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2012/09/07

福島をフクシマやFUKUSIMAにしてしまうのか 松岡正剛「3・11を読む」 千夜千冊番外録<6>

<5>からつづく


「3・11を読む」 千夜千冊番外録<6>
松岡正剛 2012/07 平凡社 単行本 430p
★★☆☆☆

1)さて、本書の一番のキモであろう、第三章「フクシマという問題群」という60ページほどの12冊についてのコメントを読んだ。はっきり言って、肩透かしを食った。ああ、せいぜいこの程度のことなのだ。そもそも、他人の読書に期待していた自分がアホだったのだ。

2)当ブログでは、まず、震災後、本を読めなかった。図書館が復興し、書店が復興して、すぐに読み始めたのは、いままで読み残していた過去の本であり、再読本だった。やがて、地震や津波についての読書となり、ようやくマスメディアの今回の震災の特集号に目をとおすようになった。

3)原発モノに目をやり始めたのは一番最後だった。どうにもできない、という諦めと、誰かがやるだろう、ということで原発モノは避けて通ってきた。だけど、いつまでもそんな態度が通るはずがない。原発モノ、そして、福島モノ、と進んでいtった。

4)しかし、フクシマ物にはあまり手をつけたくなかった。そもそも原発も東電第一原発、という呼称を長い間使っていた。そこに福島という単語を使うことさえ憚れた。当然のごとく、「フクシマ」と表記することは忌避したし、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、などと一連のイメージでコピーをひねり出す連中に対しては唾棄した。

5)だが、もちろん、それとていつまでも続けられる態度ではない。いつの間にか、当ブログもフクシマと言う表記に慣れようとしてきた。そんなか、マツオカ親分の「フクシマという問題群」は、なにもえぐっていない、と、現在の私は唸る。

6)せいぜい、たくきよしみつ「裸のフクシマ」や広瀬隆「FUKUSHIMA  福島原発メルトダウン」についてのコメントが目についたくらいで、あとは、それほどフクシマの問題群を、ぐぐっと捉えている、というふうには思えなかった。

7)どうも「番外篇」から、元の「連関篇」にもどれないままである。あの日の朝には、ぼくは「遊牧民から見た世界史」のあと、青木健のイラン・アーリア系についてのめったにない好著「アーリア人」を書くつもりだった。p191 2011/3/23

8)当ブログにおいても「遊牧民から見た世界史」杉山正明 1997/10)は既読である(Vol.2 No.0072)。 当日午前中、「メタコンシャス--意識を意識する」というカテゴリのもと、「パーマカルチャー」を読んでいた。その後、次のコンセプトは「森の生活」へと移行した。

9)福島が「フクシマ」になったのは3・11以降のことではなかったことを言いたくて、まず詩集をとりあげる。p192若松丈太郎「福島原発難民」 

10)ここでのオヤブンのスタイルがわからないでもないのだが、まぁ、それは自らの「美学」の中でのことであって、現地人の現在進行形の心情をよく理解できていない表現だと、私なら感じる。

11)で、問題は福島はいつから「フクシマ」になったのかということだ。3・11以降であるわけがない。そこはヒロシマやナガサキとは異なっている。 

 開沼の整理では、戦後政治が地方を服従させることによって復興・高度成長・GNP・GDP伸長を計画した当初から、福島はフクシマに向かっていた。中央の「原子力村」は地方の「原子力ムラ」を弄(もてあそ)ぶことに向かっていた。そこに一種の国内コロニアリズムのようなものが始まっていたのだという。p200「いつから福島はフクシマになったのか」

12)当ブログにおいては、この福島論は、今しばらく決着を見ないだろう。まだ、直視するほど余裕がないのだ。地名を限って、県境を限って、ひとつのシンボルをつくることによって、何事かの全体を把握したかに錯覚したくない。また、その名前をラベルのようにもてあそびたくない。

13)さて、本書を読んでいて、以前から持っていた松岡正剛という人のいまいちわからない部分についての、理解への足がかりがつかめたかな、という部分があった。

14)父はぼくが早稲田の四年のときに胆道ガンと膵臓ガンであっけなく死んだ。(略)それからのぼくは父がのこした借財を返すため数年を潰してツトメをはたし、やっと再びゼロから捲土重来をすると決意したのだ(以下略)  p230「フクシマという問題群」

15)私はこの人の追っかけをしてきたわけではないので、詳しくは知らないが、そういえば、このような経緯をどこかに書いてあったのを読んだ記憶もある。つまりは、かなり若くして貪欲に経済的に浮揚策を採ってきた人だったのだ。工作舎とか編集工学とか、魅力あるコンセプトで魅了はしてくれるのだが、いっこうに、私の世界観とは一致しなかった。

16)膨大な印刷物となった「松岡正剛 千夜千冊」(2006年10月 求龍堂)なんてシリーズもパラパラ手にとったし、そのダイジェストである「ちょっと本気な千夜千冊虎の巻」(2007/06  求龍堂)も面白く読んだ。その他、1970年代初半からの雑誌「遊」もよく友人宅でめくった(私は買う気がいまいち起きなかった)。80年代初半には、短波ラジオでラジオマガジン「遊」なんていう実験をしていて、やたらと「エチカル・アニマル」の宣伝をしていたことも覚えている。その後は、ニューサイエンスやら、トランスパーソナルなどの翻訳本を工作舎から乱出させたし、90年代には、そこそこマスメディアでも有名人になった。21世紀になっては、日本の「思想界」にこの人ありとも目される人であろう、と推測はする。しかし、いまいち今だによくわからない。そのうち、関連リストをつくり、ひとつガチンコ読書をしてみよう。

17)さて、松岡正剛「3・11を読む」、そのキモとも思われていた部分の第三章では、いまいち納得できなかった。いよいよ残り第四章「事故とエコとエゴ」に突入しよう。なにやら、語呂合わせで「自己とセエコオとセエゴオ」なんて読めたりする。おふざけが過ぎるか・・・。

<7>につづく

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