにか探して外を見るのではなく、内側を見ることを私たちに思い出させてくれます。

 外のものごとに関心を集中させると、私たちは判断することに巻き込まれてしまうことがよくあります——これは良いけれど、これは悪い、これは欲しいけれど、あれは欲しくない、と。

 こうした判断は、私たちを幻想、眠気、古い習慣とパターンの罠にはめたまま、放してくれません。

 自分の独断的なマインドを落として、内側へ入りましょう。そこでこそ、自分のもっとも深い真理、夢と現実の違いがすでに知られているところへと、くつろいでいくことができます。Copyright © 2012 Osho International Foundation

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OSHO ZEN TAROT <71> MIND(心)

Zen035mind  前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <71>

34.MIND(心)

 これがあなたの頭の状態だ―自転車のハンドルとペダル、それに、あなたが手あたり次第に集めてきた奇妙なものがいくつも見える。こんな小さな頭なのに……もはや、住む余地もない! しかも、そのがらくたがあなたの頭のなかで動きつづけている。

 あなたの頭はくるくる回りながら、はたを織っている―それがあなたを忙しくさせているのだ。自分の心のなかをどんな種類の思考が巡っているか、ちょっと考えてごらん。

 いつの日かちょっと坐り、自分の扉をすべて閉めて、半時間のあいだ自分の心をよぎることをすべて書きとめてごらん。そうすれば、あなたは私の言っていることがわかるし、自分の心のなかで進行していることに驚くだろう。

 それは背景にとどまりつづけ、絶えずそこにあり、雲のようにあなたを取り巻いている。この雲があっては、あなたは現実を知ることなどできない。スピリチュアルな洞察を得ることはできない。この雲は落とされなければならない。

 そして、それを落とすというあなたの決断だけで、それは消えてしまう。あなたがそれにしがみついているのだ——。雲はあなたには関心がない。それを覚えておくがいい。Osho The Sun Rises in the Evening Chapter 9

解説:

 心(マインド)はもともと従者なのだということを忘れて、その心に私たちの生を任せてしまうと、こうなってしまいます。頭はいろんな装置でいっぱいになり、口は怒鳴りちらし、この主張と意見の工場によってまわりの空気はすっかり汚染されています。

 「でも、ちょっと待って」とあなたは言うでしょう——「私たちが人間なのは、心があるからだ。心こそ、あらゆる進化の、あらゆる偉大な真理の源なのだ」と。もし、あなたがそう信じているのなら、ある実験をしてみましょう。

 自分の部屋に行き、扉を閉め、テープレコーダーを回して、「自分の心にある」ことをすべて口に出して言わせてみるのです。どんな検閲も監修もせずに、それがすべて出てくるのをほんとうに許しきったら、どっと吐き出されるゴミの多さにあなたは驚いてしまうでしょう。

 「雲のペイジ」は、誰かがどこかで「ヘッド・トリップ」に嵌(は)まっていることを教えています。よく見て、それが自分ではないことを確かめましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation

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OSHO ZEN TAROT <70> PROJECTIONS(投影)

Zen055projections 前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <70>

54.PROJECTIONS(投影)

 映画館で、あなたはスクリーンの方を見て、けっして後ろは見ない——。映写機は後ろにある。フィルムは実際にはスクリーン上にはない。それは影と光の投影にすぎない。フィルムはまさに後ろにあるが、あなたはけっしてその方を見ない。が、そこにこそ映写機がある。

 あなたの心(マインド)は、ことの全体の背後にあり、その心が映写機だ。だが、あなたはいつも相手の方を見る。というのも、相手はスクリーンだからだ。

 あなたが愛していると、相手はたとえようもなく美しく思える。憎んでいると、その同じ人がもっとも醜く思える。が、同じ人がどうしてもっとも醜くなりうるのか、そして、その同じ人がどうしてもっとも美しくなりうるのか、あなたはそのことにはけっして気づかない……。

だから、真実に至る唯一の道は、自分の眼でどうやってじかに見るのか、心(マインド) の助けをどうやって落とすのかを学ぶことだ。心のこの仲介が問題なのだ。心には夢を生み出すことしかできないからだ……。あなたの興奮を通して、その夢が現実のように見えてくる。興奮しすぎたら、あなたは酔ってしまう。

 そうなったら、あなたは正気ではない。そうなったら、あなたが見るものはすべて、あなたの投影にすぎない。しかも、世界は心と同じ数だけある。というのも、心はそれぞれ自分自身の世界で生きているからだ。Osho Hsin Hsin Ming: The Book of Nothing Chapter 7

解説:

 このカードの男性と女性は顔を合わせてはいますが、それでも、互いに相手をはっきりと見ることはできません。自分の心のなかに作りあげたイメージを投影し合い、自分が見ている相手のほんとうの顔を覆い隠しています。

 私たちはみな、自分で作った映画をまわりの状況や人びとに映し出すことに熱中してしまいかねません。それは、私たちが自分の期待、欲望、そして評価によく気づいていないときに起こります。私たちはその責任を自分でとり、それを認めるのではなく、他人のせいにしようとします。

 その投影は極悪なものであろうと神聖なものであろうと、不穏なものであろうと安心感をいだかせるものであろうと、投影であることに変わりはありません——現実をあるがままに見るのを妨げる雲なのです。

 そこから抜け出す唯一の道は、そのゲームをはっきりと見抜くことです。他人を評価していることに気づいたら、振り返ってみましょう。

 あなたが相手のなかに見ているものは、ほんとうにあなた自身のものですか? あなたの視界は澄んでいますか? 自分が見たいと思っているもので曇ってはいませんか?Copyright © 2012 Osho International Foundation

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OSHO ZEN TAROT <69> SORROW(嘆き)

Zen067sorrow  前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <69>

 

66. SORROW(嘆き)

 

 この痛みは、あなたを悲しませるためにあるのではない。

 それを覚えておくがいい。人びとが見逃しつづけているのはそこだ……。この痛みは、ただあなたをもっと油断なくさせるためにある——というのも、人びとは矢が自分の胸に深く刺さって、傷つかないかぎり、油断しないようにはならないからだ。そうならないかぎり、彼らは油断しないようにはならない。

 

 生きることが簡単で、心地よく、都合がよければ、誰が気にするかね? 油断しないようになろうなどと誰が悩むかね? 友人が死ぬと、その可能性はある。あなたの恋人があなたをおいて行ってしまうと——闇の深いその夜、あなたは淋しく感じる。あなたはその女性をとても愛していたし、すべてを賭けていた。

 

 ところが、ある日突然、彼女は去ってしまう。淋しさに泣きながら、もしあなたがそれらを使えば、そういう時こそ、気づくようになることのできる機会だ。矢は痛む――。それを使うことはできるのだ。

 

 この痛みは、あなたを惨めにさせるためにあるのではない。痛みは、あなたをもっと気づかせるためにある! そして、あなたが気づくと、惨めさは消える。Osho Take it Easy, Volume 2 Chapter 12 

 

解説:

 

 これは、仏陀のいとこで弟子でもある阿難(あなん)のイメージです。彼はたえず仏陀のそばにいて、22年ものあいだ仏陀のあらゆる身の回りの世話をしていました。仏陀が死んだとき、阿難は依然として彼のそばにいて、泣いていたと伝えられています。

 

 ほかの弟子たちは彼が誤解していることを責めました——仏陀は完全に満たされて死んだのだ、おまえは悦んでこそ当然なのだ、と。それでも、阿難はこう言ったのです。「きみたちこそ誤解している。私は彼のために泣いているのではない、自分のためなのだ。

 

 私は何年ものあいだずっと彼のそばにいたのに、いまだに成就していないからだ」。阿難はその夜一晩中起きていて、深く瞑想し、痛みを感じ、嘆き悲しんでいました。朝になって、彼は光明を得たと言われています。

 

 どうしようもなく嘆き悲しんでいる時は、その奥に、大きな変容の時となりうる可能性が潜在しています。しかし、変容が起こるためには、私たちは深く、痛みの根そのものにまで入っていき、非難することも自分を憐れむこともせずに、そのあるがままの痛みを体験しなければなりません。Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

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OSHO ZEN TAROT <68> EXHAUSTION(消耗)

Zen047exhaustion 前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <68>

 

46. EXHAUSTION(消耗)

 

 良心(コンサイエンス)でもって生きる人は堅くなる。意識(コンシャスネス) でもって生きる人はいつもソフトだ。なぜだろう? いかに生きるべきかという考えを持っている人は、自然と堅くなるからだ。

 

 そういう人はたえず自分の人格を身につけていなければならない。その人格は鎧のようなもの、自分を保護するもの、自分を安全にするものだ。その人の一生がその人格に投資される。そして、いつもその人格から状況に反応する。直接にではなく——。

 

 そういう人になにかたずねたら、その答えはすでに決まっている。それが堅い人物のしるしだ——鈍く、愚かで、機械的だ。いいコンピューターではあるかもしれないが、人間ではない。あなたがなにかすると、その人はいつものように決まりきった反応を示す。その反応は予測できるものだ。そういう人はロボットだ。
 
 本物の人間は、自然に起こるがままに行動する。その人になにかたずねたら、その問いには機械的な反応ではなく自然な応答が返ってくる。その人はあなたの問いにハートを開き、あなたの問いに自分をさらし、それに応える… …。
Osho Take it Easy, Volume 1 Chapter 13 

 

解説:

 

 これは、うぬぼれと生産性という巨大でおかしな機械に頑張って燃料を供給しつづけて、自分の生の全エネルギーを使い果してしまった人のポートレートです。彼は「すべてをうまくまとめ」「あらゆるものがスムーズに作動しているか確かめる」ことにあまりにも忙しかったために、休むことをすっかり忘れていたのです。

 

 彼にとっては、遊ぶことなどもってのほかです。海辺へのちょっとした旅行のために自分の義務を放棄することは、彼にとっては構造全体が崩壊してしまうかもしれないということなのです。

 

 このカードのメッセージは、それでも、仕事中毒(ワーカホリック) にかかっているということだけを伝えているのではありません。安全ではあっても不自然な決まりごとを設け、それに従うことで、混沌として自然に起こることが扉から入ってこないようにしてしまう、そういうやり方すべてに対する共通したメッセージでもあります。

 

 生は管理すべきビジネスではなく、生きるべき神秘です。タイムカードを破りすて、工場から脱出して、地図に載っていないもののなかへと、ちょっと旅行しましょう。リラックスした心の状態なら、あなたの仕事はもっとスムーズに流れます。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

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OSHO ZEN TAROT <67> INTENSITY(激しさ)

Zen026intensity   前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <67>

 

25. INTENSITY(激しさ)

 

 禅はこう言う——偉大な言葉と偉大な教えは生死をわける敵だと思うがいい、と。それらを避けることだ。あなたは、あなた自身の源泉を見いださなければならないからだ。

 あなたは従う人、真似する人であってはならない。一個のオリジナルな個人でなければならない。どんなガイドもなく、道案内の教典もなく、あなた独りで自分のもっとも奥深い核を見いださなければならない。

 

 それは暗い夜だ。だが、問いかけるその激しい火によって、あなたはかならず日の出に辿り着く。激しい問いかけで燃え立った人はみな、日の出を見いだしてきた。

 

 ほかの者たちはただ信じるだけだ。信じる者たちは宗教的ではない。彼らは信じることで、宗教の最大の冒険を避けているだけだ。Osho Zen: Turning In Chapter 10 

 

解説:

 

 このカードの人物は矢の形をとり、自分がどこに向かっているのか正確に知っている人の、ただ一点に向けられた集中力とともに進んでいます。彼はひじょうに速く進んでいるために、ほとんど純粋なエネルギーになっています。

 

 しかし、その激しさを、Aという地点からB という地点に行き着くために猛スピードで車を運転してしまう、躁病的な興奮状態と勘違いしてはいけません。そうした激しさは、空間と時間という水平の世界のものです。

 

 「火の騎士(ナイト)」によって表わされている激しさは、現在の瞬間という垂直の世界——今だけがありうる唯一の瞬間で、ここだけがありうる唯一の空間だという認識に属しています。

 

 「火のナイト」の激しさで行動すれば、まわりに波紋を生み出すことになるでしょう。あなたがそこに在ることによって高揚し、リフレッシュされたと感じる人もいるでしょうし、逆に、怖くなったりイライラしたりする人もいるでしょう。

 

 それでも、他人の意見は取るに足りません。まさに今、あなたを引きとどめることのできるものはなにひとつありません。Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

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OSHO ZEN TAROT <66> ICE-OLATION(アイス・オレーション)

Zen061iceolation  前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <66>

60. ICE-OLATION(アイス・オレーション)

 私たちが惨めなのは、あまりにも自己に入り込みすぎているからだ。あまりにも自己に入り込みすぎていると私が言うとき、それはどういう意味だろう? そして、私たちがあまりにも自己に入り込みすぎていると、正確にはなにが起こるのだろう?

 あなたがたは存在のなかにいることができるか、あるいは自己のなかにいることができるか、そのどちらかだ——同時に両方はありえない。自己のなかにいるということは、離れている、わかれているということだ。自己のなかにいることは、島になるということだ。

 自己のなかにいることは、自分のまわりに境界線を引くということだ。自己のなかにいることは、「これは私」と「あれは私ではない」を区別することだ。「私」と「私ではない」の定義、境界、それが自己とはなにかだ——。自己は孤立(アイソレート) する。そして、それはあなたを凍りつかせる——

 あなたはもはや流れていない。もし流れていたら、自己は存在することができない。人びとがほとんど角氷(アイスキュ-ブ) のようになっているのはそのためだ。彼らには暖かみがまるでない。愛がまったくない——愛は暖かみであり、彼らは愛を怖れている。

 もし暖かみが訪れたら、彼らは融けだし、境界は消えてしまうだろう。愛のなかで境界は消える。喜びのなかでも境界は消える。喜びは冷たくはないからだ。Osho Zen: The Path of Paradox, Volume 1 Chapter 5 

解説:

 私たちの社会では、とくに男性の場合、泣いてはいけない、痛めつけられても凛々(りり)しい顔をして、痛みを顔に出してはいけないと教えられてきました。しかし、女性でも、この罠に引っかかってしまうことがあります。

 私たちはみな、二度と傷つけられずに生き延びるにはフィーリングと感情を押し殺すしかない、と感じたことも一度か二度はあるはずです。痛みがとくに深ければ、私たちは自分にさえもその痛みを隠そうとするでしょう。そのために私たちは凍りつき、硬くなってしまうこともあるのです。

 氷に小さな割れ目がひとつできただけでも、その傷が再び解き放たれ、私たちのなかを巡りはじめる——そのことを私たちは深いところで知っているからです。

 この人物の顔に浮かぶ虹色の涙に、この「アイス‐オレーションi c e - o l a t i o n (凍りつき、孤立すること)」を打破する鍵があります。涙が、涙だけが、氷を溶かす力をもっています。

 泣いていいのです。そして、自分の涙を恥ずかしがる理由はなにもありません。泣くことは私たちが痛みを手放すのを助け、私たちが自分に優しくなるようにさせ、最後には自分を癒すのを助けてくれます。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

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OSHO ZEN TAROT <65> MORALITY(道徳)

Zen033morality 前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <65>

 

32.MORALITY(道徳)

 

 菩提達磨(ボーディダルマ)……は、道徳家、厳格な人、いわゆる善人たち、空想的社会改良家たちをはるかに超えている。彼は問題を底の底まで理解している。

 覚醒があなたのなかで湧き起こらないかぎり、あなたがたの道徳はすべて偽物だ。あなたがたの教養は誰にでも破壊できる薄い層にすぎない。だが、ひとたびあなたの道徳がなにか規律からではなく、あなたの覚醒から出てくるようになったら、それはまったく別のものだ。そうなったら、あらゆる状況で、あなたは自分の覚醒から応じるようになる。

 そして、あなたのすることはすべて良くなる。覚醒には悪いことなどなにひとつできない。それが覚醒の究極の美——。覚醒から出てくるものは、すべてただ美しく、ただ正しく、どんな努力も訓練も伴っていないということだ。

 だから、枝や葉を切るのではなく、根を切るがいい。そして、根を切るには、ひとつの技法以外に方法はない。油断せずにいるための、醒めてあるための、意識してあるための技法だ。
Osho Bodhidharma, The Greatest Zen Master Chapter 15 

 

解説:

 

 道徳が、生のすべての潤いとエネルギーをこの女性の心の狭い範囲に押しとどめています。それは流れることができないので、彼女はまさに「ひからびた古いプルーン」になってしまっています。

 

 彼女のマナーはすべてこの上なく礼儀正しく、堅苦しく、厳格です。あらゆる状況を首に掛けている宝石のような、黒か白かにはっきり見わけようとしがちです。

 

 「雲のクイーン」は、善と悪、罪と徳、容認できることと容認できないこと、道徳と不道徳という固定観念で育てられた私たちみんなの心に潜んでいます。心が下すこうした判断はすべて、私たちが受けた条件づけによって生み出されているのを思い出すことが大切です。

 

 そして、私たちのその判断によって——判断を下した相手が、自分たちか、あるいはほかの人たちかどうかを問わず——私たちは内側にある美と神々しさを体験できなくなっているのです。

 

 条件づけという檻を突破し、私たち自身のハートの真実に行き着いて初めて、生をあるがままに見ることができるようになります。Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

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OSHO ZEN TAROT <64> INNOCENCE(無垢)

Zen020innocence 前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <64>

19.INNOCENCE(無垢)

 禅はこう言っている。もしあなたが知識を落としたら——知識のなかにはあらゆるもの、あなたの名前、あなたのアイデンティティ、あらゆるものが含まれている。

 というのも、これは他人によってあなたに与えられているものだからだ——もし、あなたが他人から与えられているすべてを落としたら、あなたは自分の存在に全面的に異なった質——無垢を得ることになる。

 これは、仮面(ペルソナ) 、人格(パーソナリティ)の十字架上の死、そして、あなたの無垢の復活になる。あなたは再び子どもになる、生まれ変わる。
Osho Dang Dang Doko Dang Chapter 7

解説:

 このカードの老人は、子どものような歓びを世界に放っています。彼のまわりには優雅な感じがただよい、まるで自分に、そして生がもたらしてくれているものに、くつろいでいるかのようです。

 彼は指の上の蟷螂(かまきり)と楽しい会話を交わしているように見えます。まるで彼らふたりが大の親友であるかのように——。彼のまわりにこぼれ落ちているピンクの花は、手放しの、くつろぎの、そして甘美なひと時を表わしています。

 それは、彼がそこに在ることへの応答、彼自身の質が映し出されたものです。生を深く体験することから生じる無垢は、子どものようです。でも、子どもじみてはいません。子どもたちの無垢は美しいのですが、なにも知らないのです。

 成長し、世間は危険で怖いところでもあるということを学ぶにつれて、その無垢は不信や疑いに置き換えられてしまうでしょう。

 しかし、充分に生きられた生の無垢には、智慧の質と、生の果てしなく変化する驚きを受け容れる質があります。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

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今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電<3>  ニュートンムック

<2>からつづく 

【送料無料】今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電
「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」 <3>NEWTON別冊
ニュートンムック 2011/08 ニュートンプレス ムック 159p

 プロジェクト567の中で、みずから暮らして行きたい空間をエコシティと規定するかぎり、そのエネルギーをどうするのかを積極的に選択しておく必要がある。

 いみじくも、本日ガス局の器具点検があり、現在は故障はしていないものの、給湯器の経年劣化が見られるので、そろそろ取り替えを検討しておく必要がある、とのことである。

  電気、水道、ガス。3・11においては、おおきく破壊され、その復旧に多くの労力がさかれたが、これらのライフラインが整備されないことには、人間の暮らしはなりたたない。

  実にこの前まで、川の流れや井戸水、薪や屋敷林の枯れ木で風呂を沸かしていたのに、そこにはもうもどれなくなっている。米だって、野菜だって、この前まであたりまえにあると思っていたのに、現在では、かなり複雑な経路を経なければ入手できないようになっている。

 このプロセスはかぎりなく複雑化して二度ともどれなくなるのか。どこかでとまるのか。あるいは、やはり原点に立ちもどる必要があるのか。この見極めが必要である。

 水や燃料はイメージしやすいが、電気は、まず個人でコントロールすることはむずかしい。石油動力発電や乾電池などで一時をしのぐことはできるが、恒久的な安定電力を得ようとすると、やはり公的なインフラに期待せざるをえない。

 もし、廃棄物や放射線などのマイナス要素がなければ、原子力発電は、それこそ夢のようなエネルギー源となるだろうが、そのことについては、完全に否定されている。次にすすまなくてはいけない。

 プロジェクト567においては、この問題は避けて通れない。電気につづく、車や情報網のインフラなど、地球人がひとりの人間として生きていくには、これらの社会網から離れて暮らすことは、もうできないのか。ここの見極めは極めて重要である。

 これらを踏まえると、まずは太陽光発電は、個人として自らのエネルギーを考える上では極めて分かりやすい。常に転居する可能性があるとか、集合住宅にすんでいるのでなければ、太陽光発電は真剣に考える必要がある。

 経費を考えるとトントンか、やはりいまだに割高である。あるいは、売電システムや蓄電システムに、おおきな整備不良がある。これらは改良の余地があるのか、ないのか。

 森の中のエコハウス、あるいは自立的なエコビレッジなどのレベルなら太陽光発電を基礎とした電気網をイメージできないこともないが、医・職・住をまかなおうとするエコシティのレベルになると、太陽光だけでは無理があるだろう。

<4>につづく

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プロジェクト567 <3> なぜプロジェクトなのか

<2>からつづく

「プロジェクト567」 

<3>なぜプロジェクトなのか

 そもそも567はイメージであり、インスピレーションである。その陰画を投影して、具体的な計画に落とし込もうというのが、プロジェクトである。

 7つのキーワードに絞り込み、7冊の本を対応させたかぎりにおいて、ものごとはかなり可視化できるようになった。ここから、およそ30のプロセスを経る中、物事をより具象化し、行動計画まで落とし込もう。

 そうとなってしまえば、もうこの時点で、かなり答えは分かってしまっているのだが、ものごとはそうあせることもあるまい。最終的に、どのような事実を結実させるのか、じっくりみてみるのも悪くない。

 これは、個的にはかなりおおきな方向性の決定になるはずである。自分サイズで、無理なく、そして、避られないもの。避けようとしても避けようもないものを直視する。 とりあえずここはプロジェクト567と名付けておく。

<4>につづく

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2012/04/20

OSHO ZEN TAROT <63> THUNDERBOLT(稲妻)

Zen017thunderbolt 前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <63>

16. THUNDERBOLT(稲妻)

 瞑想では、ゆっくり、ゆっくりとすることを、弟子がなにか問いをたずねている状況のなかでの、マスターの予期せぬ素晴らしい一喝——マスターは跳びかかって一喝する、あるいは弟子を打つ、あるいは扉から放り出す、あるいは弟子の上に飛び乗る……。

 こうした技法はまったく知られていなかった。それはまぎれもなく馬祖(ばそ) のひじょうに創造性豊かな天賦の才によるもので、彼は多くの人びとに光明を得させた。

 ときには、それはとても愉快なものに見える。彼は、なにに瞑想したらいいのかたずねるために来ていた人を二階の窓から放り出した。さらに馬祖は、放り出しただけでなく、その後を追って飛び降り、その人の上に落ち、その胸の上に坐り込んで、「分かったか?!」と言ったのだ。

 かわいそうなその人は「はい」と言った——「いいえ」などと言おうものなら、殴られるかなにかされるに違いないからだ。もう充分だ——からだの骨が折れているというのに、馬祖は胸の上に腰をおろして、「わかったか?!」と言っているのだ。

 が、事実、その人はわかっていた。あまりにも突然で、青天の霹靂(へきれき) だったからだ——そんなことは考えてもいなかった。
Osho Isan: No Footprints in the Blue Sky Chapter 4 

解説:

 このカードは、燃やされ、壊され、粉々に吹き飛ばされた塔を示しています。塔から男性と女性が飛び降りていますが、彼らはそうしたいから飛び降りているのではなく、ほかにどうしようもないからです。

 その背後の透明な、瞑想している人物は、醒めて見ている意識を表わしています。あなたはまさに今、まるで大地が足元で揺れ動いているかのように、とても動揺しているに違いありません。安全というあなたの感覚が挑戦を受け、しがみつけるものならなんにでもしがみつこうという気になるのも無理はありません。

 しかし、この内なる地震は必要で、また、とても重要です——。もしそれを許したら、あなたは残骸から立ち現われ、もっと強くなり、もっと新しい体験をすることができるようになります。大火の後、大地は再び豊かになり、嵐の後、空気は澄みわたります。

 その破壊を、まるで誰か別の人に起こっていることでもあるかのように、超然として見守ろうとしてみましょう。それを途中まで出迎え、そのプロセスに「イエス」と言いましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation

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プロジェクト567 <2> 目次

<1>からつづく


「プロジェクト567」 


<2>目次

01)まず、ここから始めよう
02)目次
03)なぜプロジェクトなのか
04)1・2・3
05)3・11後を生きるということは、本来の自己を生きること
06)キッズルームと瞑想ルーム
07)ムーからの龍の最大限の助力
08)1オクターブ上げる
09)
賢治とOSHO
10)ドレミ・ファ
11)大いなる挑戦-黄金の未来
12)収束に向けて
13)
14)追補 
15)追々補あるいは再スタートに向けて  
16)再考

<3>につづく

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OSHO ZEN TAROT <62> SLOWING DOWN(スローイング・ダウン)

Zen038slowingdown   前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <62>

 

37. SLOWING DOWN(スローイング・ダウン)

 

 瞑想は一種の薬——それを用いるのはしばらくの間だけだ。一度その質を学んだら、とくに決まった瞑想をする必要はない。瞑想があなたの生全体に広まっている。

 「禅を歩く、禅を坐る」

 そうだとしたら、その質とはなんだろう? 見守りながら、油断せず、楽しく、どんな動機もなく、中心に定まり、愛にあふれて、流れながら、人は歩く。そして、この歩くこととは、ゆったりと散歩することだ。愛にあふれ、油断せずに、見守りながら、人は坐る。

 

 どんな動機もなく——とくになにかのために坐っているのではなく、なにもせずにただ坐っていることがいかに素晴らしいか、どれほどくつろぐものか、どれほど安らぎに満ちたものか、それを楽しみながら……。

 長く歩いたあと、一本の木の下に坐ると、そよ風が吹いてきて涼ませてくれる。瞬間ごとに、人は自分自身と楽にくつろいでいなければならない——もっと良くしようとしたりせずに、なにかを修めようとしたりせずに、なにかを練習したりせずに。

 「禅を歩く、禅を坐る。話していても、黙っていても、動いていても、動かずにいても、本質はくつろいでいる」

 「本質はくつろいでいる」——それがキーワードだ。「本質はくつろいでいる」——それが鍵となる声明だ。自分のしていることをなんでもするがいい。だが、もっとも深い核では、くつろぎ、クールで、穏やかで、中心に定まっているがいい。
Osho The Sun Rises in the Evening Chapter 7

 

解説:

 

 「虹の騎士(ナイト)」は、まさにこの亀のように、どこに行こうとも私たちはわが家とともにあることを思い出させてくれます。急ぐ必要はありませんし、ほかのどこかに隠れ家を探す必要もありません。感情の水の深みに入っていくときですら、私たちはみずから満ち足り、執着から自由であることができるのです。

 

 あなたには今、これまで自分やほかの人たちに抱いていた期待をすべて手放し、これまでずっと抱いてきたに違いないすべての幻想の責任を取る用意ができています。まさに今、自分とは誰なのかというその豊かさの内にひと休みすること以外、なにもする必要はありません。たとえ欲望や期待や夢が色あせて消えていっても、その方がずっといいのです。

 

 それらが消えていくことによって、静けさ、そして、そこにあるものを受け容れるという、新しい質のための場所がつくられます。そして、あなたは以前にはとてもできなかったようなやり方で、この進展を迎え入れることができます。

 

 スピードを落とす(スローイング・ダウン) ということの質、休息し、自分はすでにわが家にいることを認めるという、その質を余すところなく味わいましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

次につづく

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ECOシティ <2> 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて 丸尾直美他

<1>よりつづく

【送料無料】ECOシティ
「ECOシティ」 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて <2>
丸尾直美/三橋博巳他 2010/05  中央経済社  単行本 246p

 プロジェクト567はここからはじめよう。この本は個人的に極めて重要である。この本の優れているところは、環境シティ、コンパクトシティ、福祉シティをあわせ持った住環境をエコシティと表現しているところ。

  そもそもの当ブログのキーワードはエコビレッジであった。エコビレッジには、当然のことながら、コンパクトであるとか、環境に配慮されているとかが、暗にニュアンスとして含まれている。しかしながら、福祉という意味合いは弱い。

 孫たちが成長する、ということは、我が身が老いていくということでもある。彼らが成長し、医療を受け、教育を受けていくことを考えていくと、どうしても福祉の面ははずせない。 エコビレッジが存続したとしても、背景には福祉機能が不可欠であることを思えば、福祉シティであること、そしてエコシティであえることは了諾せざるをえない。

  しかしまた、本書においては、そこにコンパクト性をつよく要求していることに共感を覚える。巨大化し、モンスターと化した巨大都市が、いくらエコを旗印にしたところで、それは単なるその場しにぎの目眩ましにすぎないのだから。

 この本が優れていることの二つ目は、我が住まいと隣接するセンダード市あすとナーガを取り上げているところ。エコシティとしてのあすとナーガは建設中であり、本当にエコなのかどうなのか、という疑問符は多い。しかし、これがまた、現実なのだというリアリティを教えてくれる。夢ばかりでは生きられない。

 この本を左右からサポートするのは、スナイダーの「地球の家を保つには」と、飯沼義勇の「仙台平野の歴史津波」である。 スナイダーのようなキッドキッドディジィーは、象徴的な詩人の生き方としては興味引かれるが、すこしコンパクトすぎるし、福祉や教育の面で劣る。三省のような屋久島の白川郷なども、なにも急いで理想とすべきではない。

 そういった意味合いにおいては、あすとナーガはジャストサイズといえる。ただ、これは自立した単独のスペースではないことも覚えておかなくてはならない。 そしてまた、この地には、3・11で被災した人々の仮説住宅が存在することも象徴的である。いくら理想的なエコシティが建設すぁれようとも、いつかは自然の中に朽ちるのである。それが飯沼義勇の歴史津波研究が教えてくれる。

 プロジェクト567をここから始めることは意義がある。私たち地球人は大地の上に生きていく。そこは地球と繋がっている。地球そのものだ。その足元のリアリティを、まずはエコシティというサイズで、まずは捉えておこう。

<3>につづく

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2012/04/19

プロジェクト567 <1> まず、ここからはじめよう

「プロジェクト567」 

<1>まず、ここから始めよう
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<2>へつづく

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2012/04/18

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <32>to be continued

<31>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<32> to be continued
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<33>につづく

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OSHO ZEN TAROT <61> SUPPERESSION(抑圧)

Zen048suppression   前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <61>

47.SUPPERESSION(抑圧)

 サンスクリット語には「アラヤ・ヴィギャン」という名称がある。社会の条件、文化、文明ゆえに、やりたくてもできないことをあなたがその地下室に放り込みつづけているその家のことだ。

 だが、それらはそこに溜まりつづけ、あなたの行動、あなたの生に影響を与える——ひじょうに間接的に。直接には、それらはあなたの前に出てくることはできない——あなたはそれらを暗やみに押し込んだのだ。

 だが、その暗い面から、それらはあなたの振るまいに影響を与えつづける。それらは危険だ。こうしたすべての抑制を自分の内側にとどめておくことは危険だ。

 人が精神に異常をきたすとき、こうしたものごとがクライマックスに達するのだということは大いにありうる。精神異常とは、こうした抑圧がすべて、もはや自分ではコントロールできないポイントにまで達してしまうこと以外のなにものでもない。

 だが、狂気は容認されるが、瞑想はそうではない——が、瞑想こそ、あなたを完全に正気にさせる唯一の道だ。Osho The Great Zen Master Ta Hui Chapter 11

解説:

 このカードの人物は、まさに文字どおり「すっかりからめとられて」います。それでも彼の光は内側で輝いていますが、ひじょうに多くの要求と期待にこたえようとするあまり、彼は自分自身の活力を抑え込んでいます。

 自分を閉じ込めているのとまったく同じ力によって認められることと引き替えに、彼は自分自身のパワーとヴィジョンをあきらめているのです。このようなやり方で自分の自然なエネルギーを抑圧することがいかに危険か、それはこのイメージのふちで今にも爆発しようとしている火山の亀裂にはっきりと現われています。

 このカードのほんとうのメッセージは、潜在しているこの爆発が癒されるはけ口を見つけることです。まさに今、あなたの内側でつのっているに違いない緊張とストレスをすべて解き放つ道を見つけることが、絶対に必要です。

 枕を叩いたり、飛び跳ねたり、大自然のなかに出かけて空っぽの空に向かって叫んだり——自分のエネルギーを揺り起こし、自由に巡らせることのできることなら、なんでもしましょう。破局(カタストロフィー)が起こるのを待っていてはいけません。Copyright © 2012 Osho International Foundation

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2012/04/17

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<40>「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」カテゴリについて

39>よりつづく 

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<40>「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」カテゴリについて

1)そもそも、当ブログはスタート地点から、まだ見ぬ孫たちへの遺言の性格があった。いろいろな形態の中で、言葉を紡ぎやすいのは、そのスタイルだろう、と思っていた。

2)実際にその存在の登場を予告されると、言葉として沸いてきたのは、グルジェフの「ベルゼバブの孫への話」だった。このタイトルを借りて、最初軽い乗りで「ベルゼバベシュの孫への話」としてみたのだが、落ち着きがわるかった。

3)結局は、プレムバヴェシュとなり、話ではなく、対話となった。最初に狙った軽いジョークの線は、結局は消え、いつものシニカルな記述となった。

4)それにしても、最初、カテゴリ名として考えていた時点より、より具体的な孫たちとの生活が具体化したのには驚いた。これはこれで、抜群に楽しい。

5)この生活が暫定的でほんの数ヵ月で終了してしまうのか、あるいは残る後半生の基本スタイルになるのかは、現在では未知数だ。今はこうである、としか言えない。

6)読書ブログとして、再読したいこのカテゴリこの三冊は次の通り。

「ベルゼバブの孫への話」 人間の生に対する客観的かつ公平無視なる批判 G・Iグルジェフ

「トワイライト・フリークス」 黄昏の対抗文化人たち 山田塊也

「The Back Country」 奥の国 Gary Snyder

7)書かれたのは、 2012年2月17日~2012年4月18日の期間であった。

<41>につづく

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OSHO ZEN TAROT <60>UNDERSUTANDING(理解)

Zen031understanding  前よりつづく

OSHO ZEN TAROT <60>

30. UNDERSUTANDING(理解)

 あなたは牢獄から出ている、鳥かごから出ている。あなたは翼を広げることができるのだ。そうすれば、空全体があなたのものだ。

 すべての星と月、そして太陽は、あなたに属している。あなたは超えたものの蒼(あお)さの中へと、消えていくことができる……。

 ただ、この鳥かごへの執着を落とし、鳥かごから出ていくだけで、空全体があなたのものになる。翼を広げ、鷲(わし) のように、太陽を横切って飛ぶがいい。

 内なる空では、内なる世界では、自由にこそ最高の価値がある——ほかのことは、至福、エクスタシーですら、すべて二の次だ。花は数えきれないほど無数にある。

 だが、それらはすべて、自由という風土のなかで咲くことができる。 Osho Christianity, the Deadliest Poison and Zen Chapter 6

解説:

 このカードに描かれている鳥は、鳥かごのようなもののなかから外を見ています。しかし、それには扉もついていませんし、事実、柵も消えかけています。柵は幻想だったのです。そして、ほかの鳥たちの優美さと自由、励ましによって、この小さな鳥は出てくるように呼びかけられています。

 翼を開き始め、まさに初めて飛び立とうとしています。鳥かごはこれまでずっと開かれたまま、空は私たちの探険を待ち受けていつもそこにあったのだという、新しい理解の曙——それは、初めのうちは私たちをちょっと震えさせることもあるでしょう。それでいいのです。

 震えてしまうのは自然なことです。しかし、その震えのすぐそばに差し出されている軽やかさと冒険を体験する機会を曇らせてしまわないようにしましょう。この時期の甘美さと優しさと共に進みましょう。

 内側の羽ばたきを感じてください。自らの翼を広げ、自由になりましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <31>孫の寝息とともに瞑想する

<30>よりつづく 

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<31>孫の寝息とともに瞑想する

 おしめを代えたり、離乳食をやったり、昼寝の添い寝をしたり。時には、風呂で湯船で遊び、一緒に早めに布団にはいる。そのまま夢路をあそぶことになるのだが、祖父には、それほど長時間眠り続けるほどの力がない。

 夜半に目が覚め、やることといったら限られている。スマホをいじるか、読みかけの本を開いてみるか、あとは、そっと座ってみることとなる。

 かたわらの孫の寝息も、かすかだが、とぎれたり、リズミカルになったり、時にはため息となったりと、必ずしも一様ではない。その存在を確かめながら、自分は自分の世界にはいる。

 プロジェクト567を思った。プロジェクトというかぎり、何かの計画に違いない。 7つのキーワードから導き出されるものは何か。思いを巡らしていけば、行き着くところは、ほぼ限られている。

 いつの間にか、孫たちのためのキッズルームが、祖父のための瞑想ルームになっている。

 プロジェクト567は、いまだ曖昧模糊とはしているが、わが人生の残りを指し示す重要な指針となるはず。

 そのリアリティを、一息一息に、手繰り寄せる。

 <32>につづく

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2012/04/16

OSHO ZEN TAROT <59> LETTING GO(手放し)

Zen056lettinggo   前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <59>

 

55. LETTING GO(手放し)

 

 存在にあっては、優れている人はひとりもいないし、劣っている人もひとりもいない。一枚の草の葉も大きな星もまったく平等だ……。

 だが、人間はほかのものよりも高い位を占めたがる。自然を征服したがる。だからこそ、人間はたえず戦わなければならないのだ。この戦いからあらゆる複雑さが生まれる。

 

 無垢な人とは、戦うことを放棄した人のことだ。より高い位を占めることにはもはや興味のない人、自分は特別なのだということを行動で示し、証明することにはもはや興味がない人のことだ。

 

 一輪の薔薇(ばら) の花のように、あるいは蓮の葉の上のしずくのようになった人のこと、この永遠の一部になった人のこと、溶け、溶け去り、大海とひとつになり、まさにひとつの波になった人のこと、「私」という考えがない人のことだ。「私」の消失こそが無垢だ。Osho The White Lotus Chapter 6

 

 

 

解説:

 

 早朝のこの蓮の葉のイメージを見ると、一滴のしずくが落ちたばかりだということが水の波紋からわかります。それはかけがえのない瞬間であり、強く私たちに訴えかけてくるものがあります。

 

 重力に任せて葉から滑り落ちることで、そのしずくはそれまでの自己確認(アイデンティティ) を失い、下の水の広がりに加わります。落ちる前にしずくは震えたに違いないということは、想像できます。すでに知っているものと、知ることのできないものとの瀬戸際で——。

 

 このカードを選ぶということは、なにかが終わっている、なにかが完結していることが確認されたということです。なんであれ——仕事、関係、あなたが愛してきた家庭、とにかく、これまで自分とは誰なのかをはっきりさせるための助けとなってきたに違いないもの——それを手放し、去って行かせる時です。

 

 しがみつこうとせずに、どんな悲しみも受け容れて——。より大きななにかがあなたを待っています。発見されるべき新しい次元がそこにあるのです。あなたはもはや戻ることのできない地点を越えてしまい、重力が働いています。

 

 それと共に行きましょう——それは解放を意味しています。Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

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2012/04/15

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <30> プロジェクト567に向けて

<29>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<30>プロジェクト567に向けて

 気持ちはもう次のカテゴリへといそいでいる。かといって。別段目新しいことでもなく、いままでのテーマを掘り下げていくことだけなのであるが、それでも、心や脳が、なにごとか刺激されているのを感ずる。

 次なるカテゴリでは、別な側面から、あるいは、集約され、より整合化された方法で、旅を続ける。

 とはいいつつ、とられる手法は相変わらずのものだ。

 7つキーワードに対して、7冊の本を対応させてみようと思う。

1)「ECOシティ」
 エコビレッジには、この本を対応させる。本来であれば、より森の生活のような、農的で、アニミズムに満ちあふれたキーワードであるはずだが、今日、明日、という現実性のなかでは、夢物語に堕してしまう可能性が大きい。
 ここではむしろ、現実的な都市計画がすすむより至近距離の住環境の可能性を考えたい。

2)「太陽光発電」
 ここは、本来、ハイブリッド車とかエコカーを考えるキーワードであったはずなのであるが、別に車とかぎってしまう必要はない。むしろエネルギー一般を考えるべきチャンスである。
 太陽光発電については、かなり現実的なプランが登場し、あともう少しで契約というところで引き返してしまった。その反省をこめて、もういちど、考え直すとする。

3)「Osho Zen Trot」
 ここは、具体的な中央図書館や、図書館・ネットワークがくるべき位置なのだが、あえて、こちらを選らんだ。そもそも図書館でなにをしたいのか、そのネットワークで、どんな成果を得たいのか、と考えた場合、そのハード面よりはソフト、さらには、よりシンプルで合的な、答えが欲しいのだ、と気がついたからだ。
 このタロットはある意味では、そのような統合性のサンプルになりうる。

4)「ポスト3・11の子育てマニュアル 」
 この本は、著者からのコメントをもらいつつ、なお、読書観としては、いまいち納得がいかないでいる一冊である。具体的な幼児たちと暮らしながら、今一度、再読してみようと思う。
 本来、ここがもっとも中心となるべきテーマであるはずである。

5)「禅へのいざない」
 ここは、本来スマートフォンが来るべき位置だが、あえて、そのスマートフォンの産みの親であるスティーブ・ジョブスが愛したとされる、この本を選んだ。
 しかも、ジョブスが腰巻きに印刷されている新訳ではなく、旧訳を選んだ。新訳はスマートだが、ひっかかりがすくない。ちょっと煙たい旧訳を再読しよう。

6)「チベット密教瞑想入門」
 この本は、3・11関連を追っかけながら、新刊本の一冊として手にしただけで、熟読とはいかなかった。ここで再読しておきたい。
 そもそもホワイトターラーがキーワードだが、必ずしもこの本には登場しないだろう。それでも、そのなかから、地上まれにみる、高度に構築された地球人スピリットのひとつとしてのチベット密教を、再考したい。

7)「宮沢賢治 祈りのことば」
 限定つきではあるが、この本は3・11以降に読んだ本としては、ベスト本の一冊である。本来のキーワードが、3・11であってみれば、ましてや7つのキーワードの、最後の締めの一冊であってみれば、この本が最後を飾るにふさわしいと思える。
 しかしながら、初読のときから感じる、限定性、これが一体何なのか、気になる。それを確認するべく、さらに再読すべきであろう。

 これらを、次のプロジェクト567につなぐ。

<31>へつづく

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OSHO ZEN TAROT <58> AWARENESS(覚醒)

Zen008awareness  前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <58>

 

7. AWARENESS(覚醒)

 

 心(マインド)はけっして賢明ではない——賢明なのは無心 (ノー・マインド)だけだ。無心だけが本来のもの、そして、根本的なものだ。無心だけが革命的なもの——行動における革命だ。

 この心は、一種の麻痺状態をもたらす。過去の記憶の重荷を負わされ、将来の計画の重荷を負わされて、あなたは生きつづける——最小限に。あなたは最大限には生きていない。あなたの炎はひじょうにかすかなままだ。

 

 あなたがひとたび思考を、過去に自分が集めた埃を落としはじめたら、炎が立ち昇る——きれいで、透明で、活き活きとして、若い。あなたの生全体がひとつの炎になり、その炎にはどんな煙も立たない。それが、覚醒のなんたるかだ。Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 1

 

 

 

解説:

 

 幻想、あるいは"マーヤ"のヴェール、現実をあるがままに認めることからあなたを遠ざけてきたそのヴェールに火がついて、燃えはじめています。この火は、情熱という熱い火ではなく、覚醒の涼しげな炎です。その炎がヴェールを焼いていくにつれて、ひじょうにデリケートで子どものようなブッダの顔が見えてきます。

 

 今、あなたのなかで成長している覚醒は、意識して「やること」の結果でもなく、また、なにかを起こらせるために奮闘しなければならないということでもありません。自分はこれまで暗闇のなかで手探りしてきたのだという、おそらくあなたが感じているに違いないその感覚は、今、溶けて消えようとしています。

 

 あるいは、間もなく溶けてなくなるでしょう。自分を落ち着かせ、内側の深いところで自分はまさに目撃者であり、永遠に沈黙し、気づき、変わらないのだということを覚えておきましょう。行動という表層から覚醒というその中心へ、ひとつの通路が今、開こうとしています。

 

 それはあなたが執着から離れる助けとなり、新しい覚醒があなたの目からヴェールを引き上げてくれるでしょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <29>孫たちのいる風景

<28>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<29>孫たちのいる風景

 0歳児の区切りのよい日となり、なんごとかの行事をおこなう日となった。親たちは、学生時代にアルバイトをやった縁で、その神社に、宮参りとやらを行う。季節的にはまるで桜の花の咲き始めで、お祝いには、ふさわしい、もってこいの日程ではある。

 観念的に考えている未来と、実際にその未来をいきるであろう具体的な孫たちを配置してみる風景とでは、視線のやり場がちがう。

 孫たちの視線の先には、同じ年頃の子供たちがいる。やわらかいものながら、自然に、すこしづつ、彼らなりのネットワークができつつあるようだ。

 彼らなりの挨拶のしかたがあり、応答のしかたがある。発信をして受信する。発信しても受信されないこともあり、向こうからくるものを受信でいない時もある。

 総じて曖昧なものであり、それは、彼らの言語体系ほどに、実に曖昧なものである。ただ、確実にそれは芽生えている、とも言える。

 花よ、蝶よ、と心踊らすことは、年齢に関係なくあることではあるが、孫たちといれば、それがまた、一段と新鮮に感じられるから不思議である。

<30>へつづく

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2012/04/14

OSHO ZEN TAROT <57> COMPARISON(比較)

 

 

Zen063comparison 前よりつづく

 

OSHO ZEN TAROT <57>

 

62. COMPARISON(比較)

 

 

 

 

 

 比較は劣等感を、優越感をもたらす。比較しなければ、すべての劣等感、すべての優越感は消える。そのときこそ、あなたは在る。ただそこに在る。小さな潅木、あるいは大きく高い木——そんなことは関係ない。

 あなたはあなた自身だ。あなたは必要とされている。草の葉は、もっとも大きな星と同じように必要とされている。その草の葉がなければ、神は在るべき自分より少なくなってしまう。

 郭公(かっこう) のこの声は、どのようなブッダとも同じくらい必要とされているのだ。もしこの郭公が消えたら、世界はより少なくなる、豊かさがより少なくなってしまう。

ちょっとまわりを見てみるがいい。すべてが必要とされていて、あらゆるものが互いにぴったり合っている。それは有機的なひとつのまとまりだ。高いものは誰もいないし、低いものも誰もいない。

 優れているものは誰もいないし、劣っているものも誰もいない。誰もが比較できないほどユニークだ。
Osho The Sun Rises in the Evening Chapter 4

 

 

 

解説:

 

 竹はオークよりも美しいとか、オークは竹よりも貴重だとか、いったい誰があなたに教えたのでしょう? オークはこの竹のように自分もなかが空っぽな幹がほしいと願っている——あなたはそう思いますか?

 その一方で竹は、オークの方が大きいし、秋になったら葉の色が変わるので、嫉妬するでしょうか? 二本の木が自分たちを比べ合っているという考え方そのものがばかげていますが、私たち人間にはこの習性を断ち切るのがとてもむずかしいようです。

 現実を直視しましょう。あなたより美しい人、才能のある人、強い人、頭のいい人、あるいは明らかに幸せそうな人はつねにいます。そして逆に、こうしたすべての意味であなたに及ばない人もつねにいます。

 自分とは誰なのかを見いだす道は、他人と自分を比較することで得られるのではなく、わかっている最良の方法でみずからの潜在能力を自分が実現させているかどうか、それを見ることによって得られます。
Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

次につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <28>収束に向けて

<27>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<28> 収束に向けて

 さて、当カテゴリも残すところわずかになってきた。十分な考察になったとは言い切れず、大きな成果があったとも思えない。このまま、次のカテゴリも継続して同じテーマで引っ張って見ようかな、という気がないでもないが、それはやめておこう。

 というのも、どうも、仮称プロジェクト567のコードネームで進行してきた動めきが、すこしづつ形を持ち始めているのを感じるからだ。

 当ブログの一行紹介は、長いこと、意識をめぐる読書ブログ、というものであった。その後、最近になって、読書にも、ブログにも、見切りをつけようと、新たに、意識としての愛の探求、というものをこしらえてみたが、いまいち納得はいっていない。

 もし、今回のこのカテゴリの成果があったとすれば、当ブログの今後の継続に、方向性を与えてくれたことであろう。

 そもそも、プレムバヴェシュとは誰か、孫たちとはなにか、対話とはなにか、という考案はそのままそっくり残されてしまうのだが、それらをベースにして、今後につないでいくことはできそうである。

 少なくとも、当ブログは、形としては、モノローグからダイアローグへと流れていくべき時にきている。

 もちろん、孫たち、という表象は、具体的でありつつ象徴的なものであり、この地球文明を継ぐべき、未来のニューマンたちをも意味している。その中に、個としてのプレムバヴェシュも包含されるのであり、そうありたい、と願ってもいるのである。そこへむけての対話である。

 次なるカテゴリは、プロジェクト567となる。ある期間のなかで採集された7つのキーワードを基に、整合性をはかり、また違和感をのこしたまま、全体性を感じ、あるいは、一なる源泉を探る。

 方法論としては、結局は読書ブログ時代の手法を踏襲する以外になさそうである。7つのキーワードに対して、7冊の本を立て、そこを切り口に、思案し、瞑想へとつなぐ。

<29>へつづく

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2012/04/13

OSHO ZEN TAROT <56> THE BURDEN(重荷)

Zen064theburden  からつづく

 

OSHO ZEN TAROT <56>

 

63. THE BURDEN(重荷)

 

 

 

 人間のほんとうの生は、他人から押しつけられた嘘を取り払う道だ。身につけているものを脱ぎ、裸で、自然であれば、人はあるがままの自分だ。これは、在るということであって、なるということではない。嘘は真実にはなりえない。

 

 人格はあなたの魂(ソウル) にはなりえない。非本質的なものを本質的なものにする方法はない。非本質的なものは非本質的なままだし、本質的なものは本質的なままだ。それらは取りかえることのできないものだ。そして、真実なるものを得ようと奮闘しても、ますます混乱が生じるだけだ。真実なるものは達成される必要はない。達成することはできないのだ。それはすでに現状としてある。

 ただ嘘を落とせばいいだけだ。

 あらゆる目標や目的や理想やゴールやイデオロギー、宗教、改善と改良のシステム、すべて嘘だ。それらに気をつけるがいい。今のままの自分だと、自分こそ嘘だという事実を認めるがいい。

 

 他人に操られ、教え込まれている。真実なるものを求めて奮闘することは心を逸らすことであり、引き延ばすことだ。そうやって嘘は隠れようとする。嘘を見てみるがいい。あなたの人格という嘘を深く見つめてみるがいい。というのも、嘘を見ることが、嘘をつくのをやめることだからだ。もはや嘘をつかないということは、もはやどんな真実も探し求めないということだ——探し求める必要はない。

 

 嘘が消えるやいなや、真実がそのすべての美と輝きと共にそこにある。嘘を見ることで、嘘は消える。そして、後に残ったもの、それが真実だ。Osho This Very Body The Buddha Chapter 6

 

 

 

解説:

 

 「こうすべきだ」「こうすべきではない」という他人から押しつけられた重荷をかついでいると、私たちはこの人物のようにボロを身にまとい、登り坂を悪戦苦闘して進むことになります。彼が背負っている愚かな暴君は、「もっと速く、もっと頑張って、頂上に行き着くんだ!」と叫んでいますが、その暴君自身は傲慢な雄鶏(おんどり)の冠をかぶっているのです。

 

 最近、生は揺りかごから墓場へとつづく苦闘でしかないと感じるようなら、ちょっと肩をすくめて、このような人格を背負わずに歩くとどういう感じがするか、見てみる時かもしれません。あなたにはあなた自身の征服すべき山があり、実現すべき夢があるのですが、それを実行するエネルギーは、他人から寄せ集めたものなのに自分のものだと思い込んでいる期待をすべて解き放たないかぎり、けっして得られません。

 

 たぶん、それらはあなた自身の心のなかにしか存在していないのですが、だからといって、それらがあなたを押しつぶしてしまうことがないとはかぎりません。荷をおろして軽くなり、それらを行くべきところへ勝手に行かせてしまう時です。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

 

次へつづく

 

 

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <27> ホワイトターラーなのか、かぶと&鯉のぼりなのか

<26>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<27> ホワイトターラーなのか、かぶと&鯉のぼりなのか

 孫たちにとってのホワイトターラーとは何か、という設問は、なかなか難しい難問である。そもそも、プロジェクト567においても、他のキーワードとの整合性がいまいち悪く、また、トフラーの三つの波の図式の中でとらえることも、なかなかしんどい。

 そもそも、ホワイトターラーはチベットの民衆に愛されている女神さまで、男性性の強い観世音菩薩にたいする女性性の象徴ともされているようだ。

 観世音菩薩が、いくら慈しみをもっても救いきれない衆生をみて、涙
を流した時、その涙から生まれたのが、白多羅菩薩とされ、英訳されたのが、ホワイトターラーらしい。

 一緒にグリーンターラー菩薩も生まれたらしく、ふたりで観世音菩薩をお慰めしたともいう。

 はてさて、いずれは孫たちも人間としての成長過程において、これらの菩薩さまたちにお会いすることもあるだろうし、その菩薩心を自らのものとすることもあるだろうが、今、0歳児1歳児にとって、それらをとらえることなど出来るであろうか。

 そんなことを峻巡していたら、その解決というか、流れは、以外な形で展開しはじめた。

 春分の日もすぎ、庭先の日差しがあかるくなって、子供の日が近づいてくるにつれて、ふたりの男子に、兜人形が届くことになったのである。

 なにはともあれ、それを飾るののにふさわしい空間は、我が家の場合、ささやかながら和室の床の間しかない。なにはともあれ、1歳児にイタズラされないガードも必要である。

 ところが、床の間には、先年より、ホワイトターラーさまが鎮座されているのである。どうすべきなのであろうか。ホワイトターラーと兜や鯉のぼりは、いかにもバランスが悪そうにも思えるし、いかにも我が家らしい、とさえ言えるかもしれない。

 しかし、ここは、ちいさなスペースにこぎれいに飾り付けるためにも、いちどホワイトターラー菩薩にはご退席いただき、わがベットサイドに、お移りいただくことになったのである。

 いずれにせよ、子供の日までの、暫定的なひと月のことである。いまは、孫たちにとっては、兜や鯉のぼりのほうが優先課題である。

 かたや、じいさんのほうは、もう少し気を入れて、白多羅菩薩様との瞑想の時間を増やす結果となったのである。

<28>につづく

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OSHO ZEN TAROT <55> BREAKTHROUGH(突破)

Zen012breakthrough     からつづく

OSHO ZEN TAROT <55>

11.BREAKTHROUGH(突破) 

 挫折(ブレイクダウン)を、突破(ブレイクスルー) に変容させることがマスターの役割のすべてだ。サイコセラピストたちは、ただあなたにつぎを当てて修理するだけだ。それがサイコセラピストの役割なのだ。

 サイコセラピストは、あなたを変容させるためにいるわけではない。あなたに必要なのはメタサイコロジー、ブッダたちの心理学だ。

 意識を保ったまま挫折を経験するのは、生における最大の冒険だ。挫折(ブレイクダウン)が突破(ブレイクスルー) になるという保証はなにもないのだから、それは最大のリスクだ。それはたしかにそうなる。だが、こうしたものごとは保証されえない。

 あなたの混沌(カオス)は太古の昔からあるひじょうに古いものだ——多くの、多くの生にわたって、あなたは混沌としていた。それには厚みがあり、濃密だ。それ自体がほとんどひとつの宇宙。

 だから、あなたが自分の小さな許容力でその中に入って行くと、もちろん、危険なことになる。だが、この危険に直面せずに統合された人など、これまでひとりもいなかった。個人(インディヴィジュアル) に、わけることのできないもの(インディヴィジブル) になった人などひとりもいなかった。

 禅、あるいは瞑想は、あなたがこの混沌、魂の暗夜をバランスを保ちながら、規律を保ちながら、油断せずに通り抜けるのを助ける技法だ。

 夜明けは遠くない。だが、夜明けに行き着く前に、あなたは暗い夜を通り抜けなければならない。そして、夜明けが近づいてくるにつれ、夜はますます暗くなる。Osho Walking in Zen, Sitting in Zen Chapter 1

解説:

 このカードでは赤がひときわ目立っていて、一目で、そのテーマがエネルギー、パワー、そして強さにあることがわかります。この人物の太陽神経叢(そう) 、あるいはパワーの中心からは明るい輝きが発せられ、そのポーズは、はちきれんばかりの力と決断を表わしています。

 私たちはみな、ときとして、「もう、うんざりだ」というポイントに行き着くことがあります。そのようなときは、自分を縛っている重荷と制限を放り出すために、なんでもいいから、たとえそれが後になって失敗だったとわかるようなことであっても、とにかくなにかしなければならないように思えるものです。

 もしなにもしなければ、おまえの生のエネルギーそのものを窒息させ、使えなくしてしまうぞ、と脅されるのです。もし今、「もう、たくさんだ」と感じているのであれば、これまであなたのエネルギーの流れを止めてきた、古いパターンと制限を粉々に打ち砕いてしまうリスクを冒しましょう。

 そうすれば、あなたはこの「突破(ブレイクスルー)」によって生にもたらされるバイタリティーとパワーに驚くことでしょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

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2012/04/12

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <26> 孫たちと三つの波

<25>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<26>孫たちと三つの波

 孫たちを7つのキーワードの中心においた場合、その上下には、図書館ネットワークと、スマホが位置することになり、この情報時代に生まれた新人類たちにしてみれば、さもふさわしい位置取りであるようである。

 外縁を探ってみれば、エコビレッジと3・11が取り囲み、これもまた、牽強付会に定位置化してみれば、みれないこともない。

 この図式を見ていると、連想されてくるのが、アルビン・トフラーの第三の波である。すでに三つの波は、常態化しているのであり、農業革命と情報革命にそれぞれが対応していそうだ、ということはわかる。

 しかし、ここにおいて、あらたなるテーマがもちあがる。プロジェクト567においては、孫たちの位置から見た場合、エコカーとホワイトターラーは対応の位置にある。さて、この位置取りの加減やいかん。

 エコカーやハイブリッド車、あるいは太陽電池などへの思いをまとめることは、第二の波である工業革命にまとめることは、それほどむずかしくはなさそうだ。あるいは、そのものといってもいいだろう。

 しかし、ホワイトターラーを第二の波の中で論ずることは、かなりむずかしい。エコカーとホワイトターラーを対応させるように、同心円上におくのは、やはり無理がありそうだ。

 ここで想定できることは、この図式は同心円としてまとめられるものではなく、渦巻きとして、スパイラルとして認知されるべきであろうといことである。

 つまり、孫たち→図書館ネットワーク→スマホ→エコカー→ホワイトターラー→エコビレッジ→3・11、という外向けのスパイラルを想定することができる。もちろん、逆コースの内向きスパイラルも当然のごとく存在することになる。

 当ブログ、あるいはプロジェクト567においては、ホワイトターラーを漠としたものとして放置し、細かく点検してこなかった。それには多犠牲を被せたまま、未知数として敬遠してあるのである。

 しかし、他の6つのキーワードがそれぞれに検証される必要があるかぎり、ひとつだけ、そのチェックを逃れることはできないであろう。ここでは、ホワイトターラーも、その位置取りの中で、その本質を、批判的に検証される必要がある。

 そも、ホワイトターラーはチベット密教のなかに位置すべきものであろう。インド仏教が衰退し、中国、日本に流れた瞑想技法が、禅文化として結実するなか、秘密仏教としてのチベット文化は、そのヒマラヤの高地という自然環境もあって、産業として、組織化されていった、という側面があることは否めない。

 時のモンゴルの政治力を背景として、大施主と帰依所という役割分担、システムが構築されていった。つまり、蒸気機関の発明からフォービズムまでの工業化の波と相図形のように、インド密教は、世界制覇を目指すモンゴリアンたちの余勢をかりて、時のスピリチュアリティの装いのもと、かなり奇形化していったのではないか、と仮定することができる。

まずはこのような視点から、ホワイトターラーを捉えなおあし、スパイラルとしてのプロジェクト567を補強していく必要がある。

<27>につづく

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2012/04/11

OSHO ZEN TAROT <54> COMPLETION(完成)

Zen022completion    からつづく

OSHO ZEN TAROT <54>

21.COMPLETION(完成)

 ものごとを最後まで言わないこと——これが禅のやり方だ。これは理解されなければならない。ひじょうに意義深い方法論だ。すべてを言わないということには、聞き手にそれを完成させる機会を与えるという意味がある。

 答えはすべて未完成だ。マスターはあなたにただ方向を与えているだけだ……。あなたが行き着くところにまで行き着いてしまえば、なにが手元に残ったのかがわかるだろう。

 だから、たとえ誰かが禅を知的に理解しようとしても、失敗することになる。それは問いに対する答えではなく、答え以上のなにかだ。それは現実(リアリティ) そのものを指し示している……。仏性は遠くにあるなにかではない——あなたの意識そのものが仏性だ。

 そして、あなたの意識は、世界を成り立たせているものごとをその場で見ることができる。世界は終わっても、鏡は残る——なにもないことを映しながら。Osho Joshu: The Lion's Roar Chapter 5

解説:

 ジグソーパズルの最後のひとかけが、しかるべき場所、第三の眼の位置、内なる洞察の場に置かれようとしています。果てしなく変化する生の流れのなかにあってすら、これで完成というポイントに行き着く瞬間がときにはあります。

 こうした瞬間に、私たちは絵全体を、長いあいだ気になっていた小さな断片すべてが組み合わされた全体像を読み取ることができるのです。仕上げてしまったら、私たちにできることは、この状況が終わることは望んでいないので絶望してしまうか、それとも、感謝して、生には多くの終わりと多くの新しい始まりがあるという事実を受け容れるか、そのどちらかです。

 なんであれ、これまであなたが時間とエネルギーを注いできたそのすべてが、今、終わろうとしています。それを完成させることで、あなたは新しいなにかが始まるためのスペースをきれいにかたづけて準備することになるのです。この間合いを両方に——古いものの終わりと新しいものの到来を祝うことに使いましょう。Copyright © 2012 Osho International Foundation 

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <25>ふたたび、孫たちにとって3・11とは何か

<24>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<25> ふたたび、孫たちにとって3・11とは何か

 3・11は、プロジェクト567は、7つめのキーワードである。7つ以上がないかぎり、それは最終のものであり、すべてを含んだものである。究極のものであり、新たな始まりでもある。

 つまり、表象としては、3・11という表現でなくてもかまわない。しかしながら、ある一定期間内に、つぎつぎと登場したキーワードの中においては、3・11ほど、7つ目のキーワードとしてふさわしいものはない。

 循環としては、3・11は、エコビレッジへと回帰する。あるいは、対をなす。そして、それはすべてを含んでいることが期待されていた。

 一般には3・11とは、巨大地震、歴史津波、最悪原発事故、それぞれの総合と捉えられている。しかし、それは、後付けであり、その只中にいた、それぞれの、一個の人間とっては、そんな客観的な表現は似つかわない。

 体験であれ、思考であれ、ひとりひとりの人間に立ち返ってみれば、それは、3・11以前と、3・11以後、とでもいうべき、実に峻別すべきポイントのことである。

 あるいは、そのようなものとして、活用すべき何か、なのである。

 さて、孫とはなにか、といえば、具体的に名前のついた実在の0歳児1歳児を意味していながら、それはひとつの象徴であり、抽象的な概念でもある。それは、人間を意味し、とりわけ、未来に向けて、命をつなぐ、存在としての、人間を意味している。

 つまり、3・11と孫たち、という時、それは、ある地点から発生してきた新しい人間、を意味している。それは、とりわけ、価値観において、まったく新しい視点をもっている。あるいは、そのことを期待されている。

<26>へつづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <24>孫たちとホワイトターラー

<23>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<24> 孫たちとホワイトターラー

 ホワイトターラーはプロジェクト567におけるスピリチュアリティの象徴である。あるいは、このホワイトターラーがこなければ、そもそも、プロジェクト567は、顕在化しなかったとも言える。

 プロジェクト567の顕在化のなかで、孫たちの存在が逆照射され、いきなりクローズアップされた、とも言える。すべては相対化のなかで存在しているのであり、その相対化の妙を楽しもう、というのが、またプロジェクト567の真意でもある。

 プレムバヴェシュと孫たちとの対話も、当ブログのカテゴリとしては、8割以上を経過した。おもったほどの成果はなかったにせよ、整理すべきいくつかの点においては、かなりすっきりした。

 そもそも、当ブログのスタート地点において、孫たちはまだ生まれてはいなかったのだが、本来、そのニュアンスで、この一連のメモはスタートしたのであった。必ずしもモノローグではない。敢えて対話者を求むるとするなら、それは、まだ見ぬ孫たち、であったはずである。

 本質的にそういう性格のブログであってみれば、主テーマは、プロジェクト567のようなもの、ということができる。

 さて、何事かを表現するのに、プロジェクト567とだけ表記し続けることは、あまりに舌足らずであろう。ここはここ、もうすこし噛み砕き、適切な表現を引き寄せて行かなくてはならない。

 つぎなるカテゴリは、プロジェクト567としてスタートしよう。しだいに、新たなる装いを身に付けたなら、その時点でそれを、正式なカテゴリ名として採用する。

 そもそも、ホワイトターラーは、チベットの神様である。いや、仏さまかもしれない。だが、ホワイト、という形容詞がついている限り、すでに純粋にチベット産とはいいにくく、混血、混淆、が暗に推測される。

 彼、あるいは彼女の、性格については、あまり精緻を要求する必要はない。むしろ、その出会いのほうが大事である。そのことについては、どこかにすでにメモしたし、繰り返すことで、定式化してしまうことを、むしろ、おそれる。

 あいまいなまま、あるいは、表現しきれないまま、残される、なにごとかに、より正しくも、かぎりなく正統な意味が生じてくる場合もある。あるいは、この場合は、まさにそうなのである。

 そのことと、孫たちは、直接には、なんの繋がりもないのだが、ここで、敢えて相対化し、対比、対峙させることによって、際立った色彩が立ち上がることがあるかもしれない。かなり苦しい、無理のある試みなのだが、それでもやっぱり、ここはこうするしかない。

 あえていうなら、赤子と如来の一体化である。如来もまた赤子であったし、赤子もまた、いつかは如来となるのである。

 いやいやそうではないだろう、如来とは赤子のことであり、赤子こそ如来なのである。あるいは、二語に別れてしまっていることこそ、すでに迷いである。

 裏と表を、ひとつと見る。そもそも、それが真実なのである。旅は、終わりに近づいている。そして、旅はふたたびはじまる。そもそも、旅などないのだ。

<25>へつづく

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TOY STORY DIsney Pixar DVD


「トイ・ストーリー」 
トム・ハンクス(Tom Hanks)/ティム・アレン(Tim Allen)/ドン・リックルズ(Don Rickles) ジョン・ラセター(John Lasseter) 2010/05発売 ウォルト・ディズニー・ジャパン ・販売元: ウォルト ディズニー スタジオ ホーム エンターテイメント ・ディスク枚数: 1枚(DVD1枚) ・収録時間: 81分
Vol.3 No.0649★★★★★

 なるほど、さすがにディズニー作品だね。基本は野坂昭如の、おもちゃのチャチャチャ、なのだが、そこはそこ、みごとにディズニー作品に仕上がっている。

 0歳児、1歳児と暮らしはじめて1か月あまり。暫定的で、あといくらも続かないかもしれないライフスタイルではあるが、我が家はあっという間にいたるところキッズルームに改造いとなり、あちこちにおもちゃが散らばっている。

 ひょっとすると、あいつらも、人の気配を避けて、日々、一大ドラマを展開しているかもしれないのだ。それぞれサイズの、寄せ集めおもちゃに過ぎないのだが、だからこそ、意外なストーリーが展開しているかもしれない。

 そう思うと、なんとも愛すべき映画ではあるが、0歳児1歳児には、ちょっと長すぎて、ストーリーを追っかけることはできない。

 全体に、あまりにエンターテイメントすぎるのは、個人的には趣味ではないので、もっと素朴な味わいがあってもいいなぁ、と思う。映像いもこれだけ作り込まれると、見ている方としては、どのようにしてこれを作ったのだろう、という探索マインドを刺激されなくなる。

 ぜいたくな要求かもしれないが、もうすこし、不完全な作品のほうが、本当は、子供たちにとっては教育的にもいいんじゃないかな。

 これでは、子供たちは、与えられるものを、ただただ待っているようになってしまうのではないだろうか。エンターテイメントすぎるのは、よしあしだな。

 そもそも、じいさんはこんな映画を見る気はなかったのだが、孫たちと同居していると、孫たち目線で、こういう作品にも手を出してみようという気になる。孫効果だ。

<トイ・ストーリー2>へつづく

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2012/04/10

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <23> 孫たちとスマホ

<22>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<23> 孫たちとスマホ

 テレビが壊れた。17年も使ってきたブラウン管テレビではあるが、天気予報と地震速報を見る分には何の不足もなかった。

 もともと地デジには納得いかない処があり、テレビなんかどうでもいいや、と思っていたところ、被災地ということでさらにアナログ放送が延長になり、3月末まで、アナログテレビを享受したのだった。

 もっとも、アンテナもチューナーも揃えていたので、地デジ化しても、ブラウン管で当面は見続ける予定だった。

 ところがである。4月に入って数日しただけで、テレビがプツンといったまま、ブラックアウトした。なんというタイミングであろうか。

 結局は我が家にも液晶地デジテレビが設置されることになった。そうなってみれば、これはこれで目新しく、やっぱり時代はこういう方向なのかな、と遅ればせながら納得。

 ところで、表題も、なにがなんだかわからない風になってきたが、とにかく言わんとするところは、インターネットの最新形態と未来の地球人たちはどう付き合って行くのだろうか、という事である。

 現在はスマートフォンとTwitter、Facebookばかりが大きく取り上げられているが、個人的には釈然としない処も多い。今後、更にどのような進化を続けるのかは、大いに気にかかる処である。

 プロジェクト567においては、図書館ネットワークと、象徴としてのスマホは、似ているようでもあるが、むしろ、受信と発信、という意味では、まったく反対の立場と考えたい。

 あるいは、創造性を象徴としてのスマホに託したいと思う。テレビ時代はとうに過ぎているはずなのだが、おっとどっこい、地デジ化で、テレビは家庭の中心に座している。

 視聴者参加とか言いながら、結局は、視聴者は膨大な情報に洗脳され、コントロールされる。愚民化の最たる物である。

 オリジナリティ、クリエイティビティを考えるなら、テレビなんかより、はるかにネットのほうが進んでおり、今後は更に進化を続けて行くと予想される。

 その方向性はどのような向きを示しているのであろうか。プロジェクト567においては、牽強付会に、ホワイトターラーの方に持って行きたいのであるが、上手く行くであろうか。

 もっともそのホワイトなんとかも、意味不明なところが多い。まずはここでは、仮説の仮説としてのアウトラインを示すのみにしておいて、後に整合性を図ることとする。

<24>につづく

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2012/04/09

OSHO ZEN TAROT <53> CELEBRATION(祝祭)

Zen051celebration_2    からつづく

 

OSHO ZEN TAROT <53>

 

50、CELEBRATION(祝祭)

 

 生とは祝うひととき、楽しむひとときだ。それを楽しみに、祝祭にするがいい。そうすれば、あなたは寺院に入るだろう。寺院はしかつめらしい顔をした人たちのためにあるのではない。彼らのためにあったことなどこれまで一度もない。生をよく見てごらん——どこかに悲しみがあるかね? 憂欝そうな樹を一度でも見かけたことがあるかね?

 苦悩にさいなまれている鳥を見たことがあるかね? ノイローゼにかかっている動物を見たことがあるかね? いや、生はそんなものではない、それはありえない。人間だけがどこかでおかしくなってしまった。人間は自分のことをひじょうに賢い、とても利口だと思うから、どこかでおかしくなったのだ。


 あなたの利口さ、それがあなたの病気だ。賢くなりすぎてはいけない。止まることをつねに覚えておくがいい。極端に走ってはいけない。少しの愚かさと、少しの智慧はいい。そして、その正しい組み合わせが、あなたをブッダにする……。
Osho I Celebrate Myself Chapter 4

 

 

 

解説:

 

 風と雨のなかで踊っているこの三人の女性は、祝祭(セレブレーション) は外側の環境にはいっさい左右されないということを私たちに思い出させてくれます。特別な祝日や公式な行事、あるいは雲のないよく晴れた日を待つ必要はありません。

 

 ほんとうの祝祭は、まず内側の深いところで体験された喜びから湧き起こり、歌と踊りと笑いの洪水となって、そしてもちろん、感謝の涙としても溢れだします。

 

 このカードを選んだときは、生において祝う機会と、それをほかの人たちに感化して広めてゆく機会がますます多く訪れ、その機会に対してあなたはどんどん開かれていくことが示されています。

 

 カレンダーを前にしていつパーティーを開こうかなどと気にすることはありません。髪をおろし、靴を脱ぎ、まさに今、水たまりで跳びはねましょう。パーティーはあらゆる瞬間に、あなたのまわり中で起こっています!Copyright © 2012 Osho International Foundation

 

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <22> 孫たちにとって、孫たちとは何か

<21>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<22> 孫たちにとって、孫たちとは何か

 プロジェクト567において、孫たちは中心の位置を占める。当初は、単に孫だったが、その後、複数に増えた。そして、直系ならずとも、周辺を見ると、どんどん増えている。

 甥や姪、友人、知人の周辺においても、新生児はどんどん増え続けている。それらすべてを含め、当ブログでは、孫たちと呼ぶ。

 カテゴリ「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」においても、その要点は、孫たち、にあり、孫たちに対峙する、あるいは、孫たちと融合する自分を見つけている。

 孫たち、とは、具体的な実存する生命たちであり、また形而上的な象徴でもある。

 ネイティブ・アメリカンたちは、物事を決定するには、7代先の子孫を考慮するという。

 7代先とはどう言う事だろうか。

 例えば、私も孫である。1代先に、親が2人あり、2代先に祖父母が4人いる。3代先になれば先祖は8人、4代先は16人。5代先で32人、6代先では64人。

 7代先ともなれば、128人となり、少なくとも、私にはこの人々の合計254名の方々が先祖として存在していることになる。

 1世代を30年とした場合でも、せいぜい7世代だと200年程度のことだ。これが、1000年、2000年と続いてきたのだから、ご先祖さまたちの行列は、幾何数的に増え続ける。

 少なくとも、私は128人の人々にとっての、7代先の子孫、と言う事になる。

 私にしてみれば、子が二人あり、それぞれに孫が二人づつ出来、その後もそのスタイルが続いたとした場合、やはり同じように7代先には100以上の子孫がいることになるが、こればかりは確定できない。

 少なくとも、直系ばかりではなく、友人知人の周囲に生まれる世代を考えていけば、私たちの世界は、多くの人々から受け継いだものであり、また多くの人々にバトンタッチしていく物である、という事実に変わりはない。

 さて、孫たちにとって孫たちとは何か、という設問は、煎じ詰めれば、私にとって、私とは誰か、という事になる。

 これこそが永遠のテーマであり、神秘への入り口でもある。あるいはゴールでもある。

 このテーマは、プロジェクト567においては、ホワイトターラーへと続く。

<23>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <21> 孫たちと図書館ネットワーク

<20>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<21> 孫たちと図書館ネットワーク

 具体的には、そのネットワークの中央に位置する施設がイメージされてはいたのだが、結局は、足の便が悪く、利用しにくい。その施設はかなりな超モダンな建築物であり、賞をもらうようなデザインである。

 それは一つの象徴であり、どうかすると映画「2001年宇宙の旅」とかぶるコーナーさえある。個人的にはなんども足をは運んでいるのだが、このスペースがなければ生きていけない、という程ではない。

 それでも、ここを含む電子的なネットワークの発達には目を見張る物がある。当ブログで使用している資料はかなりの部分をこのネットワーク利用で補っている。

 中央まで行く必要がない。中央ばかりか、地方隅々まで探すことが出来る。そして最寄りの支局まで転送してくれる。私はウォーキングを兼ねて、それを受け取りに行けばいいだけだ。

 このシステムを、孫たちと重ねて考えれば、まず、未来の教育とはどうあるべきのか、ということが思われて来る。もちろん、のちにメモするスマホとの連動も考えなければならない。

 住居、移動、そして情報の送受信は、現代人として、現在にいきる地球人として、なくてはならないテーマとなる。

 0歳児や1歳児では、図書館ネットワークーは使えないが、彼らが育つ環境を整えるには、周囲の者達にとっては、大いに活用出来るシステムになりつつある。

 将来的には電子書籍やネット出版など、教育や産業のありかたにも、大きな変動が起きて来そうだ。そういう時代を孫たちは生きて行く。

<22>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <20> 孫たちとエコカー

<19>よりつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<20> 孫たちとエコカー

 プロジェクト567における ベースが、エコビレッジ、エコタウン、エコシティ、あるいは森に沈む都市、というイメージなら、その次に来るものは、移動手段となろうか。

 プロジェクト567で与えられたものは、ベーシックなハイブリッド車であった。決して最新型でもなく、割高な車種でもなかった。ハイグレードな軽自動車とほぼ同等な価格でハイブリッド車も入手出来るようになった。

 今後はますます技術が進み、ハイブリッドだけがエコカーとは言えなくなりそうである。新しいディーゼル車であるとか、電気自動車であるとか、掛け声はあちこちから上がっている。

 電気自動車はかなり理想に近づいているようでもあるが、まだ、単体としての値段が高いし、実用になるほどの継続走行距離が出せていない。安い夜間電力で燃料を供給、というモデルも、脱原発の潮流の中では肩身が狭い。

 もし近い将来、太陽電池から車に蓄電できるようになったら、環境への負担はかなり軽減されると思われるが、そこまで技術革新が進むまでには、それなりの年月がかかるだろう。

 さて、太陽電池だが、個人的に現在の屋根に載せるべき具体的なセットを模索してみた。値段も、性能も、デザインも、かなりの現実に近づいているのだが、まだ実現していない。

 それは、どうも、論理的に可笑しい所が気になるからである。まず、売電システムがおかしい。自己完結していない。蓄電システムが貧弱である。それに、そもそも、集合住宅や、賃貸住宅における太陽電池システムがフィットしない。

 いくつかの問題点があり、いまだに割高な太陽光パネルを屋根に上げたからと言って、どうもまだまだ一人よがりのイメージが拭ぐえない。

 いずれにせよ、孫たちにとって、新生児として、産院から退院すれば、まずは車で自宅まで車で移動ということが、人生のまず最初に必要とされる事だ。これから、生涯に渡って、移動し、活動するには車は必須アイテムとなる。

 このエネルギーの根本を考え抜く必要はどうしても出て来る。当然ウォーキングやサイクリングも組み合わせながら、現在においては、ハイブリッドなエコカーは、より現実的な選択肢である。

<21>につづく

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2012/04/08

春の先の春へ 震災への鎮魂歌 宮澤賢治「春と修羅」をよむ 古川日出男


「春の先の春へ」 震災への鎮魂歌 宮澤賢治ブックス
宮沢賢治/古川日出男 2012/01 左右社 単行本 61p
Vol.3 No.0648★★★★★

 詩を朗読する人たちがいる。その人たちも3・11を、その立場で体験した。そして、鎮魂をしようとするとき、賢治の春と修羅の朗読を選んだ。

 賢治を読んだからと言って、鎮魂になると思うのは、読み手側の、勝手な思い込みである。ほんとうにそうなっているかは、わからない。しかし、詩の朗読者たちは、それをやらずには、いられない。

 この本は、詩集とみるなら、単に著作権のきれた賢治の詩の断片を編んだだけの、なんの変鉄もないアンソロジーにすぎない。その思い込みは思い込みとして、その情念が空回りしているようにも思える。

 しかしながら、この本の特異性は、付録というべきか、むしろ本体として、一枚の詩の朗読のCDディスクをつけているところにあるだろう。

 その出来のよしあしについては、異論あってしかるべきだろう。それぞれに、それぞれの賢治がいる。賢治を賢治たらしむるために、あえて賢治の原点にかえろうとする読み手もあるだろうし、賢治を我が物とするために、自らの声に変えようとする者もいる。

 このCDは、あるいは、この朗読は、3・11への鎮魂として、賢治を朗読せずにはいられなかった人々が、すくなくとも、ここにもいたのだ、という切実な証左となって、くっきりと、残された。

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <19> 孫たちにとってのエコビレッジ

<18>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<19> 孫たちにとってのエコビレッジ

 プロジェクト567においては、キーワードを7つ用意している。エコビレッジ、エコカー、図書館ネットワーク、孫たち自身、スマホ、ホワイトターラー、そして、3・11。これらある期間において、私自身が私なりの判断基準によって採集したものだが、これらの視点を孫たち、という視点に、それぞれ対峙させてみる。

 まず、エコビレッジ。このキーワードもまた、必ずしも固定的なものではない。本来であれば、コミューンとか共同体とかのほうが、よりイメージに近い。しかしながら、ここで採用するのはエコビレッジである。さらには、当ブログにおけるエコビレッジは、より具体性を持っている。

 規定不足ではあるが、その中で、現在、感じている内容をメモしておく。

 まず、エコビレッジは、プロジェクト567のベースである。人間が生きて行く場所である。人間が生きて行く、基本的な生活環境の事である。しかも、そこは現実的でありながら、可能な限りの理想を実現したものでありたい。しかも、孫たち、とりわけ0歳児、1歳児の理想の生活環境とは何か、という事になる。

 一番は、身体の保持。常に養育の安全が保たれ、医療に十分配慮されている必要がある。さらには、数年先以降を考えれば、教育についても、十分考慮されなければ、ならない。

 そういう視点から考えれば、3・11前後に、プロジェクト567におけるエコビレッジは、まったく不完全である。そもそも、予定地はあってみても、建設以前であってみれば、現実の孫たちは、そこで暮らしてはいけない。

 そういった意味においては、現在の我が家を含む、現在の生活環境の方が、はるかに理想に近い。荒れ地に未来の夢をつなぐのか、現在の自らの場所をエコビレッジ化するのか。可能性としては、後者のほうがはるかに優れている。

 では、現在の環境が絶対なのかというと、必ずしもそうではない。過去の経過や歴史の中で、限られてしまっている未来も見えてくる。オールリセットし、新たなるものを、0から作り直してみたい。そういった意味においては、いわゆるエコビレッジ幻想は、ひとつのテストパターンとして、チャンスさえあれば、ぜひチャレンジしてみたいテーマである。

 具体的には、現在の我が家は東電第一原発から80キロ圏内である。ところが、エコビレッジの可能性をもつ複数の予定地は、なんといずれも60キロ圏内であることは、皮肉である。当然、放射線量は予定地のの方が高い。0歳児1歳児を連れて行くには、積極性を削がれるばかりか、それをもって断念さえしなければならない程の、阻害要因である。

 プロジェクト567においては、まずは、調査を続行する必要がある。現在のライフスタイルを多角的にチェックし直しながら、理想は理想として、夢見ていく必要がある。時には、果敢にチャレンジする必要がある。しかしながら、失敗は許されない。

 逆に考えると、0歳児1歳児にとって、自らの生命を維持するだけのことを考えると、必要条件はそれほど多くない。人間の子供はかなりの適応能力を持っている。まずはそのことを見極めて、あらゆる土地を、いわゆるエコビレッジ化する土地として見直し見る必要がある。

 エコビレッジはベースである。エコビレッジは大地である。

<20>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話<18> 孫たちと3・11

<17>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<18>  孫たちと3・11

 昨年末にも、この春にも、別な甥のところにも、それぞれ新しい子供が生まれた。もともとが、私たち姉弟が、団塊の世代以降の生まれであってみれば、そのそれぞれのジュニ達が、結婚適齢期となり、自ずと子供たちが生まれて来るのは、自明の事である。

 しかしまぁ、それが、この3・11絡みになってしまった事に、多くの因縁を感ずる。中には、この3・11の時に子供を生むなんて無責任だ、なんて意見もある。もともと人口増加のこの地球上において、結婚したり、出産すること自体、配慮にかけている、という過激な意見さえある。

 私は私なりに、そういう意見に耳を傾けながら、それでもやっぱり、良き伴侶に巡り合い、子供に恵まれ、家族に囲まれて暮らす事が、良いと思う。そうありたいと願うし、そうであったし、子供たちもそうであって欲しい。もちろん、孫たちも、そして、子々孫々が、幸せに、仲良く暮らして欲しい。

 子供までは自分の家族計画の責任だが、子供たちや、甥、姪、など、次世代における家族計画など、すでに還暦を迎えようとする初老の男には、如何ともしがたい。生まれて来る者は、生まれて来るのであって、日本のような小子化傾向の社会にあっては、望ましい姿でもある筈である。

 今後も、人類は世代を継いで、生まれ続けるだろう。どんな種であっても、衰退や絶滅の危機は避けることは出来ないが、生命である限り、それは、生まれ続ける事を大前提とする。生まれ続けるからこそ生命とも呼ばれるのであり、その事が、第一義的であり、善である。

 そのような喜ばしい環境の中、2010年においても、2011年においても、2012年においても、子供達は、祝福の中で生まれて来た。祝福の中で生まれて来た筈なのである。

 しかるに、その前途を塞ぐかのように、あるいは押し潰すかのように立ちはだかるもの、3・11と、その後遺症。

 地震はこれからも起き続けるだろう。津波も時々は襲って来るだろう。大自然と生きて行く限り、それは宿命とも言える。それは避けられない。そこに人類は叡知を傾けなければいけないし、受け入れざるを得ない。

 さて、3・11で、人類が新たに抱え込んだ宿命、原発事故。これはどうなるのであろうか。有識者、専門家、当時者、それらを初めとして、責任者、被害者、評論家、メディア、そして時には無責任とも思える野次馬達の、さまざまな意見が聞こえて来る。

 それぞれに主張があり、正しいようにも見えるし、よく分からないように思う時もある。一番美しくないと思うのは、他人の非だけ糾弾して、自らの反省点を見つめようとしない事。それは自分である場合もあるし、誰か他人にその姿を見る時もある。

 原発は人類が共通して抱えてしまった課題であり、誰もが当事者であると言える。誰かが逃げる事が出来るような課題でもなければ、誰かに任せておけばよい難題でもない。誰もが、積極的に、自らの課題として、直視して行かなくてはならない一大テーマとなって、人類の前途に立ちはだかっているのだ。

 孫たちは、このような時代に生まれて来た。

<19>につづく

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2012/04/07

氷河鼠の毛皮 宮沢賢治・作 堀川理万子・絵 ミキハウスの絵本


「氷河鼠の毛皮」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/堀川理万子 2011/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0647★★★★★

 賢治の世界には、悪者がたくさん登場するけれど、最後にはだれが善いやら悪いやらは、わからなくなる。生きているんだから、いろんなことがあるわい、となる。慈しみがある。

 3,11後に、急に悪者になった人もあれば、悪者を糾弾しまくって、わたしはちっとも悪くない、悪いもんですか、という調子の人もたくさんいる。

 この絵本は、このシリーズでは、現在読める最新のものだ。全部で17冊読んだことになる。ずいぶん読んだようにも思うが、それでも、予告を見るだけでも、あと9冊の続刊が予定されている。

 この本あたりにして、ようやく、絵本の絵本たる、絵について考えるようになった。この本の絵は、かなりメリハリがついていて、かなり劇画調だ。

 漫画チックな絵がいいのか、もっと漠としたザックリとした絵がいいのか不明だが、それでも、やっぱり、この絵がなかったら、このシリーズを17冊読んでくることはできなかったであろう。

 あらためて、絵本の面白さ、ありがたさに、気づいた次第。

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蛙のゴム靴 宮沢賢治・作 松成真理子・絵 ミキハウスの絵本


「蛙のゴム靴」ミキハウスの絵本
宮沢賢治/松成真理子 2011/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0646★★★★★

 思ったより、ずっと長い話だった。一体に、これほど長くこの話が続く必要があるのかとおもったり、賢治その人の想像力に、舌を巻いたり。とにかく、聞いている子供たちにしてみれば、ひとつひとつのシーンが、おもしろくてたまらないだろう。

 そもそも、賢治の時代にあって、長靴なんてハイカラそのものだっただろう。昔はゴム靴は黒ときまっていた。絵では青になっているけれど。女子用に、たしかに赤もあったかも。

 蛙がいる風景もなつかしい。蛙を牛乳瓶にいれて集め、一斉に離して競争させたりした。あんな遊びをもうする子供たちはいないかもしれない。まわりの大人たちがさせないのではないか。

 賢治の世界では、このい蛙たちとゴム靴が、大活躍する。よくもまあ、こういう話になるものだ、とはおもったが、結局は、蛙の話でもなく、ゴム靴の話でもなかった。

 結局は、人間界の話であり、読んでいる大人と、聞いている子供たちの世界の話だった。賢治の人間観察の目が光る。そして、同じ目で、自然観察もしていて、それらがシームレスにつながって、このお話しができている。

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2012/04/06

土神ときつね 宮沢賢治・作 大畑いくの・絵 ミキハウスの絵本


「土神ときつね」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/大畑いくの 2010/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0645★★★★★

 土神ときつね、どっち が好きかと言われたら、どっちもどっちfだが、やっぱり、樺の木のように、きつねのほうが好きかもしれない。だけど、ほんのすこしだけだ。本当は、これは、ひとりの人間の両面だろう。そして真ん中の樺の木こそ、自分の本体だろう。

 みっつ合わさったところで、ようやく一人の人間として全体となったとして、実に、人間というものは、複雑に分裂しているものだと思う。

 これは恋愛譚、しかも三角関係のお話しとみることもできる。でも、そう読みたくない。それはつらすぎるから。恋愛譚なら、もっとハッピーエンドで終わってくれないと、面倒くさそうで、困る。

 じゃぁ、自分のなかでのこととした場合、こんなに分裂していていいのか、とも思うが、人間なんてそんなものだろう、という諦めがある。

 そんなことをいろいろ考えながら読んでいたら、どうも、大事なところを読み落としているような気になってきた。

 そのうち、落ち着いたら、また、再読してみよう。

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山男の四月 宮沢賢治・作 飯野和好・絵 ミキハウスの絵本


「山男の四月」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/飯野和好 2010/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0644★★★★★

 この絵本は、以前に借り出して一度目を通したのだが、どうもタイミングじゃなく、メモもしないで返してしまったのだった(はず)。ストーリーはそれなりに面白いのだが、最後に、それは夢でした、では、ちょっとばかりではなく、あんまりにも寂しいだろう。そう思った。

 前回は、このミキハウスの絵本シリーズを後ろから、つまり新刊から読んでみようとして、はやばやと挫折した。童話というもの、ましてや絵本というものの、どうもリアリティが、自分にマッチしていなかった。

 ところがである。今回は、孫たちとの暮らしが始まり、分厚い本などー読んでいる暇などなく、ようやく時間を見つけて、なんとか本を読みはじめてみいおう、というタイミングだと、どうもそれは童話がぴったしだった。

 童話であっても、これを文庫本などの細かい文字で読んだら、また違ったことになるだろう。たぶん読めない。今は、この絵本というスタイルがいいらしい。まして、今は賢治限定だ。

 絵本とはいうものの、絵はあまりじっくりみていない。もったいなことだ。次回はたぶん、絵を主体にして絵本を読む時がくるだろう。

 いまは、0歳児、1歳児のイメージのなかで、祖父がようやく童話という世界にたえどりついた状態だ。ほんとうの意味で、一緒によんだり、読み聞かせしている訳ではない。でも、とおくないうちに、そういう機会がめぐってくるだろう。

 その時はむしろ、文章よりも、絵が優先するにちがいない。子供の理解にあわせて、ストーリーなんか、適当に変えて、絵からのイメージで、どんどん新しい物語をつくってしまうかもしれない。子供たちは、むしろ、それを期待しているだろう。

 そもそも、子供たちは、夢、ってことがわかっているだろうか。夢なのか、現実なのか、判断つくのは、いつ頃からなのだろう。

 私自身の一番古い夢は、海で溺れるシーンだ。いつもいつも、その夢で目がさめた。長じて私は、あの夢はアトランティスの沈没の時、津波にのまれるシーンだとわかった。その因縁で、今回はここで、3・11に遭遇しているわけだが・・・。

 それにしても、子供の頃、毎回、毎回、あの夢は恐ろしかったなぁ。波に溺れて失神して行く過程がおそろしくながい。そして、ようやくその夢から目がさめてみれば、寢小便をして、布団のなかが津波になっているのだった。

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気のいい火山彈 宮沢賢治・作 田中清代・絵 ミキハウスの絵本


気のいい火山弾」 ミキハウスの絵本 
宮沢賢治/田中清代 2010/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0643★★★★★

 どこか、みにくいアヒルの子と通じる童話である。しかし、それが、さもない山の、さもない石の話だったりするところが、いかにも賢治らしい。

 ただの、へんてつもない石だけど、賢治にかかれば、他の石や、木や、花や、鳥や、動物、こけ、そして風や太陽や星の話になっていく。石そのものだって、いつのまにか、仏さんのようにもみえてくる。

 最後には、えらくなって出世するわけだが、石そのものは、別にそれはうれしくはない。むしろ。悲しい。いかにも賢治らしい。

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いちょうの実 宮沢賢治・作 及川賢治・絵 ミキハウスの絵本


「いちょうの実」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/及川賢治 2008/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0642★★★★★

 かやの実を連想した。近くにある樹齢1300年のかやの木にもたくさんの実がつく。一時に、たくさんの実が落ちる。その巨木のわりに、その実は、とてもかわいい。そして、とてもひろいきれないほど、たくさん落ちる。

 たしかに、地上にならんだかやの実たちを眺めていると、ちいさな子供たちを連想する。小学校の運動場のような案配だ。その証拠に、近くの小学校には、「かやの実音頭」という歌と躍りがある。毎年、運動会などで披露される。

 全国のどこかには、いちょうの大木がある小学校があるだろう。校庭にはなくとも、近くにあって、ひょっとすると、「いちょうの実音頭」なんてあるのかも知れない。いや、あるに違いない。しかもそんな学校がたくさんあるに違いない。だって、あの、いちょうの実たちをみていたら、誰だって、校庭や公園や広場で遊ぶ子供たちを連想する。

 ましてや賢治においては、このような童話ができあがる。

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2012/04/05

ツェねずみ 宮沢賢治・作 石井聖岳・絵 ミキハウスの絵本


「ツェねずみ」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/石井聖岳 2009/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0641★★★★★

 イソップ物語にでも出てきそうなお話し。ねずみとねずみ取りが交際を始めるなんて、いかにも賢治らしい設定だが、それまでの過程が過程だけに、しかたない。

 賢治の世界には、悪者がたくさん登場するが、いずれも憎めない。悪者とされてはいるけれど、それは、私たち人間のだれもがもっている煩悩である。その煩悩をあきらかに、あからさまにあばきながらも、ひとつひとつにそそぐ賢治の眼差しはやさしい。だが、そして鋭い。

 例えば、水木しげるのネズミ男もなかなか憎めないキャラクターだが、賢治の世界では、役割は固定されない。常に流動的で、多彩だ。

 0歳児、1歳児は、よい子でもあり、悪い子でもある。いたずらする時もある。誉められる時もある。ネズミは、子供たち自身でもある。

 賢治の眼差しは、子供たちの眼差しでもある。読む者すべて、みんなの、自分自身への眼差しでもある。

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狼森と笊森、盗森 宮沢賢治・作 片山健・絵 ミキハウスの本


「狼森と笊森、盗森」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治絵:片山健 2008/10 三起商行 童話 カバー付き 40P 26×25cm
Vol.3 No.0640★★★★★

 ウィルダネス。バイオリージョナル。ああなんとでもいうがいい。賢治にかかったら、もう、これしかないという程の、全体がひろがる。

 もうこれ以上、なにを言えばいいのだ。これは、これを読むしかない。読んで、うん、そうだ、とうなずくしかない。

 あまりの説得力に、説得されているなんてことはわすれている。ただただ圧倒される。ありあまるばかりの存在力、溢れんばかりの自然の大気。

 生きている、って、こういうことなんだな、って思う。

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月夜のでんしんばしら 宮沢賢治・原作 竹内通雅・絵 ミキハウスの絵本


「月夜のでんしんばしら」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/竹内通雅 2009/10三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0639★★★★★

 ドッテテドッテテ、ドッテテド

 ドッテテドッテテ、ドッテテド

  賢治の時代には、電気はまだまだ夢のような、希望に満ち満ちた、未来への架け橋だった。私の時代でも、電気はまだまだごくごく限られた道具だった。家の屋根裏に二本の導線が平行に張ってあり、要所要所に、裸電球がぶら下がっていた。

  30ワットか40ワット位がいいとこで、60ワットなどというとそうとうに明るかった。最高は100ワットで、それ以上はなかった。これはなにか人寄りとかお祭りの時のしか使わなかった。トイレにあるのは2燭光といって、ちいさな電球だった。

  それから家の中で電球を使うものといえば、真空管ラジオくらいしかなかった。作業場にいけば三相の大きな動力モーターが回っていたが、こちらは200ワットだった。

  まもなくして、水道ポンプが回りだし、テレビが正田美智子さんを映し出した。東京オリンピックの頃は、テレビもカラーになった。その頃はもう、洗濯機やら、蛍光灯やら、扇風機やら、掃除機やら、電気炊飯器やら、ありとあらゆるものが、電気に代わっていった。

  そして、今となっては、電気がなければなにもできないような生活になった。風呂も電気がないと沸かない。ストーブも電気がないとファンがまわらない。エアコン、アイロン、電話、電気毛布・カーペット、ああ、それからそれから。

 3・11からは、原発の見直しがはじまり、一体、このような生活が、さて、どのような事をいみしているのか、みんなが考えるようになった。考えても、もう電気のない時代にはもどれない。電気のつくりかた、電気の使い方をみんなが考えるようになった。

 でも、根本的には、あまり良い考えもでてこないようだ。みんな口々に偉そうなことはいうのだが、いうだけだ。

 原発は、つけの先送りだ。しかも膨大な。電気生活も、原発に支えられている限り、あわれな存在である。

 ドッテテドッテテ、ドッテテド

 ドッテテドッテテ、ドッテテド

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2012/04/04

なめとこ山の熊 宮沢賢治・原作 あべ弘士・絵 ミキハウスの絵本


「なめとこ山の熊」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/あべ弘士 2007/10 三起商行 絵本 1冊
Vol.3 No.0638★★★★★

 くまくま、と、いままでずっと熊の話だと思ってきたけれど、この話は本当は熊の話ではないのではなかろうか。ストーリーばかり、しかもダイジェストで読んでいると、すっかりまわりの、こまかいディティールをはしょってしまう。

 だけど、本当は、そのはしょってしまっている細かいところがとても大事だったりするのではないだろうか。

 ちなみに、このお話しから、熊に関係あるところを全部抜いてしまい、残った部分だけを読んでも、きっと面白いに違いない。

 ここにでてくる熊は、本当の主人公ではない。それはまるで、団子やおでんの串みたいなものだ。串ばっかりなめて、おいしかったなぁ、なんて思っていたけれど、肝心の、おでんや団子は、完全に見逃していたのではないか。まんまとやられたな。

 賢治は好きでも嫌いでもなかったけど、こんかい、この話を読んで、あ、私は賢治が好きなんだな、と思った。

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かもめのジョナサン リチャード・バック <6>

<5>よりつづく

かもめのジョナサン
「かもめのジョナサン」 <6>
リチャード・バック /五木寛之 1977/05 新潮社 文庫 140p

 賢治の「よだかの星」を読んでいて、こちらをまた読みたくなった。裏表、あるいは一体となっているとさえ思える、この二つのお話し。童話のようなスタイルをとってはいるが、両者とも、けっして0歳児や1歳児に向けたお話しではないことは、もちろんである。

 こうして再読してみると、パート1、2、3とあるうちの、パート1の印象がとても強いようだ。あえていうなら、パート2、3は蛇足だと言えないこともない。いつもパート1で納得して、読書を止めてしまっている。

 もしパート1までのお話しなら、よだかと好対となるのだが、どうもパート2、パート3ともなると、すこし、よだかの星の世界を逸脱する。むしろパート2、3は、余談として軽くパート1に添える程度でよかったのではないか、などと考えるのは、読者の身勝手というものである。

 アメリカであの時代に大ヒットするには、それなりの訳があった。パート2、パート3がなければ、やはりかもめのジョナサンは、体をなさない、ということになろう。

 それにしても、なかなかよく出来ている。最近読んだ、鈴木俊隆「禅マインド・ビギナーズ・マインド 」と同じ時代に愛読されたものだとすれば、やはり西洋人好みに、このくらい「哲学」的に解説しないわけにはいかないのだろう。

 この本、子どものお昼寝のしている間に読んだのだが、不思議と、読み終わったとたんに目を覚ました。

 この頃、こういうことがよく起きる。大工仕事をしていて、材料をカットしようとしてのこぎりも持ってくるのだが、あてはめてみると、ぴったりで、もうカットなどする必要がない、とか、余った材料があったりすると、それが、見事に別な目的に流用できるなど、不思議なことが多い。

 あるいは、そのようなアバウトな生活が始まっている、ということなのかもしれない。

 追伸
 ただし、その後がいけなかった。ちょっと目を離したすきに、この長い間愛読してきた文庫本は、1歳児によって、見事に表紙をへがされ、3つのパーツにちぎられしまった。(涙)

<7>につづく

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よだかの星 宮沢賢治・原作 ささめやゆき・絵 ミキハウスの絵本


「よだかの星」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/ささめやゆき 2008/10 三起商行 絵本
Vol.3 No.0637★★★★★

 この童話を読む時はいつでも、私はカモメのジョナサンを思い出す。鳥が空高く舞い上がる、というところ、そこでいくつかの出会いがあるところ、そして、どちらも、内省的で、シンプルなストーリー性があるところ。

 どちらも、ちょっと悲しいストーリーだ。でも悲しいと言ってはいけないかもしれない。美しい孤高な凛々しい美がある。

 ジョナサンとよだか、私なら、どちらに親近感をもつだろう。でもその設問は二者択一のものではない。裏表というか、一体となって、それぞれのストーリーを補完しあっているようにさえ思う。だから、どちらを選ぶという話ではない。

 私は、ジョナサンであり、よだかである。ジョナサンには、マスターと出会うチャンスがある。そして、後輩たちを指導するチャンスがある。

 でも、よだかはマスターとすべき者たちに、ことごとく断られる。弟分たちにも、十分な遺志を残すことができない。そして、落下とともに、その寸前で昇天する。

 よだかの星は、すこし孤高にすぎる。カモメのジョナサンは、よだかの星を下敷きにして、改良された話なbのではないだろうか。そして、よだかの星は、改良される前の、原石のようなカモメのジョナサンなのではないか。

 よだかの星とカモメのジョナサン。本質を貫くのは、どちらも同じ、探求の旅だ。

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オツベルと象 宮沢賢治・原作 荒井良二・絵 ミキハウスの絵本


「オツベルと象」 ミキハウスの絵本 
作:宮沢賢治絵:荒井良二 2007/10 三起商行●26×25cm ●カバー付き 36P
Vol.3 No.0636★★★★★

 オツベルなのかオッペルなのか、もとの原稿が存在していないので確定はできない。それでもやはり、不思議な語感だ。どこでも他に聞いたことのないような、ここにしかないような、ちょっと気になる言葉である。

 賢治の世界には、けっこう色々な悪者がでてくるけれど、オツベルはその最たる者かもしれない。最初から悪いことをしようとしている。悪いことをして、利益をあげる。そして反省しない。

 それなのに、文章では、あまり批判していない。むしろ誉めてさえいる。大変なのは、いじめられる象である。そして、それを悪と断定するのは、森の象の仲間たちである。

 0歳児や1歳児では、象がなんであるかさえ、まだわからない。その大きさ、力強さ、従順さ。いちど、まずは動物園にいかなくては。

 賢治だって、象が本当に働いているところなぞ、見たことはないだろう。これは、南方の、インドであるかも・知れない地方でのお話しであろう。私はインドに何度か行ったけど、本当に象が働いているところを見た記憶があまりない。

 スリランカでは、藤井日達上人一行と地方めぐりした時に、本当に森のなかの川で、仕事をしている象をみたことがある。それは、日本の工事現場で重機が動いているような、当たり前の風景だった。もう35年前のお話しだが。

 0歳児や1歳児には、象がなんだかはわかるまい。だが、なんだ得たいのしれない、不思議なことが、この世の中にはいっぱいあるのだと、象を通じて感じるだろう。

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2012/04/03

やまなし 宮沢賢治・原作 川上和生・絵 ミキハウスの絵本


「やまなし」 ミキハウスの絵本 
作:宮沢賢治 絵:川上和生 2006/10 三起商行 ●カバー付き ●40P ●26×25cm
Vol.3 No.0635★★★★★

 クランボンはわらったよ

 クランボンはかぷかぷわらったよ

 この童話もまた、不思議な、リズミカルな、賢治流の呪文が流れる。最後まで赤ちゃんたちは付き合う気はなくとも、この不思議な呪文には、反応する。すくなくとも、なにかあっけにとられたように、確かに耳をかたむけている。

 この童話、主人公たちは蟹なのに、タイトルは、やまなし、になっている。蟹たちにとって、天井から降ってくるものだけど、かわせみと、やまなしでは、まったく意味がちがう。

 聞いている赤ちゃんたちにとって、その違いなんてわからない。いや、童話ぜんたいが、ひとまとまりのお話しになっているなんて、考えてもいない。

 しかし、自分に聞こえてくる、世界の一部は、たしかに、こう言っている。

 クランボンはわらったよ

 クランボンはかぷかぷわらったよ

 そのリズミカルな呪文に、遠くの、夜の、犬の遠吠えのような、不思議なせかいの広がりを感じている。

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どんぐりと山猫 宮沢賢治・原作 田島征三・絵 ミキハウスの絵本


「どんぐりと山猫」 ミキハウスの絵本
作:宮沢賢治 絵:田島征三 2006/10三起商行 ●40P ●26×25cm
Vol.3 No.0634★★★★★

 ちょっと教訓ぽいなぁ、と思っていたのだが、どうしてどうして、それは思い違いだった。裁判は裁判としてあったとしても、それは、物語を構成するための骨組みであって、本当のポイントはそこにない。

 賢治ワールドがそこにある。

 動物たち、植物たち、鉱物たち、そして人間、とりわけ子供たちが、同列に活躍する。動けないものは動かない。動けるものは、動く。でも、語れるものは語るとしても、賢治の世界では、語れないものたちも、みんな語りだす。

 語りだした後は、とてつもない混沌となるが、それでも、やっぱり、最後はみんな、沈黙してしまう。

 しゅんとなって、また、静かな、一人の世界に戻ってくる。

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水仙月の四日 宮沢賢治・原作 黒井健・絵 ミキハウスの絵本


「水仙月の四日」 ミキハウスの絵本 
宮沢賢治/黒井健  1999/11 三起商行 絵本
Vol.3 No.0633★★★★★

 水仙月って何時のことだろう。水仙の花が咲く頃だから、きっと春。4月か5月か6月の頃だろうか。暖かい南のほうでは、12月でも1月でも咲いているようだから、暦の上での日にちは決められないかも。

 花言葉は自己愛。水面に写ったナルシッソスがそのまま花になったという。

 水仙が雪解けを知らせる早春の花だとしたら、もう今年もきっと咲いているはず。あれ、我が家のちいさい庭にもあった筈だが、まだみていないぞ。ああ、このところ、そんな余裕はぜんぜんなかったなぁ。

 賢治の水仙月のお話しの下地には、綿菓子の作り方システムが隠れている。火と、砂糖と、回転。町から砂糖を買ってくる子が、赤い服をきているのは、そのせいだ。

 雪狼たちが走り回って風をおこすのは、そのせいだ。雪婆ぁが吹雪を起こしても、それはもう、綿菓子だから、ちっとも寒くない。ふんわりしていて、あたたかい。

 水仙月の4日目。どんどん水仙が咲き揃ってくるはずなのに、まだ雪はとけない。

 雪わらすが、一番最初に、大きな栗の木の、赤い木の実を、雪狼に落とさせて、おんなの子の足元に置くのも、これはきっと火の象徴だ。

 子供は炭を売ってザラメと交換し、赤い火を抱えながら、白い綿菓子にくるまった。決して死にはしないけれど、死の世界はすぐそこにある。

 水仙月は、春の誕生だけど、冬の死でもある。

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2012/04/02

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <17> キックキックトントン キックトントン

<16>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<17> キックキックトントン キックトントン

 堅雪かんこ 凍み雪しんこ 狐の子ぃ嫁欲しい 嫁欲しい 嫁が要らなきゃ 餅やろか

 キックキックトントン キックトントン

 あんまりムズかるので、雪わたりの絵本を持って来て、不思議な呪文を唱えてみる。じいさんとしては、かなりの冒険だ。でも、これがかなり効いた。1歳児ばかりか、0歳児まで反応する。

 1歳児は、体をねじってムズかったりするのだが、じいさんの膝を離れようとしない。さっきまで静かにしていた0歳児は、何やらこの呪文に反応する。意味不明のジベリッシュだが、うまいこと合いの手をいれる。

 ほう、予想以上の反応だ。

 夜になってまたムズかるので、暗いキッズルームに入ってまた始めた。

 狐こんこん狐の子 去年狐のこん兵衛が 左の足を罠にいれ こんこんぱたぱたこんこんこん

 暴れていた1歳児が、なぜだかシュンとなった。

 キックキックトントン キックキックトントン

 傍らにあった防災用の懐中電灯でボンヤリと天井を照らし、片手で影絵を作ってみせた。片手の影絵ですぐできるのは、狐だ。

 キックキックトントン キックトントン

 ああ、そう言えば、この雪わたりのお話しは、狐の幻灯会へと続くのだった。賢治もまた、雪が堅く凍みる夜に、片手で狐の影絵を作っているうちに、このお話しを思いついたに違いない。

 子供たちは、物語のストーリーを理解したとは思えないが、この呪文を聞いているうちに、不思議ワールドに入っていった。

 キックキックトントン キックトントン

<18>につづく

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OSHO ZEN TAROT <52> SILENCE(沈黙)

Zen018silence    からつづく

OSHO ZEN TAROT <52>

17. SILENCE(沈黙)  

 全体なるもののエネルギーが、あなたを乗っ取っている。

 あなたは乗っ取られているのだ。もはやあなたはなく、全体がある。この瞬間、沈黙があなたに浸透していくにつれて、あなたはその沈黙の意義を理解できるようになる。

 というのも、それはゴータマ・ブッダが体験したのと同じ沈黙だからだ。それは同じ沈黙だ。荘子(そうし) や菩提達磨(ボーディダルマ) や南泉(なんせん)が……。その沈黙の味は同じだ。

 時代は変わる、世界は変化しつづける。だが、沈黙の体験、その喜びは、変わらず同じままだ。それこそが頼りになる唯一のもの、けっして死ぬことのない唯一のものだ。
それこそが、あなたの実存そのものといっていい唯一のものだ。
Osho Zen: The Diamond Thunderbolt Chapter 1 

解説:

 満月の、満天に星の輝く夜、その沈黙した鏡のような受容性が、霧の立ちこめた下の湖に映っています。深い瞑想に入っている空(そら) の顔は、深み、平和、そして理解をもたらす夜の女神です。

 今はまさに貴重な時です。内側で休むこと、自分の内なる沈黙の深みを宇宙の沈黙と出会うポイントまで垂直に下ろしていくことは、あなたにとって簡単なことでしょう。することはなにもなく、行くところもなく、あなたの内なる沈黙の質はあなたがするすべてのことに浸透しています。

 それが、ある人たちを落ち着かなくさせることもきっとあるでしょう。その人たちは世間のあらゆる雑音や活動に慣れてしまっているからです。気にすることはありません。あなたの沈黙と響き合うことのできる人たちを探すか、あるいは、独りあることを楽しめばいいのです。

 今こそあなた自身に帰る時です。こうした瞬間にあなたのところにやって来る理解と洞察は、後になって、あなたの生がもっと外に向かっている時期に、形として現われてきます。Copyright © 2012 Osho International Foundation

後につづく

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雪わたり 宮沢賢治・原作 方緒良・絵 ミキハウスの絵本


「雪わたり」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治/方緒良 1991/11 三起商行 絵本
Vol.3 No.0632★★★★★

 むしろ賢治ワールドとしては、こちらのほうが本流だろう。ないし、私はこちらのほうが好きだ。酒はのむな、の教訓はちょっとつらいが、心に染み渡る風景としては、数段こちらが上だ。

 堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ぃほしい、ほしい。

 夏は、谷沿いに遠回りしなければならないのに、冬になってたんまり雪がつもると、むしろ、その雪の上を歩けるようになって、近道ができてしまう。そんな世界の、さらに凍てつく月の夜のお話し。

 招待されるのは、11歳以下の子供たちとはいうものの、小学4年は12歳となっているから、数え年やらなんやらで、8・9歳くらいまでの子供たちであろうか。

 下は何歳くらいであろう。雪ぐつを履いて、堅雪かんこの上を歩くのだから、数えでも、3歳か4歳になる必要があるだろう。

 0歳児や1歳児には、まだまだ禁断のファンタジーではあるが、それでも、この墨絵のような絵本を使って、ストーリーを意訳しながら、話しかけることは可能だろう。

 北風ぴぃぴぃ、かんこかんこ 西風どうどう、どっこどっこ。

 このリズミカルな呪文だけで、子供たちは、賢治の不思議ワールドに入っていく。

 いえいえ、おんぶにだっこで腰が痛いじいさんも、いっしょに、うつらうつらする。

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注文の多い料理店 宮沢賢治原作 スズキコージ絵 ミキハウスの絵本


「注文の多い料理店」 ミキハウスの絵本
宮沢賢治(原著) スズキコージ(画)1988/05 三起商行
Vol.3 No.0631★★★★★

 賢治の童話のなかでも、三本指にはいるお話し。生前に出版され、もっとも古い時代からよく知られた賢治の代表作のひとつ。いろいろのバージョンがある。

 これはミキハウスの三起商行バージョン。このシリーズにはたくさんーの童話絵本が含まれており、そのなかでも、注文の多い料理店は、もっとも早くこのシリーズに収録された。

 はてさて、このお話しにして、この絵はどうなのか、と、ちょっといぶかるような黒の多い絵だが、これはこれで、よい。だが、これが定番と言われると、ちょっと違うだろう、と思うはず。それほど、お話しの世界は、それぞれに、それぞれの創造力を与える。

 パルバースが、賢治を評して、もっとも美しい日本語、と言っているが、ちょっとちがうだろう、と思う。賢治の世界は、美しい日本語を目指して書かれたものではない。美しくあるとか、ないとか、の次元で語るものだろうか。

 決して遠慮はありません、って、これは賢治ワールドだからこそでてきた表現だ。誤記なのか、本気なのかが、よくわからない。けっしてお行儀のよい言葉群ではない。だからこそ、面白いイーハトーブへと招かれる。

 このお話しはすこし教訓めいていて、賢治ワールドの中心からははずれていると思う。0歳児や1歳児と一緒に読むお話しとしては、かなり難しい。ただ最初から、全部が全部、意味などわからなくてもいい。

遠くから、太鼓の音や、木枯らしに舞う葉っぱのように、なにかが、語りかけられているんだな、という気配が感じられれば、もうそれはそれで十分なスタートだろう。

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2012/04/01

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <16>1歳児と宮沢賢治を読む

<15>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<16>1歳児と宮沢賢治を読む

 そう思いついて、図書館から、賢治の童話絵本を何冊か借り出してみた。いや、先日も自分自身の賢治追っかけの中で、このシリーズも取りかかったのだが、さすがに、祖父自身にとって、絵本はどうもリアリティがない。ブログにメモすることもはばかれた。

 しかし、これを除いてしまうのでは、賢治全体の大きな部分が失われてしまいそうな気がした。いつかは読もうと思っていたのだが、わりと早くその機会はやって来た。子供と一緒に賢治の絵本を読むのなら、それはそれなりに絵になっているではないか。

 そう思って、1歳児の傍らに賢治の童話絵本をおいてみるのだが、まだまだミスマッチだ。1歳歳児にも月齢や個性によって、静かに絵本を見聞きする子供もいるのだろうが、我が家の孫は、まだそこまで成長はしていない。

 絵本には興味を持つのだが、しゃぶったり、やぶったり、という段階である。絵を見る、話お聞く、というより、見るもの、触るもの、すべてが珍しい段階。絵本と他のおもちゃの違いも、まだ分かっていないようだ。

 この子供たち、いつになったら、賢治の童話絵本を読むようになるだろう。今後の観察ポイントがひとつできたようだ。

 その前に、私自身はどうだろう。賢治の童話を、自分のものとして、どこまで読めるだろう。日本昔ばなしのようなものなら読めるが、賢治の童話は、わりと難解である。好き嫌いで言fえば、得手な方ではない。

 それでも、何時かは孫たちと読もうという目標のもと、まずは自分のものとするために、何冊か読んでみることにする。

<17>につづく

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プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <15> ひとり深夜に目が覚める

<14>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」

<15> ひとり深夜に目が覚める

 深夜と言うべきか、もう未明と言うべき時刻だが、このところ、この時間に目が覚めることが多い。多い、というよりほぼ毎日の日課となった。

 孫たちの目覚めに合わせて起床し、食事を摂り、午前中に短い昼寝の介添えをし、午後に長い昼寝の添い寝をすると、あっという間に夕食、お風呂の時間となる。夜の8時ともなると、あとは就寝するだけである。

 やっと解放された私は自分の部屋に戻って寛ぐのだが、いちにち孫達とつきあっていた疲労がどっと出て、すぐに眠りについてしまう。0歳児や1歳児なら、ここから9時間睡眠ぐらい続けるだろうが、還暦近い祖父には、それほど眠り続ける力がない。おのずと尿意を催しながら、未明にひとり、こそこそと目が覚めることになる。

 目が覚めてしまえば、することなど限られていて、枕元のスマホに手を伸ばすか、脇の本棚から適当に本を引っ張り出してパラパラすることになる。もちろん、暗闇のなかで短い瞑想を組むこともある。あるいは、この3つは、ほぼ一体のこととしてある。

 今朝もOSHOの「私が愛した本」をパラパラやっていた。マルクスとフロイトとアインシュタインについて語っているところがある(p169)。20世紀を支配したこの3人のユダヤ人に対して、彼は素晴らしい洞察を加えている。

 先日読んだ中沢新一「日本の大転換」のなかで、マルクスの共産主義とアインシュタインに続く物理エネルギーに触れていた。しかし、フロイトに続く自我の在り方に対する考察はなかったように思う。

 また、別に読んだパルバース「日本という国がなかったら」に、妙に得体の知れない違和感を感じた自分を、我ながらいぶかった。あの胸騒ぎは一体何だったのだろう。

 3.11における大きな問題点は核エネルギーの在り方である。原発ばかり取り上げられるが、それは核兵器と表裏一体のものである。そしてそれは、アインシュタインに続いていく道筋でもある。

 マルクスに続く道は、かなり停滞しているかに見えるが、中国という国の在り方や、マルチチュード「幻想」に、あるいはグローバル経済の暗躍に、まだまだその妖怪の影が付きまとう。

 その辺を中沢は探っていたのだが、フロイトに続く意識の捉え方についての考察がすっぽり抜け落ちていたのではないか、と思う。だから、中沢にせよパルバースにせよ、「日本」というところで止まってしまう。今問われているのは、日本という国ではなくて、地球人という、ひとりひとりなのだ、というところに行き着かない。

 そんな思いを新たにしながら、目も腕も疲れ、脳も疲れた祖父は、朝までの短い惰眠をまたむさぼることになる。

<16>につづく

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