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2012/08/19

メディアラボ―「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<2> スチュアート・ブランド

<1>からつづく

Medialab
「メディアラボ」 「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<2>
スチュアート・ブランド (著),  室 謙二 (著), 麻生 九美 (著), Stewart Brand (著) 1988/04 福武書店 単行本 342p

1)60年代的カウンターカルチャーの教則本とも見なされる「ホール・アース・カタログ」の編集者スチューアート・ブランドがMIT(マサチューセッツ工科大学)の研究所「メディアラボ」に1985年に参画した当時に、内部的レポートとして書かれた本。

2)そこにはダイナブックのアラン・ケイなども参画していた。

3)

Dayna
 1972年にアラン・ケイによって描かれた、子供たちとダイナブックのイラスト。彼は16年前(引用者注・この本の執筆当時から考えて)にすでにこういうコンピュータのイメージをもっていた。このダイナブックは、まだ実現されていない。p142「電子による生態系ビバリウス」

4)インターネットがウィンドウズ95でブレークしたのが1995年だから、この本の英語原本ででた1987年には、まだこのようなダイナブックがあるはずはなかった。

5)しかし、それはこの本のでた20年後に、iPadとして実現化し、2012年の現在、パソコンの未来進行形としてタブレット端末の是非が盛んに論議されている。

6)私自身は、これほどの子供でもないので、あまりに簡単なタッチパネルを標準とすることには賛成できない。すくなくとも、かえって不便である。あえていうなら、もともとのタイプライターをイメージした、ノートパソコン型のキーボード付きがお好みである。

7)私自身が子供の時、編集や印刷スタイルとしてはガリ版の謄写印刷が普通であった。10歳の私もそれを使いこなしたし、十分情報発信には役だった。しかし、ガリ版印刷とタブレット端末では、それこそ比較ができないくらいの世界観の違いがある。

8)メディアラボはそのような未来を想像する研究所だった。当時熱っぽく語られているほとんどの部分はすでに達成されたか、すでにそのスケジュールに入ったものがほとんど。逆に、今日的ネット環境は、このようなプロセスを経て完成したのだな、という確認のための一冊とさえ言える。

9)だから、ある意味、出版当時は極めて抜きん出ていたはずの内容も、今日読んでみれば、ほとんど当たり前の内容とさえいえる。もちろん、実験的であったり、思考錯誤的に消えてしまった部分もなきにしもあらずだが、そのプロセスは、こうならざるを得なかった過程をはっきりと具象化して見せてくれる。

10)私自身は、ガラケーを中心としたケータイ文化には拒否感が強かったが、3G回線やWiFiを介在させたスマホ文化にはすんなり溶け込んだ。むしろ、これがなければだめだろう、とさえ思う。ただ、スマホ、タブレット、ノートパソコン、という序列で言えば、もっとも中心になるのはいまだノートパソコンである。

11)スマホは文字が小さくて、老眼がすすむ私の目には苛酷である。タブレット端末はキーボードがなくて文字型発信の多い私向きではないし、そもそもスタンドとなる台がないので、落着きが悪い。もちろん、かと言ってノートパソコンも、すでに固定化しすぎていて、これでいいのかぁ、という疑念の声にも耳を傾けてみたくなる。

12)機器の形態よりも、では、その機器をどのように使うのか、ということが問題であることは当然である。当ブログ流に言えば、コンテナからコンテンツへ。そしてコンシャスネスへ、というテーマである。

13)この本においては、コンテナとしてのタブレット端末から、コンテンツとしての、今日的ツイッターやフェイスブックへの展望がすでに語られている。あるいは、読みようによっては、十分ではないにせよ、コンシャスネスへの足がかりも語られてもいるようだ。

14)だが、2012年の今日的状況において、まだまだこのような文脈でのコンシャスネス的側面は十分に語られておらず、また、達成もされていない。それは、みんなそのテーマを忘れてしまっているわけでなく、達成しようとしても、なかなか難しそうだ、ということが分かってきたからだ。

15)バーチャル・リアリティーや人工知能AIへの足がかりも語られたりするが、結局は、コンシャスネスへの道のりの険しさは増すばかり。当ブログなどは、かなり日暮れて道遠し、という気分になりつつある。

16)すくなくとも、池田純一のように、スチュアート・ブランドを「カウンターカルチャー」の権化のように捉えることは、私にはできない。また、そのように偏った見方をすることのメリットをあまり感じない。この本がでた時点でのブランドはブランドでいいのではないか。そこにはなにもカウンターカルチャーという装いを必要とはしていないのではないか、と思う。

17)あなたはコンピュータの力をカウンターカルチャーの方向で使っていきたいと思っている。そのことはぼくも十分に認めていることです。でも今は話していることは、カウンターカルチャー的地方分権的な考えではないのです。電気との比較で話させてください。

 例えばマイクロコンピュータはバッテリーのようなものです。いいものだが、限界がある。並列テクノロジーのおもしろいことは、コンピュータパワーが要求に応じて作られるということです。

 だから、みんなはガス・水道・電気と同じように並列コンピュータを使うようになるでしょうね。パーソナルコンピュータは、それほど重要ではなくなると思います。なくなることはないでしょうが、家庭で必要なときに、必要に応じて電気・水道・ガスのように送られてきたコンピュータの力を使うことになるでしょう。p251「コネクションマシンの未来」ダニー・ヒリス(当時29歳 ブランドとの対話において)

18)1987年当時で29歳であるということは1958年年前後の生まれということになり、このヒリス自身はいわゆる60年代的カウンターカルチャーをリアルタイムでは生きていないことになる。だから、彼の言葉使いの中の「カウンターカルチャー」の意味が少し違っている。

19)すくなくとも、P2P的分散型ネットワークをカウンターカルチャー的というのなら、現在主流をなしつつあるタブレット型端末を繋ぐクラウド型ネットワークは中央集権的で、メインカルチャー「的」と言えないこともない。

20)しかし、この辺はあまりこだわる必要はないだろう。少なくとも、現在の当ブログの目下の問題は、スチュアート・ブランドが、2011年に書いた本においては原発推進を語っているところにある。一読者としては、どうもそこは納得できないので、過去のこの本まで遡っているのであり、ブランドとは、ある一定程度の距離感が、もともとあるのだ、ということを確認できれば、それでいい。

21)事実の羅列のようなこの本を読み進めるのは楽なものではないが、少なくとも、この著者のスタイルが分かりつつあるので、近著「地球の論点」を再読する場合、もうすこし楽に読み進めることができるようになるだろう。

<3>につづく

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