ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力<1> 池田純一
「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」 <全球時代>の構想力<1>
池田純一(著) 2011/03 講談社 317P
Vol.3 No.0770★★★★★
この本はいみじくも2011年3月20日に発行されている。ということは、すでにその一ヶ月前ほどに書店の店頭にならんだのだろうし、編集が終わったのは1月頃だっただろう。もしあの3・11がなければ、もっともっと話題になってしかるべき一冊だったに違いない。
いつの間にかジョブズ追っかけにはまった当ブログだが、Meditation in the Marketplaceカテゴリを通過するにあたり、この一冊に出会ったのはとても幸運だった。この本については、たしか高木利弘「ジョブズ伝説 アートとコンピュータを融合した男」( 三五館 2011/12)の中で知ったのだと思う。
この本は新書としてはかなり重厚なもので、本来ならばハードカバー本になるべき内容である。新書にするなら、おそらく4冊に分冊されてしかるべきだろう。
「ウェブ」編、「ソーシャル」編、「アメリカ」編、そして「全球」編となるべきであっただろうが、しかしまた、これらを強引にひとつのテーマで結びつけたからこそこの本の魅力がでてきたのだろうから、痛し痒しのところがある。
当ブログの文脈の流れで言えば、一番関心あるところは「全球」編の部分で、本当はそこだけ読めば事足りたわけだが、他の三部編も、それをフォローしてくれている、という意味では、落とすことのできない内容となっている。
全球という訳語が正しいのか、あるいはどれだけ流通しているのかは不明だが、私個人としては的確な訳語とは思えない。少なくとも語感としてはイマイチである。もとの語は、1968年にアメリカのカウンターカルチャーの教則本のような形で発行されたスチュアート・ブランド編集の「Whole Earth Catalog」に拠っている。
日本語のカタカナでホール・アースでもやはり間の抜けた感じになるので、他に的確な訳語もないのだろうが、全地球的というニュアンスで問題はなかろう。
この60年代の一冊が登場するのは、ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式に講演をしたときに、その締めくくりに使われた「愚かであれ、ハングリーであれ」の言葉が実は、「ホール・アース・カタログ」の終刊号の最後のページから引用されていたからである。
私もこの本を70年代中盤に見たことがあり、その存在感に圧倒された記憶がある。このカタログ雑誌に影響されて日本でもいくつかの本がでているはずだが、たとえば、宝島社からでている「別冊宝島」シリーズなどは、その影響が大きい。
たとえばその創刊号①は1976年の4月にでているがタイトルは「全都市カタログ First Whole City Catalog」となっている。ちなみに、この号には、当時私たちが出版していたミニコミ雑誌も収録されている。
さて、この本については、もうすこし継続的に読み進めたいが、当ブログが関心をもつテーマはかなり絞られている。
1)ジョブズはカウンターカルチャーの影響を受けていたのか。
2)パソコンはカウンターカルチャーが生み出したのか。
3)そもそもカウンターカルチャーとは何であったのか(何であるのか)。
4)意識とパソコン(やインターネット)は関連があるのか。
5)今後のネット社会は、どう進化すべきなのか、というビジョン。
いささか言葉遊びになるが、真善美という三つの基本的な価値になぞらえれば、科学的合理性を追求するGoogleは「真」、ユーザーという人間的なインターフェイスを通じて共同体の構築を進めるFacebookは「善」、触覚を通じた自在性を売りにすることで、ヒューマンタッチを具体化させたAppleは「美」、という具合にそれぞれ基本的な価値を実現していると見ることもできるだろう。p268「真善美のメタファー」
著者は1965年、静岡生まれである。リアルタイムでは60年代のカウンターカルチャーの波はかぶっていないだろう。2003~2005年当時アメリカに留学したということだが、必ずしも、自らの訴求として60年代的カウンターカルチャーを把握することはできないであろう。
だから、きわめて意欲的なビジョンを提示してくれているのではあるが、そこここに、どこか豪腕的速球にごまかされてしまい、いまひとつ真実の的を得ていないところが散見される。
上の真善美のメタファーは、私なら採用しない。当ブログで採用しているのは3コン論。コンテナ、コンテンツ、コンシャスネスの3つだ。ハードとしてのパソコンやインターネットはコンテナ、さまざまなソフト面やアプリ、利用技術などはコンテンツ。
だが、いまひとつ、コンシャスネスが見当たらず、当てはめるものがない。当ブログはここを探しているのであり、また、すでに仮定あるいは仮想している部分をコンシャスネスとした場合、これら低位のコンテナ、コンテンツにいかにつなげるべきなのかを模索しているといえる。
全球、とはいうものの、実際は人間は全球を体験することはできない。仮に宇宙から地球を見たとしても、円としては感知できたとしても、球とは感知できない。たとえばグーグルアースでいくらぐるぐる地球地図を回したとしても、裏側を見ることはできない。常に半球しか見ることができない。
あるいは全球と体験するとした場合、たとえば、口の中に飴玉をほうり込んでしゃぶりまわすようにしなければ、地球を球として体験することはできない。
つまり、目や耳や手といった感覚では全球にはならない。意識の拡大とはよく言われるが、実際は、意識は拡大などせずとも、すでに最初から最大限であるはずなのである。単に自らの五感に頼りすぎているのが壁なのであって、それを取り払えば、意識そのものが露出するわけだから、拡大などする必要はないのだ。
そして、ここでもうひとつ付け加えておきたいのは、全球、といった場合の仮想性であって、実際はその中心に人間がいなくてはならない。地球のどこかに二本の足をつけている人間であるならば、すくなくとも半球しかみえないばかりか、自らの視力や聴力の及ぶ範囲のある限定的な部分しか感知することはできないのだ。
もちろん、インターネットや情報網の発達で地球の裏側の情報まで収集できたとしても、人間としての頭脳は、無限大のCPUとしては活動してくれない。あるいは、脳科学が発達して、その演算してくれたとしても、実際の二本の手と二本の足を持つ、一個の生物としての人間には利用不能な情報が集まり過ぎることになる。
意識の拡大ではなく、意識そのものを開くこととともに、人間サイズの情報感覚を携えていることこそ、未来の地球人のあり方である。いたずらにフォロアーが何万人、ネットつながりが何百万人と豪語することには、本当は意味がない、と当ブログは主張したい。
そのような論点から、この本は、すこし時間をかけて再読、再々読してみたいと思う。
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