原子力は「怪物(リバイアサン)」である アントニオ・ネグリ
「世界が日本のことを考えている」 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ <1>
共同通信社 2012/03 太郎次郎社 単行本 271p
Vol.3 No.0781 ★★★★★
原子力は「怪物(リバイアサン)」である アントニオ・ネグリ
1)3・11オムニバス本には面白い本が少ない。両論併記であり、なおかつそれぞれの意見の量が少なく、断片的で、根拠も薄く、ともすると感情的すぎて、意味を成していない意見が多すぎる。
2)ことが重大すぎて、本来、何年も、時には何十年もかけて分析し、理解し、根拠を求めて思索し、しっかりとしたハードカバー本になるべき内容なのだが、それだけの時間的な余裕がない。なにはともあれ、緊急的に多数の意見を掻き集めておこう、という環境の中で作られる本たちなので、ある意味、それも仕方ないのかもしれない。
3)この本も、3・11の1年後に出版された本だが、十数人の人々の意見が掻き集められており、本当は、全部の意見など読みたくない。今回は、ネグリの意見をこの本から拾えばそれで十分なのだ。
4)ネグリ氏は「帝国」に対するものとしてマルチチュード(多様な群)に期待を寄せる。同氏はインタビューで、マルチチュードを労働者階級でも大衆でもなく、「ネットワークによって一つになった個々の個人」と熱く語った。コンピューターによるネットワーク時代の運動を高く評価する。その主体となるのはマルチチュードだという。p154「服従と共同体」
5)ネグりの本ははっきり言って面倒くさい本がほとんどだ。まわりくどいし、サヨク的言辞が多すぎる。カウンターカルチャーというより、新左翼的で、偏った言語体系に依拠しており、それがまた、いわゆる共産主義的傾向の没落後の、ある種の人々にとっての救世主的立場をも期待されている。
6)しかしながら、マルチチュードという名称と、ネットワークによってつながった個人個人の大きなうねり、という解釈は、当ブログの予想や直感と、相性がとてもいい。そもそも、ネットワーク的事象については、「帝国」の共同執筆者だったアメリカの若き研究者マイケル・ハートの意見が大きく、ネグり自身は決してハッカー的なネットワーカーではないだろう。
7)ただ、いわゆる雲の上にスーパーコンピュータをおこうとするクラウド的潮流の中で、ともすれば児戯化されたタブレット端末を与えられて飼い慣らされようとしている個々のユーザー、という見方に対して、マルチチュード的視点を保持することはとても重要だ。
8)ネグり言うところのマルチチュードだけでは、はっきり言って片手落ちである。ホッブズやスピノザ、(時にはマルクスw)を思想的ベースにしているネグりに、いわゆる「スピリチュアリティ」を要求すること自体、ないものねだりなのだが、当ブログとしては、やはり、スピリチュアルなマルチチュードでなければ、本当の意味はないと思う。
9)「アラブの春」などは、しっかりとマルチチュード的視点で捉えることができる。あるいは、そうとしか思えないところが多々ある。されど、スピリチュアルなマルチチュードでなければ、次のステップには進めないだろう。反乱、行動、混乱、転覆、混沌、まではいくだろう。しかし、その次へのビジョンがなさ過ぎる。
10)東日本大震災は、自然を克服する努力には限界があり、20世紀後半から出現した「原子力国家」は幻想だったことを明らかにしました。原子力の危険は発電所の事故というだけではないのです。
米スリーマイル島原発事故は原子力破局の始まりであり、旧ソ連のチェルノブイリ事故は科学技術の弱さを見せつけました。一方、福島事故は政治・産業システムの巨大な問題を浮き彫りにしました。
地震多発地域に建てられた原子力発電所の安全性を保証するという馬鹿げた政策がとられ、国家権力はその権力を永続させるために、原子力発電所が危険であるにもかかわらず、その絶対的な安全性を保証しなければならないのです。
原子力に国家体制を捧げることになり、原子力は国家の形を変えてしまう一種の怪物になる。その意味で国家は一種のリバイアサン(怪物)に取り付かれてしまうのです。p145アントニオ・ネグり「原子力は『怪物』である」
11)この辺のネグりの見方は、ごくごく当たり前な予想される範囲の意見である。むしろ、ラブロックやスチュアート・ブランドのような「寝返り派」の多い中、まずはネグりあたりの、「3・11後」の意見を確認して、ほっとしている、というところだ。
12)この本には他に十数人の意見が集められている。今回は、その人々の名前さえ見ようとしないで、まずはネグりのページを開いた。このまま図書館に返却するか、他の人の意見も聞いてみるか。今、凡百な反原発・脱原発の意見なら聞きたくない。この期に及んでそんなことは誰にでも言えるのだから。
13)3・11をひとつの契機として、クラウド的「帝国」に対する、スピリチュアル「マルチチュード」が、自覚的に、健全に、今後も成長していけるのかどうか、が、当ブログが注目する目下の課題である。
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