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2012/08/11

「寅さんとイエス」 米田彰男 <1>


「寅さんとイエス」  <1>
米田彰男 2012/07 筑摩書房 全集・双書 307p
Vol.3 No.0780 ★★☆☆☆ あるいは 

1)この本の評価は大きく分かれる。この本を読んでいて、読書とは一体なにか、考えた。

2)3・11を超えて、ごく最近出版されたばかりの本である。フーテンの寅も面白いし、イエスも侮りがたく、深いテーマではある。しかし、このタイミングでこの内容なのか。どうもしっくりこない。そう思っていたら、ようやく294pになって、「筆を擱(お)く直前、東日本大震災が起こった」という文章がでてきた。つまり、ほとんどが3・11以前に書かれていた文章だった。

3)「男はつらいよ」シリーズのDVDは全巻持っている。5~6年前に、NHKBSで48作全作品を放映した時に録画したものである。テレビで見ながら録画したのだから、私は全巻、このシリーズをみたことになる。

4)3年前に「男はつらいよ 推敲の謎」(杉下元明 2009/05 新典社)を読んだ時、いつかはこの全作品をもう一度見直してメモしておこうと、リストまで作っておいた。しかし、その機会はまだやってこない。ましてや3・11後の、この時期では、まだまだ、寅と遊んでいよう、という雰囲気ではない。

5)さりとて、寅もイエスも、それぞれに魅力的で、いつかは見直していくべき存在ではある。

6)「寅とイエス」、のタイトルに、Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」を連想する。寅はフィクション上の存在だが、「その男ゾルバ」もまたフィクションである。ゾルバを現代日本に置き換えるに、車寅次郎をもってくることは、それほど難しいことではない。むしろ、多くの人がすでに連想している。

7)ただ、「寅・ザ・ブッダ」とならずに、「寅・ザ・イエス」としたところが、この本の妙である。著者は、清泉女子大学教授にして、カトリック司祭、ということだから、ここは「イエス」でなければならなかったのだろう。

8)しかし本文を読んでみれば、著者の守備範囲は広く、必ずしも「イエス」でなければならないとする理由は薄い。だが、著者は著者として、聖書や文献に見られる「ジーザス・クライスト」その人に焦点を当てる。

9)Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の「ブッダ」が、2500年前の釈迦族のゴータマ・シッタルダが光明を得たとされる仏陀、その人のパーソナリティを超えて、ひろく一般に「目覚めたる者」の意味を持っているのに対し、著者は、少なくともこの本においては、「イエス」は聖書上に見る、2000年前に現れた大工の子に焦点を合わせ続ける。

10)この本を「寅・ザ・イエス」として、「ゾルバ・ザ・ブッダ」の別バージョンと見ることもやぶさかではない。それはそれでできるだろう。しかし、それが可能だったとして、それは一体なんだというのだろう。一冊の本として面白く、仮に読書として面白かろうと、それがフィクションや言説に連なるエンターテイメントや一時の楽しみごとであったとするなら、ブッタやイエスを、心底から理解したことにはならないし、自らの人生の上で役立った、ということにはならない。

11)冒頭で書いたように、この本の評価は大きくわかれる。それは、書き手ゆえではなく、読み手ゆえによってである。この本をどう読むのか。あるいは、この本を通じて、この本を離れ、より「真実」に近いほうへと歩いていけるかどうかが、問題の瀬戸際である。

12)「男はつらいよ」はフィクションである。俳優の渥美清や、その本名である田所靖雄がいかにその存在にリアリティを加えようと、作られた偶像であることは間違いない。ましてや、それは他者であり、自らの存在ではない。

13)人々はスクリーンの中の車寅次郎に感動し、涙し、拍手喝采を送るが、身の回りに、この男が実在し、ましてや身内に巣食っていたとしたら、映画作品をたたえるほどには、その男を賞賛はしないだろう。フィクションだからこそ愛される存在、フィクションだからこそ許される存在、それが車寅次郎なのだ。

14)実在というばかりではなく、自らの人生のひとつのモデルとして車寅次郎を模範とすることも、これもなかなかできない。生い立ちやその職業観、その気風、どれをとっても、一種独特で、それを自らのものにすることはほとんど不可能であり、また、模倣することにも意味はない。であるからこそ、フィクション上の寅は、ますます人々に広く愛される、ということになる。

15)また、「ゾルバ・ザ・ブッダ」を語るときのOshoは、その中に、自らの理想を語っているのであり、それは私だと言ってもいるのである。さて、「寅・ザ・イエス」の著者、米田彰男はどのような人なのか、寡聞にして存知あげないが、文章の中で、いくら寅やイエスが活写されていたとしても、その中に、「寅・ザ・イエス」としての米田彰男が見えてこなければ、当ブログの「読書」の対象としては、いささか興味をそがれるものとなる。

16)翻って、その注文は、一冊の本の著者へ向かうばかりではなく、返す刃は、読者としての自らへと向かう。私は誰なのか。「ゾルバ・ザ・ブッダ」であろうと、「寅・ザ・イエス」であろうと、他を語り、他を読む、ということだけに終始するのであれば、その読書は失敗ということになる。

17)この本は、そういった意味において瀬戸際にある。もし、この本が3・11以前に出版されたのであれば、これはこれでよかったに違いない。しかし、3・11以前に脱稿されたとしても、それから出版されるまでに一年猶予の期間があったのならば、もっともっと加筆訂正されてもよかったのではないか。3・11後においては、この本のテーマがいくら面白いと言っても、なかなか人々の心に伝わりにくいのではないか。

18)どうか、イエスと寅さんが、地震・津波そして原発という、かつてない天災と人災の極致の苦しみの中にいる人々に、天上から希望の息吹を力強く注いで下さるように! イエスと寅さんが、家族や友を失った人々の筆舌に尽くし難い悲痛を、少しでも和らげて下さることを切に切に願いつつ、自然の猛威によって帰天されたお一人お一人のご冥福を心からお祈りする次第である。p296「エピローグ ユーモアの塊なる寅さんとイエス」

19)この本におけるイエスは、いくつかの新しい視点から見つめられてはいるが、従来のイエス像を大きく覆すものではない。いや、むしろ洒脱な表現で、広範な思想界や哲学界の動きを取り混ぜて紹介しつつも、結局は、カトリック的イエス像を大きく離れるものではない。グノーシス的視点を紹介しつつ、ほぼ全否定の姿勢を貫く。

20)当ブログとしては、「その男ゾルバ」と同じカザンザキス著の「キリスト最後のこころみ」や「再び十字架にかけられたキリスト」、カリール・ジブランの「人の子イエス」あたりに、よりリアリティのあるイエス像を見つけ、また、それらこそ自らの人生の指針になしえるのではないかという直感を大事にしていきたいと思う。

21)3・11前における「フィクション」は、3・11というリアリティを一気に超えるということはなかなか難しい。この本、再読を要するとは思えないが、一読み手として、自らの中でその読んだ内容が、少しく時間をかけて熟成したあとでないと、正しい評価はできないと思う。それは読み手側にかかっている。

22)ただ少なくとも「寅・ザ・イエス」の視点を提示したということは、大きく評価されてしかるべきである。

<2>へつづく

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