石川裕人にとって「革命戦線」とは何か 『朝日ジャーナル』特集:ミニコミ’71---奔流する地下水<1>
特集:ミニコミ’71---奔流する地下水
「朝日ジャーナル」 1971/03/26 朝日新聞社 石川裕人年表
Vol.3 No.0830★★★★★
1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」ブログ(第二十回最終回 砂上の楼閣?)
2)という時の、石川裕人にとっての「革命戦線」とはなんだろう。寡聞にして、彼が先鋭な政治活動をしたとか、政治結社に属したなどということは聞かない。政治色の濃かった70年前後から、街頭デモや、政治集会にさえ出たことはなかったのではないだろうか。
3)まだまだ田舎の16歳の高校生である。まして昭和28年生まれという、ベビーブームからおくれてやってきた青年であってみれば、なかなか社会の潮流とコミットするタイミングは難しかった。
4)その中でも、彼がもし自らを将来的に「離脱」する「革命戦線」に属していたのだと自称するなら、私はこの雑誌を連想する。すでに廃刊になって久しい左翼系雑誌であるが、70年アンポの時代にあっては、新左翼系の牙城とも思える雑誌であった。
5)週刊誌だったから情報は早い。他の週刊誌より薄かったが、この雑誌を小脇に抱えて、街にでることで、ちょっとした革命家気分になれたものだった。この号は特別号だから100円となっているが、50円とか、60円くらいだったのではないだろうか。
6)私がこの「朝日ジャーナル」の1971年の3月にでた「ミニコミ」特集号を思い出すのは、この全国の当時の反体制的なミニコミ紙、約800の中に、石川裕人のミニコミがリストアップされているからである。
7)ムニョ=住所 石川裕二 電話番号 自己欺瞞ミニコミ”私の求めるものは鍵穴です” p8
8)並み居る地域闘争機関紙などの中に、彼のミニコミは、それなりに自己主張していた。
9)なぜにここに彼のミニコミが紹介されているかといえば、石川裕人ファンにはお呼びじゃないかしれないが、先に私が自分のミニコミを投稿し、彼にも投稿するよう勧めたからである。
10)すくりぶる=住所 阿部清孝 電話番号 書きたい時に書きたいことを書く p7
11)私のミニコミのキャッチフレーズも、決して誇れたものではない(笑)。ほんの数行のマスメディアへの登場だったが、実は、これが絶大な効果があった。
12)東大裁判闘争ニュース、三里塚闘争救援ニュース、靖国神社国営化反対・津地鎮祭違憲訴訟支援ニュース、新左翼、と言った超硬派な団体から、月刊キブツ、非暴力つうしん、沖縄ヤングべ平連と言ったやや軟派なグループもある。釜ケ崎通信、牛乳共同購入ニュース、など、かなりくだけたネットワークの中に、末永蒼生のPEAK、山形の菅原秀のニュー・ヴァーブ、なども見えていた。
13)これらの並み居る「革命戦線」の中にあって、私たち高校生のミニコミは必ずしも「場違い」ではなかった。むしろ「70年以後」をにらんだ、新しい時代のニューウェイブとして、全体としてのバランスをとる作用もあったかに思える。
14)絶大な効果とは、このリストの以後、毎日毎日、膨大な全国から問い合わせがあり、また、それぞれのミニコミが送付されてくるようになった事である。あっという間に段ボールがいっぱいになるほど、全国からネットワークの誘いがきた。
15)この「全国ミニコミ一覧表」はそもそも中央寄りの情報が中心で、私たちの宮城県からはわずか9紙しか応募していなかった。だから、映画の上映や、なにかの企画イベントの連絡先としてのターゲットを探している団体にとっては、きわめて容易に連絡をとれる便利帳に見えたことだろう。
16)宮城県からの他の7紙の発行元の中には、みちのく団地の友(このおばさんとは後に私は一緒にNHKテレビに出演した)、仙台市政研究会、東北小川プロダクション、青年ー民主主義に反するものとは徹底的に戦う、東北地方解放戦線、めしゅうど、「のりひび」などがある。
17)特に「のりひび」は、「全国原子力化学技術者連合仙台支部、東北大反公害闘争委員会、仙台市東北大工学部内・女川原発実力阻止」(p7)という紹介がある。今日の小出裕章氏の活躍を考える時、すでに、この時点で彼らと私たちが横一線に並んでいた、と、拡大解釈をすることも可能だろう。
18)私はこの「ミニコミ特集」で山形の菅原秀と連絡がとれ、そこから末永蒼生につながり、さらに全国のカウンターカルチャーにつながっていった。
19)石川裕人は、この時、東京キッドブラザーズの東由多加たちの「さくらんぼユートピア」のDMをもらったはずだ。だからこそ、田舎の高校生が、ダイレクトに東や寺山と食事をするほどの接点を持つことができたのだ。
20)もちろん、この時、石川が「さくらんぼ」のDMをもらって彼らに連絡をとらなかったら、その後、高校時代に一緒に劇団「座敷童子」を立ち上げた元木たけしは、その後キッドにいくことはなかったかもしれないと、ひそかに思う。
21)それにしても、この当時から石川は独自の路線を歩んでいる。「私の求めるものは鍵穴です」。まさに、人を食ったキャッチフレーズである。彼は、彼の「演劇」性を差し込むべき「共同性」をこそ求めていたといえる。
22)私は私なりに「書きたい時に書きたいことを書く」という、ノンフィクション・ライティング路線を歩んでいる。ただ、私はこの時点で、すでに「ジャーナリズム」に対する大きな「失望感」を味わっている。これは、いずれ後述する。
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