プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <15> ひとり深夜に目が覚める
<15> ひとり深夜に目が覚める
深夜と言うべきか、もう未明と言うべき時刻だが、このところ、この時間に目が覚めることが多い。多い、というよりほぼ毎日の日課となった。
孫たちの目覚めに合わせて起床し、食事を摂り、午前中に短い昼寝の介添えをし、午後に長い昼寝の添い寝をすると、あっという間に夕食、お風呂の時間となる。夜の8時ともなると、あとは就寝するだけである。
やっと解放された私は自分の部屋に戻って寛ぐのだが、いちにち孫達とつきあっていた疲労がどっと出て、すぐに眠りについてしまう。0歳児や1歳児なら、ここから9時間睡眠ぐらい続けるだろうが、還暦近い祖父には、それほど眠り続ける力がない。おのずと尿意を催しながら、未明にひとり、こそこそと目が覚めることになる。
目が覚めてしまえば、することなど限られていて、枕元のスマホに手を伸ばすか、脇の本棚から適当に本を引っ張り出してパラパラすることになる。もちろん、暗闇のなかで短い瞑想を組むこともある。あるいは、この3つは、ほぼ一体のこととしてある。
今朝もOSHOの「私が愛した本」をパラパラやっていた。マルクスとフロイトとアインシュタインについて語っているところがある(p169)。20世紀を支配したこの3人のユダヤ人に対して、彼は素晴らしい洞察を加えている。
先日読んだ中沢新一「日本の大転換」のなかで、マルクスの共産主義とアインシュタインに続く物理エネルギーに触れていた。しかし、フロイトに続く自我の在り方に対する考察はなかったように思う。
また、別に読んだパルバース「日本という国がなかったら」に、妙に得体の知れない違和感を感じた自分を、我ながらいぶかった。あの胸騒ぎは一体何だったのだろう。
3.11における大きな問題点は核エネルギーの在り方である。原発ばかり取り上げられるが、それは核兵器と表裏一体のものである。そしてそれは、アインシュタインに続いていく道筋でもある。
マルクスに続く道は、かなり停滞しているかに見えるが、中国という国の在り方や、マルチチュード「幻想」に、あるいはグローバル経済の暗躍に、まだまだその妖怪の影が付きまとう。
その辺を中沢は探っていたのだが、フロイトに続く意識の捉え方についての考察がすっぽり抜け落ちていたのではないか、と思う。だから、中沢にせよパルバースにせよ、「日本」というところで止まってしまう。今問われているのは、日本という国ではなくて、地球人という、ひとりひとりなのだ、というところに行き着かない。
そんな思いを新たにしながら、目も腕も疲れ、脳も疲れた祖父は、朝までの短い惰眠をまたむさぼることになる。
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