敢えて各章から一冊づつ選んでみる 松岡正剛『3・11を読む』 千夜千冊番外録<8>
「3・11を読む」 千夜千冊番外録<8>
松岡正剛 2012/07 平凡社 単行本 430p
1)さて、この本、五章あるうちの各章から、一冊づつ抜き出すとしたら、どのようなことになるだろうか。
2)第一章「大震災を受け止める」では、ひたすら報道写真集などが紹介されているので、本当はあまり見たくない。いまだに「受け止められない」のだろう。この11冊の中では、「津波てんでんこ」(山下文男 2008/01)は、3・11の予告の書ではあるが、3・11を直に伝えている本ではない。
3)もうこの手の本をあまり見たくはないのだが、敢えて抜き出すなら、「河北新報のいちばん長い日」だろうか。書店の店頭ではめくってみたが、借り出してまでみる勇気がない。市内の図書館にはほとんどすべてこの本が入っている。地元の新聞社だけに、各図書館に寄贈したのかもしれない。それでも、ウェイティング・リストは満載である。とりあえず、予約だけは入れておくことにする。
4)第二章「原発問題の基底」の12冊からの一冊となれば、ここは小出裕章「隠される原子力・核の真実」(2010/12 八月書館)しかない。小出裕章氏には3・11後に出た本が沢山あり、必ずしもこの本がベストとは言い難い。氏こそ3・11「後」を語り得る一人だと思う。今後も注目しよう。
5)第三章「フクシマという問題群」では12冊紹介されている。3・11を冠した写真集を今でも直視出来ないように、今でも当ブログは、福島=フクシマ=FUKUSIMAとう表記を直視することができない。いずれ「受け止め」なければならないのだろう。
6)ここから一冊抜き出すとしたら、やはり身近なたくきよしみつ「裸のフクシマ」(2011/10 講談社)となるだろうか。現場からの報告という意味では、メジャーな流通には乗っていないが、地元からの出版物がたくさんでている。当ブログでも多少は追っかけを始めているが、県境を越えたたくさんのレポートが記録され続けている。
7)第四章「事故とエコとエゴ」では19冊紹介されている。3・11後に出版された本ではあるがスチュアート・ブランド「地球の論点」(2011/06 英治出版)はそもそも3・11以前に書かれた本でもあるし、原発推進に帰結したこの著者については、当ブログとしては「噴飯もの」と結論づけてしまった。
8)噴飯ものというなら、中沢新一だってその類だ、と怒鳴ってしまいそうだが、敢えて一冊と言われれば中沢「日本の大転換」あたりを残してみるしかないのだろう。ただ、全然解決策になっていない。
9)この第四章だけは、当ブログとしては未読がたくさんあり、もうすこし注意深くリストアップしなおす必要がある。
10)第五章「陸奥(みちのく)と東北を念(おも)う」には、6冊の本が紹介されているが、私なら、どれも選ばない。そもそも、松岡がいう時の「東北」という言葉が気に食わない(笑)。あるいは、東北、という単語を使う時、松岡の存在そのものが浮きあがってきて、もっとも松岡の、私から見た「嫌な面」が見えてしまう。残念ながら、敢えてこのリストはいただかない。この人は、心から一番東北が好きな人ではない。
11)世の中には、なにをおいても東北が大好き、と言う人はいるわけで(私もその片隅にいたい)、そういう人たちの手触り、たたずまいは、また独特である。3・11にかかわらず、東北は東北であり続ける。あるいは、この東と北を組み合わせた単語から漏れ出てしまう、たくさんの豊饒さがそこにはあるのだ。そこに気づいていない人はたくさんいる。
12)といいつつ、やはり一冊を選ぶとすれば赤坂憲雄「東北学/忘れられた東北」あたりにしておくのが無難かな。
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