地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト<2> スチュアート・ブランド
「地球の論点」現実的な環境主義者のマニフェスト<2>
スチュアート・ブランド 仙名紀 2011/06 英治出版 単行本 439p
1)再読。今回は、問題の4章「新しい原子力」、5章「緑の遺伝子」、6章「遺伝子の夢」、を意識的に飛ばして読まなかった。
2)こうして読んで見れば、全面的に肯定できるというほどではないにしても、一般的な科学書や啓蒙書の一冊として、読み進めることができないわけではない。
3)まったくの第三者の本ならば、一読してそれで終わりなのだが、「ホール・アース・カタログ」スチュアート・ブランドの本であれば、どこでどう引っ掛かってくるかわからない。ここはそれなりにこだわって読んでおきたい。
4)そうは思うものの、いわゆるカタログ雑誌の原型をちょっと崩しただけのような、多数な事実の列挙で、その造本はあの1987年の前著「メディアラボ」とほぼ同じような出来具合なのだ。
5)読んだ本から抜粋して、つなぎ直していくのなら、当ブログでさえ一冊の本になるのではないか、と一人笑った。だが、一読者としては、延々として終わりのない話題につきあい続けるのは、ちょっと苦痛である。
6)アメリカとヨーロッパの環境運動家たちは1970年代から80年代にかけて、炭素を放出しない原発の推進に待ったをかけた(幸いフランスでは、1973年のオイルショックを機に発電方式を転換し、電力の八割を原子力に依存するようになった)。
原発反対のグリーン派は、石炭やガスを燃やして膨大な二酸化炭素を大気中に放出するのを助けた。私もその一人だったことを恥じ、おわびしなければならない。p28「第1章 地球の趨勢」
7)まぁまぁ、この辺は過剰反応せずに読み飛ばすことにする。原著ではどのような言葉使いになっているのかわからないが、ここでブランドは「グリーン派」という別称を編み出している。
8)私は2008年から09年にかけて本書を執筆している時点で70歳を超えた。70年間にわたって、私自身の過ちや他人の間違いに遭いながらも、人生を楽しみながら世の中に流されてきた。
私はエコロジストになる教育を受けた。職業は、未来学者。だが心づもりとしては、ハッカーだ(つまり、怠慢なエンジニア)。熱心な科学者思考に傾いていて、地球全体の未来図を描くジオエコノミーに凝っている。そしてエンジニアにありがちな偏見によって、すべてのものごとはデザインの問題として解決できると思っている。p34同上
9)多少おちゃめな側面も見えているが、その影響力については、自他ともに認めるところだろう。すくなくともここで彼は自らを「科学者」と規定している。科学者、芸術家、神秘家という三つのカテゴリーを同時に持つことを目標とする当ブログとしては、ブランドの中にすぐれた芸術性を見ることもやぶさかではないが、すくなくともこの本においては「神秘家」的要素が十分熟成されていない。
10)私が誤って公言した例を、いくつか上げてみよう。1960年代、私はコミューンが将来の地域社会のあり方として有望なのではないか、と考えた。アメリカのエンジニアだったバックミンスター・フラーのコミュニティ構想は、無害だし理想に近いものに思えた。
1970年代になると、73年にオイルショックが起き、アメリカの都市では治安が悪化し、核エネルギーは悪だという風潮が広がり、「小さいことはいいことだ」ともてはやされ、村は理想郷だとまで言われるようになった。
私は、コンピュータの2000年問題では完全に間違っていた。2004年の大統領選挙では民主党の勝利を確信していたので、その前年にはそう公言して賭けをした。だが、予測はちょっとのところで外れた。p330「第7章 夢想家、科学者、エンジニア」
11)ブランド自身は、ネイティブアメリカンの妻と長年、川に浮かべたボートハウスで暮らしているらしい。
12)スナイダーはさらに進んで、生物ばかりではなく全地球規模の原理(ホールアースディシプリン)にまで話を発展させる。
「好むと好まざるとにかかわらず、私たちはちっぽけなブルーの地球のうえで”命を育んで”いる。気温は好適で、空気も水質もよく、何百万種類もの(場合によっては千兆もの)生命体が生息している」
だからこそ、この地球に対しておこなってきた厄災を取り除き、元通りに復元しなければならない。まるごとの地球はきわめて野心的なものだ。それだけに、全体的な復興プロジェクトが急務になっている。p393「すべてはガーデンの手入れしだい」
13)本著の後半になると、さかんにゲーリー・スナイダーが引用される。スナイダーもまだ存命しているから、交流しようとすれば可能だろうが、その雰囲気はあまりない。すくなくとも、ブランドが第4章のような「新しい原子力」に期待を持ち、原発推進「派」に「転向」しようとも、スナイダーが追随することはないだろう(そう、願いたい)。
14)だが、ここでブランドがスナイダーを引用しながらこの本のタイトルである『全地球規模の原理(ホールアースディシプリン)』という言辞を贈っているかぎり、スナイダーに対して一歩も二歩も譲っている雰囲気がある。
15)5章、6章はともかくとして、4章はいただけない。この本が書かれた2008~2009年のころの地球温暖化対策ムーブメントをバックとして「現実的」な論調に舵を取ったブランドの、ときには「冒険的」な、頑迷ではない、やわらかい思考法をこそほめたたえるべきではあるかもしれない。だが、3・11に遭遇したあとの2012年においては、彼はどう考えているだろうか。
16)エコロジーのバランスはきわめて大切だ。センチメンタルな感情で語るべきものではなく、科学の力を借りなければならない。自然というインフラの状況は、これまで成り行きに任されぱなしだった。これからは、エンジニアの力を借りて、修復していかなければならない。
「自然」と「人間」は不可分だ。私たちは互いに、手を携えていかなければならない。p435「第9章 手作りの地球」
17)今となっては、言葉などどうでもいい、という気分になる。科学の力、エンジニアの力、など、否定する気はないけれど、ここまで破局的な地点に人類を連れてきてしまったのも、科学やエンジニアたちだったはずだ。全責任が彼らにある、とは断言できないが、これからは科学とエンジニアの時代だとは、とても言えない。
18)こちらも、自分を飛び抜けた夢想家だとかロマンチストだと思ってもいないが、どうもこの本、やっぱりおかしいな、どこか・・・・
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