松岡正剛「3・11を読む」 千夜千冊番外録<7>
「3・11を読む」 千夜千冊番外録<7>
松岡正剛 2012/07 平凡社 単行本 430p
1)第一章が3・11そのものとの遭遇であり、第五章が著者なりの東北学の捉え直しだったとして、第二章~第四章は、3・11≒原発≒フクシマというひとくくりの、「前」「中」「後」ということになる。そして、最後の「後」に位置する第四章がやっぱり一番読み応えがあり、当ブログの読書へと繋がる、大事な一章となる。
2)この「3・11を読む」を、同時併読していた池田純一の「ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力」(2011/03 講談社)になぞらえてまとめるなら、その論点は「原発×国家×東北」ということになるだろう。池田の著書はまさに3・11「前」に位置し、このセイゴー本は3・11「中」に位置する。
3)2001年に亡くなった山尾三省は没後にまとめられた「南の光のなかで」(2002/04 野草社)において、自らの死を予期しつつ、子供たちに三つの遺言を遺した。
4)「子供達への遺言・妻への遺言」 山尾 三省
僕は父母から遺言状らしいものをもらったことがないので、ここにこういう形で、子供達と妻に向けてそれ書けるということが、大変うれしいのです。というのは、ぼくの現状は末期ガンで、何かの奇跡が起こらない限りは、2、3ヶ月の内に確実にこの世を去って行くことになっているからです。
そのような立場から、子供達および妻、つまり自分の最も愛する者達へ最後のメッセージを送るということになると、それは同時に自分の人生を締めくくることでもありますから、大変身が引き締まります。
まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。
これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。
第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。
自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。
遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。
南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。
われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法第9条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべて
の国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。
以上三つの遺言は、特別に妻にあてられたものなくても、子供達にあてられたものでなくてもよいと思われるかもしれませんが、そんなことはけっしてありません。
ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻を愛し、子供達を愛することなのですから、その願い(遺言)は、どこまでも深く、強く彼女達・彼ら達に伝えられずにはおれないのです。
つまり自分の本当の願いを伝えるということは、自分は本当にあなたたちを愛しているよ、と伝えることでもあるのですね。
死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。けれども、だからといって、この三つの遺言にあなたがたが責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。
あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。市民運動も悪くないけど、もっともっと豊かな”個人運動”があることを、ぼくたちは知ってるよね。その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。
5)三省の遺言を受ける形で、上の三題話をさらに煮詰めれば、自然環境の回復、核(原発)兵器の廃絶、国家主義の解体、ということになろう。
6)原発(=核兵器)についての「解決策」については、小出裕章の「原発ゼロ世界へ ぜんぶなくす」(2012/01 エイシア出版)、これしかないだろう。どんなに夢想的に見えたとしても、じっくり考えて、じっくり考えてくればこれしかないのである。そして、小出氏は、そういう生き方を、自分の人生として選んだ。
7)国家、あるいは戦争放棄については、「憲法九条を世界遺産に」(太田光・中沢新一 2006/8 集英社)のタイトルが秀抜である。いくらお笑い的に聞こえても、いずれ国家はゆるく、世界全体へ解体されていくしかない。そのためには、戦争はしないという理念が、地球に生きる全ての人々の共通理念になる日がきっとくる。
8)そして、自然環境の回復を思えばゲーリー・スナイダーの「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」(1975/12 社会思想社)がピンとくる。三省はインターネットも使わず、自動車もちょっとだけ、太陽光発電もちんぷんかんぷんという形で逝ってしまったけれど、こにあたりについてはスナイダーの方が先見の目がある。
9)小出氏は科学者だから、三省のような南無浄瑠璃光を語ったりはしないし、スナイダーはZENに通じていても、3・11の「東北」については、いまひとつ自らの問題としてとらえることはできないだろう。
10)ちょっと飛躍はするが、私は、これらを含めて、いつもOshoを思っている。それを露骨に表に出すことはなくとも、ひとつのビジョンとして、科学や芸術を超えて、意識を含めた、本当の革命が、きっとくると、思い続けている。あるいは、そういう姿勢で日々を生きていきたいと願っている。
11)さて、こちら「3・11を読む」第四章においては、スチュアート・ブランドあり、中沢新一あり、宮台真司あり、佐藤優、内田樹、森本敏、ボール・ヴィリリオ、ヴァン・ジョーンズ・・・・・などなど、かなりにぎやかな顔ぞろえではある。
12)特に中沢新一の「日本の大転換」(2011/08集英社)や中沢新一×内田樹×平川克美「大津波と原発」(2011/05 朝日新聞出版)などには期待してしまうのだが、いかんせん、こちらも、3・11「中」でしかない。当ブログとして納得のいくような「解決策」にはなっていない。
13)この第四章、もうすこし再読・精読するとしても、いわゆる松岡編集工学が編み出す世界観には、どこかケン・ウィルバーの横並び主義に似て、いつまで経ってもひとつにまとまらず、また中心に空や無を見つけ出すことはない。
14)松岡正剛の著書には、「曼荼羅」という接頭語や接尾詞がつく本がいくつもあるようだが、歴史や空間を超えて「情報」をかき集め「編集」するのはいいのだが、そこからの詰めが甘いと思う。情報の最終編集は、情報の放棄であることに、まだ気づいていないと、私なら思う。
15)あるいは、読書ブログとしての当ブログもまた、読書の長短をわきまえつつ、自らの3・11「後」を見つめていこうとするものである。
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