ガイアと里―地球と人間のゆくえ 屋久島対談 <2> 山尾三省+プラブッダ
「ガイアと里」 ―地球と人間のゆくえ 屋久島対談 <2>
山尾 三省 (著) , スワミ・プレム・プラブッダ (著) 1986/01 地湧社 単行本: 221p
★★★★★
星川淳(プラブッタ)関連リスト (工事中)
「存在の詩」 Osho プラブッタ訳 1975/8 アッシーシ・ラジネーシ瞑想センター
「注目すべき人々との出会い」グルジェフ /星川訳 1981/12 めるくまーる
「地球感覚、」屋久島発 1984/08 工作舎
「地球生命圏」ガイアの科学 ジェ-ムズ・ラヴロック 1984/10 工作舎
「反逆のブッダ」Oshoの軌跡 ヴァサント・ジョシ著 プラブッダ訳 1984/10 めるくまーる社
「ガイアと里」―地球と人間のゆくえ屋久島対談 山尾 三省と共著 1986/01 地湧社
「精霊の橋」1995/03 幻冬舎
「モンゴロイドの大いなる旅」 1997/09 同朋舎
「環太平洋インナーネット紀行」―モンゴロイド系先住民の叡智 1997/09 NTT出版
「一万年の旅路」―ネイティヴ・アメリカンの口承史 ポーラ アンダーウッド著 星川淳・翻訳1998/05 翔泳社
「知恵の三つ編み」 ポーラ・アンダーウッド著、 星川淳・翻訳 1998/08 徳間書店
「魂の民主主義」―北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法 2005/06 築地書館
「暴走する文明」―「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ ロナルドライト著 星川淳・翻訳 2005/12 日本放送出版協会
「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」 2007/03 幻冬舎
「タマサイ 魂彩」 2013/10 南方新社
1)前回は3・11後における山尾三省再読のプロセスでこの本を読んだのだが、今回は、「ガイア」のジェームズ・ラブロック再確認のプロセスの中で、ガイアつながりでこの本をめくってみることになった。
2)プラブッダ(星川淳)はラブロックの初期的な本を2冊翻訳しているかぎり、日本へのラブロックの紹介者のひとりと目されてしかるべきなのであるが、ラブロック自身が多面的な変貌を見せるので、後期の読者たちからは、むしろ間違った紹介者のようなかたちで見られてしまうこともある。
3)いずれにせよ、この本においては三省とプラブッタが屋久島という場において対談しているのであり、自らの立ち位置を里とガイアという旗印でその距離感を盛んに確認し合うという趣向である。
4)この二人は、年代的には私の先輩筋にあたるわけだが、同時代性としては、よくもわるくも象徴的な二人であり、その活発な表現に対しては、好印象を持ったり、一方的な感情論でぶつかってみたりしてきた。
5)実際はこの本に対しても複雑な思いがあるのだが、三省がアメリカのゲーリー・スナイダーを訪ねて対談した「聖なる地球のつどいかな」(1998/07 山と溪谷社)に対してレインボー評価をするなら、その対となるべきこちらの本についても、やはりレインボー評価をしておかなければならないのではないか、と思う。
6)読み返してもなかなかためになることが多い。かなりの部分が共感できる。ただ、ここで書かれている「ガイア」は、必ずしもラブロックの「ガイア」ではない。よくもわるくも、二人の、少なくとも反核・脱原発の思想を強く持った側としての「ガイア」である。転向ではなく、一貫してそうだったと主張するラブロックの原発推進論にはあきれるばかりだが、よもや翻訳者のプラブッタとて、その紹介者が「一貫した」原発推進者だったとは考えていなかっただろう。
7)3・11を挟んで、当ブログは「プロジェクト567」なるひとつの取りまとめをしていた。7つのキーワードに収められてそのビジョンの第一はエコビレッジだった。当時の成り行きの中で、その可能性を求めていたわけだが、それはガイアとも里とも繋がり得る概念だった。それは3・11後に大きく進展することはなく、現在は停滞している。
8)しかし、共同で進められようとしたそのビジョンは、より個的なものなり、いまは、個人としては、ガイアでもなければ、里でもない、我が家の庭的なスケールまで矮小化されてきている。矮小化と卑下するばかりではなく、それはそれだけより現実的になってきたともいえる。
9)ただもっというなら、いまやもうひとつ別なキーワード、マーケットプレイスというところまで降りてくることも可能である。市場、市井、俗世間、日々日常、と言うことも可能だろう。外にも、里にも逃げ込むことができない、あるいは逃げる必要もない原寸大の日々がいま、3・11後の自分の周囲にある。
10)この本のサブタイトルは「地球と人間のゆくえ」である。すでに27年前に行われたこの対談で、明確に語られた認識とビジョンは、四半世紀を経たいま、どれほど具体化し、成果を挙げているだろうか。ビジョンや感性としては素晴らしいものがあるのだが、その結果がどうであったのか、ということを考えると、ビジョンや感性というものの危うさに気付かずにはおれない。
11)カウンターカルチャーという時、ちょうど同じ年代1986年にスチュアート・ブランドが「メディアラボ」(1988/04 福武書店)で触れているようなパソコン文化などは、この対談ではまったくでてこないのが、一つの象徴的一面ではある。三省は晩年までパソコンやメールをつかわなかったのではないだろうか。プラブッダも、屋久島に棲んでいたということもあり、最先端でパソコン文化を取り入れた、という経緯はなかったように思う。
11)プラブッダについてはときおり触れてきたが、当ブログとしてはまだまとめていない。当ブログがスタートする前に、別のSNSで追っかけをしてしまったので、一覧をつくるチャンスがなかった。今回、ここにそれを始めるきっかけを作っておきたい。今、彼を再読する気はないが、後日、気が向いたら、あちらからごっそりこちらに移転してきて、リストをつくることも可能ではあろう。
以下つづく
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