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2012/10/21

独自の演劇活動を貫こうとした石川裕人 『星の遊行群』 1975年ミルキーウェイ・キャラバン<2>

<1>からつづく

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「星の遊行群」 Vol.1 <2>
星の遊行群 ミルキーウェイ・キャラバン 1975/03 ミニコミ雑誌 p135 石川裕人年表
★★★☆☆

1)59才と一ヶ月を一期として逝った石川裕人を振り返ると、実に多くの事柄が残されていることに気づく。ましてやそれらがごくごく身近に残されていることに、あらためて驚かざるを得ない。

2)ひとつひとつの資料は、未整理のまま、一度は順不同で並べてみようかなと思い始めているが、その作業をはじめる中で、いくつか気がついたことがある。また、今後、整理をすすめる上での留意点もひとつひとつ分かり始めている。

3)まず、1975年の例の「ミルキーウエイ・キャラバン」だが、はて、あの時、彼はどのような取り組みをしていたのだろうと、気になってきた。

4)最近、もとプラサード書店の槇田但人(きこり)がメッセージをくれた。彼は山尾三省の処女集「聖老人」を出版した人だが、現在、山田塊也の「アイ・アム・ヒッピー」の改訂を準備している浜田光(あぱっち)の依頼で、1975年のミルキーウェイ・キャラバンの項を増補しているという。そこに私にも協力要請があった。

5)そういう背景のなかで、石川裕人は、1975年という時代をどう生きていたのか、ということが気になってきた。残念ながら、この「星の遊行群」には石川裕人は投稿していない。彼の当時の住まい(共同生活体)「サザンハウス」の住所は載っているが、仙台市福沢町になっているので、最初の緑が丘から引っ越した二番目の住所である。確かではないが、名称は残っているものの、すでに石川裕人は「サザンハウス」から離れていたかもしれない。(未確認)

6)この75年の頃、たしか彼は洪洋社という劇団名で、市内本町あたりに稽古場をつくる準備をしていたはずだから、全国のカウンターカルチャーの流れというよりは、独自の演劇の世界へと邁進していたか、別な演劇ネットワークにコネクトし始めていたに違いない。(未確認)

7)彼のブログをみると、1978年から1981年あたりを「暗黒の時代」のように書いていて、演劇から離れようとし、一切演劇は見ず、触れないという生活をしていた時代があるようだ(未確認)。ここもまた興味深い。

8)実は1977年12月に私がインドに旅立とうとした時、友人たちが30人ほど集まって送別会を行ってくれた会場は、この仙台市本町にあった洪洋社の稽古場だった。その後帰国して、一時学業に戻ったものの、私は病を得て「余命6ヶ月」を宣告されていた時代である。ようやく復帰したのは1981年の後半であった。

9)彼が演劇離れしていた時期と、私が日本を離れ、あるいは生死をさまよっていた時期とが重なっていることは、こちらからの勝手な想いだが、なかなか興味津々のところがある。彼が私たちの結婚式の司会をやってくれたのは1983年2月だから、交流はずっと続いていた。

10)そう思い始めると、気になりだすのは、1991年の「スピリット・オブ・プレイス」の時代である。半年の長い準備期間のあいだに、彼に協力依頼をしたことがある。たしかPHS(ケータイ)で歩きながら話したのを覚えているので、こちらの説明も不足していたのだろう。彼のほうは即座に協力を断った。「今、うちの劇団はそういう状態にないんだ」。1991年夏頃のことである。それは、どういうことだったのか、これもまたこれから検証してみようと思う。

11)彼の演劇については、まったくの「招かざる観客」の私ではあるが、彼を振り返る意味でも、どうしても、その演劇の100本とやらの上演台本に触れてみたいものだと思う。特に、オクトパス時代は、私には全く見えておらず、「現代浮世草紙集」シリーズと「プレイ賢治」シリーズは検証して見る必要がある。

12)1995年の晩秋に上演された第三話「教祖のオウム 金糸雀のマスク」あたりは、ぜひとも台本や他の資料で付き合わえて考えてみたいと思う。私はこの演目で彼の演劇を見なくなった。なぜだったんだろう。演劇の出来が気になるのは当然としても、私の中に何がおきていたんだろう。

13)うちの奥さんは、それは封印しなさい、とおっしゃるが、なにはともあれ、結論は「石川裕人絶賛」にならざるを得ない当ブログの「石川裕人おっかけ」である。ここではっきり言っておきたい。あの芝居の後、彼は何回か無料チケットで招待してくれたことがあった。だが、それでも私は、一切見る気になれず、「バス代がもったいない」と言って、行かなかった。(関係者のみなさん、ごめんなさい)

14)3・11後に、にわかに宮沢賢治の「大」ファンになってしまった当ブログだが、石川裕人は早くから賢治をモチーフに使っていた。弔辞では、賢治、賢治と連発し、熱烈なオクトパスファンにとっては違和感が残ったかもしれないが、やはり、賢治と石川裕人は付き合わせて考えて見る必要はあると思う。それには「プレイ賢治」シリーズは、最終ステージにさしかかった石川裕人の演劇とはなんだったのかを知る上では重要な鍵になるはずである。

15)そう言った意味において、弔辞では唐十郎が抜けている。

16)その頃、中央では新しい時代の劇作家たちが活躍していました。特に天井桟敷の寺山修司と一緒に食事をした時、あなたは「君にはリーダーになる才能がある」と励まされ、石川裕人というペンネームで本格的に脚本執筆を開始しました。「弔辞」2012/10/15より

17)正確には、どこかの芝居の打ち上げの時、寺山からギョロっと睨まれて、「お前は顔が大きいから頭領運(ずりょううん)がある」と言われたらしい。ないしは、何回か聞いた彼の自慢話を私はそう記憶している。知人から彼には誰か先生がいるのか、という質問があったが、私の知る限り、彼は独自で演劇の世界を切り開いていったと思う。

18)まだキチンとみていないので不明だが、あちこちで彼は唐十郎を師匠のように書いているが、その芝居に圧倒されたことは確かだっただろうが、どこかで寺山との会話ほどのエピソードは残っていないだろう。会食さえしたことないと思う(未確認)。しかし、石川は唐十郎を演劇の第一の師としている。

19)ここがオクトパスファンにとっては不満なところかもしれない。ただ弔辞は、85才のお母さんにわかるように書いたために、かなりダイジェストのダイジェスト、デフォルメのデフォルメになっている。ふう、10分間のシナリオを仕上げるにも、一苦労である。

20)もうひとりの師としている小学校時代の担任だった越前千恵子先生については、いずれあらためて書くときもあろう。彼女は30才ほどで結婚したので、武田姓になっていたが、だれひとり武田先生と呼ぶ同級生などいない。

21)彼女のご主人の武田さんが友人から一本の電話を受けたという。「おい、お前の女房の名前が新聞に載っているぞ」。河北新報の石川裕人が「越前先生」について書いたエッセイが、どうやら共同配信されて東京の地方版でも掲載されたらしい(未確認)。それでエチゼン先生はその記事を読んで、とても喜んだ。生涯財布にその記事を入れて大事にしていた、という。石川裕人が亡くなって初七日が過ぎ、宮城県名取市の越前先生の墓前に行き、「ニュートンがそちらにいきましたから、先生、よろしく」と挨拶してきた。

22)駆け足になるが、私は2011/10/29宮城県山元町体育館での「人や銀河や修羅や海胆は」を見ることができたから、石川裕人という男の芸術の仕上げには満足している。もうしわけないが私にとっては「方丈の海」はプレミアム付録(もちろん豪華特別版だが)に思える。

23)高校時代に、文化祭の階段の踊り場から始まった彼の演劇は、3・11の避難所で終結した。仔細は省くが、彼はみずからの演劇に天地の鳴動を乗せきることができた。見事なできであった。私は、これをみたかった。一生つきあってきてよかった。

<3>へつづく

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