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2012/10/13

ニュートンと私だけで交わした秘密の会話 石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<4>

<3>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<4>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262
★★★★★

1)一枝ちゃんから弔辞を頼まれた。ありゃ、私でいいのかなぁ、と思いつつ、断る理由もないので、受けることにした。いろいろ考えた。あまりにもいろいろな思い出がありすぎて、まとまりがつかなかった。

2)うちの奥さんは、みんなは別にあなたのことを聞きにくるわけではないのだから、ニュートンさんのことだけを手短に話せばいいのよ、とおっしゃる。なるほど、そのとおりだ。とにかく、一通り書き直して、読み直した。

3)本当に簡単なストーリーだったし、85歳になったニュートンのお母さんにもわかるように書いたのだが、実際に読んでみると、10分ほどかかった。長いなぁ、と思いつつ、もうこれ以上切り詰めることはできないな、と思う。

4)サキと待ち合わせして、またニュートンの顔を見てきた。すでに死化粧をしてもらい、棺おけに入っていた。昨日は、多少取り乱していたかなぁ、と思ったお母さんではあったが、今日は、かなり落ち着いた和やかな顔を見せてくれた。

5)弔辞を頼まれたこともあり、いくつかのポイントを確認した。彼は自分は山形県東根市出身とか語っていたが、それは、お母さんがお里帰り出産をしたから、たしかにそうなるのだが、お父さんの出身は塩釜市で、その時、石川家の本拠は宮城県だったのだから、実際は、やはり宮城県としたほうが正しいのであった。しかし、彼は彼なりのダンディズムで山形出身と自称していたのだろう。

6)最初から自衛隊勤務だと思っていたお父さんの経歴も、思っていたよりドラマチックだった。そもそも大正12年生まれの方である。その青春は、戦争に埋め尽くされたような人生だった。はあ、なるほど、この父があり、母があって、ニュートンは生まれたんだな、と確認した。

7)当のニュートンは相変わらずだった。単に寝ているだけではないか。おかしいのは、呼びかけても、起きてこようとしないだけだ。棺おけの窓からみた彼の顔はいつものままだった。

8)一枝ちゃんをはじめとして、家族の人々はもうお疲れ気味だった。それはそうだろう。食事もまだ十分にとれないようだ。ただただ、そのご心痛を察するのみである。

9)自宅に戻って、また弔辞を考えて、ウトウトとしてしまった。そしたら、いつものニュートンがやってきた。なんにも変わらない、いつもの彼だった。そして、夢うつつの会話を交わした。たわいのない簡単な言葉だったが、実は重要なことが伝えられた。その内容については、彼と私にしかわからない。私は、しかと受け止めるよ、と彼に誓った。

10)弔辞の内容をサキにチェックしてもらおうかなとも思ったが、やめた。漠然とだけ、話しておいた。ネタばれはまずい。ニュートンと私しか知らない思い出もある。それは当日のお楽しみ、というところかな。

11)今日10月13日づけの河北新報朝刊に、ニュートンの訃報が、大きく写真つきで取り上げられていた。あらためて彼を失ったことの意味を考えた。

<5>につづく

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