事故を操る軽やかな手口 ポ-ル・ヴィリリオ著『アクシデント 事故と文明』
「アクシデント」 事故と文明
ポ-ル・ヴィリリオ 小林正巳訳 2006/02 青土社 単行本199p
Vol.3 No.0806★★★★☆
1)松岡正剛「3・11を読む」第4章の19冊は、この本から始まる。松岡は「そろそろ日本にもせめて十人のヴィリリオが必要になっているのではあるまいか」松岡「3・11を読む」p241と結んでいる。
2)ほう、どんな書物だろうと、思ってはいたが、いざ手にとってみると、「事故」という単語が、被災地の風景を連想させて、なかなか手につかなかった。とても事故の「直後」に読めるような本ではない、と後回しにした。松岡にしてからが千夜千冊したのは3・11の一年後の2012年3月だった。
3)だが実際に読み始めてみれば、傍点やボールド体、カギカッコや引用が煩雑に入り組んではいるものの、決して読みにくい本ではない。ましてや、「事故」を手玉にとっているようで、どこか軽やかなものさえ感じ始める。
4)さて、地震、津波、原発、と重層した3・11だが、「事故」と言えるのは原発事故だけであろう。地震事故とも言わない死、津波事故とも言わない。地震も津波も、ある程度は織り込み済みのことなのであり、地球上にいきる人間としては必然的に遭遇しなければならない、ごく「自然」なことなのである。
5)地震や津波で仮に工場や商店街が被害を受けても「事故」とは言わない。火力発電所が津波に襲わても「事故」とは言わない。津波は津波なのである。仮に火災や油類流出が起きたとしても、二次的な「事故」とまでは、大きく取り上げられなかった。
6)ところが、原発だけは、地震や津波に襲われたあと、放射性物質の流出という「事故」を起した。原発施設が襲われただけでは、単に津波被害なのだ。その次の放射性物質の流失は二次的な事故なのである。
7)ヴィリリオの概念からは少し離れるが、大雑把にいえば、原発が「発明」された時点で、今回の「フクシマ」の「発明」は織り込み済みだったと言える。
8)実体が(科学にとって)絶対的かつ必然的であり、事故が相対的かつ偶発的であるとしたら、今や「実態」を認識の始まりとして、「事故」をあの哲学的直感--アリストレテスなどが先駆者であった--の終わりとして考えることができる。p29「事故の発明」
9)地震や津波は自然現象なのだから甘受せざるを得ないが、原発は人類の発明なのであり、その結果の「事故」は自然現象ではないが、発明した限りは甘受しなければならないのだ。あるいは、「事故」を避けたければ、その「発明」を取り消さなければならない。
10)このような本を「事故」のあとに読んでもどうしようもないと思うが、実際にはこの本は2005年に出版されているものであり、ヴィリリオらの思索は、それよりさらに昔に遡ることができる。その大きな契機は2001年の9・11だっただろうが、さらに遡って、1986年のチェルノブイリだったり、スリーマイルだったりするし、さらにもっと遡ることができる。
11)このような思索をしていた人々にとっては、今回の3・11、とりわけ「原発事故」の持っている意味は、のちのちまで語られるほど、重要かつ重大なものとなるだろうし、それは、さらにもっと大きな、「原発事故」以上に大きな「事故」の予言にもなっている。
12)もし実体を発明することが間接的に事故を発明することであるなら、その発明が強力でパフォーマンスの高いものであればあるほど、当の事故は劇的なものとなる。p66「事故の未来」
13)本書には、著者紹介や顔写真のようなものがついていないので、著者について本文からもイメージしにくいが、ウィキペディアによればPaul Virilioは 1932年生まれのフランスの思想家、都市計画家ということである。
14)カナダや日本で---おそらく神戸の大震災や東京の地下鉄テロがあったこの国ならではの結果だろうが---最近導入された「人類の安全」という新しい概念は、将来、<法治国家>はおろか文明世界全体をも興廃させかねないあの礼儀をまきまえぬ[=反市民的な]戦争を封じ込めることに寄与するかもしれない。p129「公共的情動」
15)著者には著者の独特のアルファベットがあり表記法があるので、読みにくく解読しにくい面も多いが、読みようによっては、まさにヴィリリオが言っていることは、当ブログと深く底通するようでもある。
16)尖閣列島や竹島の領土問題で、するどく問われている日本「国家」であるが、そもそも国家を「発明」したかぎり、領土問題はさけては通れない「事故」である、ということができる。あるいは領土問題という「事故」が起きてみれば、「国家」という「発明品」が本質的に抱えている欠陥が、するどく浮き彫りにされてくる、とも言える。
17)ついには、人類は、ニューエイジ運動の信奉者や合衆国に蔓延するサバイバリズムのセクトが暗示するように、滑走路が途切れるギリギリのところで離陸し、一個の未確認飛行物体となるのだろうか。
たしかに、グローバリゼーションは世界の終わりではないにしろ、それでも、現実時間の中心にあって、世界の中心に向かう一種の旅の様相を呈している。この現実時間の中心は、極めて危険なことに世界の中心に取って代わろうとしているが、この世界の中心こそ、まさしく現実空間だったのであり、行動(action)のために---双方向通信(intereaction)が一般化する時代以前のことだ---まだ時間も猶予を作ってくれていたのだった。p185「走行圏」
18)著者のアルファベットに慣れて、より内容を吟味するには、この本一冊では無理だが、こういう視点から、こういう人物が、こういうスタイルで、人間や文明をぶった切ると、なるほどこうなるのか、という快感が走る。そしてその結論は、それほど想定外のエリアにはない。
19)よくよく考えてみれば、人間において「私」を「発明」すれば、「事故」としての「死」は避けられないのであり、その事故を避けようとすれば、そもそも人間など生きている必要はない、というニヒリズムに陥る。
20)ここは、「事故」を忌避すべき直視できないものとするではなく、そこからこそ次のステップが見えてくるというヴィリリオの視点の、実に「軽やかな」手口で、「事故」をお手玉にのように「あやつってみる」のも面白いのかもしれない。
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