自然 宮下富実夫
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「誕生 TANJO」
宮下 富実夫 1991 ビワレコード CD 関連リスト
Vol.3 No.0713★★★★★
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「オルカシンフォニー 」
宮下富実夫 1994 Biwa Records CD 関連リスト
フレンズ / シー フォレスト / ノーザン ドリーム / トーキング オルカ / ピースフル ワールド
Vol.3 No.0712★★★★★
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「The Best Of Tangerine Dream」
Tangerine Dream 1989 UK CD
Vol.3 No.0711★★★★★
1 | Central Park (New York) | 3:57 | ||
2 | Tyger | 5:45 | ||
3 | Livemiles (Part II) | 6:12 | ||
4 | Dolphin Dance | 5:04 | ||
5 | Song Of The Whale - Part One | 8:20 | ||
6 | Song Of The Whale - Part Two | 10:20 | ||
7 | Le Parc (L.A. -- Streethawk) | 3:21 | ||
8 | Yellowstone Park (Rocky Mountains)
|
6:12 | ||
9 | Poland | 11:02 | ||
10 | Astral Voyager | 7:07 | ||
11 | Wahn
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「さわやかな目覚めとともに」 life in peace
宮下 富実夫 1999/5/26 エイベックス CD 関連リスト
ホライゾン デイブレイク アース・ビート ランド・オブ・ピース ウインドウ トラスト
Vol.3 No.0710★★★★★
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Dream Mixes
Tangerine Dream / Studio Album, released in 1995 mp3
Vol.3 No.0709★★★★★
Tracks on CD 1:
1. Little Blond in the Park of Attractions [The Thai Dub] (7:17)
2. Rough Embrace (5:30)
3. Touchwood [The Forest Mix] (7:00)
4. Jungle Journey [Reptile Mix] (6:20)
5. Virtually Fields (6:50)
6. Firetongues [The Break Freak Mix] (6:18)
7. San Rocco (7:17)
8. Catwalk [Dress-Up Mix] (7:49)
9. Change of the Gods (7:19)
10. Bride in Cold Tears (5:31)
Tracks on CD 2:
1. Little Blond in the Park of Attractions [Radio Edit] (4:09)
2. Touchwood [Radio Edit] (4:02)
3. Catwalk [Black Ink Mix] (8:12)
4. Touchwood [Poison Byte Mix] (7:54)
5. Iowa (7:10)
6. Sojus (9:19)
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「リズム絶対主義」
宮下 富実夫 (著) 2000/12 扶桑社 単行本: 238p 関連リスト
Vol.3 No.0708★★★★☆
図書館も探してみれば結構あるもので、彼の音楽もかなりの量が収蔵されている。年代順に整理されていないので、その変遷過程をまだ細かにみることができないのが残念だが、それでも、ひとりのアーティストが駆け抜けた人生を見てとることは可能だ。
この本、タイトルに無理はないだろうか。リズム----絶対----主義。音楽の要素の中の、リズムだけを取り出し、あるいは、絶対、と言い切り、主義、とまで固めてしまう。
本自体はいたって面白い。一ミュージッシャンで、これだけ語る人はいないだろう。ひとりのヒーリング・アーティストという意識があればこそ、ここまで書いたのであろうし、例えば、かつての同じグループの喜多郎などは、ここまでは言い切らないだろうと思う。
こうした人間の「意識」にも、いくつかの段階があります。意識、無意識、宇宙意識、天上意識、神意識という五段階で、神意識が一番上に位置します。つまり「意識」の段階にいても、そのなかにある高い状態まで自由に往き来できれば、自分を常に正道に保っておくことができるのです。p210「『意識』のなかにある真理」
意識については、一般に共通できるような理解はまだできていない。ここで5段階に分けて名付けることは可能でも、実際には、他者においては、その真意を理解した、ということにはならない。
当ブログにおいては、宇宙無意識←集合的無意識←無意識←意識→超意識→集合的超意識→宇宙超意識、の7つの段階に分けて考えているが、著者のいう5段階に、あてはめようと思えばできないことはない。だが、この辺は、「絶対」とはしないほうがいいだろう。
西洋医学では身体にどこか悪い部位があった場合、単純にそこを切除してしまいます。
医食同源に基づく東洋医学では、悪いところがあるのはその原因があり、それをたどっていかなければ完全に治らないと考える。ですから、食事療法などで「極陰」や「極陽」ではない「正道」に身体をもっていかなければなりません。p227「西洋と東洋のリズムを融合させる」
ことばとしてはなんら引っ掛かるところではないが、著者が、この本の出たおよそ2年後にガンで死亡していることを考えると、すでに、この文章を書いている時点で、何事かの変化が、知ってか知らずか自分の身体の中に起きていたことになるだろう。
一節によれば、最初、左肺上部にできた1センチほどの小さなガンは、痛みもなく、その時点で「切除」してしまえば、延命できた可能性はゼロではなかったようだ。しかし、彼は、「やっぱり俺手術は出来ないよ。だって、ヒーリング・ミュージックを人に啓蒙しているんだから、ここは率先して癒しの力に賭けてみるよ……」と言った、とされている。それから1年半の闘病だった。
専門家ではない私には、何もいうことはできない。彼の音楽はとても素晴らしいものだった。だが、その素晴らしい音楽を持ってしても、人間の寿命は、それほど簡単には左右することができないようだ。
当ブログは、iPod→喜多郎→富実夫、と来たところだが、ここで、彼の音楽をゆっくり味わいながら、もうすこし、音に世界を広げてみたいと思う。
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「美・ヒーリング・フォー・ボディ」 ヒーリングミュージック「目覚め」シリーズ 1
宮下富実夫(MIYASHITA FUMIO) 1997/05 パイオニアLDC CD 関連リスト
愛 (8:51) 出会 (9:49) 自分 (9:05) 地球 (9:26) 宇宙 (8:52)
Vol.3 No.0706★★★☆☆
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「心・ヒーリング・フォー・スピリット」
宮下富実夫(MIYASHITA FUMIO) 1997/05 パイオニアLDC CD 関連リスト
あいするあなたへ (6:28) やすらぎのとびら (7:52) 聖なる森のうた (7:07) 心の静寂 (5:26) ほほえみのうた (6:42) 誕生のよろこび (6:43) 祝福の風 (8:24) 地球賛歌 (7:21) MP3
Vol.3 No.0705★★★★☆
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「 やすらかな眠りの中で~life in dream~」 ミュージック・セラピーCDアルバム
宮下富実夫 1999/05 エイベックス・マーケティング CD1枚 関連リスト
サンシャイン (7:03) グッド・タイムス (8:02) フリーダム (6:48) フラワーズ (8:12) デイドリーム (6:47) オアシス (6:51) アセンション (5:02) 試聴する
Vol.3 No.0702★★★★★
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「癒しの音を求めて」
宮下富実夫 1999/06 春秋社 単行本 p211
Vol.3 No.0699★★★★★
図書館ネットワークの視聴覚資料の使い方が便利になったことと、iPodが手に入ったことで、いきなりCD音楽を聴くことが多くなった。まずは手元に転がっていたCDを聴き始めたが、次に図書館に枚数が揃っていそうな喜多郎をひととおり聞いてみた。そして、タンジェリン・ドリームや宮下富実夫を聴き始めたところだ。
この本は彼のCDを聴きながら、読んだ。せっかくだから、彼のリストを作っておく。
宮下富実夫関連リスト(工事中)
「瞑想 MEISOU」 CD 1991
「自然」 CD 1991
「誕生」 CD 1991
「日本の美」 CD 1991
「舞」 CD 1991
「平安」 CD 1991
「やすらぎ」 CD 1991
「MU-LEGEND OF LEMURIA 第1章 創造編」 ビデオ 1992
「MU-LEGEND OF LEMURIA 第2章 太陽編」 ビデオ 1992
「MU-LEGEND OF LEMURIA 第3章 月光編」 ビデオ 1992
「セドナ ウインド」 CD 1993
「オルカ シンフォニー」 CD 1994
「天使のささやき」 CD 1995
「心・ヒーリング・フォー・スピリット」 CD 1997/05
「美・ヒーリング・フォー・ボディー」 CD 1997/05
「ヒーリングライフ」 人と地球を癒す音 1998/08 春秋社
「開放」 開放瞑想 CD 1998/12
「ひらめき」 アジュナー瞑想 CD 1998/12
「自然回帰」 退行瞑想 CD 1998/12
「美癒」 CD 1998
「カエリタ」 CD 1998
「供音」 CD 1998
「静寂音:ミュージックセラピー聴く薬Ⅴ」 CD 1998
「さわやかな目覚めとともに」 CD 1999/00
「やすらかな眠りの中で」 CD 1999/05
「癒しの音を求めて」 単行本 春秋社 1999/06
「リズム絶対主義」 単行本 扶桑社 2000/12
「こころのくすり -- Vol.1 : ベスト・コレクション」 2000
「眠りのベスト」 CD 2001/04
「生命 : マタニティ・ヒーリング」 2001
「目覚め」ベストセレクション・オブ・ヒーリング CD 2002/01
「快眠」 ベストセレクション・オブ・ヒーリング CD 2002/01
フミオの名前は、一番最初に1985年に天河に行ったときに、宮司さんから聞いた。その後、特に気に留めることもなく、どんな顔の人物かも知らなかった。大体の経緯や音楽性は知っていたが、あまり距離をつめることはなかった。
ファーイースト・ファミリーバンド当時の写真が掲載されている。右から3番目が宮下富実夫、右から2番目が喜多郎。 p4
1949年1月6日生。最初にバンド「グローリーズ」を組んだのが1965年頃。1970年、ミュージカル「ヘアー」日本版参加。1973~6年「ファーイースト・ファミリーバンド」。1981年、天河神社に行く。その後、ヒーリング・ミュージック感を深めながら、2003年、肺がんで死亡。享年54歳。
本書は1995年「天使のいやし」(金花舎」に、大幅に加筆した再刊本とのこと。
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「Meditation In the Marketplace」
<1>はじめに
3・11後、いくつかのカテゴリを経て、また新たなるカテゴリへやってきた。最近、とくに「プロジェクト567」を通過する過程において、自分の日々の仕事を見返す必要を感じた。
だから、「****という生き方」とか、「仕事としての****を考える」とか、「日々の暮らし(仕事編)」とか、そんなカテゴリ名をいろいろ考えてみた。
本来であれば、そちらのほうがふさわしいと思う。しかしながら、自分がやっている仕事は、公共性も必要とされ、守秘義務も強く求められる内容でもあるので、こと細かなことは書くことはできない。書くとすれば、いずれ小説風にとか、匿名、比喩を連発するなかで、曖昧とした事としか書けなくなる可能性がある。
ここは、思いいっきりタイトルを「Meditation in the Marketplace」と外しておいて、一度、そこのところに光を当ててみようと思う。これまでも、散発的に、何度か試みてはきた。しかし、どうもうまくいかない。
最終的にはうまくいかなくて構わない。仕事は仕事としてうまく回っているわけだし、ブログはブログとして独立した機能であり、なにも仕事とブログが連動する必要はない。ただ、この時点で、自らの日々の仕事を見つめておくことは、自らのリアリティを煮詰めるのに、おおいに役立ってくれるはずだ。
あるいは、ここでこの作業をやっておくことは、今後の当ブログの展開に微妙に影響がでてくるに違いない。より原寸大にものごとをつかめるようになるはずだ。しかもさらには、結局は、Meditationへと収束されているのであれば、やってみるだけの価値はあるだろう。
いつものように、まずは始めてみよう。そして、いつものように、自分なりにわかって、さっさと店じまい、っていう手も、まんざら悪くあるまい。
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<41>「プロジェクト567」カテゴリについて
直感的に始まったこのカテゴリ、そもそも文字化できない不合理性を多く含んだシリーズではあったが、まぁ、よくここまできた、というべきであろう。
七つのキーワードは、一つの言葉に収束し、七冊の本は一冊に収束し、七つのステージは、たった一つの大地へと立ち帰った。
読書ブログとして、再読したいこのカテゴリこの三冊は次の通り。
「翁童論」 子どもと老人の精神誌 鎌田 東二 1988/5
「3・11とグローカルデザイン」 世界建築会議からのメッセージ 3・11 and Glocal Design A message from the UIA 日本建築家協会・デザイン部会/編著 2012/03
「アティーシャの知恵の書」(上) The Book of Wisdom, Vol 1チベットの覚者を語る OSHO/スワミ・ボーディ・デヴァヤナ 2012/03
「翁童論」は、前カテゴリからの継続テーマと考えることができる。
書かれた期間は2012/4/19~5/26。
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「プロジェクト567」
<完>
一応、ここは、<完>として、このシリーズを閉じておく。直感的なシリーズであったうえに、さらに、直感的に結論も見えてしまった。その円環は、それほど大きなものではなかった。目に見えて小さかった。
しかし、もっている意味は重い。この種は、今後、時間をかけて熟成されるだろう。いずれ、別な形で、新しく表現される。
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<2>よりつづく .
.
.
.
「瞑想―祝祭の芸術」 <3>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1981/03 めるくまーる 単行本 440ページ
プロジェクト567の中で、とくに後半の部分で読まれるべきは、こちらの本であった。実際読み進めているのだが、メモすることが難しくなる。
今は、読み進めている、ということだけをメモしておこう。
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「ザ・グレーティスト 喜多郎」
喜多郎 1990 サウンド・デザイン・レコード CD 喜多郎関連リスト
キャラバンサライ シルクロードのテーマ 夢追い 霊峰・来迎 マレーの星 自由への旅立ち 砂漠の残照 歓喜 ロシアへの想い
Vol.3 No.0698★★★★☆
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「プロジェクト567」編
「翁童論」 子どもと老人の精神誌
鎌田 東二 1988/5 ノマド叢書 新曜社 和書 556p
「3・11とグローカルデザイン」 世界建築会議からのメッセージ 3・11 and Glocal Design A message from the UIA
日本建築家協会・デザイン部会/編著 2012/03 鹿島出版会 単行本 167p
「アティーシャの知恵の書」(上) The Book of Wisdom, Vol 1チベットの覚者を語る
OSHO/スワミ・ボーディ・デヴァヤナ 2012/03 市民出版社 590p
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「四国八十八か所」喜多郎ベストセレクション
喜多郎 1999 ドーモレコード・ジャパン CD 喜多郎関連リスト
飛天 : テレビ・バージョン 精霊 オアシス 嘆 シルクロード 伝説路 恋慕 ザ・フィールド 饗宴 菩提樹 風の声
★★★★★
図書館所蔵のCDを一枚づつ聞いてみた。喜多郎の曲も20数枚あり、これほどまで多く所蔵されているか、と驚きもするが、音楽情報の整理の仕方もなかなか難しい。発表年代と、発売年代が一致しなかったり、編集版や、ベスト版があったりする。
ひととおり聞いたあとは、また、機会をあらためて、ゆっくり聞き直し、メモも、もう少し多く残しておきたい。このCDも、「空海の旅」シリーズと重なるのかどうか、まだ、よく調べていない。
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「プレムバヴェシュと孫たちの対話」編
「雪わたり」ミキハウスの絵本
宮沢賢治/方緒良 1991/11 三起商行 絵本
「禅マインド ビギナ-ズ・マインド」
鈴木俊隆/松永太郎 2010/08 サンガ 単行本 236p
「トワイライト・フリークス」ー黄昏の対抗文化人たち
山田 塊也 (著) 2001/11 ビレッジプレス 単行本: 250p
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「地球人スピリット宣言草稿」編
「スティーブ・ジョブズとアップルのDNA」Think different.なぜ彼らは成功したのか?
大谷和利 2011/12 マイナビ 単行本 207p
「アラブの春は終わらない」
タハール・ベン・ジェルーン/齋藤可津子 2011/12 河出書房新社 単行本 156p
「英語で読み解く賢治の世界」 岩波ジュニア新書
ロジャ-・パルバ-ス/上杉隼人 2008/06 岩波書店 新書 212p
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「センダード2011」編
「宮澤賢治イーハトヴ学事典」
天沢 退二郎 (編集), 金子 務 (編集), 鈴木 貞美 (編集) 2010/11 弘文堂 単行本: 687p
「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<1>
長島榮一 2009/02 同成社 全集・双書 185p
「十二支考 1」 (東洋文庫 215)
南方 熊楠 (著), 飯倉 照平 1972/08 平凡社 新書: 342p
Vol.3 No.0546★★★★★
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「東日本大震災 あの時、岩沼では…。」 -50人の証言-
「東日本大震災 あの時、岩沼では…。」編集委員会 2012/3 国井印刷(宮城県岩沼市) 単行本 p259
Vol.3 No.0696★★★★★
小齋誠進写真集「その時、閖上は」(2011/08 有限会社印刷センター)を連想するようなタイトル。閖上と岩沼は、一連なりの地域であり、殆ど同じ被災状況にあった。前書は、個人の、しかも写真集なので、自費出版に近い形とは言え、比較的に早期に発行された。
こちらは、同じ地元の印刷会社の殆ど自費出版という形であるが、文集であり、また多くの人々の文章をまとめた、ということで、約1年弱の準備期間を必要とした。アトランダムに、子どもから老人まで、行政から学校、施設関係者、地元企業など、さまざまな形で地域にかかわる人びとの体験記録が収録されている。
「あの時」、「その時」と来ると、思い出すのは、飯沼勇義「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」(2011/6鳥影社)である。あの時、その時、その日、この連鎖は、いかに、3・11という大災害が、多くの人々の人生上にふりかかったかを物語っている。この三冊とも、同じ地域のことを語っている。
飯沼勇義には、「仙台平野の歴史津波~巨大津波が仙台平野を襲う!」(1995/09 宝文堂)がある。誰も予想しなかった津波とは言うけれど、ひとり警鐘を鳴らし続けた男がここにいる。出版当時、当時の藤井黎・仙台市長、浅野史郎・宮城県知事への陳情書として出された、この在野の研究書を、まともに気にとめる人はいなかった。
初版も地元の出版社が発行したが、3・11後、にわかにこの書が話題になり、みごと、地元の印刷会社が復刻(2011/09 本田印刷出版部)にこぎつけた。
被災地の写真集に目を通すにも心痛めるが、文集となると、なお、気が重くなることも多い。ましてや、宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」(2011/08 岩波書店)が言うように、本当の被災者、もっとも言葉を失った人々は、写真も文集も残すことができない。そのことを思い起こすと、一冊二冊の記録など、なんの役に立つのか、という疑念さえ浮かぶ。
しかしながら、やはり、後世のためにも、あの日、あの時、あのことを忘れてはならないのだ。なんらかの形で記録し、伝えていかなければならない。そのような背景の中で、この本は、地元の有志による意識の高まりによってできた一冊と言える。
個人的には、岩沼は極めて近い地元である。親戚もあり友人もある。子ども時代から遊んだ海岸線、仙台空港、田園風景。あるいは、Osho大使のシャルノの生家のある地域でもある。その寺島地区の人々の文章も多く収められていることからも、この本を、とても他人ごととしては読めなかった。
地域の一日も早い復興を願いながら、命を落とされた人々の冥福をお祈りいたします。合掌
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「プロジェクト567」
<12>収束に向けて
気がついてみれば、カテゴリとしての「プロジェクト567」も残すところ10回ほどの書き込みスペースだけとなってしまった。かなりの問題意識をもっていたつもりではあったが、探ってみれば、結局はおちつくところにおちつくこととなり、物事はすんなりと収束に向かいつつある。
我が身の56歳と7ヵ月から半年間に起こったことを、7つのキーワードにはめてみれば、ひとつひとつが大事なことでもあり、また、大いなる挑戦-黄金の未来に繋げてみれば、具体的に、日々何をしていくべきかが、自然と分かる仕組みになっている。
つまりは、まずここから始めよう、へと結局は戻ってくるのである。そして、それらをまとめれば、またまた、大いなる挑戦-黄金の未来につながる、ということになる。
プロジェクト567とは、日々の生活のなかで、常に問題意識を持ちつつ、覚めて生きていくことによって、未来へと続いていく、ということである。あるいは、それしかない。
これらを細かく分析的に、網羅的に演繹しておこうと思うと、無理がでてくる。ここは自然体で過ごすことが肝要だ。
生きている。3・11後のセンダードに、日々の生活をしている。生業を与えられ、家族を与えられ、それなりの健康を与えられ、それをよしとして、朝に起き、昼に動き、夜に眠る。いま、ここに生きている。その中に充足していくことこそ、プロジェクト567の本体である。
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「癒される旅」―極道(ヤクザ)の娘が自分探し <1>
田岡 由伎 1999/10 講談社 単行本: 241p
Vol.3 No.0695★☆☆☆☆
ちょっと早めの父の日プレゼントでiPodnanoなるものをもらった。早い話が、今流ウォークマンだが、こちとら、音楽は嫌いではないのだが、無くても生きていける人間なので、あまりこれまで音楽には頓着してこなかった。
しかし、最近の図書館の視聴覚資料のオープン度もかなりあがっており、デバイスがあり、ソフトがある、となれば、これはすこし「音楽」にも手を伸ばしてみるチャンスかもしれないぞ、とばかり、まずは喜多郎おっかけを始めてみることにした。
聴けば聴くほど興味深く、探せば探すほど、いろいろなものがでてくる。なかなかいい遊びをみつけたものだ、とは思うが、さてさて、喜多郎も20枚ほどCDを聴いてくると、飽きてくる。すこし、音楽以外の面から、喜多郎にアプローチしよう、と思い立った。
そう言えば、喜多郎は、たしか田岡一雄の娘と結婚したのだった、そう思い出して、喜多郎側から情報を探してみたのだが、あまりあるようには思えない。そこで、嫁さんのほうから探してみたら、やっぱり、あった。
この方は、何冊か本を出しているようだが、最初1984年に「さようなら お父さんの石けん箱」(サンケイ出版)を出している。その後、それに加筆訂正したものを「お父さんの石けん箱」として1991/03にベストセラーズ社から出版している。
まずはこの加筆版を手に取ったのだが、当ブログとしては、それをメモとして残すほどネタに不足していないので、素通りすることにした。それほど、内容がひどかった、ということになる。ちょこっと、喜多郎の名前がでてくるが、その交際の経緯などはなにも書いていない。
そんなわけで、こちらの本も、さっさと通り過ぎようとしたところ、喜多郎との経緯が細かく書いてあった。書いてあるというより、この本の本体の骨子となっている感さえある。この部分はかなり興味深く読ませてもらった。
83年に出会って、84年に結婚し90年に離婚した、ということを、今回初めて知った。今でもこの二人は一緒にいるのではなかろうか、と勝手に想像していたが、実際には、結婚生活といえるほどのものは、1年間ほどで、一子をもうけたものの、実質的には家庭といえるほどのものはなかったようだ。
ずいぶん昔のことだが、古い友人の年上のガールフレンドが神戸出身で、高校時代に田岡一雄の息子と同級だった、と聞いたことがある。彼は生徒会長で、PTA会長は田岡一雄が務めていたとのことだった。へぇ~そんなこともあるものか、とは思ったが、彼ら一族が、まったく雲の上の人々、ということでもなさそうだ。ごく身近に存在している人々なのであった。
この本の、その経緯を読んでいて、あ~オンナは怖いなぁ、と思った。いや別にバックがどうのこうのというのではない。オンナというやつは、あれやこれやの原寸大の人間模様を、あたりかまわず暴露してしまう。個人情報保護法など、おかまいなしである(笑)。
しかしまぁ、そのような、ぶっちゃけ話を聞くことができることによって、喜多郎の音世界の陰影も深まろうということだから、それはそれなりに良い効果を生んでいることにはなるのだろうが。
この方はカウンセラーを自称されているようではあるが、少なくも、私は、この方のクライエントにはならないだろう。もちろん、他人にも勧めはしない。
逆に、原寸大の喜多郎が活写されていたために、より親近感を持つことができた。男として、彼が立派であるかあるいはそうでないかは、私には分からない。だが、同年代の、ともすれば、人間関係が何次かの隔たりですぐ繋がってしまうような位置にあったカップルとして、ああ、そうだろうなぁ、やっぱりなぁ、という妙な共感が湧いてくる。
ここで当ブログがメモしておくべきことは、反社会的勢力がどうのとか、結婚制度がどうたらとか、カウンセリングの効能とかではない。喜多郎の、ともすれば、「翼」を強調するあまり、「根」が見えなくなってしまうような音世界の中で、喜多郎にもまた、このような根っこがあったんだなぁ、ということをこそ、メモしておくべきだ、ということだ。
この本の中では事実ばかりではなく、多少はデフォルメされているところもあるだろうし、喜多郎にも言い分があるに違いない。途中で、喜多郎の友人としてセブンの名前がでてきて笑った。(後記 著者の友人としてビアンカも登場する。2016/07/6追記)
なにはともあれだ、このようなエピソードを抱えつつ、喜多郎の音世界は流れ続けていることを確認した。
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「シルクロード ~絲綢之路~II」NHK特集「シルクロード」オリジナル・サウンドトラック
喜多郎/作曲・演奏 1980ポニーキャニオン CD 喜多郎関連リスト
静けさの中で(はるかなるタクラマカン砂漠) 流るる砂 生命の泉 絲綢之路~黒水城の幻想(SILVER MOON) 神秘なる砂の舞(ローラン) 40080年 時空間 再生(かぎりない塩沢) 夜明け 天山
Vol.3 No.0692★★★★★
今回、始めて、喜多郎に「時空間」という曲があることを知った。また「40080年」という数え方も、スナイダーや部族が使っていたこと思いだした。
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「失われた地平線」
河出文庫ジェームズ・ヒルトン/池央耿 2011/09 河出書房新社 文庫 267p
Vol.3 No.0691★★★★★
この本もまた、3・11後の2011/09という絶妙なタイミングで発行されている。翻訳にそうとうな時間もかかることだろうし、3・11以前から企画されていたものだろうが、それにしても、実に絶妙だ、と思う。
以前に読んだ「失われた地平線」(1959/12新潮社)は、増野正衛・訳。すでに廃版になっており、蔵書している図書館もぐっとすくなかった。再刊の希望も多かったので、これで再びブームを起こすかもしれない。
本書は、シャングリ・ラの語源となった小説。ストーリーは極めて簡潔で、読んでいて飽きない。登場人物たちの心の動きが見事に描き分けられている。
映画も二種類でているらしいが、当ブログで観賞したのは、図書館所蔵のロナルド・コールマンの「失はれた地平線」(1937)。失われた映像をスチール写真で穴埋めしてのレトロ感が、ますますリアリティを生み出す、という効果があった。二作目の映画もあるはずであるが、まだ探しあてていない。
人間の心の奥深くにある理想郷。それは、集合超意識の中にあるに違いない。それがどうしても、ヒマラヤやチベットなどに行き着くのはどうしてなのだろうか。いかにも、求められるモデルをきちんと提供しているような、理想的な作品と言える。
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「スーフィー」 イスラームの神秘主義者たち
ティエリー・ザルコンヌ/遠藤ゆかり 2011/08 創元社 「知の再発見」双書 142p
Vol.3 No.0690★★★★★
3・11後の夏に、新着図書を検索していて、このタイトルを発見した時には、ギョッとした。それはある意味、ちょうど同じ月に発行された「チベット密教瞑想入門」のタイトルを発見した時と同じようなショックだった。このドサクサの中にあっても、探究は探究として、平然と行われている。
スーフィーはOshoが好んで行う講話の題材である。タントラ、禅、ハシディズムなど、大きな宗教の流れにあっても、さらにその底流に潜む神秘主義に光を当てたOshoらしいテーマである。
1977年にプーナを訪れた時には、毎日のようにブッダ・ホールで、スーフィー・ダンスが行われていた。それは、西洋からやってきたミュージシャンたちが中心となって、数百人のサニヤシン達が輪になって踊る、まるでフォークダンスのようなものだった。
そもそもスーフィーダンスは、フォークダンスではないのだが、西洋社会でカチカチに固まってしまった来訪者たちの、実も心もほぐすには、なかなかOshoアシュラムのスーフィーダンスは素晴らしいものであった。
その後、このアシュラムにおけるスーフィー・ダンスは、もうすこし本格的になり、「覚醒の舞踏」につらなる方向へと進化したはずだが、詳細は知らない。
この「知の再発見」双書は、当ブログでもこれまで、「ジプシーの謎」、「イースター島の謎」、「チベット」などをめくったことがあるが、新書ほどの大きさながら、カラーページがふんだんに取り入れられ、口絵の多さは半端ではない。かなり濃厚なシリーズとなっている。
しかし、このコンパクト=濃厚という組みあわせは、当ブログ好みではあるが、結局は、センターを見つけることができず、けっきょくは、なにかのオカズ的な存在に追いやられてしまうのである。
仏教、キリスト教、イスラム教、という、いわゆる世界三大宗教にあって、とくに西洋社会においては、理解され難く、どちらかといえば排除されがちなイスラム教ではあるが、この勢力を排除しては、地球人スピリットは成り立たない。
イスラムのより深いところにある、このスーフィーの流れを理解してこそ、未来の地球は切り拓かれるであろう。ただ、スーフィーの流れも、この本に現れている通り、実に多岐にわたっており、それらを一望し、ひとまとめにすることはなかなか難しい。
Oshoサニヤシンである当ブログにとっては、Oshoがもっとも信頼する現代のマスターのひとりグルジェフが紹介したような形でのスーフィーを継承していくことが、結局は、もっとも早いスーフィー理解となるだろう。
なかでも重要な人物は、ロシアのゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジェフ(1949没)である。彼は、中央アジアのナクシュバンディー教団やイスタンプールのメヴレヴィー教団で体験したスーフィズムに東洋のキリスト教神秘主義と西洋の神秘学をくみあわせ、各地に伝わるさまざまな踊りを「ムーヴメンツ」と呼ばれる神聖舞踏にまとめあげ、「人間の調和的発展」のための学院を設立した。
1920年代にパリに居を定めると、1923年12月にはパリのシャンゼリゼ劇場で「ムーブメンツ」の実演を行った。彼の自伝は、ピーター・ブルック監督によって、「注目すべき人々との出会い」という題名で1979年に映画化されている。p096「マグリブから中国、インドネシアまで」
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「デイライト・ムーンライト LIVE IN 薬師寺」 <1>
喜多郎(KITARO) 2006(2002?)ドリーミュージック CD DVD 喜多郎関連リスト
Monk’s introduction 太始〜創造 キャラバンサライ シルクロード マグマ マーキュリー 神秘の水 エストレイア 恋慕 和 フリーフライト Heaven & Earth
Vol.3 No.0689★★★★★
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「ライヴ・イン・アメリカ / 喜多郎」
喜多郎 1991 ドーモレコード・ジャパン CD 喜多郎関連リスト
大始 創造 恋慕 嘆 響宴 黎明 シルクロード キャラバンサライ コズミック・ラブ ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット
Vol.3 No.0686★★★★★
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「シンキング・オブ・ユー 」 第43回(2001年)グラミー賞最優秀ニューエイジ・アルバム受賞作品
喜多郎 2000 ドーモレコード・ジャパン CD 喜多郎関連リスト
Estrella Mercury Cosmic wave Harmony of the forest Fiesta Thinking of you Spirit of water Stream Space II Del mar
Vol.3 No.0685★★★★★
喜多郎のまわりを取り巻く自然環境とのコレボレーションともいえる「シルクロード」の頃のサウンドトラックに似た、優しさに満ちた色彩豊かなアルバム。2000年リリース作品。
と、図書館のリストには紹介されていた。ひとつひとつが骨太であるが、たしかにソフトなタッチに仕上がっている。
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「Peace On Earth 」
喜多郎 1996 ポニーキャニオン CD 喜多郎関連リスト
主よ, 人の望みの喜びよ 聖しこの夜 あらののはてに もろびとこぞりて リトル・ドラマー・ボーイ ジングルベル ローザ・ミスティカ ひとにはみめぐみ ほしかげさやけき アラ・ナニタ・ナナ 聖夜 ザ・グレート・スピリット
Vol.3 No.0684★★★★☆
クリスマス音楽。
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「『禅』の世界へ」 日経おとなのoff 2012年6月号
日経おとなのOFF編集部 2012/05 雑誌
Vol.3 No.0683★★★★★
電車の時間待ちで飛び込んだ書店で、パラパラめくった。これがなんともカッコイイ。「スティーブ・ジョブズと『禅』 ~伝説のスピーチに見る禅の思想~」なんてところが、なんとも心魅かれる。ゆっくり読みたかったが、時間が迫ってきて、あとで見ようと思った。
後日、次に入った書店では残念ながら、売り切れなのか在庫がなかった。さらに次に図書館に行ったら、ちゃんと存在したが、なにせ新刊号なので、来月にならないと借りだせない。ここでもまた立ち読みとなったが、やっぱり面白い。
さぁ、別な書店に走るか、来月まで待つか。来月まで待って図書館から借りて読んだとしても、結局は、自分の蔵書にしたいから、きっと買うだろうなぁ。
そんな、自分の心の動きを見ながら、なんで、「あんなのを」欲しがるんだろうと、ちょっといぶかりつつある自分。数百円と極めて安い。さっさと買って、飽きたら、廃棄物で出せばいいじゃないか。でも、なぜか踏み切らない自分がいる。
禅だけなら、買わないだろう。スティーブ・ジョブズ、だけでも買わないだろう。禅とスティーブ・ジョブズを繋げているところが、この雑誌の今月号の売りだ。
タイトルも「日経おとなのoff」。offなのかよ、と思う。offだから禅なのですか。禅は、onであるべきではないのか。「日経大人のon」の禅の特集なら、もっと価値があるのではないか。
この雑誌、ちょっとカタログ誌みたいで、ちょっとカッコよすぎている。巻頭の「松岡正剛さん特別講義 『禅』とは常ならぬ世を生き抜くメソッド」などというところも、ちょっと気にくわない。
最近(でもないか)では、バーチャルゲーム・セカンドライフをやたらと持ち上げて、あっというまにポシャると、あとは知らんぷり。この人物、悪人だとは思わないが、多少の距離をおいて見ているに越したことはない。
ジョブスが、鈴木俊隆の「Zen Mind, Beginner's Mind」を愛読熟読していたという話は聞いた。あらためて、へぇーと思う。思えば、実に同時代を生きてきた、友人たち世代のひとりであった。
彼がいま亡くなったことと、スマホが新しい潮流になっていることと、タイミングを合わせて、いまやジョブスはブームになっている。その彼が参禅していたとなれば、これは、日本人にとっては、なかなか興味があり、誇らしい部分でもある。
だが、はたと考える。この「『禅』の世界へ」 日経おとなのoff 2012年6月号は、ちょっとエンターテイメントすぎるのではないか。そんなに、キラキラ光らなくてもいいんじゃないか。もっと、スの、地光りでいいのではないか。
この雑誌の禅は、ちょっと造られ過ぎている。そして、もとの伝統としての禅の世界へと退却していこうとしている。ちょっと悪質だな、とさえ思う。ジョブスは、日本の石庭とか、四文字熟語など、関係ないだろう。もっと、現代的にZENをとらえきれなければ、日本の禅は、世界のZENにはなれない。あるいは、この号は、その断末魔とさえいえるのではないか、と思う。
ああ、それにしても、私のこころも、ああ言えば、こう、こう言えば、ああ、と、あちこち、ころろ動くもんだ。
なんであれ、この号は、かっこいい。一冊手元において、なんでカッコイイと思ったのか、あとでゆっくり考えよう。そして、何故に、これではやはりダメなのだ、と感じたのかは、ゆっくりと瞑想するしかないのかな。
でも、やっぱり、買うか買わないかは、まだ決めかねている(笑)。
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「ドリーム」
喜多郎 1993 ドーモレコード・ジャパン CD 喜多郎関連リスト
シンフォニー・オブ・ザ・フォレスト ミステリアス・アイランド レイディ・オブ・ドリームス ア・ドロップ・オブ・サイレンス パッセージ・オブ・ライフ アグリーメント ドリーム・オブ・チャント マジカル・ウェイヴ シンフォニー・オブ・ドリームス アイランド・オブ・ライフ
Vol.3 No.0680★★★★★
思い立って、図書館から借りてくるCD達だが、一枚一枚を楽しむ分には特に問題ないのだが、20数枚にもなれば、軽く自分なりのライブラリーをつくっておきたい。そうして始めてみると、なかなかこれが難しい。
書籍のようなものだと、出版された年代やら出版社は明確になっているが、CDはなかなかそうは簡単にいかない。再版ものや輸入物がある。あるいは廃盤もあって、全部揃えれるのはなかなか難しそうだ。
それに以前のものはLPレコードとか音楽テープなどに収まっているものもあり、現在、にわかにマイブームとなったiPodnanoに取り込もうとすると、以前のソースはなかなか簡単に行きそうにない。
この一枚も、リリースされた年代が確かではないが、アーティストとして制作に加わっているのが、それなりの有名ミュージッシャンだったりする。どのパートが誰の影響か、などと、こまかく聴き分けてみたいものだが、それは、今後のお楽しみということになる。
このタイトル、ドリームは、ちょっとありふれているようにも思うが、曲想は、以前にもまして、重層で、刺激的で、実験的である。
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「西方 シルクロードの旅」
喜多郎 1993 サウンド・デザイン CD 喜多郎関連リスト
吉祥 日暈 憂愁 入江 渡海 霊峰・来迎 歓喜 安寧 無可有 果てしなき旅路
Vol.3 No.0679★★★★★
サウンドデザインよりアメリカ・ゲフィン・レコードと契約し全米でアルバムを発表、’88年にグラミー賞ニュー・エイジ部門にノミネートされた。 解説書より
図書館から借りてくるCDには、ほとんど解説書がついていない。ついていても、アーティストと曲名程度の簡単なものが多い。このCDには、小さいがそれでもそれらしいものがついている。
ある意味で極めて合理的な楽器であるシンセサイザーを駆使しながら、エリントンやサンタナの<キャラヴァン>とはまったく異質の旅を表現し、同時代のドイツのタンジェリン・ドリームやギリシャのヴァンゲリスらとはまったく異なる”非合理的な夢の足跡”を音像化した喜多郎の音楽は、やはり東洋の産物であり、割り切れず、測り切れず、という深遠な美しさを持っていた。
その反西洋的な深遠さが、例えばケルト音楽の非合理ながらも精神力の強さを持つ特異性と同じように、時代に、新鮮に、たち還って来るのに、なんら不思議な点はない。98/08 大伴良則
喜多郎の音楽に聴き入る人はみな、同じような、不思議な旅にひきづり込まれるようだ。この一枚もシルクロードの旅とは銘打ってはいるが、初期的なメロディからは離れている。しかし、そのテンポ、打楽器の少なさは、いわゆるシルクロード流を踏襲している。
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「ザ・ライト・オブ・ザ・スピリット」
喜多郎 1987 ゲフィン CD 喜多郎関連リスト
ミステリアス・インカウンター サウンダネス ザ・フィールド イン・ザ・ビギニング ムーンダンス ハウリング・サンダー ジャーニー・トゥ・ア・ファンタジー
Vol.3 No.0677★★★★★
1987年、いわゆるシルクロード臭から抜けて、喜多郎のさらなる独自性に向けて、大きく歩み出したイメージ。マーケットを世界に向けて、曲作り、タイトルネーミングが行われている。音階のスィートな感じ、軽く抜けて行く透明感は、依然として、喜多郎のパーソナリティとして確立している。
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「フクシマは世界を変えたか」ヨーロッパの脱原発事情 <1>
片野優 2012/04 河出書房新社 単行本 295p
Vol.3 No.0676★★★★★
フクシマとカタカナで書かれることには敏感になってしまっている当ブログだが、この本は、決してジャーナリステッィクな目新しさや、揶揄した姿勢でその単語を使っているわけではない。
内容は大きく三つに分かれる。ひとつは、スリーマイル島や、チェルノブイリに限らず、ヨーロッパを初めとする世界の原発では、昔から事故は続いていて、隠蔽されてきたものも多くある、ということ。これらの事情をよくこまかく捉えているものだと思うだが、巻末の膨大な資料に裏付けされているのだろうし、著者自身が永くヨーロッパに住んで、実際にその地を訪れ、インタビューもしているという根拠がある。
二つ目には、今回の3・11における東電原発事故を受けて、実際にヨーロッパでは、特に各国の政府レベルではどのような反応があったか、ということを、国名を上げて列挙する。そしてその国民の反応についても詳しい。
私は、この3・11にあたって、原発よりも、まずは津波事故のほうが目にいったために、原発についてこまかく考えることは、すぐにはできなかった。専門家たちにまかせておけばいいだろうと思っていた。ましてや、ヨーロッパ事情までは、目を配る余裕がなかった。
しかし、一年が経過して、このような形でレポートを読んでみると、日本が置かれている位置、そしてその中で、さらに自分が置かれている立場がすこしづつ透けて見えてくる。なにをどうすべきなのか、逆照射される形になる。
三つめは、この本の良心的なところであるが、原発事故、あるいは3・11に限らず、脱原発エネルギーについてのヨーロッパ事情を伝えていることにある。反・脱原発派においても、では打開策はどうするか、というと意見が分かれることが多い。
原発を即時停止しても問題ない。あるいは火力やガスからも脱却すべきだ。代替エネルギーは役に立たない。新しい原発が必要だ。さまざまな意見が錯綜していて、まとまりが悪い。実際、日本に住む一地球人として、はてさて、何が新しい選択肢なのか、と悩むことになる。
それに対して、この本においては、各国の成功しているヨーロッパの脱原発エネルギーについて、詳しく誠実にレポートしている。日本は遅れている。やられたね、と思う。しかし、よくよく考えてみれば、まだまだそう差は大きくない。ほんの数年、数十年の差である。 今回の3・11を契機に、真摯に前向きに考えれば、超えていけることは間違いない。
この本、メモしておきたいところが沢山あるが、メモを残すより、後ほど、さらにキチンと再読したほうがいいだろう。引用は最後の最後の結句の数行だけにしておく。
今回の原発事故は、エネルギー問題を政治や過去の歴史から切り離して、地球レベルで問い直す必要があることを示唆している。また本来エネルギーは、人間の生活を豊かにし、人間を幸福にするための手段である。にもかかわらず、人類は取り返しのつかない過ちを何度も繰り返してしまった。京大原子炉実験所の小出裕章氏の「たかが電気のために」という言葉は、それを端的に表わしている。p288「ヨーロッパで注目の脱原発エネルギー」
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「翁童論」 子どもと老人の精神誌
鎌田 東二 1988/5 ノマド叢書 新曜社 和書 556p
Vol.3 No.0675★★★★★
玄侑宗久との対談集「原子力と宗教 日本人への問い」 (2012/03 角川学芸出版)がなかなか面白かったので、この二人をミニ追っかけしてみようかな、と思った。同時に鴨長明を書いたとする二人の、玄侑宗久の「無常という力 『方丈記』に学ぶ心の在り方」( 2011/11 新潮社)はすぐ読めたが、鎌田の「現代神道論」(2011/11春秋社)とやらはまだ読めていない。
いずれ読むことになるだろうが、あまり急いでいないのは、著者の本は、現代人としての問題意識は共有しながらも、その研究の対象が、国学的であり、ともすればコトダマ的世界に入り込んでいくので、そちらに深入りするのは、ちょっと気おくれするからである。
著書一覧をみながら、彼には「翁童論」があったなと思いだし、ちょっと古くはなっているが、ひとまず目を通すことにした。そもそも、当ブログにおける「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」カテゴリは、この翁童論につらなってくるものである。いや、この翁童論があることをあらかじめ知っていて、そこにつなげたいと思ったのである。
2001年宇宙の旅、稲垣足穂、ニーチェ、宮沢賢治、ナルニア国物語、などなど、同時代人としては、ほとんど同じような感性と問題意識を抱えて生きている内容は、いま読んでも新鮮そのものである。
巻末に再録された「スサノオ論」などに見るように、著者の持ち味は、日本神話にもとづく神道コスモロジーの新解釈だが、この分野に興味をもつ読者には、たまらない魅力ある一冊であり、また稀有な書き手であるといえるだろう。
著者の翁童論は、どうやらシリーズ化されていて4まであるらしいが、さて、それらを、当ブログは追っかけるだろうか。
延々と神道の言霊的世界を長時間旅するには、こちらの体力と気力が足りない。日本神話的にも、このような象徴や解釈があるよ、という紹介程度ならうれしいのだが、深入りはしたくない。当ブログは、もっと広く、もっと軽やかな、地球人スピリットを目ざしたい。
科学、芸術、意識、の三つの分野にわけるとするなら、著者の世界は、芸術の世界であり、文学の世界である。そこから、意識へのベクトルは十分以上にあるのだが、持ち前の教養が邪魔する。
翁が、童子に、還って、円環するのなら、あるいは、童子に、翁が、共存しているとするなら、もっと、無や空に近くてもよいはずである。あるいは、翁と童子、童子と翁、と二分化してしまうことで、どこかに行きつかないもどかしさを内在することとなる。
著者のネーミングではあるだろうが、結局は、翁童、あるいは童翁、は、もっとさらなる真なる単語におきかえられるべきではないのか。当ブログでは、そこを、単純に、人間、と呼び、あるいは、新しい人間、と呼ぶ。あるいは地球人。
翁は男性で、童子は男子、というイメージが強い。婆さんや、女子のイメージが薄い。そこが著者の論旨が、いまいちわかりにくいところである。これでも十分柔らかいとは思うが、もっともっと柔らかくていいのではないか。
もっとわかりやすくて、もっと実践的な、コスモロジーがあっていいのではないだろうか。
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「裸のフクシマ」 原発30km圏内で暮らす
たくきよしみつ 2011/10 講談社 単行本 350p
Vol.3 No.0674★★★★★
著者の本は、2年ほど前に、「テレビが言えない地デジの正体」(2009/09 ベストセラーズ)を一冊読んだことがある。ITやネット関連の著書が多くあり、福島の山中で暮らしているらしい、とは認識していたが、今回あらためてこの人を認識したのは、朝日新聞紙上の「プロメテウスの罠」原始村に住む-福島川内村-漠原人、を読んでいて、主人公のひとりのネット書込みを追っかけてのことだった。
まずは地デジのことだが、我が家でも地デジはどうするか問題ではあったのだが、アンテナはすでに改修済みだったが、テレビはまだまだ使えるのだから、とブラウン管のまま、チューナーだけを準備しておいた。
ところが、今回の3・11で、被災地三県だけは、完全地デジ化が2012年の3月31まで伸び、それまで「堂々」とブラウン管テレビを見ていた。地デジ化後も、このまま突入する覚悟でいたのだが、ああ、これが天の配剤というものだろうか。地デジ化4日目にして、突然、ブラウン管テレビが、プツン、とブラックアウトしてしまったのだ。
無理にチューナーでつないでいたので、加熱でもしたのだろうか。もともとすでに20年近く見てきたテレビだったので、寿命だったのだろうか。いずれにしても、修理するほどの気力もなく、もう、テレビは、ケータイやスマホのワンセグでいいかな、と思っていた。
でも、そうは思っても、家族はさっそく液晶テレビを買ってくることになり、我が家も晴れて、地デジ族に仲間入りしたのであった。遅ればせとはいいながら、きれいだし、大きいし、それに、ブームも過ぎて、結構安かったらしい。ということで、この問題もまずは、解決してしまった我が家であった。
さて、そんなIT関連に造詣が深い著者ではあるが、今回は、原発から25キロという距離にある山中での体験から、この一冊が書かれることになった。
一口に3・11と言ってしまうが、沿岸部の被害と、原発周辺の被害では大きく違う。この本では、沿岸部の被害はほとんど登場することなく、放射線被害についても、とくに原発に限りなく近い福島圏内の事情について書かれている。
獏原人や、そこに縁のあった、川内村の大工の愛ちゃんのことなども登場する。この辺に関心のある読者には必読の書と言える。
同じ福島でも、生まれ育った寺の住職をしている玄侑宗久と、モノ書きを専門としている著者では、地元を見る目が多少違う。前者は地元の人間を性善説のように取り扱うが、後者は、もっと現実的に、同じ福島の地元の人々をも、優しくも鋭いまなざしで直視する。
すでに2011年の9月に出された本なので、それ以降、地元の状況は大きく変わっているかもしれない。よりはっきりしたテーマもあり、変わりようのないテーマもある。その中にあって、福島にいて、福島を書き続けるライターたちの存在も、ぜひとも必要だな、と感じた。
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「シルクロード天竺」 NHK特集オリジナル・サウンドトラックより
喜多郎 1983 CD 喜多郎関連リスト
朝もや キャラバン・サライ マウンテン・ストリーム 祈り ガンガ 砂漠の残照 菩提樹 ムーン・スター
Vol.3 No.0673★★★★★
番組としての「シルクロード」は2年半を経過して、新しいシリーズになった。したがってサウンドトラックのイメージも、それまでの曲想を残しつつ、半分入れ替わって、モダンになったような感じがする。どこか、車のモデルチェンジにさも似ている。
もともとテレビを見るような生活を送っていなかったので、この番組を追いかけることはなかった。たまたまテレビを付けた時に、この番組をやっていたら、最後まで付き合った、という程度だ。だから、テレビ番組としてのイメージはほとんどない。
それにしても、お茶の間のテレビとは、かなり違った次元にありそうな喜多郎の音世界なのに、みごとにそのアンバランスのバランスをとって浸透していったのは見事であったというべきだろう。
流れるような旋律に加えて、ドラムや打楽器風のリズムが強調されはじまった。
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「敦煌」 NHK特集「シルクロード」サウンドトラック
喜多郎 1981 CD 喜多郎関連リスト
風神 蜃気楼 巡礼の旅 砂の神 敦煌からの想い 飛翔 曼陀羅 Tao 巡礼の旅II
Vol.3 No.0672★★★★☆
長期にわたるNHK番組のサウンドトラックということで、ひとつのイメージを壊すことができない。ほとんど、一連なりの音楽のように聞こえてしまう。
聴いているほうも、一曲一曲として聴いてはいないので、曲名など、あってないようなものだ。
カバーのデザインもなんともおとぎ話の世界のようだ。この時代においては、中国やインドは、まだまだ仏教の色濃いイメージでとらえられる面があった。あるいはそうあってほしい、という幻想があった。
そう言えば、大晦日の夜に、NHKで喜多郎がライブで演奏したのは1981年の暮れのことだっただろうか・・・。
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「シルクロード」(絲綢之路) NHK特集「シルクロード」サウンドトラック
喜多郎(KITARO) 1980 (CD1枚) ・総曲数: 12(アルバム) 喜多郎関連リスト
糸綢之路 鐘楼 天地創造神 遙かなる大河 長城 飛天 シルクロード幻想 光と影 西に向って 時の流れ 菩薩 永遠の路
Vol.3 No.0671★★★★★
この一枚を聴かないことには喜多郎を聴いたことにはならない。喜多郎を一発でイメージしてしまったのが、この一枚。私は、この番組が放映されていたころは、病院で半年間の療養生活を送っていた。
病室の中年の小父さんからこの番組を教えてもらい、え、喜多郎が曲をつけているじゃないか、と、なんだか誇らしい気分になった。
夜8時の、誰もいなくなった病院の待合室で、ひとり、このテレビ番組を見ていた時代が、なんとも懐かしい。
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「イン・パースン」
喜多郎 1980 形式 CD 喜多郎関連リスト
プロローグ 無限水 西への想い 絲綢之路~黒水城の幻想(Silver moon) 静けさ 鐘楼 朝の祈り 天山 九月十八日 神秘なる砂の舞(ローラン)
Vol.3 No.0670★★★☆☆
この一枚はすこし静かさを強調しすぎているような感じもする。喜多郎の曲はどれを聴いても、結局は同じに聞こえてしまうトータリティがあるとは言え、初期的には、いろいろ手さぐりの試行錯誤があったに違いない。
私はインドから帰ってきたばかりだったし、兄は中国へ旅してきた。あの頃の時代性の中で、このような、瞑想性を強調したアルバムが登場してきたのだから、衝撃的であった。
アルバムのデザインも、なんとも時代がかっている。
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「OASIS 喜多郎 」
喜多郎 1979 CD ポニーキャニオン 喜多郎関連リスト
朝の祈り モロリズム 新たなる旅路 宇宙エネルギー 無限水 月の光 地平線 自然の香り 無邪気 オアシス
Vol.3 No.0669★★★★★
ちょっと早めの父の日プレゼントとして、iPod-nanoなるものを子供たちからもらった。このところ結構まじめに孫の面倒をみたから、そのお礼も兼ねているらしい。
それにしても、このビスケット一枚くらいの大きさでよくもまぁ、これだけの容量があるものだと、びっくり。以前から、iTuneなる音楽管理ソフトは自分のパソコンに入れておいたが、ぜんぜん活用していなかった。
手元のCDも含めて、2.3手始めに聴いてはみたが、昨年あたりから、図書館の視聴覚資料も使い勝手もそうとうによくなったので、この辺で、音楽CDを借り出して聞いてみようかな。
ここはひとつ喜多郎から始めてみようか、とウィキペィアからのコピーで喜多郎関連リストをつくった。知っているつもりの幾多郎だったが、よくもこれだけの曲づくりをしたものだ。
リストの最初にある「天界」や「大地」は当時聞いているが、残念ながら図書館にはない。もっとも古いのが、この「オアシス」だ。それでも、「シルクロード」で大爆発する前の喜多郎の成熟度が見てとれる。
喜多郎を聴くなら、ファーイースト・ファミリーバンド、宮下富美夫、タンジェリン・ドリーム、クラウツ・シュルツェ、あるいは富田勲、ヤマシタツトム、さらにはキングクリムゾン、グレイトフルデッド、ピンクフロイド、などなどと合わせて聴きたい。
70年代の、最初期の喜多郎は、当時、瞑想センターの事務所を置かせてもらっていた音楽喫茶のマスターから聴かせてもらった。当時はまだCDなどなく、LPレコードだった。ウォークマンも出がけだった。イラストの長岡秀星の仕事も素晴らしい。
一通り聴いたあとに、彼もまた、OSHOのサニヤシンで、スワミ・デヴァ・セトウの名前を持っていることを知った。デヴァは神聖という意味で、セトウは橋を意味する。神聖なるものへの橋、である。
彼がサニヤシンになった経緯は、80年代になってでた本で、確か「喜多郎」という一冊に記してあったはずだが、わが書庫からはすぐ見つからず、図書館でもまだみつけていない。そのうちでてくるだろう。
iPodとイヤフォンで聴く音楽は、ベストな音質とは言い難いが、お手軽に、いつでも聴けるという意味では、とても音楽を身近なものに感じさせてくれる。いろいろと色付けをしてしまう我が音楽観であるが、喜多郎は、いきなりお茶の間に登場したプログレッシブなミュージッシャンだった。
それもこれも、あの「シルクロード」というNHKの番組の音楽を担当したのがきっかけだったが、当時の中国ブームや、石坂浩二のナレーションと相まって、壮大な夢をかきたててくれたものだった。いまや世界のKITAROである。
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喜多郎関連リスト (工事中)
1978年 天界
1979年 大地
1979年 OASIS
1980年 イン・パースン
1980年 シルクロード・絲綢之路(NHK特集「シルクロード」サウンドトラック)
1980年 シルクロード・絲綢之路 II(NHK特集「シルクロード」サウンドトラック)
1980年 「喜多郎-マインド・ミュージックの世界」1981/06 講談社
1981年 敦煌
1981年 氣(NHK特集「喜多郎&秀星」サウンドトラック)
1981/03 「瞑想ー祝祭の芸術」(めるくまーる)腰巻紹介文
1982年 MILLENNIA (「1000年女王」サウンドトラック・日本未発売)
1983年 シルクロード天竺
1983年 亜細亜
1984年 亜細亜・シルクロードの旅 〜東南アジア ツアーLIVE in 1984
1986年 天空
1986年 飛雲・シルクロードの旅
1987年 THE LIGHT OF THE SPIRIT
1988年 THESE 10 YEARS (通常のアルミCD版と ゴールドCD版の2種類あり)
1988年 トヨタ・スープラCM曲(曲名未発表)
1990年 古事記
1990年 喜多郎 ザ・グレーティスト KITARO THE GREATEST
1991年 Live in America
1992年 喜多郎の十五少女漂流記
1993年 西方 シルクロードの旅
1993年 ドリーム
1993年 天と地 オリジナル・サウンドトラック
1994年 MANDALA
1995年 an enchanted evening 天空への響き Live in USA
1996年 Peace on Earth
1997年 サーキュ・インジュヌー
1997年 宋家の三姉妹 (ランディ・ミラーと共同)
1998年 GAIA-ONBASHIRA
1999年 四国八十八か所 喜多郎ベストセレクション
1999年 ノアの箱舟
1999年 「癒される旅」―極道(ヤクザ)の娘が自分探し 田岡 由伎1999/10 講談社
2000年 Thinking of You 2001年グラミー賞最優秀ニューエイジ・アルバム受賞作品
2000年 エンシェント (NHK開局75周年記念番組「四大文明」サウンドトラック)
2001年 KITARO
2001年 永遠の時を〜An Ancient Journey
2003年 空海の旅
2003年 獣兵衛忍風帖 龍宝玉篇
2004年 水に祈りて
2005年 空海の旅2
2005年 The Best of 10 YEARS (1988年の「THESE 10 YEARS」と 同一収録内容の再発品)
2006年 スピリチュアル・ガーデン
2006年 ライブ・イン・薬師寺 ベスト・アルバム
2006年 The Essential Kitaro
2006年 早咲きの花 (吉村龍太と共同)
2007年 空海の旅3
2007年 The Definitive Collection
2007/01「喜多郎」 主婦と生活社 CD付き
2009年 東洋のカメラ
2009年 インプレッションズ
2010年 空海の旅4 ライヴ・アルバム
2010年 Grammy Nominated サウンドトラック
2010年 442 - Live With Honor, Die With Dignity -
2010年 442 Extreme Patriot of WWII:喜多郎のストーリー風景 CM曲
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「福島に生きる」
玄侑宗久 2011/12 双葉社 新書 207p
Vol.3 No.0668★★★★★
イーハトーブ、センダード、そしてフクシマ。3・11後に、にわかに身近になってしまった、これらの呼称であるが、フクシマと、カタガナ書きで抽象化、象徴化することができる立場は、まだまだ、本当の現地のことを知らない、ということになる。
著者にとっては、フクシマではなく、福島であろう。そして三春町であろう。原寸大の被災地にいる。見える風景は、フィクションの世界でもなく、幻想の世界でもない。ありのままの世界が、眼の前の福島なのである。
あとがきが書かれたのは平成二十三年霜月朔日。平成二十三年は2011年のことだとは分かる。霜月は11月。朔日は、通常1日を表わすのだから、2011年11月1日、と読むのが妥当であろう。この本が出たのが12月4日だから、多分、そうに違いない。
太陰暦で言えば、平成二十三年霜月朔日は2011年11月25日になる。朔日は、新月の意味である。だから、こちらかも知れない。
最後の最後に、このような、「文学」的なハテナが浮かんでくるのが不思議なくらい、この本は、現実的なジャーナリステッィクな記録になっている。
鴨長明の「方丈記」を引いて語った「無常という力」や鎌田東二との対談「原子力と宗教 日本人への問い」とともに、著者は3・11後の、特に福島や東電原発について発言することが多くなり、原発から45キロの寺の住職兼作家という立場上、これまでの記録と、これからの発言に注目が集まるだろう。
今後、かつての自然をいつ取り戻せるのかは、私にも分からない。だがこれだけは断言できる。どんなに困難であっても、私たちはこの福島県を、原発事故以前よりもなお美しく豊かな大地として蘇生しなくてはならない。それは強い意志でもあるし、生き残った私たちの使命なのかもしれない------。p47「あのとき福島で、東北で、起きていたこと」
この本が書かれ、出版されてからでさえ、すでに半年の時間が経過している。刻々と変化する現場の状況の中で、著者は、また新たなる心境でいることだろう。
この本で、あらためてそうだったのか、という劇的な真実の暴露のようなものは少ない。すでに報道されていることも多く、また、類推することが、まずはできるであろう内容である。著者のスタンスも、福島県内の寺の住職としての、実に謙虚で真摯な述懐であることは間違いない。
それにしても、こうしてあらためて、ひとつひとつの事柄を確認していくと、人間として直視できず、眼をそらしたくなることが、随所にでてくる。分かっていることなのだが、文字面を追っているだけで、知らず、老眼鏡の奥で、まなじりから、涙がこぼれ落ちる。
被害の大きかった気仙沼での話だが、檀家のほとんどが壊滅しているため、寄付も募れず、仮設の本堂もできない。そこで住職は、フリーメーソンからの寄付を受け容れ、仮設の本堂を建てたのである。
今後、再建できずに困っているお寺などが、本山も当てにできず、どこから寄付を受けるのかも予測できない。檀家とすれば、妙な寄付で建ててほしくはないだろうが、建物がなくなったままでは何もできない。背に腹は代えられない、という住職側も単純に批判はできないのである。p77「復興と再生、そして失われたものたち」
いきなり、寄付側のこのような名称が飛び込んできて、びっくりした。著者としても、そのような事実を明瞭に把握してうえのことなのだろうか。あるいは、著者は、このような団体にどのような感慨を持っているのだろうか。
3・11をどのように捉えるかは人それぞれであり、著者は著者なりの、原寸大の、現実的な、東北の、一寺院を守る住職の、率直な意見を語っている。
しかし、宗教団体ではなく、宗教性をこそ重く想い、檀家も、本山も、本堂も、住職さえも、あまり眼中にない当ブログとしては、3・11後に思うことは、福島でも、フクシマでもない。勿論、センダードでもイーハトーブでもない。
3・11に対峙するのは、地球や大地であるし、そこに生きる、地球人としての、ひとりひとりの意識であろう、とするのが、当ブログの立場である。そこに、より現実的な、リアリティを持ち得るかが、大事だ。
地球に生きる。一人の地球人として、ポスト3・11を生きていく。それが、ささやかな当ブログの密かな宣言である。
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「アティーシャの知恵の書」(上) The Book of Wisdom, Vol 1チベットの覚者を語る<1>
OSHO/スワミ・ボーディ・デヴァヤナ 2012/03 市民出版社 590p
Vol.3 No.0667★★★★★
ある意味、この本は不完全である。Osho講話の邦訳としてはもっとも新らしい、この春に出版されたばかりの本だ。しかし、講話された時期や場所などが明記されていない。OSHO講話タイトル:年代順を見ると、どのような時期に、どのような経過をたどって語られた講話だったのかが、すこしわかる。
79/02/11~ 79/02/26 The Book of Wisdom, Vol 1
79/02/27~ 79/03/10 The Book of Wisdom, Vol 2
この時代背景が分かっていないと、この本でとくに強調されているサニヤスのことなどの意味を、よくつかめない読者もいるかもしれない、と危惧する。
この本はあちこち面白い。この時期、師事すべき光明を得たマスターは、クリシュナムルティとOshoしかいない、と言明していると受け取れる文脈がある。と言っても、クリシュナムルティは弟子をとっていないのだから、弟子入りするには、Oshoしかないことになる.。いつものOsho節には、なかなか魅惑される。
クリシュナムルティの悟境についても、かぎりなくクリアに、Osho流の分かりやすい、ソリッドなコントラストで語り切る。
Atlantisの文字列を、逆にしてSitnalta(シトナルタ)について、神智学グループの中で講話した話など、痛烈極まりない。このエピソードだけで、神智学グル―プを断罪することはできないが、Oshoがもっとも、エソテリックじゃなかった時代の講話である、というイメージを受ける。
この本はVol1をベースとした本であり、いずれ、下巻がでるだろう。
今回、このタイミングでOshoのこの本を読むことになったが、ある種、Oshoを読み抜けるのに必要な、自分なりの「速度」がつかめた感じがする。ひとつひとつを丁寧に読み続けると、一冊の本として読了するまで、膨大な時間がかかってしまう。かと言って、あまりに速読では、本来の意味がつかめない。
インド仏教から、チベット密教への橋渡しの時期に存在するマスター・アティーシャにかかわる話だが、ここでは、あまりチベット臭がしない。この時期に語ったものだから、そうなっているのだろう。
しかし、この邦訳の出版時期としては、当ブログとしては、ちょうどよいタイミングではあった。
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「宇宙における人間の地位」
白水iクラシックス マックス・シェーラー/亀井裕 2012/04 白水社 単行本 239p
Vol.3 No.0666★★☆☆☆
「完全解読 フッサール『現象学の理念』 竹田青嗣」に続いて、こちらのこのような本にも手を伸ばしてみる。新着資料の中に、このようなタイトルがあれば、まずは、なんだろう?という野次馬的興味で、うずうずすることはたしかなのだ。
しかし、フッサール本をめくることも、途中で苦痛になってくるとすれば、偶然ではあるが、そのフッサールに師事したとされるマックス・シェーラーの、こちらのような本も、ますます退屈になってきてしまう。
メモさえ残さないかなと思ったが、巻末に木田元が解説を書いているので、何事かのつながりを見い出し、後日の展開を期して、メモだけは残しておくことにする。
本書は、当ブログにおけるVol3の666番目のメモとなる。他意はない。偶然である。
人間、や、意識、存在、という単語が飛び交っている限り、当ブログとまったくの無縁ということはない。地球人スピリットを標榜する限り、そのターゲットの範疇に、これらの哲学者たちの探究が含まれていることはまちがいない。
19世紀や20世紀前半とは言え、当ブログにおいては、クリシュナムルティやグルジェフたちが活動した20世紀前半と、時期を同じくして生きていたであろう、これらの哲学者たちの一群に、なにごとかの関連を見い出すことは可能である。あるいは、これらの背景を知っていてこそ、その時代を引き継いだであろう、Oshoの存在意義についての考察も深まろうというものである。
あるいは、すでに21世紀まで生き延びてしまっている、私という自らの存在のありかたに、いくばくかの光を投げかけてもらうべく、このような本にも手を伸ばしてみたくなる。
まぁ、それにしても、これらの本が、それは確かに過去の本の翻訳と言う形であったにせよ、3・11という究極の現象があるなかで、それらとはまったく関わりがないかのように世に生み出されていくことの異様さに驚く。
よくもわるくも、驚く。3・11など、まったく関係ありませんよ、と無関心を装えることもまた、素晴らしくもあり、なんとも、極端な違和感もある。あるいは、これは絶対違うだろう、3・11に遭遇する時代において、無関心を装わなければ存在できない書物など、意味はない、と断定することも、できないことはない。
どちらなのであろうか。どちらもありだろう。すべては読み手にかかっている。このような、ある意味、無表情な観念論が、片やの岸辺にはあるよ、と知りつつ、片やには、手のつけようのない情動の渦に溺れようとする奈落があることを感知しつつ、自らが流されていく位置を見定めなければならない。
当ブログとしては、どちらも選択することはできない。うまいことバランスを取って、その中ほどを流れていきたいと思う。しかし、それは思っているだけであって、実際には、流されるままに流されるのであって、激情の流れのなかに巻き込まれ、我を忘れてしまうか、観念論の岩場に打ち上げられて、日干しにされて、鳥たちのエサになってしまうのかは、わかったものではない。
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「無常という力」 「方丈記」に学ぶ心の在り方
玄侑宗久 2011/11 新潮社 単行本 127p
Vol.3 No.0665★★★★☆
鎌田東二との対談「原子力と宗教 日本人への問い」で、あらためて玄侑宗久という立場を考えてみた。
最初の三ケ月だけで、うちのお寺の檀家さんの自殺者が6人にも上がりました。今もまさに現在進行形で続く、そんな生活の中で、「方丈記」の言葉はつくづく身に沁みたのです。p9「無常を生きる」
もともと一般人の自殺者は、密かに祀られるので、実数をつかむことは難しいが、それにしても、一つの田舎のお寺から一カ月に2人づつの自殺者がでるというのは、尋常なことではない。
作家という一自由人の立場ではなく、一ケ寺を護るという僧侶の立場であれば、それが、仏教というシステムの中であったとしても、ただ自由な発言をしていればいい、というものではない。具体的な衆生がそこにいる。
もっとコンパクトな暮らしをすればいいのです。いや、人間は元来もっとコンパクトな暮らしをしたいのです。p66「手作りの、小さな自治のために」
著者のこの本における主張を、「大いなる挑戦-黄金の未来」のキーワードに照らして考えてみる。まずは、「ひとつの世界政府」。ひとつの世界政府は、グローバリズムを無批判に受け入れるものではない。むしろグローカルなものでなければならない。
小さな世界政府、そして、無数に広がる、小さなコミューンのつながり。まずはこれがグローカルな世界観だ。しかし、それが夢想的なビジョンに終わらないようにするためには、いくつかのハードルを越えていかなくてはならない。
ひとつは婚姻制度の見直しであり、死生観の見直しだ。
また、「創造的科学」の面からも考えてみる必要がある。そもそもが、「国」というものがあるからこそ、核の利用方法に「破壊的」要素が含まれてしまっている。科学が、もっと純粋に創造的に発展していれば、原発システムはこれほどまでに欺瞞に満ちたものにならなかったであろう。
国、という枠組みは、大きく、世界政府へと明け渡されなければならないし、また、世界政府は、小さなコミューンの自治と自立の調整をする機能的な機関として作用する必要がある。
そして、人間というものの、新しいビジョンを共有していく必要がある。
当ブログにおいても、3・11後に「方丈記」を読む機会があった。それは、スナイダー、ソロー、あるいは、山尾三省や宮沢賢治を読み返す過程でのつながりであったが、そこで提示されるのは、人間自身が、新しい存在へと進化していく必要性がある、ということである。
3・11後の福島の寺に生きる玄侑宗久、というのも一つの図式ではあるが、そこにおいて、政府を批判し、無常観を受け入れる生き方を説く、というだけでは、根本的な解決策にはならないだろう。
プロジェクト567的に考えれば、玄侑宗久は、もっともっと反逆性をつよめなければ、単に一作家の呟きに終わってしまうだろう。真に宗教的であろうとすれば、それは、ありふれた仏教観の中に埋没して、人々を慰める、ということではなく、人々を、さらに次なる、新しい人間世界へと進化するプロセスを鼓舞する立場でなければならない。
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完全解読「フッサール『現象学の理念』」
竹田青嗣 2012/03 講談社 全集・双書 290p
Vol.3 No.0664★★★★☆
新着資料の中に、このようなタイトルが並んでいると、ついついスケベ心が起きて手を伸ばしてしまう。必ずしも当ブログの主テーマでもないし、いくら解説本や初心者向けの本とはいえ、簡単でもなく、また読了することもままならない一冊であることはわかっているのだが、魅惑するオーラがふわふわと漂ってきた。
3・11直後は、物理的に読書することなどできなかったし、精神的にも無理だった。ようやく本を手にとってみようと思ったのは1ヵ月半が経過したころだ。しかし、テーマはすこし斜めに外れた分野だった。
地震そのものや原発そのものを扱った本に目を通せるようになるには、数カ月が必要であった。その後、大量に流通している3・11本をひとまず片づけて、当ブログなりの流れにもどすまで、ほとんど1年が経過した、ということになる。
そしていま、ほとんど何の関係もなさそうな、このような哲学の本に手が伸びるようになった、ということは、個人的には、ああ、ようやく、ここまで余裕ができたのか、という確認の意味あいがある。
さて、当ブログでは、1)ブログありき、2)読書メモをテーマとする、3)Osho「私が愛した本」を主軸に据える、4)いかにその読書ブログという形態を卒業するか、というプロセスを経てきた。ひとつひとつは駆け足だったが、それなりに妥当性があった。
「私が愛した本」(BIHL)の158冊の本については、一応の把握はできているが、まだ十分とは言えない。BIHLも二順目に入ったところだが、現在は大きく頓挫している。3分の1はほぼ読了し、3分の1はまだその本の存在さえ確認できていないものもある。そして3分の1は、これから読み込もうとしているところである。
その、これから読み込もうとしている多くの部分は、いわゆる西洋哲学の部分である。そのほとんどは、まだOshoの言葉を転記しておいただけに留まっているが、いずれは、キチンと目を通すつもりでいる。
しかしながら、現代の西洋哲学全般に対して、いつかどこかでOshoがこのようなことを言っていたことがある。「闇夜に、窓の無い暗い部屋で、目の見えない人が、手さぐりで、その部屋にいない、黒い猫を、探しているようなものである」。
だから、読み返そうとは思っていても、それほど急いではおらず、余裕があったら、そちらにも手を伸ばしたいな、と思っている程度なのである。
哲学的な流れで言えば、一番面白いと思うのは、木田元の反哲学あたりで、この辺から読み続けてみたいとは思う。しかし、そこにいない黒猫を探し続けるつもりはないので、ガチョウは外にでている!、というZEN的クオンタム・リープに、最終的な解決策を見い出してしまっているのが、当ブログなのである。
いずれにせよ、4)の読書ブログからの脱却の試みとして、BIHLのど真ん中をジブランの「プロフェット」と固定し、そこからOshoの「メサイア」をぶち抜いて、Oshoのニーチェへと突破していこうとしているのであり、必ずしも、西洋哲学全般と無関係に進行しているわけではない。
空は無限に大きいのだ、と達観しつつも、その大きさを測るのに、バベルの搭の営みもまた、その大きさを量る上では必要なのだ、という認識のもと、西洋哲学全般についてのおさらいも、粛々と進めなければならないのだ。
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大手メディアが隠す「ニュースにならなかったあぶない真実」
上杉隆 2012/04 PHPエディターズ・グループ/PHP研究所 単行本 221p
Vol.3 No.0663★★★☆☆
私はこの人のことを好きでもなければ、嫌いでもない。ただ、距離をおいておきたいことは確かだ。必要な時は参考にする、程度だろうか。「ジャーナリズム崩壊」(2008/07 幻冬舎)、「報道災害〈原発編〉 事実を伝えないメディアの大罪」(2011/07 幻冬舎)、その他、何冊かめくってみたし、ネット上の動画配信などでも、その活躍は目にしている。もちろんテレビもみた。
この人に対する感想は、ジャーナリズムをかなり理想化しているのではないか、というもの。受け手側としてのこちらは、ジャーナリズムやマスメディアなんて、所詮、その程度だよ、というちょっとだらけた、白けた気分である。
小学校三年の時から新聞部だった私は、将来の自分像としてはジャーナリストとして描くことが多かった。高校時代も新聞部だった。しかし、以前にも書いたが、その在校当時、ちょうど1970年の6月に起きた校内事件の報道を見て、ああ、新聞なんて真実を伝えていない、と痛烈に感じざるを得なかった。
その後、ミニコミ誌などを創刊したりしたが、それ以来、メディア不信は一貫している。理想化することもなければ、期待もしていない。ただ、それなりに利用はさせていただきますよ、というスタンスだ。
新聞も、ここ5年ほど宅配してもらっていない。図書館にいった時や知人宅でたまにパラパラやるが、面白くないので、すぐ閉じる。かと言って、ネット上の「つぶやき」を重視しているわけでもない。
当ブログでは、以前、科学、芸術、意識、に対応させたかたちで、現代の象徴的職業として、プログラマー、ジャーナリスト、カウンセラー、の三つを上げたことがあった。この三つの職業、どれでも成れるなら成りたかったなぁ、という思いと、その三つが一つになったような職業はないものか、という思いがあった。そして、こうも付記しておいた。
1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー
2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト
3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー 2008.12.14
上杉という人、ユーストリームやツイッターなどのネットの利用という意味では1)はほぼクリアしているだろうし、2)もややカバーしているかもしれない。しかし「瞑想的な」という部分は、こちらの希望にはかなっていない。そして、一番の不足は3)についてだろう。
3・11当時、結果として、東電第一原発から80キロ圏にいた私にとって、もちろん原発のことも心配だったが、それ以上に、海岸線を中心とした津波被災地のほうに意識がいっていた。原発のことは専門家たちが心配してくれ、私には何もできない、そういう気分だった。
むしろ、海岸線にある友人知人の被災状況のほうが、ずっとずっと優先順位が高かった。当時の心境としては、原発が話題になると、津波被災地の情報がすくなくなるので、むしろ、あまり原発を騒がないでほしい、とさえ思った。
上杉という人、中央において、権力にぶら下がって、ジャーナリストとして、ウソVSホントごっこをやり続けていたが、自分の足で「行ッテ」、例えば、津波被災地の人々の生活をみていたのかどうか、私には、その動向がつかめなかった。
今日も近くのスーパーで買い物をしていたら、見知らぬ女性従業員から声をかけられた。知らないわけではなかった。小学校時代の同級生である。あれ以来、お互いに名前さえ忘れているような関係だ。
その彼女、商品の受け渡しの合間に雑談すれば、今回の3・11で、海岸線の自宅と夫を失い、内陸部の娘宅に身を寄せているという。それでも明るく、スーパーで働いている。傍目には、そんな被害があったことなど、簡単には見抜けない。
私は、ジャーナリズムに「真実」は期待していない。所詮それは無理だ。あるいは、真実ではなくて、「真理」といっておこうか。すくなくとも、ジャーナリズムがどんなに魅力的な分野であっても、人間の所業としては、最終的な完結はしない。
そもそもジャーナリストは、まともな職業として見られない時代もあったが、そういう文脈ではなかったとしても、この人が思っているほどには、ジャーナリズムは、理想社会ではない。ある種、くだらん世界なのである。
たしかこの人、ジャーナリスト無期休業宣言とかしたらしいが、私は、皮肉でなく、積極的な意味で「廃業」すべきだと、思う。しょせん、くだらん世界なのである。
ネット上でも、ミニ・ジャーナリストたちが、第三次、第四次情報を、いじりまくって、なにやら正義ぶって、つぶやきつづけているが、私の魂にとどくことはほとんどない。
いつものネタだが、1991年のスピリット・オブ・プレイスの時、大きなスポンサーのひとつは電力会社だった。それを持ってきたのは、地元のテレビ局スタッフ。ただこまったことに、このスポンサーがついたおかげで、私が持ち込んだ沖縄ロックバンドがパージされた。プログラムから完全に外されたのである。
結果としては、猛抗議したが聞き入れられず、自前でコンサート会場を確保し、なんとかひとつの大きなプログラムの中に組み込むことはできたが、会場入り口を別にすることや、チケットの販売も別ルートにするなど、さまざまな抵抗を受けた。
それもこれも、そのバンドが、反原発的スタイルだったためだが、実に愚かしい反発を受け続けてきている。後年、そのバンドシンガーが参議院議員となり、6年間も国会に在籍したはずだが、こちらも大した業績がなかったように思うので、まぁ、結果的にはどうでもよかったのかもしれないが・・・・ガハハ(自虐笑)。
なにはともあれ、この本は、私が借り出したのではなく、家族が借りたのであり、読まないの? と聞かれたので、ああ、読んでおこうかな、という程度に目を通した一冊だった。この程度のことしか書けない。原発についての真実は、この本によらずとも知ることはできる。
この人、原発についてこれだけのことを言うのなら、もっと前から、10年も、20年も前からスタートすべきだった。3・11後にこれだけいうのは、ある意味、後だしジャンケンでズルイ、と、私なら感じる。
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「3・11とグローカルデザイン」 世界建築会議からのメッセージ 3・11 and Glocal Design A message from the UIA
日本建築家協会・デザイン部会/編著 2012/03 鹿島出版会 単行本 167p
Vol.3 No.0662★★★★★
もし、グローカルという単語を、たとえば糸井重里のようなコピーライターが使うなら、私はその言葉を使いたくない。たとえば、中沢新一のようなパフォーマーが口走るなら、私はそれを否定したい。
でも、この本に連なるような言葉使いなら、私はその言葉を使ってみたい。むしろ、それこそが本当だ、とさえ思う。
建築のことなどあまり深く考えたことはなかったが、1991年のスピリット・オブ・プレイスの時、スタッフとして多くの建築家たちが参加していた。中心メンバーがそもそも建築家だったし、資金的バックもまた建築業界から多くでた。あの時以来、建築については、結構考える。
あれから数年して、与えられた環境の中で、自宅を設計することになった。シロートなりにいろいろ考えた。施工会社に、「テーマは地球だ」、と伝えておいたが、はて、どこまで分かってくれたか。
プロジェクト567の中には、実は、中央図書館が含まれている。全面ガラス張りの、超モダンな建築である。けやきの木からイメージしたという構造体もそれなりに愉快である。それを建設するにあたって、不況にあえぐ、地元の造船界の技術者たちの協力を得た、というのも、なかなか興味深かった。
今回の震災で、この中央図書館はどんなことになってしまうのだろう、と思っていたが、最上階の天井が落ちた程度で、こちらが勝手にイメージしたような破滅的な被害はかろうじて逃れたようだ。
3・11直前、私は、「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」という本に魅了されていた。何枚も素敵な写真が入っていたが、特に一枚に惹かれた。当時、エコビレッジのことを考えていたから、もし、あの森の中に家をつくるなら、このイメージがいいな、と思っていた。
デザインハウスは、カッコはいいが、住んでみると、意外と住みにくい、ということはある。あるいは、その住みにくいところを、住んでしまうところがカッコいいのだろう。
私は、基本的には、土管の中でも、バス停の裏でも、住めればいいや、と思うほうだが、奥さんは、まずは「寒いところはいや」だ、という。それはそうだ。まずはここが出発点だ。
最近、ひとりの友人が、都会の高層マンションに転居した。見晴らしが素晴らしいらしい。いちど行ってみないこともないが、私はあえて、都会に住みたいとも思わないし、まして高層ビルに住みたいとは、思っていない。
平林千春のような人は、最近ようやく、「地方都市」に目覚めたようで、なにやらこの1~2年、100万都市もなかなかいいじゃん、みたいな感覚でいるようだが、あれでも、まだまだ都会ボケしていると思う。
OSHOは、コミューンは5千人から5万人までが適正規模だろう、という。5千人の町と言えば、港町・閖上の規模だ。5万人と言えば、名取市の規模だ(実際は7万人)。正直言って、どちらも小さい。本音の私なら、そんなに狭いところはうっとうしいと思うだろう。海あり山あり、ショッピングモールあり、というなかなかの適正サイズだとは、思う。
100万都市の中心街に住みたいとも思わない。たまにいくのはいい。あの雑踏が、無償に恋しくなる時も、確かにある。だが、毎日はいやだなぁ。
そう思う私は、結局、このふたつの狭間に棲んでいる。ものすごい山の森の中と、超モダンな都会の高層マンションの、二つの環境を使い分けることのできる才覚があるのなら、そうもしたいが、なかなかそうもいかない。
結果的に、私が私なりに棲んでいる、このスタイルが、私なりのグローカル、ということになるのであろう。なにも特筆すべきことでもなく、専門家の手を煩わせることもないが、これはこれで満足しているのである。
この本、随所に英語が配置され、バイリンガルの本となっている。この点がまた気に入った。ふたつ並んでいれば、私はすぐ日本語だけ読むことになってしまうが、ドメステッィクでなく、ガラパゴスでもない、という感じがして、英語併記は、なんだか嬉しい。
オレゴンのコミューンはあのような結果になってしまったけど、私はあれが好きだった。私のグローカルのモデルはあのコミューンだ。あれが何故作れなかったのか、今後の課題として残る。
グローカルという言葉は決して新しい言葉ではないし、誤解も招きやすい単語だが、この本に連なるイメージなら、私は積極的に使いたい。この本は、専門家たちが科学的マインドと、感性的なスピリチュアリティを一体化させながら、なにか新しいものを創造しようとしている。その息吹が感じられる。
近場のエコシティとして、センダード市あすとナーガの変遷を私なりに観察しているが、まだまだ、そこにはエコシティとしても、グローカルデザインとしても、顕著な動きを感じるまでに至っていない。具現化するのはかなり難しいことだ。
でも、その想いがあり、思索があり、実験があり、思考錯誤があることは、やがては、黄金の未来につながるだろう、という可能性を感じさせる。
3・11 and Glocal Design A message from the UIA なかなか、イメージの広がる一冊である。
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「「3・11以前」 美しい東北を永遠に残そう 東日本大震災復興応援写真集
「3・11以前」写真集プロジェクト事務局(編) 2012/03 小学館 単行本
Vol.3 No.0661★★★☆☆
一枚一枚の写真についての、本当の価値は、私にはわからない。ともすれば、いまでも、どこにでもあるような風景だ。たしかに海岸線で、風景と人が映っており、被災地からちょっとはずれれば、いまでも、こんな風景がいっぱいあるはずなのだ。
震災後に一般公募され、数千点の中からセレクトされた一枚一枚の写真が、海岸線の被災地をなぞるように配置されている。撮影した人、撮影された人や土地にとっては、かけがいのない、一枚一枚であろう。
40年前、10代でヒッチハイク日本一周した時、まず向かったのは北だった。街から海岸線に向かい、バックパッキングのまま、乗せてくれた車を、何台も乗り継いだ。
最初の夜に泊まったのは、魚屋の小父さんの家だった。三陸海岸の小さな港町。小父さんの家も決して大きくなかった。乗せてもらったのも軽トラだった
見ず知らずの家に泊めてもらい、一宿一飯の恩義にあずかりながら、次の日の朝は、近くの魚市場まで案内してもらった。年齢的に考えても、もうあの小父さんはいないだろうし、今回の震災で、あの町はどうなってしまっただろう。
カメラを持参しながら、カメラ小僧ではなかった私には、残されている写真は少ない。しかし、瞼にはしっかりとあの風景が刻まれている。
私は、個人的には3・11以前に戻りたいとは思わない。私は3・11以後でいい。つらいけど、3・11を受け入れる。起きてしまったことだから。
だけど、ふりかえっても仕方ない、とも思わない。ふりかえる必要はある。ふりかえって、ああ、あそこはこうだった、と思い出すことは必要だ。
昨日も、所要のついでに海岸線を車で走った。つらかった。あんなにあった街並みが、なくなっていた。更地になった元宅地に、卒塔婆が何本も立っていたりした。見えるはずのないところから、広々とした風景がみえて、海岸線まで一望できた。
私には何も言えない。一枚の写真も提供できない。その地に人々に、声さえかけられない。
今言えることは、たしかに3・11以前はあった、ということ。そして、3・11もあった、ということ。そして、今、3・11を生きている、ということ。
この写真集は、見る人の、見る角度によって、まったく意味の違ったものになる。
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「原子力と宗教」 日本人への問い
鎌田東二/玄侑宗久 2012/03 角川学芸出版 新書 223p
Vol.3 No.0660★★★★★
果たしてこの本はどうかな、という、うがった態度で読み始めたが、この本はよかった。レインボー評価しておいて悪くないと思う。特に、二人には、3・11後における鴨長明についての、それぞれの著書があるという。その本を読みたい、と思わせてくれただけ、期待を込めて、受け止めておきたい。
本来であれば、ここはやはり「日本人への問い」ではなく、「地球人への問い」でなくてはならない筈だ。二人は、寺の住職と、大学の神道学者という、極めてドメステッィクでガラパゴス的存在なので、どうしても「日本」という枠組みにとらわれてしまうだろうが、本来、この対談で語られているのは「地球人」としての生き方だ。
対談という意味では、内田樹/中沢新一「日本の文脈」などより、遥かに優れている。二人の対談ということでより普遍化された部分がある。
玄侑 ああ、またアメリカの悪口を言ってしまった。こういうことばかり言っているものですから、私の本はなかなか英訳されないんです(笑)。
鎌田 私の本なんて、何語訳もされませんね(笑)。そんな話、来たことないですよ。p166「日本人は原発を捨てられるか?」
イーハトーブという賢治の命名はエスペラント語によるが、王仁三郎なども、さかんにエスペラントを研究していた。しかし、実際にはこの人造語は普及しなかった。現在では、実際的には英語が世界標準語であろう。
この本の内容が、もし英語で翻訳されて、もっと世界中に読まれるような時代にならなければならない。玄侑は「フクシマ」人でありながら、世界宗教=仏教に籍を置くだけに、グローバル性を持っている。
鎌田は、日本神道にこだわるあまり、言霊の世界に入ってしまうので、永遠に英訳されることはないだろう。むしろ、神道的アニミズムまで解体し、もっとグローバルな方向へ懐を広げる必要がある。
スピリチュアリティについては、文学的な言い回しなど本来必要なく、1500語で足りるとされるグロービッシュなどで十分語り得るような内容にまでシンプル化される必要がある。玄侑とて、ガラパゴス仏教の背景に浮かんだ徒花みたいなものだ。
ここからあまり脱線したくはないが、例えば日本人作家として世界で一番読まれているとされる村上春樹は、このスピリチュアリティを、世界に伝えることはできるだろうか。
この対談を「大いなる挑戦」の7つのポイントからチェックしてみよう。まず思いつくのは、「ひとつの宗教性」というところだが、つっこみは足らないが、仏教ー神道という立場に、例えば、キリスト教やイスラムを超えた形での「ひとつの宗教性」へ突き抜けていく力を加えていくことは可能であると思われる。墓や位牌、神社、山門などという文化や伝統にあまりこだわり過ぎてはいけない。
「新しい教育」で言えば、それぞれの僧侶教育や大学カリキュラムという俗的部分を限りなくそぎ落とせば、二人はよく理解できているはずである。
「創造的科学」。これはむしろ玄侑のほうが勇気がある。鎌田は立場上、日本国家というものにこだわるので、それに付随した「創造性」へ踏みきれない部分がある。
「能力主義」についても理解力あるだろう。ただ、薄っぺらい「人道主義」が頭をもたげてくる可能性があるのは、二人とも、結局は、人気商売だから仕方ないかもしれない。
「遺伝子工学」については、なかなか諾とはし難いだろう。それは当ブログとしても同じこと。今後の課題だ。
もっとも卑近で、しかも見逃されやすいのは「ひとつの世界政府」だろう。もっとも実現不可能にも思える。小さな目に見える自治、そして、国境を越えた調整機関としての世界政府。この本にも、その芽は見えているが、強調はされていない。
二人の対談は、「地球人への問い」という形で再編される必要がある。そして、それは英語で、世界へ発信されるべきである。
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「『東北再生』計画」 ポスト3・11のマーケティング
平林千春 2012/02 無明舎出版 単行本 144p
Vol.3 No.0659★★★★☆
この本の評価は難しい。タイトルだけなら読みもしなかっただろう。読んでも、くだらん、と思って、メモもしなかっただろう。当ブログの志向性上やむを得ない。
しかし、今回、この本を手にとってみようと思ったのは、この著者の名前ゆえである。すでに還暦をすぎた著者のもっとも最初に書かれている職歴、ブロンズ社の「ジアザーマガジン」編集長、というところに縁を感じているのである。すでに40年前のことだ。
当時のあの「若者文化」雑誌には、登場もさせてもらったし、原稿料をもらったこともある。10代の私には思い出深い雑誌であった。もちろん、この方の名前も覚えている。しかし、その後、この人がどのような生き方をしてきたのかは知らなかった。
検索してみると、実に多くの著書を持っている。これだけの著書をもちながら、当ブログの読書リストにひっかからなかったということは、いかに、互いに距離のある生き方をしてきたのかがわかろうと言うものである。
でも、それほど遠くはなさそうだ。マーケッター、あるいはマーケッティング研究者としての彼のテーマはそれほど遠大なものではない。むしろコンパクトでお手軽な課題である。
その彼が、ごくごく最近「東北」に目覚めたようである。書いてあることは、別に彼に言われなくても分かっていることばかり。特に「東北」に触れるあたりは、「おいおい、わかってねぇだろう」と、茶々を入れたくなる。
まぁ、しかし、一般的には、一生懸命何事かをしようとしている人を、あまり冷やかすものではない。原稿をまとめても、どこも出してくれなくて、秋田の無明舎が出してくれた、というのも、なんだか、東北人に救われている感じだ。
マーケティング。必ずしも軽視はできないが、当ブログのテーマのひとつは、メディテーション・イン・ザ・マーケットプレイスである。別にないものねだりをするわけでもないが、そもそもこの著者は、メディテーションのことも知っている筈であり、そもそも世が世ならば、スピリチュアリティについての著書をキチンと出せる筈の人であると思う。
あるいは、そのように努力すべき立場の人であった。今からでも遅くない。「ポスト3・11のメディテーション・イン・ザ・マーケットプレイス」について、なにかひとつ、気のきいた一冊をものしてもらいたい、と思う。今回の評価はその期待を込めている。
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「こころを支える『東北』の言葉」 がんばろう”を超えるよりどころ
宝泉薫 2011/08 言視舎 単行本 126p
Vol.3 No.0658★★★★☆
このところ、東北、という言葉が上滑りしている。日本、という言葉も軽々しく使われている。東北や日本という単語で何かが分かった気になっている。本当だろうか。
日本は、北半球にあり、また、その東側の東洋にある。そう言った意味では、北東地球の位置にあり、今回の災害地を「東北」と名付けるのも悪くはないだろう。しかし、日本列島の北という意味での、「東北」には、かなり手垢が付き始めていると、思う。
今回の3・11を、がんばれ日本とか、がんばれ東北、という矮小化したキャッチフレーズで捉えることは、的を外している。地球全体で考えなければならない、人類の重大な局面なはずである。
だから、安易な日本論や東北論には、当ブログは与しない。すくなくとも「もし、日本という国がなかったら」のような、ユダヤ人による日本応援歌など、愚の骨頂だと思う。
ダライ・ラマの「傷ついた日本人へ」なども素晴らしい本ではあるが、ここに「日本人」とでてくることに納得がいかない。このタイトルは編集者がつけたものだろうが、ダライ・ラマは、このような意図では講演していないはずである。敢えていうなら「傷ついた地球人へ」というタイトルにすべきであった。
さて、この本にも「東北」が登場する。東北には住んでいるが、もともとは東北人でない人が、編集者となって集めた言葉群である。そもそも、3・11オムニバス本は、ほとんど面白くない。この本もまた、そのカテゴリにかぶさる一冊ではあるが、編集者の意図が明確にでていて、結局は、一人の人間の意図がつかめるので、このカテゴリの中においては、まずは読みとおすことができる。
そう言った意味においては、読書ブログとしての当ブログは、似たような、他人の言葉をかき集めているブログだから、大きいことは言えない。反省しなければならない。
5~60人の関連の言葉をきっかけに、編集者が、自分の言葉を発している。中には、なかなか含蓄のある言葉にも触れることができたので、この本は、3・11オムニバス本の類ではあるが、読んでいて、最後まで読みとおせた本であった。
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「プロジェクト567」
<11>大いなる挑戦-黄金の未来
プロジェクト567の2オクターブ目のシとしてOSHO「大いなる挑戦-黄金の未来」をめくりながら、思った。この書の書込みは3回目だ。2年半前の前回は「ひとつの世界政府」を抜き書きしている。そして、最初にメモしたのは4年半前、OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2カテゴリの中の7冊の中の一冊として抜粋している。
それを見て、ああ、なんだ、結局同じことをしている、と思った。7冊の本を選んで、その中から3冊を選び、更に1冊に絞り込んで、残ったのは結局この「大いなる挑戦-黄金の未来」だった。これが結局、当ブログのやり口なのだろう。
この書はなかなか重い。まともな感性ではなかなか受け止めることはできない。ひとつひとつを丁寧に読めば、いろいろと揺さぶられたり、否定的なマインドが湧いてきたりする。
しかし、その中から、気になるキーワードをいくつか出してみた。そして、今回のプロジェクト567のキーワードと対応してみたらどうだろう、と思った。
「世界政府」、「創造的科学アカデミー」、「能力主義」、「遺伝子工学」、「新しい教育」、「ひとつの宗教性」、「黄金の未来」。これらの7つのキーワードは、プロジェクト567のそれぞれの7つのキーワードに対応させることができる。
ひとつの世界政府。そもそもが国境があることによっていらぬ戦争が起きている。軍事費用が福祉予算を圧迫している。コミューン社会と、ひとつの世界政府。絵に描いたような世界だが、これ以上の解決策はあるのか。
創造的科学。そもそも日本が原発に狂奔してしまったのは、核兵器製造の能力を確保する、という狙いもあった。電力エネルギーを創造するにあたり、常に科学者たちは破壊力に道を開いてきてしまっている。
能力主義。順番で大臣のいすが回ってくるのを待っている政治家たち。自分の適性より、権力を求める。分かち合いではなく、争奪戦を繰り返す権力亡者たち。適材適所で、本当に能力があるひとたちが、必要な場所に配置されるべきだ。
遺伝子工学。そもそも、人間とは何か、というところを、瞑想を通じて、光明を通じて、捉えなおさなければならない。生命そのもの、そして子供達、地球の子供たちとしての、自分たちを、もう一度見つめ直し、生きいきと生きていかなければならない。
新しい教育。コンピュータやインターネット、電子機器などによって代替可能な知識の部分はそれらにまかせ、内面の科学、瞑想を深める環境が必要である。そこで創造力豊かな人間性が育まれなければならない。
ひとつの宗教性。つまりは組織宗教の廃止であり、迷信的神話の廃止である。内面の科学に基づいた、やわらかな、神秘性へのゆだね。ここに道を開かなければ、人類は進化できない。
黄金の未来。未知数の未来。無限の可能性の未来。そこに黄金の世界があることを信じたい。
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「日本の文脈」
内田樹/中沢新一 2012/01 角川書店/角川グループパブリッシング 単行本 333p
Vol.3 No.0657★★☆☆☆
面白くない。徹底して面白くない。二人が「悪ふざけ」して、文脈を面白おかしく、「語ってくれよう」とすればすれほど、どんどん冷めていく。
こんなふざけた本を出版する必要もないし、公立図書館が所蔵する必要もない。そもそも、一読書人としても、こんな本にかかずらっている必要はない。
と、そう思えば思うほど、当ブログが中沢新一本にかけてきた時間がもったいなかったなぁ、と思う。
内田にしても、最初「『街的』ということ お好み焼き屋は街の学校だ」をめくった時は、おやぁ、面白いかも、と思ったが、「現代霊性論」をめくった時には、もう、ああ、これはダメだぁ、と思った。
3・11後の中沢の「緑の党のようなもの」も、いまだ杳として消息不明であるし、こいつらと付き合っているなら、他にもっと楽しいことがいっぱいあるぞ、と思ってしまう。
すくなくとも、この二人は、当ブログにおいては、避けて通れないような存在ではない、ということが明確になった一冊。
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<2>よりつづく
「大いなる挑戦-黄金の未来」 <3>
Osho 1988/1 OEJ 単行本 128p
★★★★★
プロジェクト567の2オクターブ目のシはこの一冊。このタイミングでこの本を開けることを喜びと思う。
この書は、ひとつひとつが重く、思いたっても、簡単に開くことはむずかしい。 ページ数にすれば、かなり少ないリーフレットのようなものであるが、21世紀といわず、人類の未来に対するOshoのビジョンがぎっしり詰まっている。
多くは示唆に富んだビジョンであるが中には批判を呼んだり、物議を醸し出した具体案も多い。 この本が出てからもう四半世紀が経過しようとしている。あっという間のことであったようにも思うし、それなりに重々しい四半世紀であったとも思う。
まずは、Osho自身の死があった。インターネットが普及し、ライフスタイルも仕事を取り巻く環境もおおきく変わった。日本だけみても、阪神淡路大震災があり、オウム真理教事件があった。バブル経済は見事にはじけ、デフレ経済がすでに20年以上続いている。
世界も、共産圏の衰退やグローバル経済やら、9・11やらいわゆるテロリズムの台頭、イスラム圏の話題の勃発など、あるいはヨーロッパ経済の停滞、中国経済の勃興、アメリカ初の黒人大統領の誕生など、状況の変化は著しい。
ましてや、今回の3・11である。25年まえには、誰も思い付かなかったような変化が次々と起きている。このような環境のなかで、このOshoのビジョンは色冷めるどころか、ますます緊急の課題となって、私たちの意識に警鐘をならし続けている。
今回、この書を開くに当たって、批判的に読んでみよう、などと最初は思っていたが、いやいやとんでもない、これはとことん肯定的に読むしかないのでなかろうか、と思う。
世界政府の必要性、創造的な科学者たちのネットワーク、瞑想を通じた宗教性のたかまり、そして真の人間性の探求など、ひとつひとつが極めて今日的課題であることを痛感する。
3・11後、そしてさらに一年が経過し、様々な提案が各方面からなされている。当ブログでは、それらの提言を、今後積極的に受け止めながらも、このOshoの提案に照らして見た場合、どのようなものとなるのかを探ってみたい。
本当に有効な提案はどれだけあるのか。どこまで実効性があるのか。自分の目や耳、手で確かめることができるものは、ひとつひとつ実行し、自らの生きる方向性を見定めるよすがとしたい。
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「傷ついた日本人へ」 <1>
ダライ・ラマ14世 2012/04 新潮社 新書 189p
Vol.3 No.0656★★★★★
津波の被災地に立つ賢治が、ひとつの象徴だとしたら、フクシマに祈るダライ・ラマもまた、新たなる今日的、悲しい象徴といえるだろう。
一人の人間として正しくあろうとする「倫理」こそ、宗教の代わりとなるものです。たしかに宗教のようなわかりやすい教義や儀式はないでしょう。しかし「よき人間であろう」と常に意識することは、確実に人間性を高め、他人を思いやる礎になります。そして、豊かな人間関係を構築できるのです。p22「自分の人生を見定めるために」
ここでのダライ・ラマは、自らのラマ性を捨てたひとりの人間として立っている。それはまるで、ダライ・ラマの人間宣言ともいえるようなものだ。ここではテンジン・ギャツォなのか、ダライ・「ラマ」なのかは分からなくなる。
一人一人の心の中に平和があってこそ、グローバルなレベルでの平和が達成できるのです。人々が互いに「幸せ」を求めて争い、欲望に駆られ、自分のことしか考えなければ、いつまでも世界が平和になるわけがないのです。戦争や紛争の根絶はまさにここから始まるのだとおもいます。p45「本当の幸せとはなにか」
「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」と同じく平素でごくごく一般的な「良心的」な見解と言える。ラマでなければ語れないような内容ではないが、ラマが語るからこそ、新たなる意味がある、と言えないことはない。
仏教を開いた釈尊は、修行の末についに「仏陀」となりました。ただし今のところ釈尊ただ一人しか仏陀になれていません。
ただし、仏陀になる可能性は誰にでもあります。p410「心を鍛えるにはどうしたらいいか」
これでは、これまで1億円が当たったのは一人しかいません。しかし、あなたも1億円が当たる可能性があります、というように聞こえてくる。実際は、全ての人間が仏性を携えているのであり、誰もが宝を既に持っている、ということが事実なのだが。
さきほど「ダライ・ラマ法王は生き仏と言われていますが」とおっしゃた方がいましたが、私自身そのような自覚は全くありません。p117 同上
ごくごく最近出版された「チベット密教瞑想入門」などにおいても、ラマの必要性が強く説かれている。そのラマ制度の頂点に立つべきダライ・ラマが、このように「人間宣言」をしてしまうことは、謙遜なのか、リップサービスなのか、あるいは単に事実を認めているだけなのか。
たとえば、瞑想ばかりして勉強を疎かにしている僧侶が多い。また、日本ではよく禅を組む修行が行われていますが、ただ座っているだけの人が多い。p120 同上
日本の仏教界の招聘による来日とはいえ、その講演内容は十分に含味すべき仏教的かつ脱仏教的で、普遍性を帯びているものだ。ただし、講演した場所が高野山ということもあり、その背景も考えてみなければならない。只管打座の永平寺や総持寺が招聘したら、この辺は微妙に違ってくるのだろうか。
茂木健一郎からの意識についての質問に対する答えも意味ふかい。
「実はわれわれ脳科学者はとても大きな問題を抱えています。それは『意識』の問題です。科学者はこれを全然解明できていないんです。・・・」茂木 p129「数式では測れない心というもの」
たしかにこれは大問題である。当ブログにおいても茂木の「意識とはなにか」をベースとして、その思索を続けているところではあるが、科学側からのアプローチについては、見通しは明るくない。
意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続すると考えられています。意識は何かから生み出されたわけでも、突然消滅するわけでもなく、始まりも終わりもなく、常に存在し引き継がれるものなのです。p134 同上
この辺もまた微妙な発言と言えるだろう。Oshoサニヤシンたる当ブログとしては、「OSHO ZEN TAROTにおける「意識」、あるいは「英知の辞典」における「意識」を参照しながら、読み進めることとにする。
被災者の方が特別に悪いカルマを抱えていたかというと、決してそうではありません。このような強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの出来事です。大勢の方が一度に同じ類の苦しみを味わったということがその現れでしょう。p170「この世で起こることには必ず理由がある」
一連のダライ・ラマ関連本、そして、類書の「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」と併読し、あるいは、「マイトレーヤ」や「チベット密教瞑想入門」、「禅へのいざない」や「宮沢賢治祈りのことば」とともに読み進めると、この本にはこの本なりの味わいがある。
とくに石寒太の「宮沢賢治祈りのことば」を乗り越えるもっと、より本質に迫る何かを感じる。すくなくとも「宮沢賢治祈りのことば」を読んでいて、どこまでも何かが不足している、という感覚のいくらかは、この本によって埋められている。
私たちはこの惑星に一時的に滞在しているに過ぎません。ここにいるのはせいぜい90年か100年のことでしょう。その短い間に何かよいこと、役に立つことをして他の人々の幸福に寄与できたなら、それが人生の意味であり、本当のゴールだといえます。p176 同上
いろいろな意味合いにおいて、3・11後における読書の中では、特筆すべき一冊と言える。
誰かがそれを大声で呼びかけたところで、社会全体が一斉に動くという時代でないことはわかっています。それよりも、一人一人が自分の周りで少しづつ実践する。、やがてそれが大きな輪になり、社会全体を変えていくものになると思います。p178 松永有慶(高野山真言宗管長)
日本にやってきたダライ・ラマに対して、日本の仏教界は、いわゆる賢治言うところの「行ッテ」精神が弱いような気がする。もともと仏教「界」に期待しているわけではない当ブログにおいては、もはやどうでもいいことだが。
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「マイトレーヤ」 <9> The buddha lord maitreya.
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1988/3 瞑想社 地方・小出版流通センター 単行本 p221
★★★★☆
またまたこの本に触れる機会が訪れた。プロジェクト567の第2オクターブのラだ。だが、今回は、特に内容に触れることは控えておこう。この本については、これまで何回か触れてきた。
ほぼ偶然的にこの本を選んでおいたのだが、王仁三郎は567にミロクのルビを振っており、それは弥勒であり、このマイトレーヤに繋がるものであったな、ということに、今回あらためて気がついた。
語られるべきことと、秘されるべきことと、要素によって、いろいろありそうだな、ということにまた気がついた。
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『正法眼蔵』『永平広録』用語辞典
大谷哲夫 2012/04 大法輪閣 事・辞典 430p
Vol.3 No.0655★★★★☆
興味はあるが、ちょっと難しい。もしスティーブ・ジョブズがZENに興味を持ったとして、それがたまたま道元禅だったとしても、こうまで用語が難しければ、ほとんど理解不能となるに違いない。
別に初心者や一般の参禅者が、ここまで深く勉強することもないだろうが、それにしても、ここに含まれる4000語を、一般素養として身につけるには、一身をその道に投げ打つ覚悟でもなければ、なかなかできそうにない。
以前に、平田精耕「禅語事典」に触れた時も、その重圧に圧倒されたものだが、この本もまた、その文化や背景を理解しようという深い動機がなければ、なかなか手がでないし、活用することもできないだろう。
ただ、パラパラとめくってみると、その解説がなかなかに興味深い。なるほど、というところがおおい。だが、その用語たるや、すでに現代日本では死滅している漢字や語感が累々と列挙されている。
そもそもの目的はどこにあるのか、という原点に立ち返って、現代人に瞑想を薦めるということであるならば、「禅マインド・ビギナーズ・マインド」で十分だろうし、Oshoの「新瞑想法入門」のほうが優れていると言えるだろう。
ただ、人は、深く入り込めば、いろいろと知りたくなるものだから、本来の目的を忘れずに、その背景を広く知りたくなるのであれば、このような本を読み進めることも、大変楽しいはずである。
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「新瞑想法入門」OSHOの瞑想法集大成 <3>
OSHO /スワミ・デヴァ・マジュヌ 1993/01 瞑想社 /めるくまーる 単行本 507p
★★★★★
瞑想のガイドとしてこの本を用いるにあたって、瞑想のまえに、最初から最後までこれを読まなければならないというわけではありません。自分の直感に従ってこの本を使っていただいてかまいません。
まず、目次や本文にざっと目を通して、自分にぴんとくる章や瞑想を選んでください。たとえば、ガイドラインを読むまえに、第三部にある瞑想法をやってみたいと思ったら、そのようにしてかまいません。自分にとって良いと感じるものに従ってやってください。
そして、ひとつの瞑想を選んだら、少なくとも三日間はやってみてください。そして良ければ続け、より深く入ってゆくのです。重要なことは、楽しく試してみて、それから自分自身に素直に問いかけてみることです。この瞑想は自分の喜びや感受性が成長しつづけるのを助けるだろうか、と。p30「この本の使いかた」
プロジェクト567の2オクターブ目のソはこの本。もうここまでくると、急いでこの一冊を読まなければならない、というようなことはない。瞑想は、電車に乗る前に、急いでかき込まなければならない立ち蕎麦のようなものではない。
対応するミの「英知の辞典」もそうだが、ひとつひとつ、玩味しながら、のんびりといこう。
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「スサノオと出口王仁三郎」増補
出口和明 2012/02 八幡書店 単行本 330p
Vol.3 No.0654★★★★☆
3・11後に出た王仁三郎関連の本としては、最新の一冊であろう。そう思ってリクエストしておいたのだが、実際は、もともとは1991/07にでた「予言と神話-出口王仁三郎と霊界物語の謎」(八幡書店)の、改訂版(八幡書店1995/09)の、さらに増補版、ということになる。
この本で思い出すのは、同時期にでたOshoの「反逆のスピリット」(1990/12 めるくまーる)の装丁と瓜二つだった、ということ。出版社も装丁デザイン社も別であってみれば、いずれかが、盗作したのではないか、と思えるが、企画段階から考えてみれば、出版時期だけをとらえて、どちらが盗作、と決めつけるわけにはいかないだろう。
むしろ、ここは、王仁三郎とOshoのシンクロニシティ、くらいにとらえておきたい。書物としての内容については、かなりかけ離れた内容ではある。
この二冊の装丁の類似について、1991年当時、環境心理学国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」の準備段階で、仙台に来ていた「数申」の鷹野秀敬氏に、その所以を尋ねたことを覚えている。氏は大本とは関連が深く、その独特のヌメロジーはそのルーツから生まれたとされる。ただ、氏もこのことについて、深くは解説できなかった。
いずれにせよ、この二人の存在は、その命日が同じ1月19日である、という以外にも、いろいろなシンクロが指摘されているが、ここでは多くを触れまい。
ただ、そもそものプロジェクト567の、その567は、王仁三郎の著書からインスピレーションを受けているので、ここで、こういう形で登場してくるのも、故なきことでもなさそうだ。
この本で、十和田龍こと出口和明氏が平成14年6月19日にすでに亡くなっていたことを知った。ご冥福をお祈りいたします。
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「プロジェクト567」
<10>ドレミ・ファ
プロジェクト567の2オクターブ目に選んだ7冊はそれぞれにヘビー本たちなので、読み込んでいる最中に、自分はいったい何をしていたのか、忘れてしまいがちになる。
それでも、すでに何度か目をとおしている本たちではあるが、このようなチャンスでもないと、再読しないままに、忘れて行ってしまいそうになる本達でもある。
一冊一冊を本として読まず、もっと細切れにしてチェックしておくことも可能だが、それでは今回の意図からすこし外れてしまう。
読み進めると、新しい意味を次々みつけることになる。読み残していたところも多く、また、関連の別な書物を思い出したりする。
しかし、それは、OSHOいうところのマインドがその場から逃げだしたいためにいろいろ打ってくる狡猾な誘惑だったりするので、用心してかかる必要がある。
いまのところは、ドレと来て、ミでヒーコラ言っている最中である。ファまでなんとか手を伸ばしたが、ソラあたりまでいくには、結構、荷が重い。
ここで逃げ出すわけにもいかないので、すこし間合いをとりながら、ゆとりをもって、進むことにしよう。
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「ニューチャイルド 」 <2>
OSHO (著), スワミ・パリトーショ (翻訳), スワミ・アトモ・スディープ (翻訳) 1993/01 ニューチャイルドプロジェクト OEJ books 単行本: 324p
プロジェクト567、2オクターブ目の4冊目、ドレミにつづくファの位置。5月5日の子供の日に、なにか気のきいたところを抜き書きしようと思って読んでいたが、結局6日の朝までかかった。
この本に書いてあるのは、必ずしも育児法ではない。むしろ、自分自身が子供に帰ることが大切だ、ということが書かれている。
子供たちは、この世界に新鮮さをもたらす
子供たちは、新たに生み出された意識だ
子供たちは、神から生に通じている新しい入口だ
敬意を払いなさい、理解しようとしなさい
そして、幸せで注意深くありさえすれば
どうしたら同じ過ちを繰り返さずに済むかなどと
思いわずらう必要はない
----あなたはそんな間違いを犯すことはない
だが、あなたは自分の両親とは
まったく違った存在にならなければならない
意識がその違いをもたらす p203
この本もまた、Oshoの数ある講話の中からの編集本で、ダルシャンダイアリーや時期の異なった本からの抜粋の合成からできている。巻末には、十牛図についての講話が、絵と共に添えられている。
とてもわかりやすく、シンプルにまとめられている一冊である。この本は、プロジェクト567の2オクターブ目の中心の位置に属している。
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<25>からつづく
「英知の辞典」<26>
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
演じる ACTING
演劇が最も精神霊的(スピリチュアル)な職業であることは確かだ。なぜなら、役者は矛盾のただ中にその身を置かなければならないからだ---彼は自分が演じている役になりきると同時にしかもそれを見守っていなければならない。
もし「ハムレット」を演じているのなら、彼はハムレットの役に完全に没入しなければならない、演技のなかにすっかり自分を失ってしまわなければならない。だが、それと同時に、自らの存在の最も奥深い核で傍観者、見守る人でいなければならない・・・・。
本当の役者は逆説を生きなければならない----役をそれになりきって演じ、しかも深いところでは「自分はこれではない」とわかっていなければならない。私が、演じることはもっとも精神霊的(スピリチュアル)な職業だというのはそのためだ。
真に精神霊的な人は自らの生全体を演技へと変容させる。そうすればこの世界全体は舞台になり、人々はみな役者にほかならず、私たちは芝居を演じていることになる。もしあなたが乞食なら、あなたは自分の役をできるかぎり美しく演じ、もしあなたが王様なら、あなたはその役をできるかぎり美しく演じる。だが、深いところでは乞食は「私はこれではない」と知っているし、王様も「私はこれではない」と知っている。
乞食と王様のどちらもが「自分がやっていることは演技にすぎない。それは私ではないし、私の真の姿(リアリティ)ではない」とわかっているなら、二人は自らの存在のまさに中心に、私が「目撃」と呼ぶものに行き着いている。彼らは行為をしていると同時にそれを目撃している。
だから、演じることは確かに最も精神霊的(スピリチュアル)な職業であり、すべての精神霊的な人は役者にほかならない。全世界が彼らの舞台であり、生全体は演じられるドラマにほかならない。 THE BOOK OF THE BOOKS, Vol5 p89
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<24>からつづく
「英知の辞典」<25>
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
エコロジー ECOLOGY
専門家は自分の分野、自分の領域のことしか知らない。それは非常に狭いものであり、しかも日ごとに狭くなってゆくので、彼は生命の総体との触れあいをいっさい失ってしまう。私たちが地球の全生態系(エコロジー)を破壊してきたのはそのためだ。職業の専門化にその原因がある。なぜなら、生態学(エコロジー)とは全体について考えることだからだ。
大工は木に興味があり、木のことなら知っている。しかし、樹木の働きについては何も知らない。彼は樹木が雲と雨を招き寄せることを、大地をひとつにまとめていることを知らない。樹木がなかったら、大地は砂漠になってしまう。もはや雲はやって来ないし、たとえやって来たとしても雨を降らさずに通り過ぎる。大工は木に興味があり、木のことなら知っている----木の材質、その木目の美しさを----だが、全体としての現象には興味がない。
だから私たちは森の木々をどんどん切り倒している。私たちがこれほど苦しまなければならないのは、樹木がなくてはならないものであるからだ。土地の気候に乱れが生じ、土地の気候だけでなく大気全体に乱れが生じる。なぜなら、樹木は私たちが吐きだした二酸化炭素を吸収し、私たちの呼吸に必要な酸素を吐き出しているからだ。私たちには酸素がなくてはならないし、樹木には二酸化炭素がなくてはならない。私たちは相互に依存している。樹木がなくなれば酸素もなくなり、空気は心臓、肺、人体に必要とされない二酸化炭素でさらに満たされるようになる。すでに大気中には二酸化炭素が多すぎて、それは健康にとって有害だ。
だが、木こりや大工には広い視野がない。彼らは木のことにしか関心がない。木こりは木を切り倒すためにもっと効率的な方法はないものかと思う。酸素や水素や二酸化炭素について知っている人は木とその材質については何も知らないし、大工仕事についてはまったく知識がない。彼は自分の方向で働いており、ほかの者も自分の方向で働いており、こうして彼らは生態系を破壊しつづけている。
生態系(エコロジー)とは、万物の相互依存のサイクルのことだ。あらゆるものがほかのあらゆるものに依存している。完全に独立しているものなど何もない。それはありえない。私たちは部分、ごく小さな部分、歯車の歯にすぎない。誰かが歯車について知らなければならない。もちろん歯車について知る人は、より多くのことについてより少なくしか知らないから、ほかの専門家とは競争にならない。
そしてブッダが体現する究極の境地とは、すべてについて何も知らない状態だ。では科学者、専門家の究極の状態とは何だろう? ----無についてすべてを知っている状態だ。それは論理的な帰結だ。科学がより少ないものについてより多くを知ることだとしたら、その究極の結果はどうなるか? ----無についてすべてを知ることになる! それはどんどん狭くなってゆき、最後にはたったひとつの点が残される----それは無、ゼロだ。
宗教とはより多くのことについて知ることをより少なくすることだが、ではその究極の境地とは何か? ----すべてについて何も知らない状態だ。それがディオニシウスの言う「不可知(アグノシア)」だ。それゆえにソクラテスは言う、「私はただひとつのことを知っている。それは私は知らないということだ」 GUIDA SPIRITUALE p85
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「OSHO:アメリカへの道」 <10>砂漠の実験都市・ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相
マックス・ブレッカー /「Osho:アメリカへの道」プロジェクト 2005/10 和尚アートユニティ /めるくまーる 単行本 552p
このタイミングでこの本を再読することになるとは思わなかった。あるいは、本当にこのタイミングだろうか、と不思議な気分にもなる。 しかし、この本はここで再読されるべきだったのだろう。
すくなくとも、この本を再読するタイミングは限られている。読み方によっては、まったく意味の違ったものになってしまう。 この手の本は数が限られている。特に日本においては入手できる本も少なく、邦訳本に至っては、この本を除いて絶無とさえいえる。実に貴重な一冊である。
この本に関連して読み進めたい本はいくつもあるが、プロジェクト567から、テーマがおおきく離れていくので、今回は今後のために、リストをつくっておくだけにする(作成中)。
この本は1981~1986年あたりのレポートであり、特にオレゴンのコミューンの顛末を、それなりに、中立的に、ジャーナリスティックに記録されたものであり、後世にとっては、実に貴重な資料となるだろう、とはいえる。
その調査範囲や、記録の方法、あるいは視点の推移など、納得がいかない点も多く、その結論がかなりOSHO寄りであったとしても、必ずしも鵜呑みにはできない。
むしろ、しっかりした反証本とつきあわせながら読み進める必要もあろう。類書は、英語を初めとする多言語に渡っているはずであり、当ブログで追っかけるには無理がある。
それにしても、当時のアメリカ社会の反応ぶりには唖然とさせられる。また、そのような反応も予期されるなか、コミューン側もそこまでやらなくてもよかったのではないか、と思うところも多々ある。
93台のロールスロイス、赤色の強調、行政システムへの執心。もっと上手な、おとなの対応があってもよかったのではないか。
しかし、歴史はもとに戻らない。 ひとつのグルジェフワークとか、マルパがミラレパに与えた試練などに対比させて考えてみることもできるだろう。あるいは、自然が与える分水嶺のようなものとして、あのドラマを受けとめることもできるであろう。
1983年当時、私は私なりに、プロジェクト567に対応する形での、プロジェクト29の真っ只中にいた。29才の私は私なりに、ひとつの確証を得ていたのである。 さて、今回の3・11以降におけるプロジェクト567において、あの時に対応する形での、確証を得たのであろうか。
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<23>からつづく
「英知の辞典」<24>
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
★★★★★
プロジェクト567のプロセスの中で「OSHO:アメリカへの道」を読みなおしてみる。覚悟はしていたが、思っていた以上に苦痛である。一気に読みとおすことなどとてもできない。そもそもが、アメリカのハードカバー本という奴は、どんな本でも余計なことをいっぱい書き連ねていて、さもこれが事実だ、という強引さに満ち溢れている。
あるいは、その強引さは、自らの危弱性を塗固するための、過剰防衛にさえ思える。この攻撃したり、防御したり、という動物的低レベルの生存形態が、まるで、オレゴンでのコミューンを取り巻いていたのだ、ということを改めて感じた。
2オクターブ目のレからミへと上昇するために準備しているのは「英知の辞典」。これまでも、ことあるごとに、項目別に読み進めてきて、小さな検索も作っている。いずれは、この本も完読することがあるだろうが、なかなか一気に、という訳にはいかない。
1オクターブ目のミは「Osho Zen Tarot」だった。このタロットというスタイルも、必ずしも一気に理解するには適していない。ようやく当ブログとしてはこの79枚のカードをめくってみたところだが、これらひとつひとつを玩味するにはそれなりの期間を必要とする。
タロットはゲームとして、ことあるごとに遊ぶことはできるが、こちらの「英知の辞典」は、辞典として、座右の書として、ことあるごとに参考することはできるだろうが、これもまた一気に読みとおすということは難しい。
英語の原題は「The Book An Introduction The Teaching of OSHO」だ。必ずしも辞典とはうたっていないし、もともと三巻ものであり、これらを通読するのはさらに難しい。
そもそも、今回のプロジェクト567で、タロットやこの事典をピックアップしたのは、知の集約性、という観点からであった。なにも百科全書的に知に埋もれる必要はない。ぱっと開いて、気に入ったページを、さっと読み過ぎればいいのだ。それはまるでタロットの一枚占いのようなもので構わないはずだ。
しかし、まぁ、今回はひととおり目を通してみようと思っている。そう覚悟しながら、そして「OSHO:アメリカへの道」とバランスを取りながら読み進めてみようとは思ったが、どうしてどうして、こちらもなかなか大変だ。読み手側の、覚醒が必要となる。
ジブランのプロフェットも、厳選されたテーマで、しかもドラマ仕立てなので、最後まで読んでしまうが、あれが、項目だけだったら、なかなか読み進めることはできないし、その整合性に悩んでしまうことだろう。
今回は、行きつ戻りつしながら、この「英知の辞典」をどう読みこむのかが、一つのテーマとなっている。
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「OSHO:アメリカへの道」 <9>砂漠の実験都市・ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相
マックス・ブレッカー /「Osho:アメリカへの道」プロジェクト 2005/10 和尚アートユニティ /めるくまーる 単行本 552p
★★★★★
プロジェクト567の2オクターブ目のレに、この本を選んでみたものの、なかなか読みとおすのは難しい。全部読んでからメモしようと思っていたのだが、3分の1まできたところで、ややダウン気味だ。
それでもやっぱり読みとおそうと思っているのだが、次から次へとアンチOSHOの記述を読み続けるのはつらい。ここまででてくるのは、結局は、OSHO本人ではなく、コミューンの話である。
ラジニーシプーラムがもしインド国内に建設されたら、などという、歴史上の、もしも、の話はしないでおこう。ここで、プロジェクト567の過程において、敢えてこの本の再読を選んだのは、コミューンが建設されていたら、という希望ではなく、コミューン建設の実態があって、それにまつわるドラマが、その進展がよいにつけ、悪いにつけ、あった、ということの確認のためだった。
賢治の羅須地人協会の期間も実に短いものだった。その理想とはうらはらに、必ずしも実効がともなった実験とは言い難い。スケールはまったく違うが、ここで羅須地人協会とラジニーシプーラムの比較関連を考えておくのは面白い。
賢治のイーハトーブ---羅須地人協会---デクノボー。それに対する、OSHOのブッダフィールド---ラジニーシプーラム---ゾルバ・ザ・ブッダ。いずれも幻想的だ。とてもこの世のものとは思えない、とてつもない企てである。
しかるに、両者ともに、多くの共感者を得て、例えば、花巻の宮沢賢治記念館として残り、かたや、プーナのOSHOコミューンとして、その命脈を保っているのは面白い。
そして、ここにおいて、このふたつの動きを思い出したのは、3・11後の復興復旧という、村や街、都市再建の計画が乱立するなかにおいてだった。
この読書の試みが、どのような結末になるかは今わからないが、自分としては、なかなかグッドアイディアである、と感じている。
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「プロジェクト567」
<9>賢治とOSHO
1、賢治はイーハトーブという幻想世界を生み出し、Oshoは自らの世界観をブッダフィールドという概念でまとめようとした。エコビレッジに対応するのは「ダイヤモンド・スートラ」だ。本全体というより、ある一節がどうもお気に入りのところがある。そこが、妙にマッチしていると思う。
2、賢治は、羅須地人協会を作り、Oshoはラジニーシプーラムを作った。太陽光発電やハード面に対応するのは、「アメリカへの道」だ。もっと素敵なドキュメンタリがあればいいのだが、とにかくこれは大いなる実験のレポートだ。
3、賢治は「春と修羅」と「注文の多い料理店」の2冊の本を生前に出版し、Oshoは、300冊とも700冊とも思える本やオーディオやビデオを残した。図書館ネットワークに対応させたのは、「英知の辞典」。本来英文では三冊組だが、必ずしも大冊であることは必要ではない。むしろ統合方向への集約が必要だ。
4、賢治は、自らの理想像をデクノボーという姿にまとめ、Oshoは自らの人間像をゾルバ・ザ・ブッダという生き方で表現した。孫たちに対応するのは「ニューチャイルド」。「ニューマン」とか「ニューウーマン誕生」なども含まれるだろうが、ここは、これでいこう。
5、賢治は芸術的生活を推奨し、Oshoは瞑想を推奨した。スマホに対応するのは「新瞑想法入門」。「祝祭の芸術」とか「オレンジブック」など、他にも類書があるが、どれも、いまひとつフィットはしていない。
6、賢治は自らを修羅と表現し、Oshoは自らを最後の生と表現した。ホワイトターラーに対応させるのは「マイトレーヤ」。ここはこれしかないだろう、と思うと同時に、他にもあることはある、という思い。
7、賢治は明治三陸津波の年に生まれ、昭和三陸津波の年に没した。Oshoは700年前にチベットに生まれ、21世紀を目前にインドで肉体を離れた。3・11に対応させたのは「大いなる挑戦ー黄金の未来」。他にもありそうなものだが、ここは、この本を今日的に、批判的に、読んでみよう。
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