ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン 『現代詩手帖』特集<1>
「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」
「現代詩手帖」 2012年7月号特集1 思潮社 雑誌
Vol.3 No.0803★★★☆☆
1)3・11震災後、書店も図書館も壊滅し、読書する気力も失って、ようやく読書とブログを開始しようかな、と思ったのは、何週間も経過してからだった。最初に読み始めたのは、ゲーリー・スナイダーの「地球の家を保つには」だった。
2)そのスナイダーが震災の半年後、日本を訪問した。震災以前より企画されていた谷川俊太郎との対談「太平洋をつなぐ詩の夕べ」に参加するためだった。
3)その時、スナイダーはどんな発言をしただろう。3・11の日本を見て、どう思っただろう、と心待ちしていたが、この度、この雑誌で特集されることになった。
4)でも、その期待感は、この雑誌によってことごとく裏切られた、という気分のほうが強い。谷川俊太郎との対談では、3・11に触れることはまったくなかった(あるいは、その部分はすべてカットされている、のかもしれない)。
5)この特集のなかで、このビート詩人と3・11の距離感を量ることのできる部分はわずかしない。
6)そして年が明けて、3月にあの東日本大震災と原発の事故が起こった。地震の翌日、スナイダーから安否確認のメールが届いた。「ぼくも家族もみんな無事です」と返事を書きながら、「いま福島で何が起こっているか」という不安がどんどん膨らんでいった。p32原成吉「ブラックロックから奥の細道へ」
7)谷川俊太郎さんとの再会と「詩の夕べ」のイベントの翌日、スナイダーとぼくは新幹線で新花巻駅へ行き、そこからはレンタカーで「宮澤賢治記念館」を訪れた。スナイダーは賢治の作品を英訳し、自身の詩集「奥地」(The Back Country 1968)の最後のセクションで賢治の詩を紹介している。これが賢治の英訳のはじまりとなった。
記念館に着くと、館長の宮澤雄造さんが出迎えてくれた。そこから館内を2時間ほど案内していただいた。その後、近くの北上川、例の「イギリス海岸」へ行ってみると、シロザケと出会うことができた。産卵後の「ほっちゃれ」もちらほら。
その年の夏、ぼくはロアー・ユバ川でチノック・サーモンの遡上に出くわしたので、その話をするとスナイダーは、「どちらもタイヘイヨウ鮭属だよ。太平洋をつないでいるのは詩だけじゃないね」と笑っていた。
それから、賢治の実弟、宮澤清六さんのお孫さんにあたる宮澤和樹さんの「林風舎」を訪ね、コーヒーを飲みながら賢治の作品についてお話を伺うことができた。この夜は賢治も訪ねたという大沢温泉の山水閣に泊まり、自炊部露天風呂に浸かりながら、酒と夜話を楽しんだ。
10月31日、朝早いうちに花巻を出発し平泉へ。ちょうどこの年に世界遺産に登録されたこともあり混雑が予想されたが、ゆっくりと参道を歩くことができた。
スナイダーは詩集「奥地」を先輩詩人ケネス・レクスロスに捧げているが、同じページにエピグラフとして、「・・・・・予もいずれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂白の思いやまず、海浜にさすらへ・・・・・」という「奥の細道」の冒頭のことばを記している。
「五月雨の降りのこしてや光堂」の近くに立つ芭蕉像のとなりでメモをとるスナイダーの姿が印象的だった。
スナイダーの詩集「絶頂の危うさ」には、芭蕉の俳文からヒントを得たスタイルで書かれた作品も収められている。午後に「夏草や兵どものが夢の跡」の碑がある毛越時を訪ね、夕方には松島へ。この夜は、松島湾に望むホテル「一の坊」に泊まった。
翌朝、松島湾を巡るクルーズをした。湾の奥にあたる商店街は津波の影響がほとんど見られなかったが、外海に近い島々には、島に乗り上げたままの漁船や崩れた島がそのまま残っていた。
芭蕉とこの地を訪れた曾良は、「松島や鶴に身をかれほととぎす」と詠んだが、けたましいウミネコの鳴き声に、「自然は与えもするし、奪いもする」という警句を聞いたような気がした。
午後に瑞巌寺を訪ね、仙台から大宮経由で立川へ帰ってきた。短い間の「奥の細道」紀行ではあったが、そこからどんな詩が生まれるのかファンの一人として楽しみである。
最後にひと事付け加えておきたいことがある。大震災や原発事故が起きたにもかかわらず、このイベントがどうにか行えそうだとわかったとき、スナイダーから、「もしわたしへのお礼があれば、そのすべてを震災で苦しんでいる方々へ送ってもらいたい」というメールがあった。
その趣旨に谷川俊太郎さんも賛同してくれた。事実上「太平洋をつなぐ詩の夕べ」は、東日本大震災被害者支援にも協力することになった。p33原成吉 同上
8)正直言って、この詩人たちの集まりである雑誌の特集にも不満であるし、そのイベント後のアメリカ現代詩の第一人者と目されるゲーリー・スナイダーの「行動」にも不満である。これでは、単に観光地巡りをしているに過ぎない。内陸部の花巻と平泉を見て、松島湾をクルーズしただけでは、3・11は分からない。
9)いえいえ、松島だって、決して津波の被害がなかったわけではない。観光で成り立っている地だけに、地元の人たちが、気丈夫にふるまって、その傷跡を小さく見せているに過ぎない。よくよく見てほしい。そして、ほんとうは、もっと「奥地」へと足を延ばしてほしかった。
10)私もまた、「ファンの一人」として「どんな詩が生まれる」のか、「楽しみ」にして待てばいいのだろうか・・・・? 私はどこか、震災地に立つ宮澤賢治や、Fukushimaで語ったダライ・ラマ、あるいは被災地の子どもたちに「龍の話」をしたブータン国王のように、「ビート詩人とポスト3・11」というような、鮮やかなコントラストを期待していたのだ。だが、少なくとも、この詩人たちは、そのようには、今回のスナイダーを「演出」しなかった。
11)その他、この15人がからむ「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」特集の中で、3・11の痕跡をみつけることができたのは、わずかに一名だけだった。
12)「海は静かで、残酷なほど美しかった。ふりかえれば、その輝きとは対照的に、瓦礫山の荒涼とした広がりが胸をしめつける。気仙沼階上の浜辺、海猫の哀歌を聴きながら、ぼくはゲーリーの第一詩集「リップラップと寒山詩」を開いた。p60石田瑞穂「岩の言葉」
13)スナイダーと3・11という劇的な対比を期待していた私がアホだったかもしれない。
14)次のような面白い文章もある。
15)昨年逝去したスティーブ・ジョブズについては(スナイダーは)次のように語っている。
「彼は生きていたら、コンピュータやiPadを超えて、発明しつづけていたと思います。たぶん、彼は多くの愚かな問題から世界を救うための道を見つけ出し、われわれみんなを掬ってくれたかもしれません。
彼の偉大な才能は、ただ世界最良のコンピュータを製造することだけに使われたのです。われわれはそのような人々をもっと必要としているのです」
このコメントには、カウンターカルチャーの中心人物として60年を経て、自らの文化的業績を見届けてきた自信が感じられる。p46高橋綾子「カウンターカルチャーはどこにでもある」
16)ジョブズ追っかけの中にスナイダーをみつけ、スナイダー追っかけの中にジョブズを見つければ、なにはともあれ、当ブログとして、ひとつの円環が閉じたという感覚を味わうことができる。
17)しかしまぁ、言葉の遊び手たちである日本「現代詩」人たちの、「野性的」でもなく、「今日的」でもない「感性」の鈍さに驚いた。これはスナイダーが悪いのではなく、この特集をプロデュースした側が悪いのである、とスナイダー「びいき」の私は、一応の結論を出しておく。
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