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2012/10/26

『嗚呼!!水平線幻想』白骨街道爆走篇 1977年ひめんし劇場 <1>

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「嗚呼!!水平線幻想」白骨街道爆走篇
うみだるひめんし作・演出 ひめんし劇場”おくのて芝居”公演 1977/9/9~11 仙台市定禅通「演劇工房」 石川裕人年表 <1>
Vol.3 No.0833★★★★☆

1)「私にとって演劇とはなにか」を考える時に、この芝居を考えないわけにはいかない。私の今回の人生において、演劇役者としてステージにあがったのは、この時一回限りである。しかも、今回見つけた友人の古いファイルに挟まっていた新聞記事の、この写真が、今のところ、唯一のその証拠である。

Himensi
左が私。上半身はだかで背中に「南無妙法蓮華経」と墨筆されている。

「おくのて芝居」
 ひめんし劇場”おくのて芝居”公演「嗚呼!!水平線幻想--白骨街道爆走篇」は、9日(金)から11日(日)までの3日間、18時半から演劇工房(定禅寺通ナショナルショールーム隣ムサシビル4階)で開く。

 数年前、高速道を走行中のバス運転手が、突然両手をあげて”バンザーイ”とやった事件にヒントをえて、天皇の御代に生きる日本人の深層にひそむ国家--天皇--個人をめぐる諸問題を、時にユーモラスに、時には鋭く描いている。同劇団旗上げのオリジナル脚本。たびたび登場する某菓子メーカーの”1粒で何メートル走れるか”PRがなかなか効果的。公務員や学生など20代5人が団員。800円(前売700円)、詳細は電話番号・塩野方まで。「週刊せんだい」1977/09(発行日未確認)

3)どうやらこの記事を見ると、上演予告であり、したがって上記の写真は、情宣用の前撮り写真のようだ。たしかに、この写真を見る限り、ヘルメットから髪がはみ出しているので、私はまだ長髪のようだが、公演当日、ばっさりと切り落とし、坊主頭でステージに立った。

4)この演劇については、いままで何度か当ブログでも触れているので、いま見つかった部分を再掲しておく。

5)1975年に「存在の詩」を読んで、1977年にインドに行くまでの間、私は全部で10名ほどの小さな印刷会社で働いていた。旅行資金のために一生懸命だったということもあるが、仕事そのものがとても楽しかった。写植、版下、デザイン、編集、校正、製版カメラ、フィルム現像、オフセット印刷機の運転、製本、と、印刷技術者として学ぶべきことのひととおりを覚えた。この時の体験がいかに楽しかったかは、いまだに年に何回か当時の夢を見ることで確認できる。

 そんな時、その会社の社長の甥で、高校の教師をしている青年が、印刷工場を訪ねてきた。演劇集団を立ち上げるためのパンフレットやチラシ、ポスター、チケットなどの印刷を依頼されたのである。窓口になってひととおり面倒みたのだが、最後の依頼事には参ってしまった。

 演劇をやるのだが、ひとり役者が足りない。ひとつ、その面も手伝ってくれないか、という。とんでもないことを見こまれてしまったものだ。例によって、私は小学校3年生以来、芝居や演劇の役者としては、自らの才能を確認できなかったので、すみやかに辞退した。

 しかし、相手の依頼も強引だった。まるで、候補者は私しかいなくて、しかも台本は私のために書いたような口ぶりだ。ましてやこの青年、私の学校の先輩にあたっていたので、ついつい、断りきれずに、その演劇集団の立ち上げに役者として参加することになったのだった。

 練習そのものは面白かったが、そのシナリオがいまいち面白くなかった。高速道路を疾走する観光バスには、ある結社の人々が乗っている。さまざまな歌が唄われ、高揚する。やがて全員が恍惚となった時に、突然、いままで静かだった運転手が、ハンドルから両手をあげて「万歳!」「万歳!」を連呼する。軌道を失った観光バスは、突然、異次元の世界に突入する。その時、突如、空間に現れるのが、上半身裸、スキンヘッドの右翼少年だ。その背中には、「南無妙法蓮華経」と大書されている。そしてアジテーションをブツのだ。

 その右翼少年の役をもらったのだが、どうも私は乗り切れなかった。真夏の練習で、クーラーもないアングラ演劇団のけいこ場も蒸し暑い。街なかのメイン通りに面したビルの階上にあるとは言え、なんともぐったりしたものだった。

 ところがある日、にわかに空がかき曇り、ものすごい雷鳴が下った。練習していた団員達は、全員けいこをやめ、窓際に走り寄った。まだ昼下がりだというのに、西の空はどんよりと暗雲を垂らし、稲妻が何筋も走った。まるで、倦怠していた団員たちを激励するのか叱責してくれているかのようにさえ思えた。いやいや、あの迫力は、まるで街全体に「喝!」を入れているような、激しいものだった。ビルの階上から眺める稲妻は、それこそひとつのエンターテイメント・ショーだった。

 私はかの青年に言った。「もし、あの稲妻を、あなたの演劇のステージに乗せることができるなら、私はあなたの演劇団の一員として、一生付き合ってあげるよ」

 芝居そのものは好評で、最後まで責任をはたした私は、観客からもらう拍手が、これほど気持ちがいいものか、と、つくづく思った。なるほど、なんとかと役者は、3日やったらやめられない、とか。その気持ちがよくわかった。だが、この演劇集団は、この立ち上げ公演一回きりで解散した。

 それ以降、こんな体験をしたことなど、すっかり忘れていたが、私はこの、自分のセリフを5年後に思い出すことになる。1982年、7月。私は、自分の瞑想センターの仲間たち21人と、米国オレゴン州のコミューンのセレブレーションに参加していた。巨大な温室として作られた瞑想ホールに、一万人を超すサニヤシンが、Oshoがロールスロイスで到着するのを待っていた。

 その時、にわかに雷鳴がとどろき、龍雲をともなって彼はやってきたのだった。巨大な瞑想ホールの中央に彼が立って、人びとにナマステを送っている時、ふいに私は、自らの5年前のセリフを思い出した。

 「もし、あの稲妻を、あなたの演劇のステージに乗せることができるなら、私はあなたの演劇団の一員として、一生付き合ってあげるよ」

 Oshoは、見事に稲妻を自らのステージに乗せることに成功していた。私の体験は、私個人の体験ではあるまい。Bhavesh「バビロン 空中庭園の殺人」2009/05/08

6)これは私がOshoとの「一生のつきあい」を決意した経緯だが、また、最近では石川裕人についても、この体験に触れている。

7)私は、ずっと昔に別の友人の芝居団のステージに立ったことがある。練習している時、雷が鳴って、中断しなくてはならなくなった。その時、作者に言った。あの雷を、あなたのステージに乗せることができるなら、私は一生あなたの芝居に付き合ってもいいよ。

 そんなことはなかなかできるものではない。

 でも、今日のお芝居、あの地震をステージに乗せることができたんではないかな。天地が共鳴した。賢治が一緒にいた。空から舞い降りてきていたな。素晴らしい芝居だった。Bhavesh「人や銀河や修羅や海胆は」2011/10/29

8)私にとって、演劇とはなにか、を突き詰めて考えることはでできない。しかし、私は一回だけステージに上がった時の直感を大事にしておきたいし、すくなくとも、それができたのは、Oshoと石川裕人だったということになる。この二人については、やはり「一生のつきあい」になったようだ。

9)なにはともあれ、当時の私の芸名は「真平せぇこぉ」だったことを始めて知った(笑)。

<2>につづく

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