石川裕人にとって「離脱」とは何か 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<4>
「石川裕人百本勝負 劇作風雲録」 <4>
石川裕人ブログ 石川裕人年表
1)革命戦線から離脱し地下に潜り妄想の帝国を作り上げた主人公はまるで私の自画像ではないか。石川「二十回最終回 砂上の楼閣?)
2)という時の「離脱」とはなんだろう。「革命」「戦線」をいまだ特定する前に、「離脱」を検討してみることは、彼にとっての「革命」や「戦線」を理解する上で有効であろう。生涯の中で、彼が「離脱」したであろう瞬間を、時代順にアップしてみる。
3)唐十郎師と状況劇場との出会いがその後の私の人生の針路を決めた。「愛の乞食」を観た翌日に私は演劇部に退部届けを出した。石川「第二回 承前その弐」
4)この時、まず「離脱」が始まっている。ただし新劇を中心とした高校演劇からの離脱は、「革命戦線」からの「離脱」とは言えないかもしれない。むしろ、「革命戦線」への参加であっただろう。
5)つまり70年代斗争を自分が斗っていくには70年の情況にふん切りをつけたいと願った訳だ。70年以後のミニコミ発行にしても、コンサアト企画にしても映画上映にしても、唄つくりにしても、「70年の影」の下での暗い陰湿な自分との斗いであったとも云える。
そしてその中で徐々に影から脱け出してきたことだけは確かだ。それが顕著に現れたのがミニコミの休刊だ。いまはもう廃刊にしようと思っているが、それはひとつ「70年戦士」のひとりであった友人の影をモロ体で感じながらの活動であったからだ。石川「時空間3」「インタヴュー1973/04 いしかわ邑 『演劇場座敷童子』は『神話』をつくりに行くのだ!!」
6)この時点では自らのミニコミ「ムニョ」を休刊から廃刊することによって、彼いうところの「70年代闘争」から「離脱」していくことを試みている。ここにでてくる「70年戦士」とは誰のことかできないが、その「ひとり」としてミニコミ発行の影響を与えていたのは、私であったことは想定できないわけではない。しかし、その後の「離脱」はさらに続く。
7)そういう背景のなかで、石川裕人は、1975年という時代をどう生きていたのか、ということが気になってきた。残念ながら、この「星の遊行群」には石川裕人は投稿していない。彼の当時の住まい(共同生活体)「サザンハウス」の住所は載っているが、仙台市福沢町になっているので、最初の緑が丘から引っ越した二番目の住所である。阿部「独自の演劇活動を貫こうとした石川裕人 『星の遊行群』 1975年ミルキーウェイ・キャラバン<2>」
8)いずれ後述するが1974年には仙台における「カーニバル」というイベントがあった。広瀬川にかかる牛越橋付近の河原でのキャンプインでのどんちゃん騒ぎである。夏の仙台七夕にぶつけた3日間のイベントだった。この時、石川裕人は「演劇」を上演し、積極的にかかわっている。
9)ところが、この1975年のミルキーウェイ・キャラバン「星の遊行群」の時には、彼の活動を見つけられない。この時、彼は、再び、日本のカウンター・カルチャー、「叛文化戦線」からの「離脱」を図っていた可能性は高い。あの沖縄から北海道までを旅する(だけの)キャラバンは、彼にとっては「無意味」だったのではないか。
10)’78年宮城県沖地震の年、遂に私は「洪洋社」の解散を決めた。劇団の数人は続けたがっていたが、私のエンジンは動かなかった。
借りたとき意気揚々とはがした天井板を私たちは張り直した。そしてこの日から4年、私は地下に潜る。アングラ芝居育ちは本当にアングラに帰った。芝居を一切観ないやらない関係も持たない日々が始まる。このときの私に芝居という文字はなかった 石川「第五回 地下に潜る」
11)せっかく探し当てた自らの演劇戦線の「仲間」と「場」である「洪洋社」という「鍵穴」も、「合議制」運営においては、彼にとっての「帝国」にはなりえなかった。ここからも彼は「離脱」していくのである。
12)次いで’86年大作テント芝居、20本目「水都眩想」。(中略)この芝居は「読売新聞」全国版でも取り上げられ「十月劇場」全国区への足がかりとなった作品でもある。そして私は劇評家・衛紀生氏に妙に気に入られ「水都眩想」で岸田戯曲賞を取ろうと言われた。そのためには演劇雑誌に戯曲を載せなければならないから改訂しろということだった。最近引っ越し荷物の中から手紙の山が見つかった。その中に衛氏のものもあり、「新劇」と「テアトロ」の編集長に話を付けてあるから早く改訂戯曲を私に送りなさい旨の手紙だった。なぜか私はこの話に乗らなかった。生意気だったのである。書き終えたものはそこで終わるというのが私の流儀だった。だから長年再演することをしなかった。石川「第七回 人生は変わっていただろうか?」
13)この地点での彼の行動もまた、私には彼にとっての「離脱」に思える。「新劇」や「テアトロ」という雑誌の持っている意味はわからない。その後、両誌に石川裕人が投稿することがあったのだろうか。あれば貴重な資料となる(乞う情報)。
14)少なくとも、彼はその誘いを蹴った。すでに「出来上がっている路線」としての全国演劇戦線からの「離脱」である。悪友たちの中は、彼にはその勇気も才能もなかったのではないか、と見る向きもある。しかし、当ブログとしては、ここではやはり彼は「生意気だった」のであると仮定しておく。
15)1991年において、私は仙台で行われた国際環境心理学シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」に参加しないか、と彼を誘っている。しかし彼は「即座」に断ってきた。「今うちの劇団はそのような状態にないんだ」というのが彼の返答だった。では「どのような状態だった」のだろうか。このイベントの詳細については他稿に譲る。
16)この時期(1990年)私はテント芝居のようなケレンの芝居から遠ざかろうとしていた。やめようと思っていたわけではないが、「十月劇場」若手陣に誤解を与えてしまうことになる。若手はプロデュース公演でテント芝居「落日」を打っている。外野席には「十月劇場」解散の噂が流れた。石川「第九回 年間6本書く。」
17)この時点で彼は、アングラ・テント演劇戦線からも「離脱」しようとしていた。
18)「十月劇場」解散の噂は噂にしか過ぎず、’91年2年ぶりにテント芝居をやることになる。35本目三部作時の葦舟・The Reedoship Saga第一巻は未来篇「絆の都」。石川「第十回 アトリエ劇場引っ越し。」
19)月日をつき合わせてはいないので正確ではないが、やはり彼は私の誘いを断った時点で、彼の劇団の「解散」の危機と遭遇していたことは間違いない。しかし、そこから踏ん張り、生涯を通じての代表作「時の葦舟」三作シリーズに到達するのである。
20)そして、彼の「離脱」はこの「十月劇場」に対しても発生する。94~95年の頃である。
21)そして私は劇団員へTheatreGroup"OCT/PASS"への発展的解散を宣言した。ちょうど40歳。私はテントへの決別と1ヶ月を越えるロングラン公演の確立、新機軸の戯曲連作など大人の鑑賞に堪えうる芝居作りを標榜していた。とにかく芝居でメシが食いたかった。石川「第十一回 十月劇場を閉じる。」
22)そして彼は、彼がいうところの「妄想の帝国」をつくりあげていくことになるのである。ここまで見てくると、「高校演劇戦線」、「70年戦線」、「ミニコミ戦線」、「カウンターカルチャー戦線」、「演劇戦線」、「スピリチュアリティ戦線」、「テント演劇戦線」、全ての連なりが、彼にとっての「革命戦線」で、そこから限りなく「離脱」を繰り返した結果、到達したのが彼の「最終形」TheatreGroup"OCT/PASS"に到達したのだった、と見ることも可能であろう。
23)しかし、彼の「離脱」癖(へき)は、これで「おさまった」のだろうか・・・・・・?
| 固定リンク
« New-T 発見!石川裕人のあらたなるペンネーム 『仙台平野の歴史津波』 飯沼勇義 <7> | トップページ | 幻のポスター発見! 石川裕人第5作目 『夏の日の恋』 贋作愛と誠 1975 <1> »
「30)Meditation in the Marketplace2」カテゴリの記事
- 「演劇」性と「瞑想」性がクロスするとき 石川裕人『失われた都市の伝説』 劇団洪洋社1976(2012.10.26)
- 私にとって「演劇」とはなにか<1> 石川裕人作・演出『教祖のオウム 金糸雀のマスク』現代浮世草紙集Vol.3(2012.10.26)
- 幻のポスター発見! 石川裕人第5作目 『夏の日の恋』 贋作愛と誠 1975 <1>(2012.10.25)
- 石川裕人にとって「離脱」とは何か 『石川裕人百本勝負 劇作風雲録』<4>(2012.10.25)
- New-T 発見!石川裕人のあらたなるペンネーム 『仙台平野の歴史津波』 飯沼勇義 <7>(2012.10.24)
コメント