ウェブVS原発、ソーシャルVS国家、アメリカVS東北、と読みなおしてみる 池田純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』<全球時代>の構想力<4>
「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」 <全球時代>の構想力<4>
池田純一(著) 2011/03 講談社 317P
1)もう一度、この本を最初から読み直してみる。なかなか面白い本なのだが、もしこの本が思ったほど話題になっていないとしたら(未確認)、この本が、著者自らが認めているように、「階層的」に書かれているからだろう。
2)階層的で、全方位的な書き方は、当ブログとしては賛成で、あるいは松岡正剛などもそういう意味では意図的にその「編集工学」に取り入れているはずである。
3)こちらの池田著のほうが「ウェブ」「ソーシャル」「アメリカ」というキーワードを三つに絞り、そこから構想力を探っていっているとすれば、松岡著「3・11を読む」の場合、もちろん切り口は3・11なのであるが、池田本をぶつけて敢えて3つのキーワードを探ろうとすれば、「原発」「国家」「東北」となるのではないだろうか。
4)池田本の場合は、もともとが出版社からのリクエストは「ウェブ」と「ソーシャル」について何か書いてくれ、ということだったらしいが、コンサルタントとしての池田にとってはそれだけでは物足りずに、もう一項「アメリカ」を入れた、ということになるのだろう。そのことによって、大変重層で支線に満ちた「大作」になったわけだ。
5)もし「ウェブ」と「ソーシャル」で、いわゆるツイッターやフェイスブックの一面的な流行現象をなぞっただけでは、その辺にいくらでも転がっている凡百のIT本として消費されていくだけだったに違いない。
6)松岡「3・11を読む」においても、3・11から「原発」と「国家」だけを取り出して論じているものは沢山あり、重要なテーマではあるが、重層的な構想力(つまり松岡流編集工学)としては、いまいち面白みにかける一冊となったであろう。成功しているとは言い難いが、なにはとりあえず、三本柱の一つに「東北」を据えたことに、この本が魅力あふれる(つまり私としては読む気になった)一冊になっていると思う。
7)逆に考えると、ロジャー・パルバース「もし、日本という国がなかったら」 (2011/ 12集英社)や、石寒太「宮沢賢治祈りのことば 悲しみから這い上がる希望の力」(2011/12 実業之日本社)が、的を得ているようでいて、重要な何かが決定的に不足していると思わせるのは、この三つの視点が、キチンと毅立していないからではないだろうか。とくに「ウェブVS原発」への支線がなかなかつかめない。
8)科学や物理の世界ということで「原発VSウェブ」を考える上で、一人の人格として考慮してみようとした場合、スチュアート・ブランドやジェームズ・ラブロック、あるいは時にはゲーリー・スナイダーの影響下にあるところの、スティーブ・ジョブズあたりを切り口に考えてみるのも面白いかもしれない。
9)「ウェブVS国家」というテーマなら、アントニオ・ネグリあたりの「マルチチュードVS<帝国>」などが、容易に思いつきやすい。ネグリは難解だし、とても極左的なので、その文脈から読むというより、そのネグリ自身の人生そのものを振り返ってみる、ということが重要となるだろう。
10)「アメリカVS東北」というテーマであれば、宮沢賢治や禅とも繋がるゲーリー・スナイダーが連想される。いやむしろ、スナイダーにも影響を遺したという意味では賢治そのものを立ち上げたほうが、より本質的なアプローチとなるかもしれない。そこには、南方熊楠や、あるいはソロー、エマーソン、ホイットマンなどの系譜も見え隠れするだろう。
11)とにかく、ここで、特に当ブログとしては、哲学や思想、あるいは作品や著作、発明物、というところではなく、人間としての生き方、その人生、その一生にこそ、より真実味を感じたいと思うのである。
12)だとするならば、「原発VS国家」、あるいは「原発VSソーシャル」、はたまた「原発VS東北」という意味で、小出裕章という人の立派な人生に学ぶことも、大変重要なテーマとなるだろう。
13)この池田純一という人は、確かに面白いのだが、1965年生まれで21世紀になってから数年コロンビア大学に留学した、という以外、ほとんどよくわからない。少なくとも実存的でない。これだけの考察をするのであれば、それを支えるライフスタイルの何たるからが、著者本人の姿として、もう少し見えてこなくてはならない。
14)そう言った意味においては、西海岸のボートハウスで暮らすスチュアート・ブランドや、英国のどうやら田舎で暮らしているらしきラブロックですら、その思想や哲学の「逸脱」に違和感を覚えつつ、そのライフスタイルには、とても強く魅力を感じるのである。
15)そういった意味においては、松岡正剛も「原発」「国家」に「東北」を加えたのは慧眼としても、どうもそのライフスタイルにおいては、「東北」はとってつけたような違和感が残る。
16)「東北」や「原発」、「国家」というキーワードなら山尾三省の生き方も気になるところ。三省は、極端に科学嫌いなスタイルを取ったので、電気やネット、そしてそこから派生するソーシャルへの支線は弱い。しかし、自らの「生き方」を詩集として書き上げたところからは、余人に見られないほどの堅い決意を感じる。
17)ラブロックやスチュアート・ブランドが夢見るような、電話帳クラスの小さな「原子力発電」が可能とされていない現在、「原発」は過去の科学に成らざるを得ないだろう。それに比して、「太陽光発電」などは、いくらコスト云々で難題が待ち構えているとしても、未来に向けて夢がある。少なくとも、電話帳サイズの蓄電池付きの発電システムは、十分可能なように思える。
18)「ウェブVS国家」においては、ことさら「日本」という国を称賛せずとも、そして、尖閣諸島や竹島問題で揺れる国家の境界ではあるが、いずれは国家はゆるく解体されて、「地球人」全体のものとして、「地球」全体が利用され愛されていく必要があるだろう。
19)ツイッターやフェイスブックは、ネグリいうところの「マルチチュード」が、より自覚し、意識し、自立していく過程におけるエピソードなのであり、大きな歴史の中においては、過大評価は禁物であろう。もちろん、iPadやiPhoneの過大なアイコン化は慎むべきだ。
20)「アメリカVS東北」も、太平洋を挟んだ西海岸と東海岸でのことだが、これは地球の位置的なものと理解すべきことではない。地球に根差した生き方、大地と共に生きる人間、そのことを意味するテーマでなくてはならない。
21)中国や韓国、ロシア、あるいは中東、さらには南米、アフリカ、という地域からの、時には「日本人」としては、違和感の残るメッセージが届くことがある。しかし、これらもまた国家に収奪された一人一人の人間が、よりマルチチュード化しているプロセスだと見ることができる。それはIT機器も加わった「ソーシャル」化の現象の一つであろう。ここはおなじ「地球人」としての立場に立って、感じ、共鳴しあっていく必要がある。
22)地球人として、この大地の上で、どう生きるのか、それが、ひとりひとりに問われていることなのであり、当ブログがジャーナルすべきことなのでもある。
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