宇宙における人間の地位 マックス・シェーラー
「宇宙における人間の地位」
白水iクラシックス マックス・シェーラー/亀井裕 2012/04 白水社 単行本 239p
Vol.3 No.0666★★☆☆☆
「完全解読 フッサール『現象学の理念』 竹田青嗣」に続いて、こちらのこのような本にも手を伸ばしてみる。新着資料の中に、このようなタイトルがあれば、まずは、なんだろう?という野次馬的興味で、うずうずすることはたしかなのだ。
しかし、フッサール本をめくることも、途中で苦痛になってくるとすれば、偶然ではあるが、そのフッサールに師事したとされるマックス・シェーラーの、こちらのような本も、ますます退屈になってきてしまう。
メモさえ残さないかなと思ったが、巻末に木田元が解説を書いているので、何事かのつながりを見い出し、後日の展開を期して、メモだけは残しておくことにする。
本書は、当ブログにおけるVol3の666番目のメモとなる。他意はない。偶然である。
人間、や、意識、存在、という単語が飛び交っている限り、当ブログとまったくの無縁ということはない。地球人スピリットを標榜する限り、そのターゲットの範疇に、これらの哲学者たちの探究が含まれていることはまちがいない。
19世紀や20世紀前半とは言え、当ブログにおいては、クリシュナムルティやグルジェフたちが活動した20世紀前半と、時期を同じくして生きていたであろう、これらの哲学者たちの一群に、なにごとかの関連を見い出すことは可能である。あるいは、これらの背景を知っていてこそ、その時代を引き継いだであろう、Oshoの存在意義についての考察も深まろうというものである。
あるいは、すでに21世紀まで生き延びてしまっている、私という自らの存在のありかたに、いくばくかの光を投げかけてもらうべく、このような本にも手を伸ばしてみたくなる。
まぁ、それにしても、これらの本が、それは確かに過去の本の翻訳と言う形であったにせよ、3・11という究極の現象があるなかで、それらとはまったく関わりがないかのように世に生み出されていくことの異様さに驚く。
よくもわるくも、驚く。3・11など、まったく関係ありませんよ、と無関心を装えることもまた、素晴らしくもあり、なんとも、極端な違和感もある。あるいは、これは絶対違うだろう、3・11に遭遇する時代において、無関心を装わなければ存在できない書物など、意味はない、と断定することも、できないことはない。
どちらなのであろうか。どちらもありだろう。すべては読み手にかかっている。このような、ある意味、無表情な観念論が、片やの岸辺にはあるよ、と知りつつ、片やには、手のつけようのない情動の渦に溺れようとする奈落があることを感知しつつ、自らが流されていく位置を見定めなければならない。
当ブログとしては、どちらも選択することはできない。うまいことバランスを取って、その中ほどを流れていきたいと思う。しかし、それは思っているだけであって、実際には、流されるままに流されるのであって、激情の流れのなかに巻き込まれ、我を忘れてしまうか、観念論の岩場に打ち上げられて、日干しにされて、鳥たちのエサになってしまうのかは、わかったものではない。
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