>つながりすぎた世界 インターネットが広げる「思考感染」にどう立ち向かうか ウィリアム・H.デーヴィドー
「つながりすぎた世界」インターネットが広げる「思考感染」にどう立ち向かうか ウィリアム・H.デーヴィドー/酒井泰介
2012/04 ダイヤモンド社
単行本
270p
Vol.3 No.0716★★★☆☆
ウィリアム・パワーズの「つながらない生活 『ネット世間」』の距離のとり方」(2012/02 プレジデント社)に連なるようなタイトルであるが、ニコラス・A・クリスタキスの「つながり 社会的ネットワークの驚くべき力」(2010/7講談社) とは真逆のタイトルでもある。しかし、位置的には、この二冊の間に挟まるような位置にあるのが、この「つながりすぎた世界」である。
アメリカのハードカバー本にありがちな、重厚な語り口は、ともすると、すでにわかりきったことを延々と述べていくスタイルは、この本も同じである。コンピュータやインターネットの発展経過を自分なりにまとめ、それを産業革命や、自動車産業と比較する。
そして、近年のインターネットにまつわるあれこれのエピソードを捉えて、そこに自らのコメントを加える。殆どがそのような形にまとまってしまうので、本当は、それほど多くのことをこの本から学べるわけではない。
著者の結論は三つ(ないし四つ)。p225
1)応急処置で解決しようとしない。
2)安全域を十分にとる。
3)不必要な結びつきをつくらない。
4)本質的に危険なシステムをつくらない。
メーカーや開発者、ビジネスや教育、行政、さまざまな立場で、その意見や態度は一様ではあり得ないが、当ブログでは基本的な一般的なネットユーザーとして、200人程度のゆるいつながりを提唱してきた。
200人のうちのコアなつながりを30人程度と作っておけば、ほとんど世界中の70億人とつながり得る、という発想だ。それは決して固定的なものではなく、常に流動的で可変的ではあるが、6次の隔たり法則と、20対80の法則で、ほとんど裏打ちされている。
ツイッターで何万人もフォローしフォローされている、なんてことを自慢する人もいるが、それはまさに「つながりすぎた」世界であろう。本書でいうところの「過剰結合」(オーバー・コネクティビティ)である。
もっとも、私はそれはつながり過ぎているとは表現しない。それはつながっていないのだ。手は2本あるが、数万人と同時に握手するなんてことはできない。また、相手からも、数万人のひとりとしてさえ認識されない可能性もある。
著者の使う言葉で、もうひとつ「思考感染」という言葉がある。これもまた、そもそも思考は感染そのものなのであるから、そこそこにマスクや手洗いで防御する必要がある。
メガ情報化社会に貢献する必要はなにもなく、ほどほどに情報社会を活用し、利用すればいい。必要以上にクレジットカードを使う必要もないし、ネットつながりの数を自慢しあう風潮に同調する必要もない。
Oshoは「大いなる挑戦ー黄金の未来」の中で、ひとつの世界政府と小さなコミューンのつながりの世界を語っている。家族のありかた、政治のありかた、人生そのものをどうとらえるか、など、基本的な部分の理解や構築がなければ「つながり」だけを考えることはできないだろう。
ネグリは「<帝国>」の中で、マルチチュードは、武器、貨幣、憲法を、自らのものにしなければならないと語る。世界がグローバル化すれば、この三つは必然的につながりを持たざるを得ないだろうし、そのプロセスは必然の流れとして今後も激化することはまちがないない。
しかし、その中にあっても、なお、ひとりの人間として、一人の地球人としての、適正なサイズを忘れてはならない。
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