« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月の21件の記事

2012/08/31

地球生命圏 ガイアの科学 ジェ-ムズ・ラヴロック


「地球生命圏」 ガイアの科学
ジェ-ムズ・ラヴロック著 スワミ・プレム・プラブッダ訳 1984/10 工作舎 単行本 296pVol.3 No.0792★★☆☆☆

1)地球は生きている、という直感的には否定しようのない感覚を論じている本なのであるが、それを科学的に検証しようという本でもあるので、詩情に酔うだけではこの本は読めない。また私などは、読む必要もない、と長い間放置してきた。

2)今回この本を読む気になったのは、スティーブ・ジョブズスチュアート・ブランドジェームズ・ラブロック、という流れがあったからであり、とくにこのラブロックの初期の仮説については、その第二章を読めば、今回の読書はそれで足りるはずである。

3)環境保護主義の友人の多くは、私が原子力発電を強く支持することに驚き、最近宗旨替えをしたのかと思うようだ。 

 しかし私の最初の著書「地球生命圏---ガイアの科学」(1979年。邦訳はスワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第二章と、次の著書「ガイアの時代」(1988年。スワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第七章を読めば、そうでないことがわかる。「ガイアの復讐」(2006/10 中央公論新社)p159  ジェ-ムズ・ラヴロック 「核分裂エネルギー」

4)だから折角のガイアおっかけなのにもかかわらず、著者の原発推進傾向を感知する、という、なんだか情けない読書となってしまっている。

5)爆発というのが百パーセントの燃焼効率をもっていることは少ない。ひとつの星が超新星としての最期をとげると、鉄その他多数の燃えかす元素をはじめ、ウラニウムやプルトニウムを含む核爆発物質が、ちょうど水爆実験のときのちりの雲のように宇宙へまき散らされる。

 おそらくわれわれの惑星に関するもっとも不可思議な事実は、その大部分が恒星規模の水爆による放射性降下物のかたまりでできていることである。それから何イオンもたった今日なお、地殻のなかには不安定な爆発物がじゅうぶん残っていて、もとの出来ごとを極小規模で再現すること(人間による核エネルギー利用のことか---訳者)ができるわけだ。p46「第二章 太初に」

6)本文が始まってすぐなのに、ここでたまらず訳者(プラブッタ)は、注を入れている。

7)どんなに古めかしい単純なガイガー計数管を使っても、われわれが巨大な核爆発の放射性降下物のうえに立っていることは明らかである。

 われわれの体内でも、その超新星現象によって不安定になった原子が毎分三百万個も爆発し、遠い昔の烈火によってたくわえられたエネルギーを微量ずつ小出しにしている。p47同上

8)たしかにグレーな表現ではあるが、中立性を要する「科学者」であれば、このような表現で、必ずしも原発推進の主張をしているとは推測できない。

9)今日騒がれている危険は嘘ではないが、誇張されすぎる傾向がある。放射線や紫外線は自然環境の一部であって、いままでもずっとそうだった。生命が最初に発展しつつあったころ、放射能の破壊的な切断力はかえって有益なものだったかもしれない。

 失敗作は分解して基本的な化学部品を再成することにより、重要な試行錯誤のプロセスに拍車をかけただろうからである。とりわけ、それは無作為な新しい結合の形成はやめて、最後にいちばんいい形態ができるのを助けたことだろう。p48同上

10)著者のあらさがしをしながら読み進めることは、快適な読書とは言えない。あまり気が進まないので、深追いをすることはしないが、著者においては、この程度のスタンスなのであり、原発の一貫的な擁護者であり推進者であり、やがて唯一の解決策は原発である、という言説に固執する「科学者」である、と、ここから推測することはできない。

11)巻末には、かなり長い「訳者後記にかえて 体験的ガイア論」がある。この訳者の恒例ではあるが、翻訳業に忠実に従事しているのか、自説を主張する機会を狙って翻訳業をしているのか、判別つかないところがある。

12)そんな感覚をひらいたまま山歩きなどをしていると、砂漠化の悲しみにもまして、地球上の全生命を遺伝子レベルでおびやかす放射能の脅威に、山の精気(スピリット)たちが心を痛めていることまで伝わってくる。

 それは、僕自身の潜在意識あたりに発するものなのか、ほかの多くの人びとを含めて、さまざまな生き物たちの集合的不安なのか区別のつけようのない、<惑星の心>とでも表現するのがいちばんふさわしい作用と思われた。

 たとえば、ふだんならすがすがしいはずの散歩や薪とりから、そんないいようのない気持ちを抱いてヤートに帰り、なんの気なしにラジオをつけてみると、あろうことか、そこでも核戦争の現実的脅威をとりあげた特別番組のなかで、語り手の声が同じ不安に震えている。p277プラブッタ「訳者後記にかえて」

13)さまざまな角度から、ヒッピー、グリーン派、ニューエイジ、環境保護論者、カウンターカルチャー等々と、蔑称としてさえ使われる表現だが、多分それにふさわしい生き方をした訳者にしてみれば、素直な感性の発露と言えるだろう。

14)とりわけ、それを大胆に文化潮流のなかへもちこんだのが、漆黒の宇宙空間に浮かぶ地球を表紙にかかげた「全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)」だった。1968年に初版されたこの電話帳のような対抗文化(カウンターカルチャー)の百科全書は、当初からガイア的な意識を軸に、人間が惑星生態系とその調和のうちに生きるためのガイドブックとして、アメリカをはじめ全世界の若者たち(実際の年齢よりも精神のしなやかさにおいて)に強烈なメッセージを発した。

 ぼく自身、この本をはじめててにしたときの感激は忘れない。「このように生きるしかないのだ」という確信と決意のいりまじったようなものを胸に、ページをめくったことをおぼえている。(略)

 あれから十年あまり、いまなお変わらぬ編集方針のもとに自然なライフスタイルを提唱しつづけている全地球カタログの最新版"The Next Whole Earth Catalog”の巻頭第一冊目が本書であること(このカタログは本の紹介を基軸としている)も、ガイア的な文脈からするとあながち偶然ではあるまい。p281プラブッダ同上

15)と、まずはここまでは普通の運びであろうが、そのホール・アース・カタログの編者であるスチューアート・ブランドは「地球の論点」(2011/06 英治出版)では、原発推進派への転向を表明し、その第一冊目に掲げられたという本書「地球生命圏 ガイアの科学」の著者、ジェームス・ラブロックは、一貫して原発推進者だったと「ガイアの復讐」 (2006/10 中央公論新社)と述べているのだから、奇妙なものである。

16)本書を読み終えた読者なら、ラブロックのいう地球生命ガイアと、ぼくの感じとったガイアとのあいだには微妙なズレがあることにお気づきだろう。

 大気分析とシステム論から導きだされたラブロックのガイアは、どちらかというとしたたかで、熱帯降雨林と大陸棚さえしかるべく保護されていれば、従来ていどの工業汚染どころか、氷河期や核戦争ぐらいではたいした影響はうけない。

 それにたいして、ぼくの体感するガイアはもっとずっと繊細で傷つきやすい。ぼくが同調(チューン・イン)しているのはガイアの感情ないし意識活動に近く、ラブロックの総論的な記述が、ガイアの生理あるいは肉体活動を中心としているからかもしれない。p280プラブッタ同上

17)すでに四半世紀前に出版された本である。後だしジャンケンよろしく、今となってあれこれ言うのはフェアではないが、スリーマイル島の原発事故を体験した後ではあるが、まだチェルノブイリの原発事故が起こる前であったとしても、はて、2011年の3・11の原発事故を「全地球規模」で体験してしまった現在、科学者・ラブロックの「先見性」はいかほどであっただろうか。かなりいぶかしいものに思えてくるのではないだろうか。

             

| | コメント (0)

2012/08/30

ガイアと里―地球と人間のゆくえ  屋久島対談 <2> 山尾三省+プラブッダ

<1>からつづく 

Photo
「ガイアと里」 地球と人間のゆくえ 屋久島対談 <2>
山尾 三省 (著) , スワミ・プレム・プラブッダ (著) 1986/01 地湧社 単行本: 221p

星川淳(プラブッタ)関連リスト (工事中)

「存在の詩」 Osho プラブッタ訳 1975/8 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター

「注目すべき人々との出会い」グルジェフ /星川訳 1981/12 めるくまーる

「地球感覚、」屋久島発 1984/08 工作舎

「地球生命圏」ガイアの科学  ジェ-ムズ・ラヴロック 1984/10 工作舎

「反逆のブッダ」Oshoの軌跡 ヴァサント・ジョシ著 プラブッダ訳 1984/10 めるくまーる社

「ガイアと里」―地球と人間のゆくえ屋久島対談 山尾 三省と共著 1986/01 地湧社

「精霊の橋」1995/03 幻冬舎

「モンゴロイドの大いなる旅」 1997/09 同朋舎

「環太平洋インナーネット紀行」―モンゴロイド系先住民の叡智  1997/09   NTT出版

「一万年の旅路」―ネイティヴ・アメリカンの口承史 ポーラ アンダーウッド著 星川淳・翻訳1998/05 翔泳社

「知恵の三つ編み」 ポーラ・アンダーウッド著、 星川淳・翻訳 1998/08 徳間書店

「魂の民主主義」―北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法 2005/06 築地書館

「暴走する文明」―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ ロナルドライト著  星川淳・翻訳   2005/12 日本放送出版協会

「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」  2007/03 幻冬舎

「タマサイ 魂彩」 2013/10 南方新社

1)前回は3・11後における山尾三省再読のプロセスでこの本を読んだのだが、今回は、「ガイア」ジェームズ・ラブロック再確認のプロセスの中で、ガイアつながりでこの本をめくってみることになった。

2)プラブッダ(星川淳)はラブロックの初期的な本を2冊翻訳しているかぎり、日本へのラブロックの紹介者のひとりと目されてしかるべきなのであるが、ラブロック自身が多面的な変貌を見せるので、後期の読者たちからは、むしろ間違った紹介者のようなかたちで見られてしまうこともある。

3)いずれにせよ、この本においては三省とプラブッタが屋久島という場において対談しているのであり、自らの立ち位置を里とガイアという旗印でその距離感を盛んに確認し合うという趣向である。

4)この二人は、年代的には私の先輩筋にあたるわけだが、同時代性としては、よくもわるくも象徴的な二人であり、その活発な表現に対しては、好印象を持ったり、一方的な感情論でぶつかってみたりしてきた。

5)実際はこの本に対しても複雑な思いがあるのだが、三省がアメリカのゲーリー・スナイダーを訪ねて対談した「聖なる地球のつどいかな」(1998/07  山と溪谷社)に対してレインボー評価をするなら、その対となるべきこちらの本についても、やはりレインボー評価をしておかなければならないのではないか、と思う。

6)読み返してもなかなかためになることが多い。かなりの部分が共感できる。ただ、ここで書かれている「ガイア」は、必ずしもラブロックの「ガイア」ではない。よくもわるくも、二人の、少なくとも反核・脱原発の思想を強く持った側としての「ガイア」である。転向ではなく、一貫してそうだったと主張するラブロックの原発推進論にはあきれるばかりだが、よもや翻訳者のプラブッタとて、その紹介者が「一貫した」原発推進者だったとは考えていなかっただろう。

7)3・11を挟んで、当ブログは「プロジェクト567」なるひとつの取りまとめをしていた。7つのキーワードに収められてそのビジョンの第一はエコビレッジだった。当時の成り行きの中で、その可能性を求めていたわけだが、それはガイアとも里とも繋がり得る概念だった。それは3・11後に大きく進展することはなく、現在は停滞している。

8)しかし、共同で進められようとしたそのビジョンは、より個的なものなり、いまは、個人としては、ガイアでもなければ、里でもない、我が家の庭的なスケールまで矮小化されてきている。矮小化と卑下するばかりではなく、それはそれだけより現実的になってきたともいえる。

9)ただもっというなら、いまやもうひとつ別なキーワード、マーケットプレイスというところまで降りてくることも可能である。市場、市井、俗世間、日々日常、と言うことも可能だろう。外にも、里にも逃げ込むことができない、あるいは逃げる必要もない原寸大の日々がいま、3・11後の自分の周囲にある。

10)この本のサブタイトルは「地球と人間のゆくえ」である。すでに27年前に行われたこの対談で、明確に語られた認識とビジョンは、四半世紀を経たいま、どれほど具体化し、成果を挙げているだろうか。ビジョンや感性としては素晴らしいものがあるのだが、その結果がどうであったのか、ということを考えると、ビジョンや感性というものの危うさに気付かずにはおれない。

11)カウンターカルチャーという時、ちょうど同じ年代1986年にスチュアート・ブランドが「メディアラボ」(1988/04 福武書店)で触れているようなパソコン文化などは、この対談ではまったくでてこないのが、一つの象徴的一面ではある。三省は晩年までパソコンやメールをつかわなかったのではないだろうか。プラブッダも、屋久島に棲んでいたということもあり、最先端でパソコン文化を取り入れた、という経緯はなかったように思う。

11)プラブッダについてはときおり触れてきたが、当ブログとしてはまだまとめていない。当ブログがスタートする前に、別のSNSで追っかけをしてしまったので、一覧をつくるチャンスがなかった。今回、ここにそれを始めるきっかけを作っておきたい。今、彼を再読する気はないが、後日、気が向いたら、あちらからごっそりこちらに移転してきて、リストをつくることも可能ではあろう。

以下つづく

| | コメント (0)

ガイア 地球は生きている ジェームズ・ラブロック <2>

<1>からつづく

Gaia_600
「ガイア」 地球は生きている<2>
ジェームズ・ラブロック (著) 竹田 悦子 (翻訳)  松井 孝典(日本語版監修) 2003/08  ガイアブックス 単行本 191p
Vol.3 No.0790★☆☆☆☆

1)この本、3・11で壊滅した図書館が、数カ月してようやく再開した時、震災コーナーに大きく表表紙を見せて飾られていた。図書館スタッフもかたずけが大変な中、無事だった在庫の図書で、なにはともあれ関係のありそうな本を並べてみたのだろう。

2)ところがこの本は、借り手がなく、いつまでもディスプレイのように飾られていた。たしかに地球の画像はきれいだし、タイトルだって、素敵でしょう・・・・「地球は生きている」・・・・・。そう思って、私が借りなきゃ誰も借りないのかなぁ、なんて勝手に思いながら、借り出し、他の震災関係の本と一緒に読みだした。

3)読みだしてから気がついたのだが、この本、面白くない。最初、きれいだなぁ、と思った表紙さえ、なんだか少し絵柄がずれていて、かなりピンボケだ。「病んでいる地球を科学的に診断したわかりやすい図鑑」というサブタイトルさえ、歯が浮いてくるようなちぐはぐさだ。

4)いいタイミングだなぁ、と思ってなにかメモしておこうと最初は思っていたのに、ちょっと開いただけで、ゲンナリして、自分のブログにメモすることすら面倒くさくなり、さっさと返却してしまった。

5)ガイアは、本書の著書ラブロックが、地球が何故生命の惑星か、という問いに関して、彼の主張に命名した言葉である。私はその問いに対し、別の考え方を主張しているので、彼のその主張に全面的に賛同するわけではない。p3松井孝典「日本語版監修にあたって」

6)最初の書き出しからしてこの調子だ。意見が違うなら監修なんて受けなければいいのに、なんだかみんなリキが入っていない一冊となっている。松井孝典氏は、1992年の「スピリット・オブ・プレイス」のポスターの地球図を提供してくれた人だし、パネラーの一人だった。その彼のノリがこの調子である。一体、ラブロックという人物の研究とやらは、どんなものだったのだろう。

7)なにはともあれ一年前は黙って返却しておいた一冊だが、今回は「ガイアの復讐」(2006/10 中央公論新社)をめくったついでに、ひととおりラブロックの著書をまたさわってみようと思った。

8)しかし、それにしてもひどい。少なくとも、3・11後の震災地において、敢えて開いて読んでみよう、という気分にはならない本である。沢山の図版があり、カラー写真がところ狭しと印刷されているが、ことごとく間が抜けている。それもこれも、今となっては、ラブロックが、「転向」ではなくて、「一貫して」原発推進派だったと発言していることに、あらためてウンザリしていることと関係があるかもしれない。

9)すくなくとも、このようなラブロックに師事しているスチュアート・ブランド というお人も、かなりトンチンカンだなぁ、と今の私なら思う。すくなくとも、こいつらに、カウンターカルチャーを標榜されては困る。

10)自分を病の地球を癒す地球医学者に見立てたり、「人類という疫病」(p153)なんてところを見ると、おいおい、いい加減にしなさいよ、と言いたくなる。

11)論争を好んだり、珍奇な学説を唱えたりすることによって注目を浴びたいという欲望があったのかもしれないが、少なくともラブロックにおいての科学は、あくまでも「仮説」なのであり、それが「ガイア仮説」から「ガイア理論」と、表現が変わったとしても、仮説は仮説である。

12)あるいは「仮説」というのも程遠く、フィクション、つまり「嘘」と決めつけてもいいような部分も実は多い。科学的フィクションだから、SFだと思えばいいのかも知れないが、SFにはSFなりの矜持というものがある。「地球は生きている」というコピー、少なくともこの本においては、インチキ、羊頭狗肉と言われても仕方ないのではないか。

13)いずれにしても、90才も過ぎて「原発推進」を、いかにも最後の解決策のように宣伝するようなデマゴーグは、当ブログとは極めて相性が悪い。いつまでも無視してばかりもいられないので、なにはともあれ、最大限の不快感をここで表明しておこう。

  • | | コメント (0)

    2012/08/29

    スマホ通信料ここまでさがる スマホの賢い使い方9秘策 週刊東洋経済 2012年 9/1号


    「スマホ通信料ここまでさがる」スマホの賢い使い方9秘策
    週刊 東洋経済 2012年 9/1号 東洋経済新報社 雑誌 A4
    Vol.3 No.0789★★★★★ 

    1)当ブログで二年前に「わかるWi-Fi 無線LAN規格の統一ブランドー『仕組み』と『使い方』」2010/09 工学社)について書いた記事へのアクセスが、いまだに続いている。あの時点ではまだWi-Fiについての本は少なかった。大体読み方さえよく分かっていなかった。

    2)ところが、現在においては、「ワイファイ」について知らない人は殆どいない。少なくともスマホを使っている人は、ほとんどがWi-Fi を意識している。もっとも「スマホ」という単語だって、「スマートフォン<全方位>読本」(「家電批評」2010年 09月号)あたりでは、スマホどころか、スマートフォンと言ってピンとくる人は少なかった。

    3)今や、ガラケーという蔑称も消え去り、国内で発売されるケータイの全てはスマホ、という時代になった。スマホは当たり前の存在になったのである。

    4)そして、その割高な通信料をいかに下げるかが話題になってきている。「通信料金をトコトン下げる!必勝テク ケータイ スマホ ネット」特選街」 2012年07月号)なんて雑誌が気になっていたが、今度は東洋経済で「スマホ通信料ここまでさがる」という特集を組んでいる。

    5)ケータイ派ではなくパソコン派を自認し、アップル派ではないことをむしろ誇りにしてきた当ブログではあったが、いつの間にかアンドロイド・スマホを二台持ちする事態になっている。

    6)実は、AUが2年前にIS01を8円運用でリリースした時点から、自宅Wi-FiとFONでもって、かなり安価(というかほとんどタダでしょう)に使ってきた。IS01も3台購入したから、それなりに周囲の者にとってもメリットがあったはずである。

    7)そして、そろそろ二年割が切れる直前になって、一年落ちとは言え、機種変え0円というスマホが登場し、これまた二台も新機種に代えたので、スマホ自体はさらに増えてしまった。昔の機種は自宅Wi-Fiに繋げば、OSは多少時代遅れだが、なんの苦もなく活用できるのだった。

    8)さて、そう来ると、自宅はともかく外出した時はどうするのか。そこで今使っているのはAU系のWiMax。子供が自宅用に使っているのだが、通信会社のサービスで、一契約で二台のルーターを使えることになり、同時に使うことはできないものの、夜は子供、日中は私と、使い分けると、二人で一台分の通信料で使えるのだった。

    9)Wi-Fiを使い尽くすなら、KDDI系のUQコミュニケーションズが発売する「WiMAXモバイルルーター」がお薦めだ。自宅用の小型基地局を持ち歩く感覚でネットにつなげる。

     しかも月額3880円(UQプラット年間パスポート)。3Gのパケット定額プラン(5460円)より、年間2万円近くも安い。

     これが、データ通信料を下げたい人たちから圧倒的な支持を得ている。スマホの3G機能を「切」にしてしまい(通話は可能)、モバイルルーターでネットにつなぐほうが速くて安い。

     機器を2つ持ち歩く煩雑さより、高速Wi-Fiの快適さが勝るというわけだ。p60「モバイルルーターは『WiMax』が最強」

    10)なるほどね、やっぱりそうであったか。別に積極的に研究していたわけではないが、お手軽に手に入る範囲の組み合わせを駆使している間に、結局は「最強」の組み合わせに、自然に辿り着いているようだ。

    11)これからスマホを買おうという人は、いっそのこと、中古スマホ(白ロム)やアイボッドタッチ(1万6800円から)を買い、WiMaxと組み合わせて使うのはどうだろうか。これなら、端末購入費も減らせる。 p60同上

    12)我が家には、0円機種変えで白ロム化した端末がゴロゴロし始めたので、これはこれでいろいろ活用できるようになった。ただ、WiMaxも完璧ではない。自宅や都市部では便利だが、移動中や高速道路、あるいは地方部や山間ではまったく繋がらない。

    13)きちんと確かめてはいないが、結局は3GとWi-Fi機能が合体してテザリング機能が発達している端末(クロッシーとか・・・?)に移行していく過程にあるのだろう。安さも欲しいし、速さもほしい、そして広さも絶対にほしいのである。

    14)安い、速い、広い、の三拍子がそろった通信機能がどのように実現していくのか、息をひそめて見つめている。

    | | コメント (0)

    2012/08/28

    別冊宝島(1) 全都市カタログ〜都市生活者のフォークロア

    Photo_2

    「別冊宝島(1) 全都市カタログ」〜都市生活者のフォークロア
    JICC出版局 1976/04 雑誌・ムック p306
    Vol.3 No.0788★ 

    1)スチュアート・ブランドの「ホール・アース・カタログ」ときたら、その影響をもっとも強く受けた雑誌「別冊宝島(1)全都市カタログ」を思い出さないわけにはいかないだろう。

    2)発行されたのは「星の遊行群 ミルキーウェイ・キャラバン」があった1975年の次の年。遅いといえば遅いが、なにはともあれ、こういう形で痕跡が残ったということは良かった。

    3)はて、こんな雑誌を覚えている人はいるだろうか、と思って検索してみると、実に多くの情報がヒットする。なるほどね。やはり、この雑誌は素晴らしかったのだ。古本屋のページを見ると、1981年版で第8刷となっているので、随分と長く版を重ねたロングベストセラーになったようだ。

    4)当ブログがこの本にそれなりに思い入れがあるとすれば、それは自分が当時編集していたミニコミ誌が紹介されているからでもある。

    5)

    Photo_3 「時空間」

     新しい生活を始めるためには、やはり新しい生活の知恵がどうしても必要だ。食事、セックス、着るもの、道具、すべてにわたる”新しい生活”のための知恵がここにある。 

     旅をしよう、人生という巨大な旅を! あたえられるものではなく、自分のために自分ででつくり出したものを持って。 

     いまあなたが行っている日常生活は、テレビを見ている時分を見ている自分みたいなもので、テレビのなかに入り込みそれに熱中している楽しさとくらべたら、実につまらないものだろう。

     旅は人生をテレビのブラウン管にしてくれる。主人公は、もちろん、あなただ。つまりこの雑誌は、人生を旅にする目的を持っている。

     「時空間」 127頁 1975 200円 発行 雀の森工房 p112

    6)なんともはや、面映ゆい紹介記事である。この本が出版された当時は、この紹介記事にとても反発した。なんの問い合わせもないまま記事として取り上げられて、人に教えられるまで記事になっていることさえ知らなかった。

    7)しかしまぁ、あれから36年が経過して見れば、これはこれで大変ありがたい紹介記事だったということになる。そして、誰が書いたか知らない紹介文ではあるが、結句の「つまりこの雑誌は、人生を旅にする目的を持っている」とのメッセージは、言い得て妙というべきだろう。当時の私たち(私は当時21歳、表紙は私のデザインだ)は、自らの雑誌にサブタイトルやキャッチフレーズを持つ力さえなかった。 

    8)この雑誌「別冊宝島」の編集にかかわっていた一人が北山耕平だ。彼のブログを見ると、「同志たちよ、あの偉大なるカタログがウェブサイトですべて公開されましたよ」(Monday, January 12, 2009)の文字が躍っている。

    9)北山耕平を「同志」と呼ぶにはちょっと距離感があるが、ただあの時代の雰囲気を思い出そう、という気にはなる。当のスチュアート・ブランド自身が最近刊の「地球の論点」(2011/06 英治出版)で原発推進を過大に評価しているので、彼を「同志」とは呼べない。ましてや「導師」などとも考えることさえはばかれる。

    10)なにはともあれ、ここに、いわゆる日本のカウンターカルチャーの片鱗をメモしておくことにする。

    | | コメント (0)

    2012/08/27

    ガイアの復讐 ジェ-ムズ・ラヴロック


    「ガイアの復讐」
    ジェ-ムズ・ラヴロック/著 秋元勇巳/監修 竹村健一/訳 2006/10 中央公論新社 単行本 290p
    Vol.3 No.0787★★☆☆☆

    1)この本の評価も難しい。原発推進派、という意味では評価不能で、記録しておくのもはばかれる。著者はいろいろ言うが結局この本のキモは原発推進にあるのだから、せいぜい評価して★ひとつがいいところである。

    2)しかるにこの本は「あの」ラヴロックの最近刊なのである。ガイアという単語で一世を風靡した、大御所なのである。単に無視することはまことに失礼ばかりか、有害とさえなるだろう。

    3)このおじさん、1919年英国生まれですでに93歳になっている。近所に、このような大学を退官して悠々自適な生活を送っているような好々爺がいたら、きっと近所の人気者で、なにかと話題にされて、愛されるに違いない。

    4)しかしながら、この本においてラブロックはますます意気軒昂であるようだ。闘争をさけず、議論を好み、異端、孤立をも恐れないような、毅然とした姿勢がうかがえる。それがともすれば、大きく的外れだったり、意欲的「過ぎる」としても、それはそれなりに、彼なりの「科学者」像であるようだ。

    5)環境保護主義の友人の多くは、私が原子力発電を強く支持することに驚き、最近宗旨替えをしたのかと思うようだ。 

     しかし私の最初の著書「地球生命圏---ガイアの科学」(1979年。邦訳はスワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第二章と、次の著書「ガイアの時代」(1988年。スワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎)の第七章を読めば、そうでないことがわかる。p159「核分裂エネルギー」

    6)スチュアート・ブランドの「地球の論点」(2011/06 英治出版)が、このラブロックの影響を受けていることがわかったので、こちらの本も読んでみることにしたのだが、上記のラブロックの一連の書物は、翻訳者がOshoの翻訳者でもあり、出版社も親近感を感じていたところだったので、出版当時から、それなりに気にはしてきた。

    7)ラブロックは、文明社会がガイアと共存してゆく切り札として、原子力エネルギーの利用を強く推奨しているが、これはいまに始まった主張ではない。1979年の最初のガイア著作から、彼の全著作を通じ、繰り返し述べられていることである。

     ヒステリックな反原子力感情が世界を覆い、環境保護運動と反原子力運動がほとんど同義語のように語られていた時代にこのような主張を貫くことで、ラブロックは原子力を感情的に拒否する多くの友人を失い、反原子力を標榜する緑の党とも袂を分かたざるを得なくなるが、ガイアの本源に根ざした彼の主張の曲げられることはなかった。

     最近では、緑の党の創設者の一人で活発な活動家でもあったパトリック・ムーアのように、ラブロックとの対話から自らの誤りを悟り、原子力エネルギー支持に回る環境運動家も現れるようになっている。p17秋元勇巳「今なぜジェームス・ラブロックなのか」

    8)秋元には三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)勤務、原子力文化振興財団理事長、などの経歴がある。最初ニューエイジの寵児のように登場したラブロックも、21世紀においては、秋元とか竹村健一などが推薦する論者となっている。

    9)私は二年前に日本で「ガイア」という名前の車を見たが、(中略)その車は省エネ設計のハイブリッドカーですらなかったのだ。p141「再生可能エネルギー」

    10)トヨタ・ガイアが登場したのは、1998年、初代プリウスより一年後のことだ。この名前に私も率直に言って驚いたが、20世紀末には、世界中が環境問題について考える時代となっていた。自社の商品にコピーライターたちがなりふり構わずイメージ戦略でありとあらゆる名前をつけることはよくあることである。

    11)ただ、ラブロックとて、ガイアという名前をギリシャ神話から借りてきている限り、別に、ラブロックの頭ごなしに車の名前にされていたとしても、別段に怒るようなことでもあるまい。むしろ本家のガイア女神のほうが驚いて、怒っているかもしれない。すくなくとも、ガイア女神と原発は、直線的にはつながらない。

    12)カウンターカルチャーというアイコンで自社戦略を展開したスティーブ・ジョブズや、ガイアというアイコンで型落ち車を売ろうとしたトヨタが滑稽なら、ガイヤというアイコンで原発政策を推進させようとするラブロック本人も、きわめて滑稽なこととなる。

    13)私は1960年代の末頃、(略)近隣の友人であるウィリアム・ゴールディングと何度か散歩した。(略)私は彼に、(略)地球が単なる生命の存在する惑星ではなくある意味で生きていると考える理由を話した。彼はすぐさまこう言った。「それほど壮大な考えを提案するなら、ぴったりの名前をつけなければだめだ。ガイアがいいんじゃないかな」。地球に関する私の概念に彼がこんなにシンプルで力強い名前をつけてくれたことに私は心から感謝した。p236ラブロック「限界を超えて」

    14)いずれにせよ、そのネーミングは借り物だ。

    15)ラブロックを理解し、ガイア理論を正しく日本に紹介しようと努力した最初の著名人は、糸川英夫博士である。(略)ちなみに欧米でニューエイジ本なみの扱いを受けたラブロックの第三著「癒しのガイア」は、日本では糸川博士監訳のもと「ガイア---生命惑星・地球」(1993年 NTT出版)なる豪華本として上梓され、それまでくすぶっていたガイア理論のニューエイジ的誤解の払拭に役だった。p11秋元勇巳「ラブロックと日本 今なぜジェームス・ラブロックなのか」

    16)秋元は、第一著、第二著の翻訳者である星川淳(=プラブッダ)をなんとしても無視したいようである。秋元が本家本元の原発推進派の御大であるなら、星川もまた後年(2005~2010)、いわゆる環境保護団体グリーンピース・ジャパンの事務局長を務めたゴリゴリの反原発派だ。二派が二つに分かれて両側からラブロックを引っ張り会っている図は、実に滑稽である。

    17)もう一つの反応は、水素や同位元素といった軽い元素の核融合である。太陽や他の多くの恒星は、この反応によってパワーを得ている。まだ公共利用のための電気を供給するには至っていないが、「水素爆弾」の爆発エネルギーの一部はこの反応によるものだ。技術的な問題が解決して、実用的で効率のよい発電所が建設されれば、それが未来の伝記の源になると私は考えている。p154ラブロック「原子力エネルギー」

    18)技術的で専門的な話題になれば、当ブログのような一読書子には手も足もでないが、この辺になれば、むしろ当ブログが依拠している、それこそゴリゴリの反原発の小出裕章氏のほうが説得力がはるかに上回る。ラブロックは科学者とか、地球の臨床医などと、自他ともに認めているようだが、こと原発や放射線の危害については、おそろしく無知なようだ。

    19)ガイア仮説は、ガイア理論に発展した(p257用語解説)とのことだが、ラブロックが本著の随所で認めているように、科学はあくまで仮説に過ぎない。どのような言辞を振り回そうと、決定的な原理にはならない。この本はすでに6年前に出版された本である。3・11を体験して、関係者たちの心境に変化もあることだろう。そのあたりは、当ブログとしてもそれなりに追っかけてみたい。

    20)すくなくとも、ラブロックは当ブログが求めているような地球観、人間観からはかなりずれてしまっている、と思う。

    | | コメント (0)

    2012/08/26

     福島原発事故 原発を今後どうすべきか 小出裕章


    「福島原発事故」原発を今後どうすべきか
    小出裕章 2012/04 河合ブックレット 河合文化教育研究所 河合出版 全集・双書 121p
    Vol.3 No.0786 ★★★★★

    1)この本もビッグレッド評価だ。著者を招いて2011年9月17日18日に河合塾北九州校と福岡校で開催された講演会の記録である。聴衆10代から20前後の若者を中心とした受験生たち。いつも聴いている内容ではあるが、こちらもなお一歩踏み込んでいる。

    2)みなさんは、いまだに原子力が未来のエネルギー源だと聞かされてきたと思うし、そう信じている方も多いと思いますが、実は世界は原子力から撤退しているんです。世界の原子力を牽引してきたのはもちろん米国とヨーロッパです。そういう国々でも一時期原子力に夢を抱いた時代がありました。私が原子力に夢を抱いた1960年代から70年代初めにかけてです。p44「世界の趨勢は廃炉」

    3)スリーマイル島事故以降、なぜ、日本も舵を切れなかったのだろう。

    4)いまからもう37年前がピークで、それをピークにして、もう原子力はだめだということで、米国ではもう夢から醒めている。計画中のものは次々とキャンセル。建設中だったもの、9割できていた原子力発電所すらがキャンセルされている。

     いまようやく100基を超えて動いていますし、2008年あたりにちょっとだけ計画中というのがありますが、これは地球温暖化問題をてこに、ブッシュという前の大統領が原子力発電所を建設したら金をやるぞという原子力推進政策を発動したために電力会社がのりかけたものです。

     しかし、これも今回の福島の事故で全部つぶれました。つまり、もう米国では原子力は終わりだということです。p45同上

    5)当ブログにおいては、現在、スチュアート・ブランドの「地球の論点」を通過中である。日本においては3・11後の2011/06に邦訳本が出版されているが、原典は2008~9年に書かれている。池田純一も著書で、スチュアート・ブランドは共和党支持者だと書いている。

    6)なるほど、時代的タイミングとか、その政治的立場から考えて、ブランドがあのような著書を書いてしまったのは、そのような背景が色濃く反映されていたと考えて問題ないだろう。しかしながら、小出氏がいうように、ブランドやラブロックやゴアやゲイツなどについても、「今回の福島の事故で全部つぶれ、もう米国では原子力は終わり」と断定していいものだろうか。

    7)では、ヨーロパではどうかというと、これも米国も同じです。60年代から70年代にかけて、猛烈な勢いで原子力に夢をかけた時代があり、ずーっと計画が増えてきました。運転中、建設中、計画中の合計が一番高かったのは1977年。つまり34年も前です。

     ヨーロッパは原子力はだめだと、それ以降どんどん計画中のものはキャンセル。建設中のものもキャンセル。運転していたものも150基を超えましたが、それすらがどんどん廃炉になって減っているという状態なんです。米国もヨーロッパも、30何年も前に原子力に見切りをつけているんです。p46

    8)この辺については、勉強不足のゆえ、もうすこし調べてみないと、自分なりには確認できない。片野優「フクシマは世界を変えたか ヨーロッパの脱原発事情」 (2012/04 河出書房新社)あたりを再読する必要を感じる。

    9)これからのみなさんに課せられた仕事はそれです。どうやったらこの日本という国が、いや日本という国が-----ではないですね、この地球という★が、そしてその上で生きている人間が、世界が、そして日本が、あるいはみなさん一人一人が、どうやってこれから豊かに生きていかれるかということを考えなければいけない。そういう時代になっていると思います。そのために必要な力あるいは知識というのは多様です。p65「不夜城ではなく豊かな社会を」

    10)その時代の工学部原子核工学科というのは、一番難しい学科でした。そういう時代に生きていて、私は原子核工学以外はやる気がしなかったので、その時に志望学科を一個しか書きませんでした。第二志望も第三志望も書かない。「第一志望・原子核工学科」と書いて、そこで採ってくれないなら行かなくていい、ちう形で私は選んだんです。当時は、それほど原子力というと、世界中が夢に酔っていたという時代でした。p95「廃炉のための原子力研究」

    11)これだけ優秀な学究であったればこそ、氏の反原発の主張は静かだが、深い説得力に満ちている。

    12)最後に塾関係者が書いている。

     その後も原発の増設は続いた。現在の日本には54基の原発がある。しかし私個人について言えば、原発の存在もいつしか日常化し、日々の生活に追われる中、その危険性を感じる神経は鈍化していった。p117青木裕司「解説 講演会を終えて」

    13)それは何も、かつては反原発のデモに参加していたというこの人だけの問題ではない。多くの人々が、その争点を見失い、推進派にやりたい放題やらせてしまっていた、というそれぞれの「責任」がある。もちろん私も免罪されることはない。

    14)この本で氏は忌野清志郎の歌を二曲紹介している。

     

    | | コメント (0)

    2012/08/25

    私たちの選択 アル・ゴア  温暖化を解決するための18章<2>

    <1>からつづく 

    私たちの選択
    「私たちの選択」 温暖化を解決するための18章
    アル・ゴア/枝広淳子 2009/12 ランダムハウスジャパン 単行本 414p
    ★★☆☆☆

    1)ZENジョブズのZENパソコン文化カウンターカルチャースチュアート・ブランド→原発推進へ転向→アル・ゴア・・・・、という、なんとも回りくどいプロセスのなかでこの本に舞い戻ってきた。

    2)ちょうど3年前に読んだ時も、評価は高くなかったが、今回も、いくらめくってもなかなか納得することのできない、変な本だなぁ~、というイメージばかりがやたらと目につく。さらに先立つこと2年前、「不都合な真実」の時でも、なんか変だなぁ~というイメージがつきまとった。

    3)この、何か変だなぁ~という感覚は、小出裕章氏の一連の著書を読んでいると、たちまち氷解する。つまり、アル・ゴアの著書は、守備範囲があまりにも広く、カラー写真満載でその豪華さが、あまりにも違和感を抱かせるのに対し、小出本は、ターゲットを原発に絞り込んであり、実に分かりやすいのである。

    4)最も期待できそうなのは、1960年大からドイツで設計されてきたものをベースにした「ベブルヘッド型」の原子炉だと考えている専門家がいる。

     燃料棒を使わず、炉心に酸化ウランの「ベブル」(石のようなもの)のようなものを36万個いれておいて、使用済み燃料として基底部から取り出しては、毎日3000個のベブルを新しく投入するといものだ。

     燃料となるベブルには、一個あたり何千もの二酸化ウランの「粒」が含まれており、この粒一つひとぐが炭化珪素や熱分解層で被われている。ベブルは、だいたいビリヤードのボールぐらいの大きさで、最高反応温度よりはるかに高温の2800度まて耐えられる黒鉛製の容器に封印されている。p160「次世代の原子力発電」

    5)ビル・ゲイツは、3・11後のダボス会議で「高性能の次世代型の原発」に投資すると発言している。彼の言っている「次世代原発」とは、このようなものを言っているのだろうか。

    6)数多くの研究・開発チームが、新たなる設計を作り出すことで、現世代の原子炉が抱える、力を萎えさせるようなこの問題を解決しようと懸命に取り組んでいる。

     彼らは、次世代の原子炉は、建設費が安く、より安全に低コストで運転でき、小さめの規模でも経済的なものにしたいと願っている。こういった原子炉だったら、今後の電力需要に不安を抱える電力会社にとって、より魅力的なものになるだろう。

     いわゆる「第4世代」の原子力発電所に向けた新しい原子炉の設計は、冷却材に液化ナトリウムを用いる「ナトリウム高速炉」(または「統合高速炉」)など、100を超える。

     南アフリカ共和国製の設計のバリエーションの1つで、現在アイダホ国立研究所で調査が進められているのは「超高温原子炉」である。p161「原子力という選択肢」

    7)次世代とか、高性能とかの形容詞が躍る説明だが、根本的な放射線の問題は、基本的にはなにも解決されていない。ゴア(というかこの本)もまた、決して手放しの原発礼賛をしているわけではないが、いくつかの可能性を見ているという意味では、「原発のない世界へ」とか、「原発ゼロ世界へ」、といった小出裕章的世界観とは、まったくかけ離れたものとなる。

    8)この本やスチュアート・ブランドの「地球の論点」などもそうだが、たくさんの問題点を並べて、一気に快刀乱麻で解決策をみつけようとする姿勢は、その大言に勢いがあっても、さらなる混乱を生み出すだけで、結局は根本的な解決策にはなっていないようだ。

    9)解決策といえるかどうかはともかく、数えきれない問題点をこれだけ並べ続けるのなら、その中心点は、一点ではなく、無、空間、エンプティとして存在するしかないだろう。

    | | コメント (0)

    2012/08/24

    原発に反対しながら研究をつづける小出裕章さんのおはなし 「子どもから大人まで、原発と放射能を考える」副読本 野村保子 クレヨンハウス


    「原発に反対しながら研究をつづける小出裕章さんのおはなし」 「子どもから大人まで、原発と放射能を考える」副読本
    小出裕章/野村保子 2012/04 クレヨンハウス  単行本 111p
    Vol.3 No.0785

    小出裕章関連リスト

    「隠される原子力・核の真実」 原子力の専門家が原発に反対するわけ 2010/12 八月書館

    「原発はいらない」 2011/07 幻冬舎ルネッサンス 

    小出裕章が答える原発と放射能」 2011/09 河出書房新社

    「3.11から始まったこと」 ~東京電力福島第一原子力発電所原発震災を生きる私たちへの提言~ 小出裕章講演会 2011/8/5 ハーネル仙台

    「原発のない世界へ」 2011/9 筑摩書房

    「原子力村の大罪」 西尾幹二・他と共著 2011/09 ベストセラーズ

    「原発ゼロ世界へ」 ぜんぶなくす 2012/01 エイシア出版

    「原発のないふるさとを」土井淑平と共著 2012/02 批評社

    「騙されたあなたにも責任がある 脱原発の真実」 2012/04 幻冬舎

    「原発に反対しながら研究をつづける小出裕章さんのおはなし」子どもから大人まで、原発と放射能を考える副読本 野村保子 2012/04 クレヨンハウス

    「福島原発事故  原発を今後どうすべきか」 2012/04 河合ブックレット 

    「日本のエネルギー、これからどうすればいいの?」  中学生の質問箱 2012/05 平凡社

    「『最悪』」の核施設 六ヶ所再処理工場」渡辺満久・明石昇二郎との共著 2012/08 集英社

    「この国は原発事故から何を学んだのか」 2012/09  幻冬舎ルネッサンス

    「原発事故と農の復興」 避難すれば、それですむのか?!共著 有機農業技術会議 2013/03 コモンズ刊 

    「アウト・オブ・コントロール」 福島原発事故のあまりに苛酷な現実 大人はもういい 子どもたちの未来のために 何ができるのか? 高野孟との共著 2014/1 花伝社

    「100年後の人々へ」2014/02 集英社

    「愚者が訊く」倉本聰+ 林原博光 「なぜ日本人は”原発の嘘”を信じたのか?小出裕章」収録 2014/05 双葉社

    ---------------------

    1)この本もまた、実に分かりやすい。クレヨンハウスとは何者か私は知らないが、以前に読んだ『3・11からの子育て 「知らなかった」から半歩前へ』(月刊クーヨン増刊 2011/12)がとても気持ちよかった。落合恵子の名前が見え隠れするので、彼女が活躍している出版社や活動体なのだろう。

    2)そもそも小出氏の話は実に分かりやすいが、本当はとてもむずかしい話。それを簡単に話してくれるのは、徹底的に原発と40年以上も取り組んできた人だからこそできること。その人が、子供向けに語る、という趣向。

    3)原発を推進するひとたち、国と電力会社は、二酸化炭素を減らすために二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギー、原発をつくろう、といい続けてきたのです。

     はたして「地球温暖化」は、原発で止められるでしょうか?p78「原発のウソとホント」

    4)いわゆる環境保護運動家たちのなかでも、ジェームズ・ラブロックとかスチュアート・ブランドといった人々でも、この地球温暖化を理由に、いわゆる推進派に転向してしまった人々もいる。彼らの論拠と氏の論拠、どちらが正しくて、どちらが本当に説得力があるだろうか。

    5)原発が二酸化炭素を出さないというのはまちがいです。

     なにより、原発は死の灰を生み出します。死の灰は消えることなく、あなたたちの未来やその子どもの未来、さらに計ることのできない遠い未来までいのちを傷つけ続けます。p78同上

    6)国や産業、権力や民族と言った事柄にこだわる人たちは、どちらかというと推進派に多い。でも、地球人一人ひとりを大事にし、命を第一に考える人々は、原発を許すことはできない。

    7)わたしは、この本の中でも書かれているように、フクシマ原発事故を防げなかったことをことばに尽くせぬほど無念に思いますし、放射能で汚してしまった世界をみなさんに残していくことをおわびします。

     それでも原子力の場に長くいた人間として、わたしにできること、わたしにしかできないことがあります。たった一度しか生きられないいのですので、わたしはわたしの個性を活かして残りの人生を生きようと思います。

     そして、みなさんもたった一度しか生きられないいのちを、自分の個性を伸ばして、輝いて生きていってくれることを願います。

     もし、一人ひとりの個性が活かせる社会がくるなら、原子力などすぐになくせるだろうとわたしは確信します。p109「あとがき」

    8)3・11後、たくさんの情報があふれ、たくさんの本も出版されているが、それらを読んでみるのなら、氏の本を外すことはできない。今後も読み進めたいが、ここでリストを作っておこう。

    | | コメント (0)

    2012/08/23

    日本のエネルギー、これからどうすればいいの? 中学生の質問箱 小出裕章


    「日本のエネルギー、これからどうすればいいの?」 中学生の質問箱
    小出裕章 2012/05 平凡社  単行本 207p
    Vol.3 No.0784 ★★★★★

    1)この本は氏の前著「原発ゼロ世界へ ぜんぶなく」(2012/01 エイシア出版)につづき、ビッグレッド評価としておきたい。当ブログとしてはわずか2冊目である。

    2)公立図書館利用の読書ブログとして、自らの乱読の結果を忘れないために、暫定的に始めた☆マーク評価だが、平均値★3に対して、5つはかなり感動した本となる。それでもさらに突き抜けた本に対しては、レインボー評価をつけてきた。

    3)だが、氏の前著「原発ゼロ世界へ」を読んだとき、その読後感はさらに上に突き抜けて、暫定的にそれを上回るビッグレッド評価★★★★★というものをつけることになった。

    4)最近まで、国や電力会社は「原子力は二酸化炭素を放出しない。だから二酸化炭素削減が必要な、いまの時代に適したエネルギーだ」と宣伝してきましたが、実際はウランの採掘から運搬、書こう、使用済み燃料の処分まで、各段階で二酸化炭素を排出していて、いまでは「発電時に二酸化炭素を排出しない」と表現が変わっています。が、いずれにしても、宣伝をうのみにしないで、事実にもとづいた評価、行動が必要です。p140「これからは自然エネルギーにシフトしていくべきですよね?」

    5)この本はこの出版社のシリーズ「中学生の質問箱」の一冊に加えられている。図書館の分類ではYA(ヤングアダルト)コーナーに配置されている。氏の本の多くは、ですます調で書かれており、もともと読みやすい本が多いが、その中でも、とくにこの本は平素な言葉づかいで説得力をもって話しかけてくる。

    6)だが、内容的には、他の本よりも、さらに一歩前に踏みこんでいるのではないだろうか。原発そのものについては、当然ともいうべき氏のこれまでの40年に渡る研究の成果が語られる。しかし、この本では、視点が原発以上のレベルに引き上げられている。

    7)問われているのは、私たちのエネルギーの使い方、エネルギーを大量につくって大量に消費するという社会のあり方そのものです。私たちはエネルギー消費に対する考え方を変える瀬戸際にいます。いままでのようにエネルギーを消費して日本を滅ぼす覚悟をするのか、エネルギー消費を抑えた生活をする覚悟をするのか、どちらかをえらばなくてはならいのです。p157「経済に元気がないと困るのではないですか?」

    8)ことは核廃絶・脱原発を達成すればそれでいい、ということにはとどまらない。もちろんそこまで到達するには壮絶なる距離感が残っている。しかし、それを可能にする人間の存在の在り方がいま問われているのだ。

    9)エネルギーを浪費しない社会への変革は、おそらく、エネルギー消費の構造的な問題、世界のあり方の不公平を認識した人たちが、それぞれの自分のライフスタイルを劇的にではなくても変えていく、ということがあちこちで起こっていった末に少し可能性が見えてくるのだろうと思います。

     「これをしよう」とか「これは反対!」というような、運動としてもりあがるようなものではないだろうと思います。p192「どうすれば社会構造や世界のあり方を変えられるのですか?」

    10)この本を読んでいて、私は「当ブログ認定・地球人スピリット」という評価枠を新設しようかな、とさえ考えた。その第一号はまずこの方だろう。氏は個人として発言されている。科学的である。そして表現力ゆたかで、スピリチュアリティに富んでいる。

    11)この方のほかに誰がいるだろう、と考えた。いま生存している人物では、ゲーリー・スナイダーなどが適格なのではないか、と思いついた。でも、スナイダー自身は、この3・11後において、本当にその影響力を発揮しているだろうか。

    12)シュプレヒコールってわかりますか? デモなどでマイクを持った人が標語を叫んで、ほかの人が声を合わせる、あれです。私はシュプレヒコールが嫌いです。みんな違う人間なのに、ひとつの標語をみんなが唱和しなければならないからです。

     これからの可能性は、みんなが一緒になにかをすることにはないと思います。それぞれの人がそれぞれに大切なことをしながら、お互いにつながっている、というそういう形がいいと思います。

     福島第一原発事故のあと、原発をやめようという運動がたくさん起こってきて、ありがたいとは思いますが、みんなが一色に染まってしまったら気持ち悪いと思います。p193同上

    13)エアコンを使わないとか、車を持たないとか、そういう氏のライフスタイルを、私は真似ることはできない。あるいは(北)朝鮮の動きに対する表現などについても、個人的には違和感を持つところもないわけではない。しかし、それぞれの差異をたもちつつ、氏の存在は、身近で、信頼できる、尊敬できる生き方として、多いに感化されるところがある。

    14)ひとりひとりが自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の生き方を選べるような世界をつくることが、エネルギーをたくさん使えば幸せだと思っていた世界とは違う世界をつくることになるだろうと確信します。p194同上

    15)「おわりに」(p196)で、氏はながく子供を持たなかったが、後年になって生まれた三人のお子さんがあることを知った。その中のお一人はどうやら亡くなられたようだ。氏は私より5歳上だが、子どもたちの年齢は我が家よりやや数年遅れる。だから、類推するしかないのだが、そろそろお孫さんたちも生まれる年齢になっているのではないだろうか。

    16)3・11後に当ブログはプロジェクト567という名称で7つキーワードを追っかけてみた。そしてその中心においたのは、3・11を挟んで生まれた二人の孫たちである。もちろん、じいさんとしては我が孫はかわいい。そもそも子供好きの私には当然のことだ。だが、それはある意味象徴でしかない。人間とは命のバトンタッチだ。未来があるとすれば、これから生まれる子どもたちがそれを担う。

    17)私は、未来の子供たちから、「お前はどうやって生きてきたのか」と問われるでしょう。私だけではなく、きっとみんな問われます。 

     「お前はどうやって生きてきたのか?」 

     そのときに、自分は負けたかもしれないけれど、こうやって生きたと言えるように、私は生きていたいと思うのです。p205「おわりに」

    | | コメント (0)

    2012/08/22

    『世界が日本のことを考えている』 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ<2> 共同通信社

    <1>よりつづく 


    「世界が日本のことを考えている」 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ <2>
    共同通信社 2012/03 太郎次郎社 単行本 271p

    1)最初はアントニオ・ネグリの名前でヒットしたので手にとった本だったので、他の部分を読むかどうかは後回しになった。ところが、むしろ、他の部分を読んでみれば、ごく期待通りだったネグリよりも、他の「賢人」たちのほうが、より興味深い反応を示していることがわかり、目を通すことになった。

    2)この本自体は、極端な反原発・脱原発に彩られた本ではないが、潮流としては当然であろうというほどに、脱原発の兆候を示している。

    3)もちろん、原発の有効性を唱える人物もいないわけではなく、その立場、その経歴からして当然の反応であろう、と見ることができる。ただ、いわゆる原発推進の座に居続けようとする人々は、団体や地域の「利益」の代表だったりして、まぁ、そう考えるのはやむを得ないのか、と思える範囲だ。

    4)むしろ、ひとりひとりが、一個の「地球人」として発言を求められた場合、原発に好ましい言辞を捧げる人は皆無だろう。実際、個として発言している人々はすべて脱原発だ。

    5)共同通信社が、3・11後に、その情報的機能を活用して世界の要所の人々の声を集めたわけだが、これはある意味、ネグリがいうところの、そして当ブログが夢想するところの、マルチチュードの在り方に示唆を与えていると思う。

    6)これらの人々の意見は、決してネットで繋がったものではない。むしろ旧来の大手メディアや通信社による作業である。インタビューを受けた人々も、ヘビーなネットユーザーだとは思えない。ましてやハッカー的側面はすくない。

    7)ただ、ひとりひとりの意見がコンパクトにまとまっていること、同時的に、ひとつの話題に集中して意見を述べていること。自分の意見を明確にしつつも、決して排他的に他の異見を抑圧していないこと。そして、最後には全体として、ある含みをもった統合性を勝ち得ていること。それが、地球大にまとめられている。これらの点が、いわゆるマルチチュード的である、と私なら思う。

    8)これらの人々の中には、「瞑想」という単語を使う人もいるし、自らの宗教性を連想させる人もいることはいるが、多くはない。スピリチュアリティを標榜する当ブログとしては、これらの文脈の中の瞑想や宗教性をもっと細かに聴いてみたいところだし、むしろ、登場人物全員にそこのところを突っ込んでみたくなったりする。

    9)よい本だと思う。タイトルから連想するよりも、シンプルでより広範なイメージが広がる一冊である。各論的には、いろいろ突っ込みたいところもないわけではないが、全体を考えた場合、結局は、結論としてこの本にまとめられたような内容になるのだと思う。ここから、さらに絞りをかけるのは、読み手としてのひとりひとりだ。自分自身が問われる。

    <3>へつづく

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    Think Simple アップルを生みだす熱狂的哲学 ケン・シーガル


    「Think Simple」アップルを生みだす熱狂的哲学
    ケン・シーガル/林信行 2012/05 NHK出版 単行本 317p
    Vol.3 No.0783 ★★★☆☆

    1)目次には、Think ~~と、10の項目がならぶ。しかしその中に「Think Simple」はない。邦訳のタイトルは「Think Simple」となっているが、これは原題ではない。原題は「Insanely Simple」。saneの意味は健全で、その前に in がついていて、後ろにlyがつく。突飛なシンプルさ、というのが原題の意味だ。だから、実はこの邦訳タイトルはすこしチグハグということになる。

    2)著者はアップルの宣伝に携わったクリエイティブ・ディレクターとのこと。私の日本人の友人にこの肩書を有難く掲げ、ややもすると、その立場に固執しているかに見えて滑稽なのだが、両者が同じ様な仕事をしているのかどうかは知らない。

    3)アップルを生み出す熱狂的哲学。このサブタイトルもコピーにすぎるのではないか、と私なら感じる。熱狂とシンプル派、相反するように感じるのである。

    4)巻頭に「シンプルに、シンプルに ----ヘンリー・デイヴィッド・ソロー----」とある。これは著者のケン・シーガルの引用だろうが、この辺あたりも、別にアップルとソローが直接に結びついているわけではないのだが、アイコンとしてソローを使っているだけで、まぁ、いわゆるところのイメージ戦略である。

    5)アップル製品に直接過大な恩恵を受けたことのない身としては、このようなあちこちで見られる行きすぎた「アップル的」振る舞いには、しばしば目を覆いたくなる。だから、またまたアップル製品から遠ざかる、というサイクルに陥る。

    6)ピクサー内部では彼は、クリエイティブな会議には出席しないように求められていた。さもなければ、ライターやアーティストが大量に造反する恐れがあったからだ。彼はリーダーシップとビジョンを高く評価されたが、映画作りの才能についてはそうではなかった。

     これは私たちを勇気づけるニュースだ。創造的な思考によって世界を変えるためには、リーダーにすばらしい創造的才能がなくてもいいことを、スティーブが証明してくれたのだ。リーダーは、創造性が必要だとわかっている組織を作ればいいのだ。創造的思考の世話役になり、最大の擁護者になればいい。リーダーは、プロセスがいいアイディアを促進するのではなく殺そうとしているときに、それに気づく能力を持てばいいのだ。p67「Think Small」

    7)ここまでくれば、もうなんでもありだ。「側近」としては、とにかく「大将」を最大限に称賛すればそれでいい。北朝鮮のテレビ「ニュース」を見ているかのようだ。ジョブズは、政治に世界に入らなくてよかった(その可能性はゼロではなかった)。彼は、「芸術」とか、「カウンターカルチャー」とか、「シンプル」とか、そういうアイコンで、自らの「野望」をうまく隠しとおすことができた。

    8)スティーブがシンプルさの力を深く信じていて、シンプルであることが人間らしさにそれほど重要であるなら、どうして彼は狂気の暴君だったのだろうか。

     狂気の暴君かどうかは、見る人によって決まる。たしかにスティーブは非常に要求がきびしく、無慈悲までに頑固で、そして、かっととしたときは恐ろしくてたまらなかった。彼の基本線は、船は毎日、前に進まなければならないといことだった。その役に立たない者は困った事態に追い込まれた。p207「Think Human」

    9)当ブログのジョブズ追っかけの37冊目の本である。短期的にジョブズ本を読み進めてきたので、かなり食傷ぎみだ。本当はこの本を読むことは気がすすまなかった。でも、長いウエイティング・リストの果てにようやく私のところに辿り着いた本である。目を通さないのは申し訳ない、という気分もあった。

    10)しかし2週間も手元にありながら、読めなかった。今日が返却期限日である。私の後ろにはすでに数十人の列ができている。早めに返却できなくて申し訳なかった。今後、私が心を入れ替えて、やっぱりこの本を読みたいな、と思っても、随分と後回しになることだろう。

    11)時価総額世界一の企業を遺して、56歳と7ヵ月の人生を閉じたスティーブ・ジョブズには、すでに沢山の評価がなされており、称賛も、そうでない評論も数々出そろっている。あえてそこに当ブログが付け足すことはない。ただ、この人物を、同時代的であるとか、カウンターカルチャー的であるとか、あるいはパソコンの生みの親であるとか、と言った「過大」な「評価」からは、静かに遠ざかっていたいと思う。

    12)この人物は、まれにみる「強欲な男だった」と見ることもできる。それをあらゆる方法で粉飾した。そのからくりを支え続けたのは、その周囲にいた、いわゆる「クリエイティブ・ディレクター」たちでもあった筈である。

    13)ジョブズは若くして大きな金を握った。そして、その金を守るのではなくて、投資に回し続けた。だから、周囲の実験的な冒険野郎たちは、多少の「異常性格」なり―ダ―であっても、サポートしつづけた。これが実体であろう。

    14)そこには情報の波という時代性があり、シリコンバレーとなるべきエリアの位置的要素が加速させた。そこにその人物がおり、それを支えるエネルギーがあった、ということなのだろう。

    15)ジョブズがいなくても、情報時代はきただろうし、パソコンは生まれただろう。好みはさまざまあれど、タブレットやスマホなども、特段に個人の力で生まれたのではない。そのような波の中で、ジョブズは自分の好きなように56歳と7ヵ月の人生を送ることになった、ということなのだろう。

    16)カウンターカルチャーやパソコンと、直接的に、排他的に、ジョブズを結びつけるのは、当ブログの趣向ではない。むしろ、ごくごく並列的に、時には排除して、それらの背景を考えてみたくなる。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2012/08/21

    騙されたあなたにも責任がある 脱原発の真実 小出裕章


    「騙されたあなたにも責任がある 」 脱原発の真実
    小出裕章 2012/04 幻冬舎  単行本 199p
    Vol.3 No.0782 ★★★★★

    1)氏の本をあえて重ねて読むまでもなく、その趣旨は一貫している。前回「原発ゼロ世界へ ぜんぶなくす」 (2012/01 エイシア出版)を読んだときも、今回この本を読んでみても、その印象はまったく変わらない。

    2)この本も大人気だ。数カ月前にリクエストしたものがようやく私の番になった。私のあとにも沢山の予約が列をなしている。さっさと読んで、次の人に回そう。

    3)あえてこのタイミングにこの本を読むことには大きな意義がある。当ブログは今、「地球の論点」のスチュアート・ブランドや、「ガイアの復讐」のジェームズ・ラブロック、あるいは「私たちの選択」のアル・ゴアなどを再読しようとしている。あるいは「人間の終焉」のビル・マッキベンなども一連の再読対象だ。

    4)彼らの共通項は、環境保護派と思われていながら、実はすでに原発推進派へと「転向」していることである。その論拠はひとつ。地球温暖化の問題だ。それを避けるために、エネルギーを確保しようとしたら、この地球を救うのは原発推進しかない、というのである。

    5)あらら、これは異なことをおっしゃいますな、と驚かれるのは百も承知で、彼らは確信犯的に「転向」していく。ビル・ゲイツなども、原発推進派だ。

    6)科学的視点は重要と捉えている当ブログにおいても、なんだかかんだと言われているうちに、なんだか彼らの意見にも一理ありそうかな、なんて思い始めないとも限らない。この辺は、きちんととどめを刺しておく必要がある。

    7)そもそも、これらの意見は無視してしまえばいいとは思うのだが、呉越同舟のこの「地球問題」、反対意見を無視するだけでは、乗り越えることはできない。まともに対応できるかどうかはともかくとして、まずは、誰がどんな根拠で何を言っているのかを、多少はさぐっておく必要がある。

    8)それに比して小出裕章氏は一貫している。地球問題でもなく、温暖化の問題でもない。ひたすら原発問題である。そして、徹底的で容赦ない批判の目を原発に向ける。科学者でもなく、確たる論拠ももたない一読者としての当ブログなどは、反原発、脱原発の論拠として、氏の言説に依拠するところが大である。

    9)この本における、他地方におけるガレキの受け入れ問題(p65)や、東北地方の農産物(p166)の取り扱いなどについて、被災地に生息する私としては、その意見はきつすぎるぞ、と思う部分もないわけでない。しかし、おおむね、まったくだ、と思うことがほとんど。

    10)逆に考えると、いわゆる環境保護運動家たちの原発推進への「転向」や、一部の迷いは、3・11「前」に語られていることが多い。3・11という非常事態に遭遇した「あと」の現在、彼らは今でもかつてと同じ意見を持っているのかどうか、ということを当ブログなりに注意深く見ていたい。

    11)そう言った意味においても、この著者の一連の研究や言説は、とても重い。転向派の彼らも「いや~騙されていましたぁ」なんて頭を搔き搔き、再転向、なんてことはそうそうないだろうが、この辺ですこし、当ブログなりに論理武装しておかないと、なにがなんだかわからなくなる。

    12)とにかく氏の著書は、とても重要だ。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト<2> スチュアート・ブランド

    <1>からつづく


    「地球の論点」現実的な環境主義者のマニフェスト<2>
    スチュアート・ブランド 仙名紀 2011/06 英治出版 単行本 439p

    1)再読。今回は、問題の4章「新しい原子力」、5章「緑の遺伝子」、6章「遺伝子の夢」、を意識的に飛ばして読まなかった。

    2)こうして読んで見れば、全面的に肯定できるというほどではないにしても、一般的な科学書や啓蒙書の一冊として、読み進めることができないわけではない。

    3)まったくの第三者の本ならば、一読してそれで終わりなのだが、「ホール・アース・カタログ」スチュアート・ブランドの本であれば、どこでどう引っ掛かってくるかわからない。ここはそれなりにこだわって読んでおきたい。

    4)そうは思うものの、いわゆるカタログ雑誌の原型をちょっと崩しただけのような、多数な事実の列挙で、その造本はあの1987年の前著「メディアラボ」とほぼ同じような出来具合なのだ。

    5)読んだ本から抜粋して、つなぎ直していくのなら、当ブログでさえ一冊の本になるのではないか、と一人笑った。だが、一読者としては、延々として終わりのない話題につきあい続けるのは、ちょっと苦痛である。

    6)アメリカとヨーロッパの環境運動家たちは1970年代から80年代にかけて、炭素を放出しない原発の推進に待ったをかけた(幸いフランスでは、1973年のオイルショックを機に発電方式を転換し、電力の八割を原子力に依存するようになった)。

     原発反対のグリーン派は、石炭やガスを燃やして膨大な二酸化炭素を大気中に放出するのを助けた。私もその一人だったことを恥じ、おわびしなければならない。p28「第1章 地球の趨勢」

    7)まぁまぁ、この辺は過剰反応せずに読み飛ばすことにする。原著ではどのような言葉使いになっているのかわからないが、ここでブランドは「グリーン派」という別称を編み出している。

    8)私は2008年から09年にかけて本書を執筆している時点で70歳を超えた。70年間にわたって、私自身の過ちや他人の間違いに遭いながらも、人生を楽しみながら世の中に流されてきた。

     私はエコロジストになる教育を受けた。職業は、未来学者。だが心づもりとしては、ハッカーだ(つまり、怠慢なエンジニア)。熱心な科学者思考に傾いていて、地球全体の未来図を描くジオエコノミーに凝っている。そしてエンジニアにありがちな偏見によって、すべてのものごとはデザインの問題として解決できると思っている。p34同上

    9)多少おちゃめな側面も見えているが、その影響力については、自他ともに認めるところだろう。すくなくともここで彼は自らを「科学者」と規定している。科学者、芸術家、神秘家という三つのカテゴリーを同時に持つことを目標とする当ブログとしては、ブランドの中にすぐれた芸術性を見ることもやぶさかではないが、すくなくともこの本においては「神秘家」的要素が十分熟成されていない。

    10)私が誤って公言した例を、いくつか上げてみよう。1960年代、私はコミューンが将来の地域社会のあり方として有望なのではないか、と考えた。アメリカのエンジニアだったバックミンスター・フラーのコミュニティ構想は、無害だし理想に近いものに思えた。

     1970年代になると、73年にオイルショックが起き、アメリカの都市では治安が悪化し、核エネルギーは悪だという風潮が広がり、「小さいことはいいことだ」ともてはやされ、村は理想郷だとまで言われるようになった。

     私は、コンピュータの2000年問題では完全に間違っていた。2004年の大統領選挙では民主党の勝利を確信していたので、その前年にはそう公言して賭けをした。だが、予測はちょっとのところで外れた。p330「第7章 夢想家、科学者、エンジニア」

    11)ブランド自身は、ネイティブアメリカンの妻と長年、川に浮かべたボートハウスで暮らしているらしい。

    12)スナイダーはさらに進んで、生物ばかりではなく全地球規模の原理(ホールアースディシプリン)にまで話を発展させる。

     「好むと好まざるとにかかわらず、私たちはちっぽけなブルーの地球のうえで”命を育んで”いる。気温は好適で、空気も水質もよく、何百万種類もの(場合によっては千兆もの)生命体が生息している」

     だからこそ、この地球に対しておこなってきた厄災を取り除き、元通りに復元しなければならない。まるごとの地球はきわめて野心的なものだ。それだけに、全体的な復興プロジェクトが急務になっている。p393「すべてはガーデンの手入れしだい」

    13)本著の後半になると、さかんにゲーリー・スナイダーが引用される。スナイダーもまだ存命しているから、交流しようとすれば可能だろうが、その雰囲気はあまりない。すくなくとも、ブランドが第4章のような「新しい原子力」に期待を持ち、原発推進「派」に「転向」しようとも、スナイダーが追随することはないだろう(そう、願いたい)。

    14)だが、ここでブランドがスナイダーを引用しながらこの本のタイトルである『全地球規模の原理(ホールアースディシプリン)』という言辞を贈っているかぎり、スナイダーに対して一歩も二歩も譲っている雰囲気がある。

    15)5章、6章はともかくとして、4章はいただけない。この本が書かれた2008~2009年のころの地球温暖化対策ムーブメントをバックとして「現実的」な論調に舵を取ったブランドの、ときには「冒険的」な、頑迷ではない、やわらかい思考法をこそほめたたえるべきではあるかもしれない。だが、3・11に遭遇したあとの2012年においては、彼はどう考えているだろうか。

    16)エコロジーのバランスはきわめて大切だ。センチメンタルな感情で語るべきものではなく、科学の力を借りなければならない。自然というインフラの状況は、これまで成り行きに任されぱなしだった。これからは、エンジニアの力を借りて、修復していかなければならない。

     「自然」と「人間」は不可分だ。私たちは互いに、手を携えていかなければならない。p435「第9章 手作りの地球」

    17)今となっては、言葉などどうでもいい、という気分になる。科学の力、エンジニアの力、など、否定する気はないけれど、ここまで破局的な地点に人類を連れてきてしまったのも、科学やエンジニアたちだったはずだ。全責任が彼らにある、とは断言できないが、これからは科学とエンジニアの時代だとは、とても言えない。

    18)こちらも、自分を飛び抜けた夢想家だとかロマンチストだと思ってもいないが、どうもこの本、やっぱりおかしいな、どこか・・・・

    <3>につづく

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2012/08/20

    我が家に手作りガーデンハウス―DIYで建てよう!“小さな家”<2>

    <1>よりつづく 

    我が家に手作りガーデンハウス―DIYで建てよう!“小さな家” (Gakken mook―DIY series)
    「我が家に手作りガーデンハウス」 ―DIYで建てよう!“小さな家” (Gakken mook―DIY series) <2>
    ドゥーパ! (編さん) 2005/10 学研 単行本: 145p

    1)書き手としては思わぬ形でヒット数の多い記事がでてくるものだが、この本に対する記事も一貫してアクセス数が多い。どこかにリンクが張ってあったり、同じ本の情報が他に不足していたりするのが原因のようだ。いつの間にかアクセス数が減っていくものではある。

    2)この本に対する思い入れはそれなりにある。この本を読んだ時はそれなりに本気だったから、パーツを集め、資金も準備した。場所も予定地を準備していたのだが、3・11をはさんで予定は大きく変化した。

    3)まったくなくなったわけではないが、仲間たちとの共同企画が時間どおりに進んでいないので、この夏休みを利用して、材料を使ってしまうことにした。もともとの屋根付き自転車置き場を改造したのだが、これはこれで「我が家に手作りガーデンハウス」と言えないこともない。

    Dsc_0445

    4)基本的には、3・11で被災して解体することになった住宅からもらってきた資材を再利用しているだけなのだが、けっこうまともなものになった。我が家で引き受けなければ、いずれは解体されてガレキとなってしまうものたちなので、これはこれで、我が家なりのガレキ受入れ事業ということになる。

    5)ペンキや工具、ネジや雨樋い、床材など、追加して購入しなければならなかったものが結構あったので、坂口恭平いうところの0円ハウスというわけにはいかないが、プロに頼んだら、この5倍や10倍はあっという間にかかるだろう。

    6)一向に減らない被災地のガレキだが、被曝したり、津波に​呑まれた建物はともかくとして、地震によって傾いてしま​ったような建物も、たくさん解体され。ガレキとして、処理​を待っている。 

    7)ひとつひとつのケースで違うのでなんとも言えないが、ちょっと手直しすればまだまだ使えるような建造物でも、公的補助費がでて、解体費がかからないうちに、一気に倒してしまえとガレキにしてしまい、自らは被災者住宅に住んでいる人も。いることは、いる。

    8)私などは、もったいないなぁ、と指をくわえて見ていることが多い。あのくらいだったら、自分で直して十分住めるのにと思う。

    9)プロジェクト567における第一のステージは、大地やエコビレッジだった。あたえられたものが利用可能だったら、それもありだが、3・11を挟んで、その可能性が延び延びとなってしまった。だから、いまは、与えられた我が家の狭いガーデンが、大地であると、受け止めることにした。

    10)この夏休み、これはこれで結構楽しかった。出来もまずまず。日焼けもした。次は天井裏の利用プロジェクトである。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    原子力は「怪物(リバイアサン)」である アントニオ・ネグリ 


    「世界が日本のことを考えている」 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ <1>
    共同通信社 2012/03 太郎次郎社 単行本 271p
    Vol.3 No.0781 ★★★★★

    原子力は「怪物(リバイアサン)」である アントニオ・ネグリ 

    1)3・11オムニバス本には面白い本が少ない。両論併記であり、なおかつそれぞれの意見の量が少なく、断片的で、根拠も薄く、ともすると感情的すぎて、意味を成していない意見が多すぎる。

    2)ことが重大すぎて、本来、何年も、時には何十年もかけて分析し、理解し、根拠を求めて思索し、しっかりとしたハードカバー本になるべき内容なのだが、それだけの時間的な余裕がない。なにはともあれ、緊急的に多数の意見を掻き集めておこう、という環境の中で作られる本たちなので、ある意味、それも仕方ないのかもしれない。

    3)この本も、3・11の1年後に出版された本だが、十数人の人々の意見が掻き集められており、本当は、全部の意見など読みたくない。今回は、ネグリの意見をこの本から拾えばそれで十分なのだ。

    4)ネグリ氏は「帝国」に対するものとしてマルチチュード(多様な群)に期待を寄せる。同氏はインタビューで、マルチチュードを労働者階級でも大衆でもなく、「ネットワークによって一つになった個々の個人」と熱く語った。コンピューターによるネットワーク時代の運動を高く評価する。その主体となるのはマルチチュードだという。p154「服従と共同体」

    5)ネグりの本ははっきり言って面倒くさい本がほとんどだ。まわりくどいし、サヨク的言辞が多すぎる。カウンターカルチャーというより、新左翼的で、偏った言語体系に依拠しており、それがまた、いわゆる共産主義的傾向の没落後の、ある種の人々にとっての救世主的立場をも期待されている。

    6)しかしながら、マルチチュードという名称と、ネットワークによってつながった個人個人の大きなうねり、という解釈は、当ブログの予想や直感と、相性がとてもいい。そもそも、ネットワーク的事象については、「帝国」の共同執筆者だったアメリカの若き研究者マイケル・ハートの意見が大きく、ネグり自身は決してハッカー的なネットワーカーではないだろう。

    7)ただ、いわゆる雲の上にスーパーコンピュータをおこうとするクラウド的潮流の中で、ともすれば児戯化されたタブレット端末を与えられて飼い慣らされようとしている個々のユーザー、という見方に対して、マルチチュード的視点を保持することはとても重要だ。

    8)ネグり言うところのマルチチュードだけでは、はっきり言って片手落ちである。ホッブズやスピノザ、(時にはマルクスw)を思想的ベースにしているネグりに、いわゆる「スピリチュアリティ」を要求すること自体、ないものねだりなのだが、当ブログとしては、やはり、スピリチュアルなマルチチュードでなければ、本当の意味はないと思う。

    9)「アラブの春」などは、しっかりとマルチチュード的視点で捉えることができる。あるいは、そうとしか思えないところが多々ある。されど、スピリチュアルなマルチチュードでなければ、次のステップには進めないだろう。反乱、行動、混乱、転覆、混沌、まではいくだろう。しかし、その次へのビジョンがなさ過ぎる。

    10)東日本大震災は、自然を克服する努力には限界があり、20世紀後半から出現した「原子力国家」は幻想だったことを明らかにしました。原子力の危険は発電所の事故というだけではないのです。

     米スリーマイル島原発事故は原子力破局の始まりであり、旧ソ連のチェルノブイリ事故は科学技術の弱さを見せつけました。一方、福島事故は政治・産業システムの巨大な問題を浮き彫りにしました。

     地震多発地域に建てられた原子力発電所の安全性を保証するという馬鹿げた政策がとられ、国家権力はその権力を永続させるために、原子力発電所が危険であるにもかかわらず、その絶対的な安全性を保証しなければならないのです。

     原子力に国家体制を捧げることになり、原子力は国家の形を変えてしまう一種の怪物になる。その意味で国家は一種のリバイアサン(怪物)に取り付かれてしまうのです。p145アントニオ・ネグり「原子力は『怪物』である」

    11)この辺のネグりの見方は、ごくごく当たり前な予想される範囲の意見である。むしろ、ラブロックやスチュアート・ブランドのような「寝返り派」の多い中、まずはネグりあたりの、「3・11後」の意見を確認して、ほっとしている、というところだ。

    12)この本には他に十数人の意見が集められている。今回は、その人々の名前さえ見ようとしないで、まずはネグりのページを開いた。このまま図書館に返却するか、他の人の意見も聞いてみるか。今、凡百な反原発・脱原発の意見なら聞きたくない。この期に及んでそんなことは誰にでも言えるのだから。

    13)3・11をひとつの契機として、クラウド的「帝国」に対する、スピリチュアル「マルチチュード」が、自覚的に、健全に、今後も成長していけるのかどうか、が、当ブログが注目する目下の課題である。

    <2>につづく

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2012/08/19

    メディアラボ―「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<2> スチュアート・ブランド

    <1>からつづく

    Medialab
    「メディアラボ」 「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦<2>
    スチュアート・ブランド (著),  室 謙二 (著), 麻生 九美 (著), Stewart Brand (著) 1988/04 福武書店 単行本 342p

    1)60年代的カウンターカルチャーの教則本とも見なされる「ホール・アース・カタログ」の編集者スチューアート・ブランドがMIT(マサチューセッツ工科大学)の研究所「メディアラボ」に1985年に参画した当時に、内部的レポートとして書かれた本。

    2)そこにはダイナブックのアラン・ケイなども参画していた。

    3)

    Dayna
     1972年にアラン・ケイによって描かれた、子供たちとダイナブックのイラスト。彼は16年前(引用者注・この本の執筆当時から考えて)にすでにこういうコンピュータのイメージをもっていた。このダイナブックは、まだ実現されていない。p142「電子による生態系ビバリウス」

    4)インターネットがウィンドウズ95でブレークしたのが1995年だから、この本の英語原本ででた1987年には、まだこのようなダイナブックがあるはずはなかった。

    5)しかし、それはこの本のでた20年後に、iPadとして実現化し、2012年の現在、パソコンの未来進行形としてタブレット端末の是非が盛んに論議されている。

    6)私自身は、これほどの子供でもないので、あまりに簡単なタッチパネルを標準とすることには賛成できない。すくなくとも、かえって不便である。あえていうなら、もともとのタイプライターをイメージした、ノートパソコン型のキーボード付きがお好みである。

    7)私自身が子供の時、編集や印刷スタイルとしてはガリ版の謄写印刷が普通であった。10歳の私もそれを使いこなしたし、十分情報発信には役だった。しかし、ガリ版印刷とタブレット端末では、それこそ比較ができないくらいの世界観の違いがある。

    8)メディアラボはそのような未来を想像する研究所だった。当時熱っぽく語られているほとんどの部分はすでに達成されたか、すでにそのスケジュールに入ったものがほとんど。逆に、今日的ネット環境は、このようなプロセスを経て完成したのだな、という確認のための一冊とさえ言える。

    9)だから、ある意味、出版当時は極めて抜きん出ていたはずの内容も、今日読んでみれば、ほとんど当たり前の内容とさえいえる。もちろん、実験的であったり、思考錯誤的に消えてしまった部分もなきにしもあらずだが、そのプロセスは、こうならざるを得なかった過程をはっきりと具象化して見せてくれる。

    10)私自身は、ガラケーを中心としたケータイ文化には拒否感が強かったが、3G回線やWiFiを介在させたスマホ文化にはすんなり溶け込んだ。むしろ、これがなければだめだろう、とさえ思う。ただ、スマホ、タブレット、ノートパソコン、という序列で言えば、もっとも中心になるのはいまだノートパソコンである。

    11)スマホは文字が小さくて、老眼がすすむ私の目には苛酷である。タブレット端末はキーボードがなくて文字型発信の多い私向きではないし、そもそもスタンドとなる台がないので、落着きが悪い。もちろん、かと言ってノートパソコンも、すでに固定化しすぎていて、これでいいのかぁ、という疑念の声にも耳を傾けてみたくなる。

    12)機器の形態よりも、では、その機器をどのように使うのか、ということが問題であることは当然である。当ブログ流に言えば、コンテナからコンテンツへ。そしてコンシャスネスへ、というテーマである。

    13)この本においては、コンテナとしてのタブレット端末から、コンテンツとしての、今日的ツイッターやフェイスブックへの展望がすでに語られている。あるいは、読みようによっては、十分ではないにせよ、コンシャスネスへの足がかりも語られてもいるようだ。

    14)だが、2012年の今日的状況において、まだまだこのような文脈でのコンシャスネス的側面は十分に語られておらず、また、達成もされていない。それは、みんなそのテーマを忘れてしまっているわけでなく、達成しようとしても、なかなか難しそうだ、ということが分かってきたからだ。

    15)バーチャル・リアリティーや人工知能AIへの足がかりも語られたりするが、結局は、コンシャスネスへの道のりの険しさは増すばかり。当ブログなどは、かなり日暮れて道遠し、という気分になりつつある。

    16)すくなくとも、池田純一のように、スチュアート・ブランドを「カウンターカルチャー」の権化のように捉えることは、私にはできない。また、そのように偏った見方をすることのメリットをあまり感じない。この本がでた時点でのブランドはブランドでいいのではないか。そこにはなにもカウンターカルチャーという装いを必要とはしていないのではないか、と思う。

    17)あなたはコンピュータの力をカウンターカルチャーの方向で使っていきたいと思っている。そのことはぼくも十分に認めていることです。でも今は話していることは、カウンターカルチャー的地方分権的な考えではないのです。電気との比較で話させてください。

     例えばマイクロコンピュータはバッテリーのようなものです。いいものだが、限界がある。並列テクノロジーのおもしろいことは、コンピュータパワーが要求に応じて作られるということです。

     だから、みんなはガス・水道・電気と同じように並列コンピュータを使うようになるでしょうね。パーソナルコンピュータは、それほど重要ではなくなると思います。なくなることはないでしょうが、家庭で必要なときに、必要に応じて電気・水道・ガスのように送られてきたコンピュータの力を使うことになるでしょう。p251「コネクションマシンの未来」ダニー・ヒリス(当時29歳 ブランドとの対話において)

    18)1987年当時で29歳であるということは1958年年前後の生まれということになり、このヒリス自身はいわゆる60年代的カウンターカルチャーをリアルタイムでは生きていないことになる。だから、彼の言葉使いの中の「カウンターカルチャー」の意味が少し違っている。

    19)すくなくとも、P2P的分散型ネットワークをカウンターカルチャー的というのなら、現在主流をなしつつあるタブレット型端末を繋ぐクラウド型ネットワークは中央集権的で、メインカルチャー「的」と言えないこともない。

    20)しかし、この辺はあまりこだわる必要はないだろう。少なくとも、現在の当ブログの目下の問題は、スチュアート・ブランドが、2011年に書いた本においては原発推進を語っているところにある。一読者としては、どうもそこは納得できないので、過去のこの本まで遡っているのであり、ブランドとは、ある一定程度の距離感が、もともとあるのだ、ということを確認できれば、それでいい。

    21)事実の羅列のようなこの本を読み進めるのは楽なものではないが、少なくとも、この著者のスタイルが分かりつつあるので、近著「地球の論点」を再読する場合、もうすこし楽に読み進めることができるようになるだろう。

    <3>につづく

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2012/08/17

    ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力<2> 池田純一

    <1>よりつづく


    「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」 <全球時代>の構想力<2>
    池田純一(著) 2011/03 講談社 317P

    1)この本の魅力はいったい、どこから来るのだろう。タイトルにある、ウェブ、ソーシャル、そしてアメリカ、それぞれに魅力的ではあるが、やはり、一番は、それらを包括した<全球>という意識だろう。

    2)全球、とはあまり聞きなれないが、気象予報などでは一般に使われているらしい。この本においては、その言葉がどこからきたかといえば、やはり、スチュアート・ブランドゆかりの「アース・ホール・カタログ」にあるだろう。

    3)「メディアラボ」(1988/04)や「地球の論点」(2011/06)の一連のスチュアート・ブランドの著書を一気に読み進めようとして、当ブログは、いきなりここで頓挫してしまった。特に「地球の論点」の第4章「新しい原子力」。

    4)カウンタカルチャーの流れに組みするひとりとして、あるいは3・11における原発事故の惨禍に苦しむ被災地に住むひとりとして、古かろうが、新しかろうが、原発を推進しようとする潮流には、明確に一線を画したい。

    5)3・11直後、津波に飲み込まれた地域の古い友人をたずねた。長いことお互い多忙にかまけて音信普通になっていた。古い住所録を頼りに彼の住まいを人づてに訪ね、ようやく再会できた。うれしかった。元気だった。

    6)でもこの再会は、反面、私に新しい問題をもたらした。彼は、いつの間にか、原発の中に仕事を得て、小さな企業まで経営していたのである。家族とともにくらし、教育熱心な、ごくあたりまえの男である。その彼の現在の仕事について、私は、喉元に何かがつかえるような気持ちで、考え始まった。

    7)スチュアート・ブランドと、この古い友人。この二つの出来事が、私に深い悲しみを与えた。

    8)一人の「評論家」として脱原発を唱えるのは易しい。唱えるべきは、そういうスローガンであるべきだ。そうでなくてはならない。しかし、全球としての地球に生きる一人として、脱原発を生きることは、決してたやすいことではない。少なくとも、原発はこの地球上を覆い尽くす勢いで発達してしまった。この事実をまずは直視しなければならない。

    9)目の前にある<全球>は、決して安泰ではない。いやいや、むしろ、悲劇的ですらある。どうにかしなければならないと、多くの人が憂いている。

    ------------------------

    10) 9)まで書いて、一週間ほど放置した。その間、もういちどこの「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」をざっと再読した。どうも納得できないことが、途上でいくつかあったからだ。

    11)とにかくこの本においては「カウンターカルチャー」という単語が頻出する。一体全体、日本の出版史上において、「意味なく」これほどこの単語が頻出する書物はあっただろうか。とくにPCはカウンターカルチャーが創ったものだ、という「仮説」の真偽に、頭をひねった。

    12)私自身は、70年代においては「カウンターカルチャー」は我が事のように身近なことであり、また自らその言葉を標榜し、またその流れの中に身を投じようとした。

    13)しかし、実際のコンピュータや情報化時代の幕開けを感じたのはアルビン・トフラーの「第三の波」で、1980年10月にでたこの本を出版直後に読んだ。たしかに、第一、第二の波に対するカウンターとしての「第三の波」として情報化時代を読みとったけれども、当時のメインカルチャーと目される「体制」に対するものとしPCを読みとったわけでない。

    14)カウンターカルチャーは、ユースカルチャー(若者文化)とか、ジ・アザー・カルチャー(もう一つ別の文化)とか、あるいは遅れてオルタナティブ(対案)などと表現された動きへ名付けられたものであり、かならずしも一定の意味を持っていない。

    15)しかるにこの本においては、かなり恣意的に限定的に使われている部分がどうも気になった。著者は1965年静岡生まれのコンサルタントであり、いわゆる60年代的カウンターカルチャーには、直接的には触れることはなかっただろう。だから、想像で、後付でいわゆる60年代的カウンターカルチャーをイメージしていることが多い。

    16)当ブログが、この本を読むきっかけにもなった、スティーブ・ジョブズ追っかけだが、私自身は、ジョブズをカウンターカルチャーの「騎手」のような取り上げ方をすることは妥当でないと感じている。

    17)マイクロソフトOSを使うことより、MacOSを使うことが、より「カウンターカルチャー」的だなんて、思ったことはほぼ一度もない。勿論マクロソフトがいわゆる60年代カウンターカルチャーに直結していたなんて考えもしない。ただ、ジョブズは、アップルを維持するうえで、アイコンとしての60年代的カウンターカルチャーをうまく「利用」した形跡はありありだ。

    18)少なくとも、ジョブズが育ったのが、60年代の西海岸であってみれば、当時の文化の片鱗をかぶっていないほうがおかしいj。たしかにスタンフォード大学の2005年の講演などでは、スチュアート・ブランドの「ホール・アース・カタログ」の終刊号から引用した言葉を使ってはいるようだが、それもまた、どうもそれをもって「カウンターカルチャー」だ、というのはすこし強引付会すぎるだろう。

    19)さて、仮説的な疑問としてあった「カウンターカルチャーがPC/ウェブを作ったのか」という問いだが、どうやらそうではなかったようだ。p300「エピローグ」

    20)再読して、ようやくこの「結論」に気づいたわけだが、なにを今さら、と、ちょっと白けた気分になった。そんなこと当たり前なのだ。そもそも、本当にカウンターカルチャーを知っている人なら、当時のパソコンの発達史は、直感的に連続的に繋がっていないことは皮膚感覚で分かったはずだ。

    21)ゲイツ的生き方もともかくとして、ジョブズの生き方だって、決して「カウンターカルチャー」的ではない。その性格、その経営スタイル、その言説は、むしろ、それを否定する側面の方が多い。

    22)と、ここまでくれば、あとは、「ホール・アース・カタログ」のスチュアート・ブランドの「カウンターカルチャー」性についての疑問が残っている。「ホール・アース・カタログ」を無視することはできないが、ブランドの最近刊である「地球の論点」には、疑問符がつきまくりだ。すくなくとも原発推進派への「転向」は納得ができない。というより、そもそもブランドを固定的なカウンターカルチャー「派」と決め付けた著者・池田純一が少し早とちり過ぎたのではないか。

    23)最初に講談社の編集の方からいただいた話題は「ウェブと社会について」というもので、それならばと追って着手したものの、考え始めると何に焦点を当てるかが難しかった。p307「あとがきに代えて ウェブ時代に本を書くということ」

    24)そもそもの「お題」がこうだったために、この本が最後までいびつなまま走ってしまったのだろう。当ブログなら「ウェブと意識について」という話題か「ウェブと社会と意識について」という話題になり、どうしても「意識」をはずすことはできなかっただろう。あるいは、一読書子としては、つねに重要な論点はそこにあるのだ。

    25)この本においても、カウンターカルチャーのなかの重要なテーマである「意識の拡大」を何度も取り上げるが、それを当時の薬物状況下における影響の結果をレポートするに留まっている。本当のカウンターカルチャーは、そのあとに「瞑想」や「スピリチュアリティ」に移植されていったことを見逃している。

    26)すくなくとも、60年代的カウンターカルチャーをスチュアート・ブランドの一人格に大きく依存したような書き方のこの本は、かなり偏っている。私なら、この文脈ならゲーリー・スナイダーを挙げるだろう。

    27)スナイダーは、山尾三省のようにパソコン嫌いではないが、たしかにパソコンの発達史に直接貢献したり、ウェブの花型ではない。ただ、それこそ60年代カウンターカルチャーの象徴的存在として、2010年代の地球に現存するスナイダーは、今さらスチュアート・ブランドのように、「原発推進派」などに「転向」することは絶対にないだろう。

    28)とか、どうとかいいつつ、やはりこの本は面白い。この本を足がかりにして、もう一度、スチュアート・ブランドの「地球の論点」「メディアラボ」を再読することにする。

    29)この本、面白いのに、県内の公立図書館では、たったひとつの図書館に一冊しか入っていない。もうひとつ注目を浴びていないのかな。

    30)ツイッターやフェイスブックについての言及も、かなり「意欲的」ではある。しかし、それらに対しての当ブログの意見は、もうすでにかなり確定的であってほぼ固定的なので、あえて、その見かたに対する対置は不要と判断した。

    <3>につづく

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2012/08/11

    「寅さんとイエス」 米田彰男 <1>


    「寅さんとイエス」  <1>
    米田彰男 2012/07 筑摩書房 全集・双書 307p
    Vol.3 No.0780 ★★☆☆☆ あるいは 

    1)この本の評価は大きく分かれる。この本を読んでいて、読書とは一体なにか、考えた。

    2)3・11を超えて、ごく最近出版されたばかりの本である。フーテンの寅も面白いし、イエスも侮りがたく、深いテーマではある。しかし、このタイミングでこの内容なのか。どうもしっくりこない。そう思っていたら、ようやく294pになって、「筆を擱(お)く直前、東日本大震災が起こった」という文章がでてきた。つまり、ほとんどが3・11以前に書かれていた文章だった。

    3)「男はつらいよ」シリーズのDVDは全巻持っている。5~6年前に、NHKBSで48作全作品を放映した時に録画したものである。テレビで見ながら録画したのだから、私は全巻、このシリーズをみたことになる。

    4)3年前に「男はつらいよ 推敲の謎」(杉下元明 2009/05 新典社)を読んだ時、いつかはこの全作品をもう一度見直してメモしておこうと、リストまで作っておいた。しかし、その機会はまだやってこない。ましてや3・11後の、この時期では、まだまだ、寅と遊んでいよう、という雰囲気ではない。

    5)さりとて、寅もイエスも、それぞれに魅力的で、いつかは見直していくべき存在ではある。

    6)「寅とイエス」、のタイトルに、Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」を連想する。寅はフィクション上の存在だが、「その男ゾルバ」もまたフィクションである。ゾルバを現代日本に置き換えるに、車寅次郎をもってくることは、それほど難しいことではない。むしろ、多くの人がすでに連想している。

    7)ただ、「寅・ザ・ブッダ」とならずに、「寅・ザ・イエス」としたところが、この本の妙である。著者は、清泉女子大学教授にして、カトリック司祭、ということだから、ここは「イエス」でなければならなかったのだろう。

    8)しかし本文を読んでみれば、著者の守備範囲は広く、必ずしも「イエス」でなければならないとする理由は薄い。だが、著者は著者として、聖書や文献に見られる「ジーザス・クライスト」その人に焦点を当てる。

    9)Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の「ブッダ」が、2500年前の釈迦族のゴータマ・シッタルダが光明を得たとされる仏陀、その人のパーソナリティを超えて、ひろく一般に「目覚めたる者」の意味を持っているのに対し、著者は、少なくともこの本においては、「イエス」は聖書上に見る、2000年前に現れた大工の子に焦点を合わせ続ける。

    10)この本を「寅・ザ・イエス」として、「ゾルバ・ザ・ブッダ」の別バージョンと見ることもやぶさかではない。それはそれでできるだろう。しかし、それが可能だったとして、それは一体なんだというのだろう。一冊の本として面白く、仮に読書として面白かろうと、それがフィクションや言説に連なるエンターテイメントや一時の楽しみごとであったとするなら、ブッタやイエスを、心底から理解したことにはならないし、自らの人生の上で役立った、ということにはならない。

    11)冒頭で書いたように、この本の評価は大きくわかれる。それは、書き手ゆえではなく、読み手ゆえによってである。この本をどう読むのか。あるいは、この本を通じて、この本を離れ、より「真実」に近いほうへと歩いていけるかどうかが、問題の瀬戸際である。

    12)「男はつらいよ」はフィクションである。俳優の渥美清や、その本名である田所靖雄がいかにその存在にリアリティを加えようと、作られた偶像であることは間違いない。ましてや、それは他者であり、自らの存在ではない。

    13)人々はスクリーンの中の車寅次郎に感動し、涙し、拍手喝采を送るが、身の回りに、この男が実在し、ましてや身内に巣食っていたとしたら、映画作品をたたえるほどには、その男を賞賛はしないだろう。フィクションだからこそ愛される存在、フィクションだからこそ許される存在、それが車寅次郎なのだ。

    14)実在というばかりではなく、自らの人生のひとつのモデルとして車寅次郎を模範とすることも、これもなかなかできない。生い立ちやその職業観、その気風、どれをとっても、一種独特で、それを自らのものにすることはほとんど不可能であり、また、模倣することにも意味はない。であるからこそ、フィクション上の寅は、ますます人々に広く愛される、ということになる。

    15)また、「ゾルバ・ザ・ブッダ」を語るときのOshoは、その中に、自らの理想を語っているのであり、それは私だと言ってもいるのである。さて、「寅・ザ・イエス」の著者、米田彰男はどのような人なのか、寡聞にして存知あげないが、文章の中で、いくら寅やイエスが活写されていたとしても、その中に、「寅・ザ・イエス」としての米田彰男が見えてこなければ、当ブログの「読書」の対象としては、いささか興味をそがれるものとなる。

    16)翻って、その注文は、一冊の本の著者へ向かうばかりではなく、返す刃は、読者としての自らへと向かう。私は誰なのか。「ゾルバ・ザ・ブッダ」であろうと、「寅・ザ・イエス」であろうと、他を語り、他を読む、ということだけに終始するのであれば、その読書は失敗ということになる。

    17)この本は、そういった意味において瀬戸際にある。もし、この本が3・11以前に出版されたのであれば、これはこれでよかったに違いない。しかし、3・11以前に脱稿されたとしても、それから出版されるまでに一年猶予の期間があったのならば、もっともっと加筆訂正されてもよかったのではないか。3・11後においては、この本のテーマがいくら面白いと言っても、なかなか人々の心に伝わりにくいのではないか。

    18)どうか、イエスと寅さんが、地震・津波そして原発という、かつてない天災と人災の極致の苦しみの中にいる人々に、天上から希望の息吹を力強く注いで下さるように! イエスと寅さんが、家族や友を失った人々の筆舌に尽くし難い悲痛を、少しでも和らげて下さることを切に切に願いつつ、自然の猛威によって帰天されたお一人お一人のご冥福を心からお祈りする次第である。p296「エピローグ ユーモアの塊なる寅さんとイエス」

    19)この本におけるイエスは、いくつかの新しい視点から見つめられてはいるが、従来のイエス像を大きく覆すものではない。いや、むしろ洒脱な表現で、広範な思想界や哲学界の動きを取り混ぜて紹介しつつも、結局は、カトリック的イエス像を大きく離れるものではない。グノーシス的視点を紹介しつつ、ほぼ全否定の姿勢を貫く。

    20)当ブログとしては、「その男ゾルバ」と同じカザンザキス著の「キリスト最後のこころみ」や「再び十字架にかけられたキリスト」、カリール・ジブランの「人の子イエス」あたりに、よりリアリティのあるイエス像を見つけ、また、それらこそ自らの人生の指針になしえるのではないかという直感を大事にしていきたいと思う。

    21)3・11前における「フィクション」は、3・11というリアリティを一気に超えるということはなかなか難しい。この本、再読を要するとは思えないが、一読み手として、自らの中でその読んだ内容が、少しく時間をかけて熟成したあとでないと、正しい評価はできないと思う。それは読み手側にかかっている。

    22)ただ少なくとも「寅・ザ・イエス」の視点を提示したということは、大きく評価されてしかるべきである。

    <2>へつづく

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2012/08/06

    モンスターズ・インク  ピクサー/ディズニー


    「モンスターズ・インク」 
    ジョン・グッドマン ビリー・クリスタル ジェームズ・コバーン ピート・ドクター 2007/06 ウォルト・ディズニー・ジャパン (株)ポニーキャニオン DVD 92分
    Vol.3 No.0779★★☆☆☆

     ピクサー追っかけ予約をしておいたもの。このタイミングでこのCGアニメはちょっと不釣合い。オリンピック・テレビの深夜観戦で寝不足な上、水分補給をかねてビールを飲みながら、このようなDVDを見ていると、すぐに寝てしまう。

     ストーリーもなにもあったものではないが、出だしのところはちょっとだけ記憶している。モンスターズ・インクとは、つまり幽霊会社。幽霊会社というと日本語ではちょっと誤解を招くかも。言い換えれば、おばけ企業。お化けたちが活躍しているビジネスだ。

     そのビジネスの正体は、子供たちを驚かせて、その恐怖の声をエネルギーに変えて、世界に供給するというモデルだ。なるほど、と思う。子供たちと遊んでいると、この動きを伝記エネルギーに変えることができないか、と思ったりするから、まぁ、その発想はあり、としておこう。

     ただ、関心を維持できるのはここまで。一度は寝てしまったので、反省して、二回目に挑戦したが、二度目も途中で挫折。これは、どうやら私向きのDVDではないようだ。少なくとも、面白いところまで進む前にギブアップしてしまっている自分がいる。

     今回は、ピクサーには、このような作品もある、ということを確認すれば、十分だろう。

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    2012/08/02

    メディアラボ―「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦 スチュアート・ブランド

    Medialab
    「メディアラボ」 「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦
    スチュアート・ブランド (著),  室 謙二 (著), 麻生 九美 (著), Stewart Brand (著) 1988/04 福武書店 単行本 342p
    Vol.3 No.0778★★★★☆

     ほぼ一日に一冊、毎日の日記のようにかければいいなぁ、と思ってきた当ブログだが、このところすっかりご無沙汰ぎみである。このところのロンドン・オリンピックの深夜テレビ観戦で、生活リズムが変化し、読書がライフスタイルの中から排除されてしまったのが、大きな原因ではある。

     しかし、本当は、深い内省のタイミングに入っている、と見ることもできる。「ジョブズの禅」で始まったスティーブ・ジョブズ追っかけも、池田純一の「ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力」(2011/03 講談社)あたりをひとつのきっかけとして、かなりのスピードダウンを迫られている。

     ジョブズの2005年スタンフォード大学での講演の結句「ハングリーであれ、愚かであれ」の出典である「アース・ホールド・カタログ」。その編集者のスチュアート・ブランドの近刊「地球の論点 現実的な環境主義者のマニフェスト」(2011/06 英治出版)ですっかりこけてしまった。

     その一部、まずは第4章を読んだだけだが、かつてのカウンタカルチャーの大御所のように思われていた人の脱原発から原発推進への「転向」は、どうも納得がいかない。所詮、転向者とスティグマを張って無視してしまえば、それでおしまいなのだが、どうもそれができない。

     つづく第5章「緑の遺伝子」や第6章「遺伝子の夢」などにさしかかると、実は個人的には、Oshoの「大いなる挑戦-黄金の未来」(1988/1 OEJ)との関連で読み進めることになり、なかなかデリケートな話題で、簡単に読み進めることができなくなった。

     さて、スチュアート・ブランドの本はそう多くない。過去にでている邦訳はこの「メディアラボ」あたりしかないのではないか。こちらの本もなかななか面白そうなのであるが、単に一冊の本として楽に読み進めることができない。

     こちらの本の翻訳者は室謙二である。よもやこの翻訳者にしても、著者がやがて原発推進者に「転向」するとは思ってもみなかったであろう。時あたかも日本においては、3・11のFukusimaをきっかけに、かつてないほどの「グリーンパワー」がカウンターカルチャーとして勃発中である。この期に及んで、ここで原発推進者の意見をまともに聞くのもなかなか難しい。

     しかしだ。だからこそ、おちつかなければならない。まずは、自らの意見にそぐわない意見も、ゆっくりと玩味していかなければならない。これは、一冊の本とか、ひとりの意見とか、単なる反対者の迷妄とかと片付けてしまってはならないだろう。すくなくとも、話題は「地球」なのである。彼らと私(たち)は、ひとつの地球の上に生きている。

     検索してみると松岡正剛の千夜千冊でもスチュアート・ブランドを取り上げている。いろいろ検討したあと、結局松岡は「やっぱり(スチュアート・)ブランドは勘違いをして、勇み足をしたにちがいない。」と断定している。すくなくとも、当ブログにおいても、そうであってほしいと松岡に同調しておくことにする。

     いずれにせよ、このテーマについては、今現在、当ブログにおいてはゆっくり咀嚼しないと理解できないことが多すぎる。少なくとも前のめりに先を急ぐのはやめよう。右だろうが、左だろうが、ここでの岐路は、かなり重要な、ほとんど基本的な分岐点に差し掛かっているのだ、と肝に銘じよう。

    <2>につづく
      

    | | コメント (0) | トラックバック (0)

    « 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »