無常という力 「方丈記」に学ぶ心の在り方 玄侑宗久
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「無常という力」 「方丈記」に学ぶ心の在り方
玄侑宗久 2011/11 新潮社 単行本 127p
Vol.3 No.0665★★★★☆
鎌田東二との対談「原子力と宗教 日本人への問い」で、あらためて玄侑宗久という立場を考えてみた。
最初の三ケ月だけで、うちのお寺の檀家さんの自殺者が6人にも上がりました。今もまさに現在進行形で続く、そんな生活の中で、「方丈記」の言葉はつくづく身に沁みたのです。p9「無常を生きる」
もともと一般人の自殺者は、密かに祀られるので、実数をつかむことは難しいが、それにしても、一つの田舎のお寺から一カ月に2人づつの自殺者がでるというのは、尋常なことではない。
作家という一自由人の立場ではなく、一ケ寺を護るという僧侶の立場であれば、それが、仏教というシステムの中であったとしても、ただ自由な発言をしていればいい、というものではない。具体的な衆生がそこにいる。
もっとコンパクトな暮らしをすればいいのです。いや、人間は元来もっとコンパクトな暮らしをしたいのです。p66「手作りの、小さな自治のために」
著者のこの本における主張を、「大いなる挑戦-黄金の未来」のキーワードに照らして考えてみる。まずは、「ひとつの世界政府」。ひとつの世界政府は、グローバリズムを無批判に受け入れるものではない。むしろグローカルなものでなければならない。
小さな世界政府、そして、無数に広がる、小さなコミューンのつながり。まずはこれがグローカルな世界観だ。しかし、それが夢想的なビジョンに終わらないようにするためには、いくつかのハードルを越えていかなくてはならない。
ひとつは婚姻制度の見直しであり、死生観の見直しだ。
また、「創造的科学」の面からも考えてみる必要がある。そもそもが、「国」というものがあるからこそ、核の利用方法に「破壊的」要素が含まれてしまっている。科学が、もっと純粋に創造的に発展していれば、原発システムはこれほどまでに欺瞞に満ちたものにならなかったであろう。
国、という枠組みは、大きく、世界政府へと明け渡されなければならないし、また、世界政府は、小さなコミューンの自治と自立の調整をする機能的な機関として作用する必要がある。
そして、人間というものの、新しいビジョンを共有していく必要がある。
当ブログにおいても、3・11後に「方丈記」を読む機会があった。それは、スナイダー、ソロー、あるいは、山尾三省や宮沢賢治を読み返す過程でのつながりであったが、そこで提示されるのは、人間自身が、新しい存在へと進化していく必要性がある、ということである。
3・11後の福島の寺に生きる玄侑宗久、というのも一つの図式ではあるが、そこにおいて、政府を批判し、無常観を受け入れる生き方を説く、というだけでは、根本的な解決策にはならないだろう。
プロジェクト567的に考えれば、玄侑宗久は、もっともっと反逆性をつよめなければ、単に一作家の呟きに終わってしまうだろう。真に宗教的であろうとすれば、それは、ありふれた仏教観の中に埋没して、人々を慰める、ということではなく、人々を、さらに次なる、新しい人間世界へと進化するプロセスを鼓舞する立場でなければならない。
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