地球生命圏 ガイアの科学 ジェ-ムズ・ラヴロック
「地球生命圏」 ガイアの科学
ジェ-ムズ・ラヴロック著 スワミ・プレム・プラブッダ訳 1984/10 工作舎 単行本 296pVol.3 No.0792★★☆☆☆
1)地球は生きている、という直感的には否定しようのない感覚を論じている本なのであるが、それを科学的に検証しようという本でもあるので、詩情に酔うだけではこの本は読めない。また私などは、読む必要もない、と長い間放置してきた。
2)今回この本を読む気になったのは、スティーブ・ジョブズ→スチュアート・ブランド→ジェームズ・ラブロック、という流れがあったからであり、とくにこのラブロックの初期の仮説については、その第二章を読めば、今回の読書はそれで足りるはずである。
3)環境保護主義の友人の多くは、私が原子力発電を強く支持することに驚き、最近宗旨替えをしたのかと思うようだ。
しかし私の最初の著書「地球生命圏---ガイアの科学」(1979年。邦訳はスワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第二章と、次の著書「ガイアの時代」(1988年。スワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第七章を読めば、そうでないことがわかる。「ガイアの復讐」(2006/10 中央公論新社)p159 ジェ-ムズ・ラヴロック 「核分裂エネルギー」
4)だから折角のガイアおっかけなのにもかかわらず、著者の原発推進傾向を感知する、という、なんだか情けない読書となってしまっている。
5)爆発というのが百パーセントの燃焼効率をもっていることは少ない。ひとつの星が超新星としての最期をとげると、鉄その他多数の燃えかす元素をはじめ、ウラニウムやプルトニウムを含む核爆発物質が、ちょうど水爆実験のときのちりの雲のように宇宙へまき散らされる。
おそらくわれわれの惑星に関するもっとも不可思議な事実は、その大部分が恒星規模の水爆による放射性降下物のかたまりでできていることである。それから何イオンもたった今日なお、地殻のなかには不安定な爆発物がじゅうぶん残っていて、もとの出来ごとを極小規模で再現すること(人間による核エネルギー利用のことか---訳者)ができるわけだ。p46「第二章 太初に」
6)本文が始まってすぐなのに、ここでたまらず訳者(プラブッタ)は、注を入れている。
7)どんなに古めかしい単純なガイガー計数管を使っても、われわれが巨大な核爆発の放射性降下物のうえに立っていることは明らかである。
われわれの体内でも、その超新星現象によって不安定になった原子が毎分三百万個も爆発し、遠い昔の烈火によってたくわえられたエネルギーを微量ずつ小出しにしている。p47同上
8)たしかにグレーな表現ではあるが、中立性を要する「科学者」であれば、このような表現で、必ずしも原発推進の主張をしているとは推測できない。
9)今日騒がれている危険は嘘ではないが、誇張されすぎる傾向がある。放射線や紫外線は自然環境の一部であって、いままでもずっとそうだった。生命が最初に発展しつつあったころ、放射能の破壊的な切断力はかえって有益なものだったかもしれない。
失敗作は分解して基本的な化学部品を再成することにより、重要な試行錯誤のプロセスに拍車をかけただろうからである。とりわけ、それは無作為な新しい結合の形成はやめて、最後にいちばんいい形態ができるのを助けたことだろう。p48同上
10)著者のあらさがしをしながら読み進めることは、快適な読書とは言えない。あまり気が進まないので、深追いをすることはしないが、著者においては、この程度のスタンスなのであり、原発の一貫的な擁護者であり推進者であり、やがて唯一の解決策は原発である、という言説に固執する「科学者」である、と、ここから推測することはできない。
11)巻末には、かなり長い「訳者後記にかえて 体験的ガイア論」がある。この訳者の恒例ではあるが、翻訳業に忠実に従事しているのか、自説を主張する機会を狙って翻訳業をしているのか、判別つかないところがある。
12)そんな感覚をひらいたまま山歩きなどをしていると、砂漠化の悲しみにもまして、地球上の全生命を遺伝子レベルでおびやかす放射能の脅威に、山の精気(スピリット)たちが心を痛めていることまで伝わってくる。
それは、僕自身の潜在意識あたりに発するものなのか、ほかの多くの人びとを含めて、さまざまな生き物たちの集合的不安なのか区別のつけようのない、<惑星の心>とでも表現するのがいちばんふさわしい作用と思われた。
たとえば、ふだんならすがすがしいはずの散歩や薪とりから、そんないいようのない気持ちを抱いてヤートに帰り、なんの気なしにラジオをつけてみると、あろうことか、そこでも核戦争の現実的脅威をとりあげた特別番組のなかで、語り手の声が同じ不安に震えている。p277プラブッタ「訳者後記にかえて」
13)さまざまな角度から、ヒッピー、グリーン派、ニューエイジ、環境保護論者、カウンターカルチャー等々と、蔑称としてさえ使われる表現だが、多分それにふさわしい生き方をした訳者にしてみれば、素直な感性の発露と言えるだろう。
14)とりわけ、それを大胆に文化潮流のなかへもちこんだのが、漆黒の宇宙空間に浮かぶ地球を表紙にかかげた「全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)」だった。1968年に初版されたこの電話帳のような対抗文化(カウンターカルチャー)の百科全書は、当初からガイア的な意識を軸に、人間が惑星生態系とその調和のうちに生きるためのガイドブックとして、アメリカをはじめ全世界の若者たち(実際の年齢よりも精神のしなやかさにおいて)に強烈なメッセージを発した。
ぼく自身、この本をはじめててにしたときの感激は忘れない。「このように生きるしかないのだ」という確信と決意のいりまじったようなものを胸に、ページをめくったことをおぼえている。(略)
あれから十年あまり、いまなお変わらぬ編集方針のもとに自然なライフスタイルを提唱しつづけている全地球カタログの最新版"The Next Whole Earth Catalog”の巻頭第一冊目が本書であること(このカタログは本の紹介を基軸としている)も、ガイア的な文脈からするとあながち偶然ではあるまい。p281プラブッダ同上
15)と、まずはここまでは普通の運びであろうが、そのホール・アース・カタログの編者であるスチューアート・ブランドは「地球の論点」(2011/06 英治出版)では、原発推進派への転向を表明し、その第一冊目に掲げられたという本書「地球生命圏 ガイアの科学」の著者、ジェームス・ラブロックは、一貫して原発推進者だったと「ガイアの復讐」 (2006/10 中央公論新社)と述べているのだから、奇妙なものである。
16)本書を読み終えた読者なら、ラブロックのいう地球生命ガイアと、ぼくの感じとったガイアとのあいだには微妙なズレがあることにお気づきだろう。
大気分析とシステム論から導きだされたラブロックのガイアは、どちらかというとしたたかで、熱帯降雨林と大陸棚さえしかるべく保護されていれば、従来ていどの工業汚染どころか、氷河期や核戦争ぐらいではたいした影響はうけない。
それにたいして、ぼくの体感するガイアはもっとずっと繊細で傷つきやすい。ぼくが同調(チューン・イン)しているのはガイアの感情ないし意識活動に近く、ラブロックの総論的な記述が、ガイアの生理あるいは肉体活動を中心としているからかもしれない。p280プラブッタ同上
17)すでに四半世紀前に出版された本である。後だしジャンケンよろしく、今となってあれこれ言うのはフェアではないが、スリーマイル島の原発事故を体験した後ではあるが、まだチェルノブイリの原発事故が起こる前であったとしても、はて、2011年の3・11の原発事故を「全地球規模」で体験してしまった現在、科学者・ラブロックの「先見性」はいかほどであっただろうか。かなりいぶかしいものに思えてくるのではないだろうか。
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