「妄想の帝国」、あるいは「市場での瞑想」 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<3>
「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <3>
石川裕人ブログ 石川裕人年表
1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)
2)きわめて示唆に富んだ、興味深い一文である。「革命」「戦線」から「離脱」し「地下」に「潜り」、「妄想」の「帝国」を「作り上げた」主人公は、彼の「自画像」である、というのである。ひとつひとつのキーワードを検証していきたい衝動に駆られる。
3)「革命」とは70年を契機とする一連の新左翼的社会的風潮や文化運動と考えていいだろう。それはさまざまに変質して年代を重ねてきた。
4)「戦線」とは、彼の場合は、黒テント、赤テント、天井桟敷といった、いわゆるアングラにはじまる演劇の全国ネットワークと考えていいだろう。
5)ただ「離脱」はよくわからない。どこでどう何から「離脱」したのか。当ブログとしては、94年前後の、十月劇場から劇団オクトパスへの移行がそれである、と仮定しておこう。
6)「地下」とはなにか。対社会的な反抗的な姿勢や意表をつくような姿勢を抑え、より一般社会的で、穏健なスタイルをこそ、当ブログは彼の「地下」であったと見る。
7)「潜る」とは、淡々と、日常的に物事をこなし、目立たないで生活することである、としてみる。
8)「妄想」。さあ、これはなにか。当ブログは、一応「オクトパス」での劇作すべてが、彼いうところの「妄想」であった、と仮定してみる。
9)「帝国」とはなにか。オクトパス時代の、劇作家・石川裕人としての稽古場や上演の場は、決して合議性ではなくて、彼の意向が強く反映された場であったことは、容易に推測できる。
10)ここでは、この二つの単語をわけずに「妄想の帝国」としてしまったほうがわかりやすいかもしれない。書きあげた台本という「妄想」が、稽古場、上演という「妄想」へと拡大し、ついには、劇作家「石川裕人」先生という「妄想」が、対社会的に独り歩きする。それ全体が「妄想の帝国」として一体化していた可能性がある。
11)そして、彼は「作り上げた」と言っている。100本の台本を書き、脚本集を一冊上梓することができた。彼は、ある達成感を感じていたはずである。
12)しかるに、彼はなぜに、自らの行為を「離脱」「地下」「潜り」「妄想」といったマイナスイメージで語るのであろうか。「離陸」し、「天空」へ、「上昇」し、「覚醒」の境地に至ったとか、プラスイメージで表現することも可能であったのではないだろうか。
13)彼一流の照れだろうか。あるいは、またまた彼一流の「大法螺」だろうか。
14)彼はなぜに「時の葦舟」三部作を自らの最高傑作としたのだろうか。あの芝居は「離陸し、天空へ、上昇し、覚醒の扉」を開く世界観を持っていたからだったのではないだろうか。
15)「方丈の海」を石川裕人の最高傑作とする人はいるだろうか。お涙ちょうだいどころではなくて、まるで観客から涙を強奪していくような、悲しいストーリーは、私には石川裕人の真骨頂だとは思えない。
16)もし、当ブログが、今後もこの劇作家にこだわりを持ち続けるとしたら、ここにこそ、その重要なポイントがある。
17)彼が潜っていった集合無意識の広がりを、再び上昇させ、意識を、さらに覚醒させ、集合超意識へと誘導することである。つまり彼の「演劇」性を「瞑想」性へと変容させることである。うまくいくだろうか。可能性はゼロではない。しかしながら、そのためには、当然のことながら、さらに厳しく、私自身の「瞑想」性を問われることになる。
18)つまり、石川裕人を、彼が自らが作り上げてしまった「妄想の帝国」から引き出すこと自体は、本当は、最終目的ではない。彼の「妄想の帝国」を、キチンと視野の中におさめながら、その地下からの吸引力を感じつつ、自らの「瞑想」性を高める、反重力として変容できれば、それでいいのである。
19)仮に、無意識が集合無意識と化し、さらに宇宙的無意識まだ沈潜していくことができたなら、意識が、超意識となり、宇宙的無意識と拡大上昇してしまえば、いずれにせよ、宇宙意識は一体化するのである。どこに自らの立ち位置をつくるかなど、本人のまったくの自由なのである。
20)「妄想の帝国」の住人が、そこに安住するなら、それはもう「妄想の帝国」とはいわないだろう。そこに安住できているならそこはもうパラダイス、天国だ。ところが、何らかの理由により、そこは彼にとっては「妄想の帝国」でしかないのだ。
21)「妄想の帝国」に対置できる言葉として当ブログが掲げているのは「市場での瞑想」。Meditation in the Marketplaceである。もっとわかりやすく対置するなら「瞑想の市場」だ。
22)「妄想」を「瞑想」に変える。「帝国」を「市場」に変える。「変える」というのも、「瞑想」性がわから言うとすこし語弊がある。「なる」が正解。「妄想」が「瞑想」になると、「帝国」は「市場」になる。こちらのほうがより近い。
23)偶然発見した中学時代の文集の二人の文章から、いみじくも象徴的なものを感じた。
24)大ボラ吹き。なんでもかんでもウソにしてしまう。こんな人もあったもんじゃない。そしてホラがばれても、どうてこともない。そうとう、キモッ玉が強いようだ。石川裕人「ますだ6」p57 名取市立増田中学校生徒会 1967/03
25)約100メートルぐらいの高さの所に、出たり入ったりしてすごい姿を見せている。雲などをかぶっているところなんか実にすばらしい。帰りもあのおそろしく長い道をさっきの逆の方向に進んでいった。ほんとうに遠足だ。阿部清孝「ますだ6」p48 名取市立増田中学校生徒会 1967/03
26)この二つの文章を、今とても意味深く読みなおしている。「大ぼら吹き」の「キモっ玉が強い」人物に感心する彼。「雲をかぶった」景色を見つつ、「帰り」道につく私。
27)私はずっと旅館の温泉に浸かっていたいとは思わない。やはり「希望」して磐司岩を見に行くだろう。その道は山道ででこぼこしている。だけど見に行きたい。そしてその風景に神秘を感じ圧倒されつつ、やがて帰り道につく。そして、「雨の日、出かけるのも楽しいものだと思った。」と結論づける。
28)彼もまた、少年らしく、夏目漱石という文豪に挑み、ひとつひとつを分析しつつ、「演劇」性に感動しつつ、「下巻が楽しみだ。」と結論づける。to be cotinued 「つづく」である。根っからの「演劇」性を持ち合わせていたのだろう。
29)私は私なりに、山道をこえて「神秘」を見てきた。苦労もあったが「雨の日、出かけるの楽しい」と思う。そして、「帰り」ついて、今、ここに、いる。
30)主人公はまるで私の自画像ではないか。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)
31)彼の「演劇」性は、使いようによっては、「私の鏡」になる。
32)100本の大嘘は妄想・幻想の集大成でもある。(第二十回最終回 砂上の楼閣?)
33)私は今、その「集大成」を「解体」しようとしている。そして、彼の本当の顔、オリジナル・フェイスをみつけよう、としている。本当の彼の顔は今、どこにあるだろう。そして、そこに、まさか、私自身の顔などみつけたりするならば、そこから新しい事態がおこるだろう。
34)それは新しい謎を呼ぶ「演劇」性への「つづき」となるのか。
35)それは「覚醒」の扉を開いて、the end 「完」となるのか。
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