「傷ついた日本人へ」 ダライ・ラマ14世 <1>
「傷ついた日本人へ」 <1>
ダライ・ラマ14世 2012/04 新潮社 新書 189p
Vol.3 No.0656★★★★★
津波の被災地に立つ賢治が、ひとつの象徴だとしたら、フクシマに祈るダライ・ラマもまた、新たなる今日的、悲しい象徴といえるだろう。
一人の人間として正しくあろうとする「倫理」こそ、宗教の代わりとなるものです。たしかに宗教のようなわかりやすい教義や儀式はないでしょう。しかし「よき人間であろう」と常に意識することは、確実に人間性を高め、他人を思いやる礎になります。そして、豊かな人間関係を構築できるのです。p22「自分の人生を見定めるために」
ここでのダライ・ラマは、自らのラマ性を捨てたひとりの人間として立っている。それはまるで、ダライ・ラマの人間宣言ともいえるようなものだ。ここではテンジン・ギャツォなのか、ダライ・「ラマ」なのかは分からなくなる。
一人一人の心の中に平和があってこそ、グローバルなレベルでの平和が達成できるのです。人々が互いに「幸せ」を求めて争い、欲望に駆られ、自分のことしか考えなければ、いつまでも世界が平和になるわけがないのです。戦争や紛争の根絶はまさにここから始まるのだとおもいます。p45「本当の幸せとはなにか」
「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」と同じく平素でごくごく一般的な「良心的」な見解と言える。ラマでなければ語れないような内容ではないが、ラマが語るからこそ、新たなる意味がある、と言えないことはない。
仏教を開いた釈尊は、修行の末についに「仏陀」となりました。ただし今のところ釈尊ただ一人しか仏陀になれていません。
ただし、仏陀になる可能性は誰にでもあります。p410「心を鍛えるにはどうしたらいいか」
これでは、これまで1億円が当たったのは一人しかいません。しかし、あなたも1億円が当たる可能性があります、というように聞こえてくる。実際は、全ての人間が仏性を携えているのであり、誰もが宝を既に持っている、ということが事実なのだが。
さきほど「ダライ・ラマ法王は生き仏と言われていますが」とおっしゃた方がいましたが、私自身そのような自覚は全くありません。p117 同上
ごくごく最近出版された「チベット密教瞑想入門」などにおいても、ラマの必要性が強く説かれている。そのラマ制度の頂点に立つべきダライ・ラマが、このように「人間宣言」をしてしまうことは、謙遜なのか、リップサービスなのか、あるいは単に事実を認めているだけなのか。
たとえば、瞑想ばかりして勉強を疎かにしている僧侶が多い。また、日本ではよく禅を組む修行が行われていますが、ただ座っているだけの人が多い。p120 同上
日本の仏教界の招聘による来日とはいえ、その講演内容は十分に含味すべき仏教的かつ脱仏教的で、普遍性を帯びているものだ。ただし、講演した場所が高野山ということもあり、その背景も考えてみなければならない。只管打座の永平寺や総持寺が招聘したら、この辺は微妙に違ってくるのだろうか。
茂木健一郎からの意識についての質問に対する答えも意味ふかい。
「実はわれわれ脳科学者はとても大きな問題を抱えています。それは『意識』の問題です。科学者はこれを全然解明できていないんです。・・・」茂木 p129「数式では測れない心というもの」
たしかにこれは大問題である。当ブログにおいても茂木の「意識とはなにか」をベースとして、その思索を続けているところではあるが、科学側からのアプローチについては、見通しは明るくない。
意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続すると考えられています。意識は何かから生み出されたわけでも、突然消滅するわけでもなく、始まりも終わりもなく、常に存在し引き継がれるものなのです。p134 同上
この辺もまた微妙な発言と言えるだろう。Oshoサニヤシンたる当ブログとしては、「OSHO ZEN TAROTにおける「意識」、あるいは「英知の辞典」における「意識」を参照しながら、読み進めることとにする。
被災者の方が特別に悪いカルマを抱えていたかというと、決してそうではありません。このような強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの出来事です。大勢の方が一度に同じ類の苦しみを味わったということがその現れでしょう。p170「この世で起こることには必ず理由がある」
一連のダライ・ラマ関連本、そして、類書の「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る」と併読し、あるいは、「マイトレーヤ」や「チベット密教瞑想入門」、「禅へのいざない」や「宮沢賢治祈りのことば」とともに読み進めると、この本にはこの本なりの味わいがある。
とくに石寒太の「宮沢賢治祈りのことば」を乗り越えるもっと、より本質に迫る何かを感じる。すくなくとも「宮沢賢治祈りのことば」を読んでいて、どこまでも何かが不足している、という感覚のいくらかは、この本によって埋められている。
私たちはこの惑星に一時的に滞在しているに過ぎません。ここにいるのはせいぜい90年か100年のことでしょう。その短い間に何かよいこと、役に立つことをして他の人々の幸福に寄与できたなら、それが人生の意味であり、本当のゴールだといえます。p176 同上
いろいろな意味合いにおいて、3・11後における読書の中では、特筆すべき一冊と言える。
誰かがそれを大声で呼びかけたところで、社会全体が一斉に動くという時代でないことはわかっています。それよりも、一人一人が自分の周りで少しづつ実践する。、やがてそれが大きな輪になり、社会全体を変えていくものになると思います。p178 松永有慶(高野山真言宗管長)
日本にやってきたダライ・ラマに対して、日本の仏教界は、いわゆる賢治言うところの「行ッテ」精神が弱いような気がする。もともと仏教「界」に期待しているわけではない当ブログにおいては、もはやどうでもいいことだが。
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