« スマホは「声」で動かせ! 音声認識が拓く日本の未来 | トップページ | 方丈記 鴨長明/浅見和彦 »

2012/06/13

TOKYO一坪遺産 坂口恭平


「TOKYO一坪遺産」 
坂口恭平 2009/06 春秋社 単行本 198P
Vol.3 No.0729★★★★★

敬愛するお姉さまからの推薦である。「独立国家のつくりかた」が面白い、ということなのだが、図書館はまだ所蔵していない。Youtubeで彼の名前を検索すると、なにやら、早口でまくし立てる中肉中背の青年が登場して圧倒された。

 まずは図書館を検索してみると、新刊は入っていないが、彼の著書なら4冊入っている。なにはともあれ、届いた順から読んでみることにした。

 同時に、鴨長明「方丈記」を読んでいたのだが、方丈庵にいくまでの、前半の被災情景の描写が、あまりに3・11に酷似しているので、途中で放り出してしまった。実は、この鴨長明の方丈庵と、坂口恭平のO円ハウスの、共通項をみつけるべく、というべきか、どこがどう違うのか、という折り合いをつけるための、作業がひとつはじまった、ということなのである。

 一読してふむふむ、と思う。発想はいたってシンプルだ。地球はだれのものでもない。土地も建物も、本当は、誰がどこに建ててもいいはずだし、占有はできないはずなのだ。処女作(であろう)「TOKYO 0円ハウス 0円生活」(2008 大和書房)を読んでみないとわからないが、その発想はいたって根源的で常識的だと思う。

 むかし、ほびっと村で「プラサード書店」の店主をしていたキコリは、学生時代に、地球は誰もものでもない、と仲間たちと、キャンパス内にテントを張って生活を始めたことがある。それが、やがてトモたちの石神井コミューンにつながっていくわけである。

 自分も20前後のときに、ヒッチハイクで旅することが多かった。ある日、なかなか車がとまらずに、とぼとぼ路上を歩いていると、なにやら前のほうを、同じように歩いている人がいる。お、ヒッチハイク仲間かな、と思って距離を縮めると、どうやらその身なりからして、バックパッカーではないことがわかった。

 ホームレスなんていう言葉がなかった時代だった。彼は乞食だった。ああ、はたから見たら、こうして路上を前後して歩いている二人は、見る人が見れば、二人の乞食にすぎないのだろうなぁ、と、わが身の境遇を哀れんでみたものである。

 しかるに、数百メートル一緒に歩いていた彼は、あるポイントで90度に折れ曲がり、道路の脇の畑のあぜ道に入っていった。何をするのだろうと思って、こちらは立ち止まり、その行方を見つめていると、実は、その進行方向に、小さな掘立小屋があったのである。彼はホームレスではなかった。彼には家があったのである。

 家がないのは、こちらだった。路傍のヒューム管の中で寝たり、屋根つきの田舎のバス停で寝泊りしながらの長旅で、いやす我が家などなかった。あの時ほど、自分が、ああ、たったひとりなんだなぁ、と思ったことも少ない。

 坂口恭平の視点は面白い。図地反転してみると、確かに、宇宙は自分の中にとりこまれているという発想は、ある意味、鴨長明と同じことだ。場合によっては、鴨長明の外世界の被災状況と、坂口恭平の「TOKYO」の悲惨さは、同じことなのだ。

 ただ、彼は「建築家」だから家にこだわっているが、宇宙を語るなら方丈庵も0円ハウスもいらない。本書にでてくる「高架下の画家仙人」のように、本当は家などいらないのである。

 いやいや、ここまでくれば、もっと進んで、この体さえも、本当はいらないのである。宇宙は宇宙なのであり、宇宙を宇宙とするには、私という存在などいらない。

 ここまでくれば、家にも体にもこだわる必要がなくなる。あとは、逆に大邸宅だろうが、町だろうが、巨大都市だろうが、どのような形態であっても、本当はどうでもいい、ということになってしまう。

 ただ、適正サイズというものが必要だ。身長170センチの大人が、生後1ヶ月のベビー用の服を着れるわけがないし、サーカスの象の衣装が似合うわけでもない。お父さんはユニクロに行って、お母さんはシマムラに行って、子供は子供用のべビザウルスにでもいって、自分サイズの服を買ってくるしかないだろう。もちろん、自作で問題はない。だが、サイズは重要だ。

 ディビット・ソローの森の生活も、鴨長明の方丈記も、坂口恭平の0円生活も、結局はメタファーである。赤瀬川源平の裏返しのカニ缶よろしく、どの地点でひっくり返すかの指標でしかない。

 少なくとも私には、山奥でひとり暮らすこともできないし、被災地の瓦礫の一角でひとり暮らすこともできない。家族が必要であろうし、仲間が必要である。それなりのサービスも受けたい。床屋さん、八百屋さん、医療や学校。そして、その町並みの中で、自分もなにかの役割を果たせれば、なおいい。

 適正規模は、人間関係200人、町5万人程度がベストではないか、と思う。もちろん、近くには都市があってもいいが、無駄な高層ビルは、私個人は必要としない。自らの住まいも、あれやこれやで、適性規模がある。最低限これだけでできるよ、ということはあっても、ミニマムであることを誇ることに、それほどの意味を感じない。

 TOKYO一坪遺産。そもそも私にはTOKYOへのこだわりはない。棲んだこともなければ、ほんの数年前まで、20年近く行ったこともなかった。私には巨大都市文明は必要ない。ましてや、そこに一坪の遺産を見つけようとはしない。

 私は一坪では暮らせない。プラスアルファとしての百坪くらいはほしいが、百坪でも足らないと思う。私の周辺の人々で、自宅敷地が3000坪程度の人はザラである。当たり前のサイズと言える。私はそんなにもっていないし、正確に言えば、土地など所有していない。だが、イメージとして、自らの身を処す適正サイズの住まいさえ確保されれば、あとは、その話題からは遠ざかりたい、と思う。

 この著者は文章がうまい。建築家というより作家志望なのだろう。

|

« スマホは「声」で動かせ! 音声認識が拓く日本の未来 | トップページ | 方丈記 鴨長明/浅見和彦 »

31)Meditation in the Marketplace1」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: TOKYO一坪遺産 坂口恭平:

« スマホは「声」で動かせ! 音声認識が拓く日本の未来 | トップページ | 方丈記 鴨長明/浅見和彦 »